一九七九年 礁渓 - 台北の「山口百恵」
パイナップルケーキも烏龍茶も記憶にない
(頭城・宜蘭・羅東・蘇澳など、宜蘭にあるいくつかの街の名前を挙げ、行ったことはないかを聞いてみたところ、)自分が台湾で仲良くしていたお姉ちゃんが羅東出身だったからいくらか話を聞いたことはあるけれども、当時はどこにも行ったことはない。(頭城などは老街とよばれるレトロな町並みで知られているあることを説明すると、)今でこそレトロと言ってもてはやしているけれども、当時は観光地以外のところに行くとスパイ行為の疑いで憲兵にしょっぴかれる時代だった。仮にそういったところへ行って旅情を感じようとしても、第一、台北のあたりでも男はパンツ一丁か、シャツを着ていてもお腹だけ出して外をうろうろしているのがいっぱいいて、とにかく見苦しかったし、女も熊やカバみたいなのばっかりだった。宜蘭については、礁渓温泉から半時間で行けるということを聞いたことがあったけれど、ただ、台北でもあまりぱっとしなかったから、さらに行く気はしなかった。だいぶあとになって宜蘭のことを調べてみたら西郷隆盛さんの息子が初代県長さんをしていたとのことだったが、たったそれだけの理由でわざわざ足を運ぶかどうかはわからないし、また宜蘭餅というお土産の話を聞いたけれども、ハワイのマカダミア・ナッツみたいな名物でもなさそうやし、餅のくせに生地が薄っぺらくてすぐグチャグチャに砕けてしまうから、それやったら神戸で洋菓子を買うほうがいいんとちゃうかと思ったりもした。台湾のお土産というと今でこそパイナップル・ケーキと烏龍茶だけども、当時空港や新東陽で売っていたかどうかははっきり覚えていないし、買わんかったところからすると、だいたいそんなに美味しそうにも見えなかったということで、だいたい台湾のお土産というと免税店のウイスキーとかタバコの時代だった。
台湾東部のストリップ葬式
蘇澳には蘇澳冷泉というのがあった。外国の観光客に開いているところではなかったらしいし、「温泉マーク」もなかったと思う。蘇澳は花蓮への乗換えで使うから(※当時、北廻線は全通していなかった)、もしかすると行ったことがある人がいるかも知れない。このへんは台北で仲良くなったお姉ちゃんから教わったけれども、蘇澳の冷泉は炭酸でできていて、サイダーが飲み放題と言っていた。「温泉マーク」はなかったというのも台湾のお姉ちゃん情報(笑い)。でも、仮にあったとしても、台湾人の素人さんはさっきも言ったように熊やカバみたいなのが多かったから、期待できるかはどうなんやろな。(この冷泉は和歌山の人が開いたことを説明すると、)すごいね。
町のなかでは、選挙カーみたいなのがターッと走っていたことがあって、車の上に乗っていた姥桜がチラチラ前を見せているのを見たことがあって度肝を抜かれた。これが台湾の葬式と聞いて更にびっくりした。あと、到るところでビンロウを噛んで野糞みたいに捨てている台湾人を見て引いたこともある。(現在の宜蘭は、絵本作家・ジミーリャオの聖地になっている話を説明すると、)台湾人ってのはとことん現実的やけど、人間ってたまにロマンとかメルヘンを求めるところがあるし、そもそも台湾人はフリーセックスではなく、恋愛の考え方がとてもピュアで、だから一回惚れたりしたらちょっと厄介なことになるんやろなと思った。自分も台湾一筋だったのも台湾人のそういうところにキューッとなったところがあるんやろな。でも、ときどき片思いのもつれでとんでもない事件が起こることがあったり、すってんてんになって破滅したのもいてると聞いたけども。
テレサ・テンは不評だった
これは台北の話だけども、林森路の盛り場には日本直輸入の最新カラオケ機が入っているところがあった。当時の台湾は晩御飯を食べながら生歌を聴けるところがたくさんあって(※歌庁を指す)、バーやキャバレーでもピアノなり楽器なりの生演奏が入っていたけれども、日本人客相手に台湾の歌を歌っても「帰れ」になるから、いろいろと工夫していたんやと思う。日本から直輸入したカラオケ機にカードリッジを差して、「長崎は今日も雨だった」を歌うお姉ちゃんが多かった。自分が行っていたときは、南国なのになぜか「津軽海峡・冬景色」や「北国の春」が流行っていて、よくお姉ちゃんとデュエットで歌っていた。ときどき男声のお姉ちゃんもいたから、台湾にはおかまもおるんやと思ったことがある。台湾の男声のお姉ちゃんはカルーセル麻紀がモロッコで性転換手術をした話を知っていて、「デモアタシ、ムスコ、キレマセン」と言っていたのは覚えている。日本で流行していた山口百恵やピンクレディの歌は知らないと言われたし、テレサ・テンもそんなに人気はなかった。台湾でテレサ・テンの人気が出たのはもう少ししてからで、当時は偽パスポート事件のせいで印象は良くなかった(※テレサ・テンはインドネシアのパスポートを使い日本に入国しようとして国外退去処分となったことがある)。当時はオーヤン・フェイフェイのほうが知られていた。
台湾の百恵ちゃんと美顔器の話
