香港之夜 #2
旅行に出かける前に、下調べをするのは得意ではない。というか、下調べをしても何もわからないと決めてかかっているところがある。だから、茶餐廳(チャーチャンテン)なんて知らなかった。冰室(ベィン・サッ)も知らなかった。案内してくれた友人が、「重慶大厦(チョンキンマンション)で両替をしよう」と言っていたんだけど、その意味するところも分かっていなかった。重慶大厦が、沢木耕太郎の『深夜特急』にも紹介されていること、かつて魔窟とも呼ばれていたことなどは、行った後で知る。
そこに行った後、それぞれの存在感に圧倒されて帰国してから、後追いで、色々と調べる。だからまた行きたくなる。
唯一知っていたのは、YouTuberが美味しそうに食べていた「海老ワンタン麺」のことだけだった。
そういった意味で、最初の香港の洗礼は「エッグタルト」だった。屋台街をぶらぶらと案内されながら、「ま、とりあえず買ってみる?エッグタルト」と誘われて、とりあえず買ってみた。普段スイーツを食べる方ではない。むしろ、進められても積極的に断る方だ。それが旅の非日常的な高揚感に浮足立って食べてみたら、甘さよりも卵の存在感が勝る香りにびっくりした。
それぞれの喫茶店は、地元の人たちが集まり、コーヒーに何杯も砂糖を入れ、いつ果てるともしれないおしゃべりに時を過ごす。
相席上等で、しかも勝手に座る。4番のテーブルには、コーラを前にしたおっさんがシートに後頭部を投げ出すようにして眠りこけていたが、さっき入店してきた別のおっさんは、こともなげにその対面に座った。かといって、知り合いというわけでもなさそうだ。眠りこけているおっさんは、その状況の変化に気づいていない。
そして、俺たちが座るテーブルの後ろの席にいるおっさんは、猪瀬直樹にあまりにも似すぎている。
全種類のおっさんが、ほんの30分ほどの間に集まった。
この華南冰室の近所に、『転がる香港に苔は生えない』の著者、星野博美が住んでいたんだと教えられたのも、日本に帰ってからのことだ。