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魅惑の果実の森に隠された真実🍏

 王子様と鳥を弔った後、私は再び森の中を歩き出した。どっちの方向へ進めば森の核心へと辿り着けるのか? 何処へ向かえば私が求めている真実に出逢えるのか? その答えを持っている人などいない。最初から分かっていることだった。私はこの森へ答えを求めて迷い込んだわけではないからだ。いつだって答えは自分自身の中にある。今はまだ姿を隠しているけれど
『僕は此処にいるよ。早く見つけて。』
 私に訴えかける答えの声は既に私の元まで届いている。今回の“行動”に至った理由として、その前段階に在る幾つかの“思考”と“感情”が挙げられる。抜け出せないとわかっていながら止められなかった衝動。あの歌が打ち鳴らす鼓動。意思に反して私を導くステップ。それらがきらきら、わくわく、どきどき、そわそわ、むずむずと浮足立っていた。私の中の“汚れのない私”たいよう
『こっちに行ってみようよ!』
 私の服の裾を軽く引っ張り、いつもの笑みでそう言った。私たちは、自分がどうしたらいいか迷った時は、この瞳の輝く方向へ進んでみると決めていた。それらの“考え”と“感情”が、森に隠された真実を暴いてみようという“行動”へと結びついたのだった。

 心理療法の一つである論理療法。私はこの心理療法の感情問題に対する捉え方があまり好きではないのだけれど、後に認知療法・認知行動療法のベースとなる重要な心理療法でもある。
 人はある「出来事」がきっかけに「思考」を巡らせ、「感情」が生まれ、「行動」へと移してゆく。アルバート・エリスは「行動」を正す為に、「感情」を変えることは難しいけれど「思考」を変える事なら可能だと考えた。

 私は自分自身の真実の追及の為ならば、この一連の動作を正しく動かすことができる。にも拘らず追及する相手が人間になった途端、私の「思考」は正常に動作しなくなってしまうのだ。それは幼い私にとって世界の始まりでもあった家庭という場所で、人間は敵だという考え方を植え込まれたからに他ならない。しかし論理療法では、そこに着目していては時間がかかり過ぎるので、今現在の思考や感情問題に着目し考え方を正していく。
 “愛に飢えた私”が、“寄り添ってもらえなかった私”が声を上げた。
『考え方を正すって、何!? 私が間違いみたいな言い方しないで!』
『原因を置き去りにしたままで、あなたの考え方に問題がありますなんて言われても受け止めきれないよ。』
 ホントその通りだなって思う。まぁでも治療法がこれしかない訳ではないので、私にはこの治療法が向いてなかったのかな程度に考えておこうと思っている。

 暫く森の中を彷徨っていると、また新たな音楽が聞こえてきた。初めて耳にする歌なのに、何故だか私はその歌をソラで歌えた。私自身が誰かに言ってもらいたかった、そして誰かに伝えたいけれど言えなかった言葉で溢れている歌。裏切りの連続で「大切」が次々と壊れていくこの世界で、そんなに真っ直ぐ

♪ 何とか生きて 生きて欲しい

なんて歌われたら、もう無理だって思うのに、全部諦めてしまおうって決めたのに
「私だって本当は生きていたい。」
 私の中にある一欠片の希望にまた火が灯ってしまう。その希望を灯し続けることがどれだけ苦しいか、私は充分思い知ってきた。けれど森の入口で私を誘うダンスミュージックも、王子様と1羽の鳥が託した希望も、この世が終わる日に立てる明日の予定も、私の希望に火をくべてゆく。もう後戻りは出来ないくらいに。そして私はあることに気づいた。

——そうか、二度と元には戻れないってこういうことだったのか。

 いわくつきの森に飛び交う噂は、どれもが核心をついていなかったものの、その中にはきちんと真実が隠されていた。魅惑の果実を味わった者は森から抜け出せなくなるのではなく、元の自分には二度と戻れなくなる。それが、私が探していたいわくつきの森に纏わる真実だった。

 私の中の世界“安全な場所”に、新たに出現した魅惑の果実の森。歌や音楽が私に魅せてくれる世界はそれは美しいものだ。けれどそれを見せてあげる術はない。可能な限り実物に近しいイメージを伝えることなら可能だが、それには条件がある。

 1、相手が自分の意思で「知りたい」と思うこと
 2、お互いの存在を認め合うこと

 そう、これはカウンセリングにおけるカウンセラーとクライエントの態度(心構えのようなもの)とまるっきり同じなのだ。片方ばかり合わせようと努力するのは、やっぱりおかしい。魅惑の果実を味わった私なら、きっとこの食い違いを正していける筈だ。もしかしたら、その自信こそが私が手に入れた一欠片の希望なのかもしれない。

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