理論を一旦忘れること
運動についてのイメージトレーニングなどで、一通りの考え方や体の動かし方を学んだ後、実践に移る前に「今覚えたことを全て忘れてください」と言われることがある。これは、理論に集中してしまうと実際に体を動かすことができない、とか、意識が外側に向く必要性がある、といった風に説明される。
たしかに、体を動かす活動についての理論では、よく言われることではあるし、実際的でもあるが、哲学的思索とかエッセイで同様のことが言われる機会はあまり無い。『存在と時間』や『純粋理性批判』の途中で「ここまでの議論を一旦忘れなければならない」といったことが言われることは無いし、私も色々書いてきて「ここで一旦、何もかも無かったことにする」と書いたことはない。
そんなことをしたら、長い時間をかけて読んできた議論が何だったのか分からなくなるし、あっけない感じがしてしまうことだろう。
ちょっと考えれば当たり前のことで、運動とか体を動かす場面については、身体が理論とか考え方の一部を保持してくれているという期待がある。それに、意識は身体と一体になって活動するので、意識が内向きではなく、外向きになっていないと全体的に正しい姿勢とならない、ということがある。
以前聞いた話でうろ覚えではあるが、ジェンドリン心理学の場合、生命が外に向かう場面と内向きになる場面を分けて、それらの循環を捉えているとのことだった。
哲学的思索は骨の折れるものだし、今までの見方を全て疑ってかかるようなラディカルなものでもある。それ自体が内向きに向かう活動なのだから、忘れるということは全て活動をやめてしまうことのように思える。けれども、筆者が今回書いていること、思っていることに関して言えば、結局”一旦忘れる”ことが肝要なのではないか、という気がしてくる。
例えば、半意識という概念で筆者は〈意識のうち、反省しないものとして捉えられた部分〉を表現した(※この反省は、悪いことを振り返ることではなく、単に自らを振り返るという意味で使っている。以下基本的に同様)。これなどは、捉えられた意識自身の視野と、捉える方の視野とが全く食い違ったものである。半意識は自省しないので、自らが半意識だ、とは全く思わない。半意識はまっすぐに外側に向かい、世界にあるものや自然を把握する。理論は、この半意識をそれ以外の意識と一緒に切断して、その横断面にある差異を捉えるということになる。
しかしながら、半意識だけならば、それほど問題でもない。なぜなら、意識のうち半意識でない部分の活動は、理論それ自体と同じようなことをいつも既に行っているからだ。「あのとき、ちゃんと気付いていれば」という(悪い結果をもたらした不注意についての)反省は、何かに夢中になってしまっている半意識と、そうではなく反省できる意識を対比させている。特に大人になると顕著だが、どんな活動もだいたい2回目以降の経験であり、その経験のなかで〈意識は自然とこっちを向いてしまう〉ということに自覚的であり、その意識をコントロールする上位の反省的意識を駆動させているものである。
半意識については、前回の文学フリマで出した本に書いた。今回は『上下関係の筋道』という名前でさらに応用的な議論をしている。実際のところは、半意識と意識の社会のなかでの活動と、そこから上下関係が生まれてくる様を理論的に提示しようとした。
ここで取り上げているのは、半意識がある種の条件のもとでは、反省的な意識に従属する、という事である。何かがどうしても好きな人、何かに執着する人、あるいは何かがどうしても嫌いである人、そうした人について、特に抵抗が無い場合には半意識は従属する。例えばお昼ご飯にどうしてもカレーが食べたいという人が仲間の内に一人いて、他の人は別になんでも良いのなら、彼らは”その人”がカレーを食べられるようにする。レストランを選んだり、作ったり、ということである。このような事は、通常「付き合い」と思われることだが、筆者は他のさまざまな従属関係、社会のいろいろな上下関係も、結局はこの従属から導き出せるのではないか、と考えて今回試してみた。
その内容はまた本のなかで語ることにして、問題はこのような把握をしてしまうと人間関係についての意識の歪みが生じてしまうということだ。素直に従うためには、反省していてはいけない。逆にいうと、反省しかしない場合どんな従属も上下関係も無い。先ほどの例でいうと、カレーがどうしても食べたい人がいたとして、他の人が何でもよいと思いつつも「カレーが食べたい人は一人だけだし、他の人がなんでも良いなら、最も手近なレストランでも良い」と反省し出すと、それだけで従属関係が崩れてしまうだろう。これも実際のところ間違っていないのであって、多数決を取るなら”なんでも良い派”の優勢で、手近なところに行くことになる。ただ、こうした無意味な反省をしていては日々の楽しみから離れてしまうと思われるし、不合理である。
同様の場面に今度は〈半意識は、どうしても好きなことや執着がある人に従属してしまうという反省的把握〉を適用してみよう。すると奇妙な上下関係が作り出されるだろう。なぜなら、「カレーが食べたい人」に付き従うこの反省的”従属者”は、既に従属するための条件を失っているにもかかわらず、従うことになるからだ。つまり、反省的には〈無反省〉であることが条件なのに、自らは既に反省的であることになる。ただ反省的に「従属するはず」と考えている、その通りに”従属”してみせているだけ、ということになるわけである。
これでは全くもって不合理である。筆者としては、単純な構造から社会の上下関係を捉えられると考えたわけだが、こうして土台のところで混乱してしまって、何もできない状態になる。そこで、理論を忘れるということが必要になってくる。
理論を忘れるとどうなるか。ここには具体的身体と呼べるようなものはない。けれども、人間関係の付き合いのなかで自然に生まれてくる従属が、そのあるがままの状態で理論と対応しうる、という可能性が生まれてくる。こういうとき、文章を残したり、本にしたり、ということには特有の意義があるとも言えるだろう。なぜなら、一旦忘れたことも、こうした媒体を通して再度把握できるからである。
まだ本論も出していないのに、その理論を忘れる意義を説明するという奇妙な記事になった。今回はここまでとしたい。
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「上下関係の筋道」から考えたこと
『上下関係の筋道』というタイトルで用意している文章('24年12月1日文学フリマ東京出品予定)から〈寛容さ〉〈仕事と政治〉〈会話〉〈SNS…
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