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一九九五年 台灣⑹ - クォーター・センチュリー 〈蘭嶼〉

https://www.funtime.com.tw/blog/funtime/travel-guide-for-lanyu  より

蘭嶼は台東市の沖数十キロの先にある離島で、北京語で「ランウィ」と発音する。台東からプロペラ機が飛んでいるけれども、就航率が悪く台東市で何日も待たされた記憶がある。台湾特有のどんよりとした曇天のなか、あちこちを歩いてみたことがあるが、台東で最も栄えているとされる台東駅(※現在の台東鉄道芸術村)の周囲にはさほど大きくない市役所と師範学校、そして観光夜市がある程度で、とりたてて目立つものはなかった。台東新駅(※現在の台東駅)に至っては、さらに輪をかけてなにもないところだったが、十年ほど前(※一九八〇年代)に駅周辺で大きな遺跡が見つかったらしく、地図には巨石文化遺跡として紹介されていた。車窓から風景を眺めようとしたことがあるが、あいにく天気が悪くよくわからなかった。そのときは残念に思った程度だったが、だいぶあとになってから、ここには高床式の集会所があって、そして、という話を聞いたことがある。

蘭嶼には数泊滞在した。島は比較的広かったので自転車ではなくモーターバイクで回ったが、ヤミ族(※現在はタオ族とよぶ)という原住民が住む海辺の集落には、独特な配色で彩られた伝統的なボートや、ゲニウス・ロキ(土地の精霊)が棲む社を擁しているのを目にしたことがある。

そんななか、私は野銀村(※蘭嶼の東部に位置する蘭嶼郷東清村の一部)に住む二十一歳のヤミ族の男性と知り合う機会があり、彼の住む家で泊まらせてもらったことがある。彼は防水用のコールタールがぶ厚く塗られ石積みで支えられた半地下の小さな家で一人暮らしをしていて、隣には兄夫婦が住んでいるという。私のなかには彼についてとても印象的なことが二つあって、それは、彼は胸に小さなロザリオを身につけていたこと、そしてなんと日本語を解したことであった。彼の祖父は台湾総督府が設置した蕃童教育所で日本語を習った世代で、古老たちとコミュニケーションを取るために日本語を教えてもらっていたのだという。台湾では、日本語世代の古老のほうが北京語を覚えて孫たちとコミュニケーションを取ろうとした話を聞いたことがあるが、彼の場合はまったく逆である。

彼は高中(高等学校)を卒業したのち二年間の当兵(兵役)を経て蘭嶼に帰ってきたところで、目下仕事を探しているのだという。島にはこれといった産業がないため、仕事というと公務員か処分場の従業員(※蘭嶼には放射性廃棄物処分施設が設置されている)、または春夏にかけて行われるトビウオ漁くらいであり、その場合、秋冬になるとたいてい台東や花蓮に出稼ぎに行くのだという。蘭嶼でトビウオ料理を食べたことはあるが、さして旨いというわけではなかったので、これは外向けの産業というより自らの食糧というべきかもしれない。

泊まらせてもらった日の夜は、台湾と日本のすけべな通過儀礼の話になったが、蘭嶼では男女関係なく子供の頃は裸で過ごしていることから裸体に対する妄想が生まれにくいそうである。高中は台東市に住んでいたそうだが、学校を卒業するとみんないつの間にか消息がわからなくなってしまうと言っていた。もっとも、これは蘭嶼に限った話ではなく、台湾の各地でも、そして日本の各地でも同じような話をいやというほど聞くこととなる。

職と自由を求める若者にとって村社会は生きづらい。村を出て大都市の空気を吸ってしまえばもうそれっきりで、生まれ育った土地や友人、そして伝統や精霊と無縁な生活を送ることになってしまうようだった。

台湾東海岸は先住民族の宝庫というべきところで、台東県内には蘭嶼のヤミ族のほかプユマ・ルカイ・パイワン族が居住していて、彼らとは莒光号に乗っているときに知り合ったことがある。彼らは当兵(徴兵)あるいは出稼ぎで郷里を行き来していて、故郷に帰るときは決まってたくさんの土産を携行していた。日本には自分たちのような少数民族はいるのかと訊かれたことが何度もあって、北海道に住むアイヌのことを答えようとしたものの、うまく説明することができず、自身にもどかしさを覚えたことがある。

このほか台湾東海岸がらみではいくつか記憶があるが、ここで食べた◯◯はおいしいとか、ここでこういう親切を受けたとか、ここで日本統治時代の痕跡を見つけたといった、雑多な、そして個人的な内容ばかりであった。記録するまでもないと思ってあえて記録しなかったことを後になって悔やんでいる。 

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