昭和10年代の台湾-蘇澳に行ってきた
年度末が近づき、ぼくの現実逃避も佳境に入ってきました。どこか旅行に行きたい気分だったりするのですが、目の前の書類は「それを許さじ」と言ってきたので、結局近所にあるコミュニティセンターの図書室に行くくらいです。
もう20年以上前の話になりますが、ぼくは台湾東部にある人口4万人の小さな港町・蘇澳(スーアオ)鎮を訪ねたことがあります。
かつては宜蘭線の終着駅として栄えた場所ですが、台北でも高雄でもなく、とにかく昔ながらの台湾らしい台湾の雰囲気が色濃く残る場所で、葬式でストリップが見られる場所でした。ただし、地元の人々の中には、「開発が遅れた」と感じている人も少なくないかもしれません。
蘇澳の名物は冷泉です。蘇澳冷泉とよばれ、かなり強烈な炭酸泉です。関西でいえば兵庫県三木市の吉川(よかわ)温泉のイメージに近いかもしれません。
当時のぼくも例にもれず、この炭酸泉に浸かってきました。ただ、台湾の温泉は水着が必要で、水着を持ってきていなかったぼくは家族風呂のほうに入りました。今でこそスーパー銭湯などでも炭酸泉を体験できますが、当時はとても珍しいものでした。湯に浸かっていると、炭酸の泡が身体にまとわりつき、わずかに熱っぽく感じるという独特な感覚がありました。
また、「冷泉サイダー」(戦前は「蘇澳ラムネ」とも呼ばれ、台湾各地で販売されていました)という飲み物もありました。ぼくは普段あまり炭酸飲料を飲まないため、その独特なシャワシャワ感が今も記憶に残っています。
今日はそんな蘇澳(すおう)の話題です。
戦前の蘇澳⑴ そもそもどう読むの?
戦前の台湾の地名は音読みするときついつい悩んでしまうことがあります。台湾語なり北京語なりで発音すればいいだけの話ですが、日本人のさがで、やはり音読みしたくなってきます。
ただ、音読みでも複数の読みかたがあります。ぼくは屏東(へいとう)という地名をずっと「びょうとう」と読んでいたことがあって、どこの国にあるどの町なのか、まったく話がかみ合わなかったことがあります。
そして蘇澳もくせもので、「そおう」なのか「すおう」なのか、いつも悩まされます(こんなことで悩めるくらい平和だね、と笑われそうですが)。自分の中では最終的に「すおう」に落ち着いたものの、なぜ「す」なのか、そして正しい読みが「す」とされている理由については、今なおうまく説明できずにいます。おそらく「蘇芳(すおう)の花」をイメージした結果なのではないかと勝手に思っていますが。
戦前の蘇澳⑵ 和歌山出身の冷泉経営
さて、蘇澳名物の冷泉に戻りますが、筆者によると「(冷泉の)経営者は何と和歌山出身であると聞く」とちょっとびっくりするような話を書いていました。
この冷泉は和歌山出身の竹中信景氏が開発したとされています。もともと紀州藩士氏の名前で検索すると詳しい事績が紹介されています。1890年代前半、台湾がまだ清領だった時代、氏はこの地を訪ね、当時は毒泉として知られていた水を飲んでみたところ「元気百倍」になったことから事業化を進めたのだそうですが、ぼくが生半可なことを書くのもなんなので、氏のことを詳細に書いてくださっているサイトへのリンクを貼ることで替えたいと思います。
リンク:ライター高橋による戦前・日本統治時代の台湾ばなし
リンク:竹中信景 在宜蘭作什麼?
戦前の蘇澳⑶ 交通の難所
当時の鉄道は蘇澳駅が起点となっていて台北方面への列車が走っていました。ただ蘇澳から南、花蓮(港)までの90キロ近くの区間は大理石の岩石地帯で汽車などまったく通すことができない状態でした(その途中に有名な太魯閣渓谷があります)。
じゃあどうやってこの間を往来したのかというと、船で往来したり、あるいは断崖を削って切通しの狭い道路をつくり、そこに台湾総督府鉄道バスを走らせたりしたわけです。このひどい断崖っぷりは当時の記念切手のデザインになっているほどです。
「これだけ頑張って掘ったんや、ドヤ!」ということがよくわかります。
ちなみに蘇澳・花蓮間の鉄路が全線開通したのは1980年とだいぶあとで、このとき内陸側に蘇澳新駅が設けられます。海沿いの蘇澳駅は支線のように扱われ、現在の特急自強号は蘇澳駅を通らず、内陸の山岳地帯をえんえん走って花蓮に至るわけです。