陰謀への不安:SNSを考えてみる
このシリーズ(マガジン)では、筆者がほとんど書き終えている文章の論旨を前提にして、現代社会への適用について考えていく。理論的には相当の飛躍がいくつもあることだろうが、一旦それを認めてもらい、ここでは見えてきた景色を共有したい。この内容を含めて、本文は文学フリマ39で『上下関係の筋道』というようなタイトルで出品する予定になっている。
新しい認識
言うまでもないが、SNSはコストのかかる活動だと思う。自分で発信するときは勿論間違ったことを言わないなど、最低限の注意が必要だが、読んだり聞いたり見たりするときにも、そのなかにあるフェイクや偏見や悪意をフィルタリングしなければならない。
さらに、SNSに触れる以上は、私たちの周辺世界に構築されるある種のイメージにも変化があることを受け入れなければいけない。すなわち、多数派の動向がいつも私たちの予想と同じではない、ということ。気に入らないことや訳のわからないことが、多数派の意見のように扱われる可能性がある、ということである。
端的に言えば、バズった投稿の裏側には、投稿者の感情と、それに共鳴する「社会」がある。この「社会」はハッキリとした形を取らず、良く見定めなければ正体もわからない。当面の間、それが私たちの個人的な考えや信念、感情に合うか合わないか等、ちっぽけなことに過ぎないのである。
この分析のタイムラグに、私たちは日々悩まされることになるだろう。私たちは異端なのだろうか?あるいは、、。あるいは、陰謀を巡らす組織が人々を操って流行を生み出しているのだろうか?
実際、お金をかければ、ゾンビのように人を動かして、SNS上の流れを生み出すことができる。そこに無反省に人々が乗っかり、流れ自体を楽しんでいる間に、策略は成功する。ゲートキーパー、あるいは、政治的なメディア戦略や、インフルエンサーを利用した印象操作によって。
私たちの日常のなかで、こうした事柄がごく普通に意識できるようになってきた。この新しい認識と強迫的な不安が、私たちの日常を何らかの色合いに染め上げる。それはパラノイア的、と言えるかもしれない。無意識に対する不安、とも言い換えられるのではないか、と思う。
どういうことかというと、圧倒的な数の人々の集積化された意識は、それ自体何らの人格でもない。単なる集合である。もちろん、強力な理性はこれをまとめあげるだろうが、他方で、これがある種の無意識の集合のように思えてくる。意識しきれない巨大な渦、それはカオスである。潜在意識が何らかの歪みを抱えていることがあるように、この巨大な渦に不安を覚えるのも当然かもしれない。
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「上下関係の筋道」から考えたこと
『上下関係の筋道』というタイトルで用意している文章('24年12月1日文学フリマ東京出品予定)から〈寛容さ〉〈仕事と政治〉〈会話〉〈SNS…
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