屏東番外編 - 1945年8月21日の日記より
天気図を見るとこの日の和歌山は晴れていたようです。台湾南部の屏東市に住む知人から電報が届き、ありていにいうと「日本に帰りたい」と言ってきたようなのですが、筆者は冷淡な感想を述べています。
近所にいた「拝み屋」
文中に「拝み屋」という職業が出てきます。今でいうところの霊能者のようなもので、この手の類をただの迷信と笑う人も多いかもしれませんが、戦後の日本のコミュニティとして大きな役割を果たしていたという側面があります。実際、ぼくの自宅の近所には国鉄を退職して類似宗教のようなコミュニティをつくった人がいたり(教祖の死後、信者らが集団自殺を起こし有名になりました)、原因不明の病気を祈祷で治してくれる人が住んでいたりしました。近所トラブルは聞かないし、別にひどく奇異な目で見たわけでもないことから、地域社会になじんでいたといえそうです。
終戦直後の和歌山市
終戦直後の和歌山市は焼け野原でした。7月の空襲で繁華街・ブラクリ丁が焼けてしまったことから、今度は現在の和歌山駅(当時は東和歌山駅。和歌山市民は「東」とよんだ)西南側一帯がすでに闇市(新しいマーケット)になっていて、日記から闇市のなかではすでに韓国系住民とヤクザの抗争が起こっていたことが伺えます。その一角に和歌山ラーメンで有名な井出商店が建てられたのは昭和28年、現在も当時の建物が残っています。
ちなみに和歌山駅北側には阪和新地もありましたが、こちらは昭和30年代まで元気で、現在も当時の建物が1、2軒残っています。
台湾の情勢
さて、当時の台湾情勢はどうだったのでしょうか。電報のくだりを読んだだけではあらましがまだわからないのですが、筆者が台湾が日本領土ではなくなることをすでに理解していたようです。
そして、興味深いことが書かれていました。
神戸と台湾をつなぐ連絡船はすでに沈没していたので台湾とは往来できない状態となっていました。当時の台湾は内地と同じ郵便切手を使っていたのですが(切手は内地から送られていました)、昭和20年に入ると切手を自前で作ることを余儀なくされました。こうやってつくられたのが台湾数字切手です。
大本教の隆盛
ただ、N君の行動は不可解です。日本に帰るのであれば故郷に帰ればいいのに、わざわざ筆者に電報を送ろうとしているのにはなんらかの理由があったようです。
この一文に出てくる「出口先生」というのは出口王仁三郎氏のことと思われます。戦前に弾圧を受けた大本教の教主ですが、筆者は出口氏とN君の関係をホラ噴飯と一刀両断しています。こういう職業であったがために故郷に帰れなかったということでしょうか。いやもしかすると今度は日本で新しい商機を捉えようとしたのかもしれませんが。
戦後、新宗教は大ブームとなります。創価学会をはじめとする新宗教は就職のため地方から都会に出て来た人をつなぐコミュニティとして機能し、現在に至ります。
わずか数十年前のことなのに
正月なのになぜ夏の話題を書いたのかというのには自分なりの理由があって、ここ最近特に実感したこととして、わずか数十年前のことなのに、いざ調べてみようとすると、資料や実体験からくる証言というものがなかなか見つからないのです。
終戦後の話もそうで、玉音放送の話はよく聞きますが、この直後に起こった話は食糧難だったことくらいです。写真の記録もほとんどありません。
ひとくちに戦後といわれますが、近いようで本当に遠い時代になってしまっていることに改めて気づかされた次第です。
改めまして、2023年もよろしくお願いします。