春、穏やかな日に

爽やかな風が、俯く私の顔を上げた。
見渡す限りの快晴。この暖かな陽気は、今日一日一切曇ることなく色めく学生を祝福し続けるだろう。卒業証書を片手に泣き笑い、群れをなし空を飛ぶ鳥でさえ声高らかに楽しげだ。

はらはらと白い粒が舞っている。昨年に次ぐ暖冬で、入学式に満開をむかえるはずの桜が、学生を送り出すようにと早くも散りだしていた。花化粧した沿道をゆっくりと歩く。
この日を迎えられたという安堵が、ここにいる誰もの胸の内に少なからずあるだろう。

当たり前だったことが、当たり前でなくなった一年を過ごした。
一つおきに座る座席も、顔の見えない同級生も見慣れたもので、華やかな式を観覧する親や後輩などの賑やかな外野もいない。
それでも春の暖かさは、新たな一年をまた連れてくるのだ。

新型ウイルスのまことしやかな噂が飛び交った当初、私はついにかの有名なパンデミックがやってきたのかと慄いた。既存のワクチンでは歯がたたず、空気感染で瞬く間に拡大し、世界を暗黒時代へとつきすすめる。窓から外を数分おきに確認し、いち早く各国の情報を得るためテレビとスマホに食いついた。
関連するような海外映画やドラマを見だした時には友人に呆れられたが、全くその通りで、道路に徘徊するゾンビなど見当たらないで、一年経った今では、多くの無防備な人間が街にくり出している。駅前に新しく出来たたこ焼き屋には、インフルエンスに敏感な腹を好かせた若者が列をなし、歓楽街では昼間から高齢者の歌声がどことなく聞こえてくる。
しかし、医療体制は逼迫し、政府は連日対応に追われ、ワクチン摂取の詳細は明確でないらしい。
この一年で、大いに日常は変化した。苦しいこと、我慢することが多くなった。それでも日常がなくなることはない。
この春、私は社会人になる。

「やりたいことはなんだ」
怒っているはずの父が静かに言った。
たしか頃は、大学に入学してすぐの夏。早くも腑抜けた私を一喝したのだった。
寡黙な父が私を叱った記憶はなく、呼び出された時はびくびく居間に下りた。一文字に結ばれた固い口で繰り返し言った。
「お前のやりたいことはなんだ」
息を呑むばかりで答えられないでいると、父はひとつ頷き新聞に目を移した。
私は固まる体を解くこともできず、母が夕飯の時を知らせたことで、やっと息ができた気がしたのだった。
その時の父の言葉が体に染み込んだようで、それから品行方正とまではいかないが、なんとか卒業と就職にありつけたのだった。
年末あたりにその旨を伝えると、
「迎えに行くからな」
と静かに言うのであった。
大学生になってまで地方にいる親が卒業式にやってくるなぞ気恥ずかしくてたまらなかったが、嬉しくもあった。
しかし、結局会場に父の姿はない。親族を地方から呼び寄せることが、はばかられるご時世であるから、やめてもらうようにしたのだった。
テレビ電話ごしのボヤケた顔は、
「そうか。そうだな」
と珍しく寂しさを滲ませたが、それは私も同じだった。

白吹雪が舞う心地よい晴天のもと、私は一人新たな一歩を踏み出さなくてはならない。父の言葉と小さな決意を胸に秘め、雑多な群衆に紛れ、足元を見つめながらもゆっくりと歩く。

次、顔を見合わせた時には、言いたいことがきっとあるはずだ。


この春、新たな生活と新たな気持ちに後押しされ、私はやるべきことを見つけていくのだろう。

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