行きずりの相手だとシャワーを浴びている間に財布をすられたりするから、自分はだいたい決まったお姉ちゃんか、紹介の人とで、一晩で一万円(日本円)が相場だった。ちなみに礁渓温泉の場合は汽車代とホテルを入れて三万円から。自分にはねんごろになったお姉ちゃんがいて、彼女は当時二十五歳、自分のことを「百恵(モモエ)」と名乗っていて、「自分は台北の百恵ちゃん」とよんでいた。台湾人の喋る日本語はたいてい語気が強いけれども、百恵ちゃんはとても可愛げのある喋り方をしていた。羅東出身の六人きょうだいの長女で、家族が病気がちだったのでこの世界に入ったと言っていた。どこまでが本当なのかわからないけれども。自分は百恵ちゃんにはいろいろ思い入れがあって、一度美顔器をプレゼントしたことがあって、嬉しそうにしていたけれども、でも、やっぱり現金のほうがよさそうやった。言葉がうまく通じなくてもなんでも顔に書いていたから、とにかく正直な子やった。宜蘭に礁渓温泉があることを知って、お勧めはないかと聞いたら、礁渓温泉はプロが多いから気をつけてねと言われたことがあるけど、百恵ちゃんもプロなんとちゃうんかと言いそうになってやっぱりやめた。
百恵ちゃんとは海鮮のレストランでデートしたことがあって、いろんなのを焼いてもらったりアーンしてもらったりして、とても楽しかったかなあ。
台北新公園の同性愛者
あともうひとつ、台北の新公園(※二二八和平公園)にはホモが集まっていた。新公園は台北駅から歩いて十分とかからないから、台湾じゅうから集まっていたと思う(※当時北廻線は開通していなかったので、花蓮や台東から台北に鉄道で直接行くことはできなかった)。確かに、天王寺公園や岡公園(※和歌山市和歌山城南側にある公園)でも夜になると触りあっているという話はよく聞くから、一度肝試しに行ってはみたけれども、まだエイズが流行していない時代で確かに皆んな結構激しかった。自分はそっちにほとんど興味はないから「見てるだけ」だったけれども。国府の連中は政治方面には厳しいけれども、ホモさんにはさほどきつくはしていなかったんかな。そもそもどっちでもよかったんやろな。それからこれはまた聞きになるけれども、高雄にも、台中にも、同じような公園があると言っていて、台湾の男は皆んな軍隊に入っていて日本人よりも鍛えているから、若い子と遊ぶのはたまらんのやと。
日本のホモさんは台湾や台湾人のことが好きと言っているけれども、遠くまでわざわざないものをねだって探さんでもええと思う。台湾や台湾人は別にあんたらのことが好きというわけとちやうし、そもそも縁というものは、近くにいくらでもあるもんやから。
自分は昭和五十五年に子供ができてから台湾に行かなくなった。今考えてみると青春の熱病みたいなものやったんやろけど、その後だいぶして古希祝いを兼ねて台湾に行ったときにはすでに売春は禁止されていた。(了)
追記-台湾迷の子どもたち
自分には子供(娘と息子)が二人いて、二人には台湾の話はまったくせんかったけども、二人とも大人になって台湾が好きになった。台湾に行く前にはウォ・アイ・ニーとかボーポーモーフォーの練習はしてたし、お土産のパイナップル・ケーキは毎回別のところで買ってくるし、烏龍茶も銘柄のついた高いのを選んでるみたいやった。Sちゃん(娘の本名)から「北投温泉でエステしてきた」という話を聞いたときは、あんなところに女の子でも行けるようになったんかと本当にびっくりした。あと、台湾人は熊かカバみたいなんばっかやと言うと、顔を真っ赤にして「イケメンも多い」と反論してきた。Sちゃんはだいぶ前に結婚して子供も二人いて、中学のお受験で頑張ってるけど、A(息子の本名)のほうはLGBTらしくて、台湾人の「友達」をしょっちゅう家に連れてきていた。お姉ちゃんには「彼氏」と言って紹介してたみたいやけど、親にはやっぱり言えんのやろな。でも、わかってるんやけどな。まあ、孫の顔を見たかったら子供は二人は作っておくもんやと思った。
追記②-その後の百恵ちゃん
あと百恵ちゃん。百恵ちゃんは、あのあと金持ちの台湾人と結婚したけども、結局離婚して、羅東に帰って、そこで台湾独立の運動に入って、そこで知り合った人と再婚した。再婚相手は自分の知ってるようなかおかたちの台湾人やった。なぜそこまで知ってるかというと、百恵ちゃんの本名を覚えてたんで、十年ほど前にフェイスブックで名前を打ってみたら、なんと検索に出てきた。懐かしくなって駄目もとでメッセージを打ってみたら、一時間も経たないうちに日本語で返事が来たんで、とてもうれしかった。あれからいいねしたり、メッセージもやりとりして、古希祝いで久しぶりに台湾に行ったときに台北で会ったんやけど、自分はもうおじいちゃんやのに百恵ちゃんはそんなに変わってなくってびっくりした。このとき連れてってくれたのが当時デートした海鮮の店で、海覇王って名前やった。
百恵ちゃんは二年前に膵臓がんで亡くなってしまった。葬式は行かんかったけど、台湾では葬式でストリップする習慣はもうなくなっていたらしい。
(令和元(二〇一九)年七月聞き取り/追記部分は令和二(二〇二〇)年八月の聞き取り)