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昭和10年代の台湾-「阿部定事件」の反響

宋君の口から出たのは、内地でドテライ事件が起こった、和歌山の瀆職騒動や二二六に次ぐ事件が起こったと云うのだった。あらましを聞くと、宋君はニヤリと笑って、東京品川で情夫の浮気に腹を立て扼殺した末男の急所を切り取った妖婦が逮捕されたと云うものであった。前代未聞のグロ変態事件であるが、宋君は蕃族の出草(馘首)と大差ないと平然と云う。宋君によると、台湾の蕃族には首ではなく男の急所を切る部族も居たそうで…

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

エロ・グロ・ナンセンス

1936(昭和11)年5月、当時日本を騒がせた「阿部定」事件。事件のあらましはこの日記に書かれていますが、ようは、台湾でも大きく話題にのぼっていたようです。しかし、宋君という台湾人との会話では、首刈りと大差ないとさらりと言い返されています。

昭和初期、1930年頃はエロ・グロ・ナンセンスが流行した時代でした。事件のニュースを読む限り、まるでエロ・グロ・ナンセンスがまちなかに溢れていたように錯覚しますが、実際はそういうわけではなく、性について語ることはタブー視される時代でした。

また当時は出版検閲の規制も相当厳しく、実際の検閲された内容を確認すると、「エロ」という言い回しは〈あり〉だったようですが、女性や男性が性的な劣情を吐露する表現がわずかでもあれば即修正を要求されるほどの厳しさでした。どのような書籍が発禁になったかは『国立国会図書館所蔵発禁図書目録』で確認することができます。題名を見る限り、共産主義ものとエロ小説がほとんどで、つまり「アカ」と「ピンク」が要注意だったというわけです。

当時の新聞記事(ネットから引っ張ってきました)

謎の台湾人

この日記には宋君という男性が出ています。宋君とは筆者の遊び友達で、ここには言及していませんが、下の名前は信雄。かつて和歌山に住んでいたことがあることがわかっています。
比較に長い文章ですが、宋君のことが書かれている部分をそのまま紹介します。

宋君一家は、家系図によると支那大陸より阿猴や布哇(ハワイ)に移住し代々小商で生計を立てていたと云い、宋君は阿猴で産まれ台糖で小使として雇われていたが、十五歳の時単身日本に渡り海草郡役所近くのバーバーで髪結として雇われ後に小店を出していた。宋君は支那大陸の事情に聡く、株相場がアレだ段祺瑞将軍や蒋介石将軍がコレだと珍しい話を挟む事があり、また彼は眉目秀麗にして運動やら遊びやらが得意で其の界隈では有名であり、宋君が台湾人である事を悔やむ人士少なからず、自分も宋君に忽ちぞっこん意気投合し不老廓や新和歌で共に遊んだものである。宋君は和歌山に足掛け十四年おり結局台湾に帰る事となり、北京楼で送別会を開いたが、此の時宋君よりN社長やT弁護士を紹介され、如何に彼が多くの知遇を得ていたかを知り半分吃驚(びっくり)半分嫉妬したものだった。
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此の後宋君と兩人となり阪和中ノ島駅近くに出来た新地が仲々繁盛している事等を話した処、明日は屏東市の新地を案内される事となった。

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

宋君は和歌山に居た頃から女色男色の此の手の話題に明るく、南方熊楠翁の「歩く和漢三才図会」に比し、宋君を「歩く金瓶梅」と例えた人士が居たが、確かに彼のエロ博覧強記振りには何時も頷かされてしまうのだった。

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

内容を察すると宋君は大陸の客家出身、相当な男前だったことはともかく、地域の有力者とつてがあるところなど、まさに「謎の台湾人」ですが、筆者と宋君の関係も相当な謎です。単なる遊び友達でもなさそうです。
家系図を見せてもらう関係であり、一緒に和歌浦や新和歌浦の置屋に行く関係でもあり、そして宋君の住む南台湾に足を運ぶほどの関係でもある。相当肝胆相照らす仲だったのでしょうが、それにしても。
また、この日記は女色だけではなく、ちらちらと見える男色の話題も気になります。このからみの話では他の部分にとんでもなくお盛んなものが書かれているのですがが、こちらの紹介は改めて。

またこの日記は、「和歌山のらしさ」がよくあらわれています。
「新和歌」という地元の人しか使わない略称が出てきますが、これは新和歌浦のことです。県庁近くにあった「北京楼」もなつかしいし、南方熊楠の話が出るところもなんとも和歌山らしい。ちなみに南方熊楠は、和漢三才図会のみならずエロに対しても博覧強記であり、岩田準一(馬顔の作家)との往復書簡で男色の知識をあますところなく披露しています。

ついでに、筆者と南方熊楠の関係も。

南方熊楠顕彰館が所蔵ずる南方熊楠の写真。変人だが相当な男前である。

ところでこの筆者は最晩年の南方熊楠と会ったことがあり、すでに亡くなった筆者の姪がこのときの話を語っていました。

おじは日本に帰ってからしばらく田辺に住んでいて、亡くなる前の熊楠さんに会ったことがあるそうです。台湾の植物の話をしようと思ったけれども、結局簡単に挨拶しただけで終わったそうです。熊楠さんは天皇陛下に進講された偉い先生ですが、私たちの周りの人は全員変人扱いで、熊楠さんは、牛みたいに胃が四つあって、そしてなんでも反芻できるんだと言っていました。あぶないから近づいちゃいけないと言っていた人もいたと聞いています。私の父なんかに言わせると、熊楠さんとおじは変人同士だから気が合うんじゃないかと言っていましたが、おじに言わせると、熊楠さんは甘いもので子供を釣る変な爺さんだったそうです。

(『遺忘時代』)

南方熊楠が亡くなったのは1941(昭和16)年12月、ちょうど太平洋戦争が始まった直後です。
南方熊楠は地元では変人と思われていて、筆者によると「甘いもので子供を釣る変な爺さん」だったようです。これは、田辺界隈で知られている「自分の気に入ったかわいい男の子にはあんぱんをあげていた」という噂話を指しているものと思われます。
確かに「自分は(あんぱんを)もらえなかったのに〇〇ちゃんだけはもらっていた」というたぐいの話をかつて地域の高齢者から聞いたことがあります。現在なら通報レベルの案件ですが、当時は変人で済まされているわけですから、昭和という時代は相当に遠くなってしまっていることを感じます。

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