昭和54年の台湾-礁渓温泉
仕事が忙しくなっていましたので更新をしばらく停めておりました。忙しさはまだ続く見込みですが、不定期的にぼちぼちと更新を続けてまいります。
悪名高き温泉
今でこそ「田舎の温泉宿」というと風光明媚な風情を感じさせますが、戦前・戦後のある世代を生きのびた人に言わせると、温泉宿というとすなわち「女性によるサービス」が陰ひなたで行われるものというイメージがあったようです。
台湾でも同じで、とりわけ北投温泉と礁渓温泉というとある種の悪名高き感慨を覚える人が多いようで、いろんな話を聞く機会がありました。
上記の『昭和54年の台湾』は私が過去に聞き取った台湾ピンクツアーに関する内容です。
「観光と言ったらかっこええように思わせるけど、要は、ナニや」という生々しいひとことがいまだに忘れられないでいます。
今回の話題は台湾東海岸北部に位置する礁渓温泉です。
役人の慰安場所
台湾東海岸北部にある礁渓温泉は清朝統治時代から開削されていて、日本統治時代に入ると台北や基隆から汽車で直接行けたことから、内地でもそこそこ知られていました。当時も「女性によるサービス」が陰ひなたで行われいたようで、昭和15年に書かれた日記録のなかには面白いことが書かれていました。
礁渓は女護温泉とまで言い切っており、さらに温泉での慰安のために宜蘭は庁を廃されたような書きぶりで、筆者の役人への意識(悪意)がなんとなくうかがえます。
ピンク観光は影を消した
1990年代以降、政策によって台湾全体からピンク(中国文化圏では黄色ですが、ピンクにしておきます)が影を消すようになり、礁渓温泉も例にもれず「ピンクの要素」はなくなってしまいましたが(ただし宜蘭では公娼制度はまだ残っています)、それでもいまだ多くの遺構が残されており、新たに設けられたオブジェなどでも当時の名残がそこはかとなくあらわれているものがあります。ただ、1970年代のものを見つけだすのはそろそろ難しくなりはじめているという印象があります。
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