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ふと、寛容とは何かを考えた

このシリーズ(マガジン)では、筆者がほとんど書き終えている文章の論旨を前提にして、現代社会への適用について考えていく。理論的には相当の飛躍がいくつもあることだろうが、一旦それを認めてもらい、ここでは見えてきた景色を共有したい。この内容を含めて、本文は文学フリマ39で『上下関係の筋道』というようなタイトルで出品する予定になっている。
12月1日までに四つの記事を出す予定で、これはその第一弾になっている。


SNSで炎上を遠目に見ながら、あるいは、自分も怒りつつ差別について考えたりしながら、さて寛容とは何か、ということを考えた。

〈失敗〉への寛容と〈他者〉への寛容

寛容という言葉を人はどのように使っているのだろう。多くの事例を見て分析をしたわけではないが、大きく二つの傾向があるように思う。一つは、寛容の精神と言われるような少し高級な政治的態度について。Xでの意見投稿や新聞記事検索などでは圧倒的にこちらが多い。一方で、Noteなどで見ていると、人や自分の失敗に寛容でいよう、という場合が多いように思われる。
寛容のこの二つの使い方は、人や社会を遠目に見ているか、それとも自分ごととして見ているかという書き手の立場の違いに一致しているように見える。そして、どちらも正しい。寛容の定義は、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他人の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。」(goo国語辞書)とあるから、それぞれで間違っていない。
さて、それにもかかわらず、これらの二つの使い方を混同すると随分困ったことになる。例えば、前者の寛容は〈多様性への寛容〉というような代表的使い方が想定できるが、これをあくまでマイナス属性を受け入れる度量と考えると、本来の意図とは違う、堕落した政治的態度となってしまう。すなわち、ここでは〈私たちと異なる文化を持つ者〉はなんらかの意味で下等であり、にも関わらず許してあげられるくらい〈私たちは寛容である〉ということになる。
もう片方もある。他人や自分の失敗を許すのだとして、それを他人との価値観の違いに接続してしまうやり方である。この場合、問題となる人は〈本当は失敗をしていない〉。けれども、価値観の違う者によって失敗というレッテルを貼られているのである。それでも彼らは失敗をしたことを否定するのではない。そうではなく、失敗だとする価値観もある、ということを〈寛容に〉許すだけなのである。
こうした問題があるにも関わらず、寛容が一先ず機能しているのは、それが徳の高い態度であることを含意しているからだろう。上に挙げたのは明らかにおかしな態度なので、寛容という言葉の誤用として退けられる。

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『上下関係の筋道』というタイトルで用意している文章('24年12月1日文学フリマ東京出品予定)から〈寛容さ〉〈仕事と政治〉〈会話〉〈SNS…

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