前提を強制する議論
このシリーズ(マガジン)では、筆者がほとんど書き終えている文章の論旨を前提にして、現代社会への適用について考えていく。理論的には相当の飛躍がいくつもあることだろうが、一旦それを認めてもらい、ここでは見えてきた景色を共有したい。この内容を含めて、本文は文学フリマ39で『上下関係の筋道』というようなタイトルで出品する予定になっている。
理論も言葉でできているため、いくらかは詩的な側面がある。そして詩的な側面は、正しい前提の共有なしでもいくらかの効果を示す。例えば、カントの「もの自体」や、ハイデガーの「ダス マン」、デリダの「脱構築」などは、たとえ理解できなかったとしても、その言葉の響きによって考え方に影響を与える。影響それ自体は偏見だったり誤解だったりするかもしれない。しかし、詩的な作用はいつも少なくとも部分的には正しい。
商品と契約について、独特の文脈で捉える視点を提起した。それらは、反省されない日々の営為の中から、上下関係の原型といえるものを反省的意識へともたらすものだ。
例えば商品は、市場で購入されて家のなかに並べられる。本来、それらの商品は、家の中で諸々の用途に使われる限り、それら単体での価値の上下はない。例えば喉が乾けば水が欲しい、というように、状況によって価値が変わることはある。しかし、水が必要なときもあれば、夜寝るために寝具が必要なこともある。それらの必要性は各々の関係によっているので、一元的な価値の上下はないわけである。
ところが、商品は市場のなかで値段を付けて並べられるので、家のなかに入って、それぞれの位置を占めたときにも、その値札の数字の高さ・低さをいくらか引き継いでいる。極端な例だが、車一台とペットボトル水一本を同じように扱う人はいないだろう。これらはもちろん、機能面での差異は歴然としているが、とはいえ市場における値段の違いが基本的な基準となっていることは否めない。
他方で、契約は通常、文書などで社会的関係を明らかにするものであるから、これが〈反省されない営為から上下関係の原型を反省的意識へともたらすもの〉と捉えられることは分かるかと思う。例えば売買契約などは、軽微なものでは契約書を用いないことが多いが、ものを与えたり受け取ったりする権利・義務(そして、それに違反した者に対する優位)が成立するとされている。対象となるものが大きくなり、不動産などを対象とする場合には、該当物件の事細かな条件が書き出されて、それまで無反省にしていたことも全て契約書に書き込まれていくことになる。こうして、契約は見えない社会的関係を見える化するわけである。
さて、以上のように商品と契約を捉えたうえで、筆者としては現代の政治体制や資本主義経済をどのように考えられるかを試した。これは理論の歴史的適用の問題であって、一つのやり方が正しいとは限らない。あくまでも試論である。
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「上下関係の筋道」から考えたこと
『上下関係の筋道』というタイトルで用意している文章('24年12月1日文学フリマ東京出品予定)から〈寛容さ〉〈仕事と政治〉〈会話〉〈SNS…
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