音律の取り扱いと気持ち
どうしても先に書いておかなければならない気がして、どうしようもないことです。
私が音律に拘るのは、実際の音楽の改善というよりも、概念を定義して整理することが主な目的でしょう。
例えば “「音律」は音程の定義であって、実際の音楽や楽器への実装は「調律」として区別したい” というのはどちらかというと言葉の問題です。さらに言えば言語感覚の問題で、語と意味の関係の例です。楽曲や演奏といった音楽の実践からは、かなり遠いものに思われます。
それでも自分の感覚を記述し、その体系を形成することは、それが参照可能であるという価値をもたらすでしょう。それが実践に役立つこともあり得ます。
さて、実用的なことを言いましょう。音律は「慣れ」の問題であるという、感覚的な前提です。このことは、音律に踏み込むことの恐怖を和らげる、かもしれません。
ほとんどの音律は、使っているうちに慣れてきて気にならなくなります。ある音律に違和感があるのは、その音律に慣れていないからだと説明できます。音律の効果は、即時的なものではないのです。
これはまた、音律が音楽の在り方に深く関わっているということでもあります。慣れというのは、感覚だけでなく実践の変化、あるいは適応をも含みます。そもそも実践の制御に感覚が深く関わっているので、両者が相互に影響するのは当然です。
音律は比較を必要とします。音楽は音律を伴っており、意識されないだけで皆何らかの音律を受容しているからです。多くの人にとって、それは12平均律でしょう。それが普遍のものではないということは、音楽の世界を拡げていけば辿りつく問題です。その世界を理解するには、音律についての記述がもっと必要です。自分は書かなければならないし、参照できなければならないのです。より多くの視点が存在することは、良いことでしょう。