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一九九五年 台灣⑶ - クォーター・センチュリー

当時の台湾では「認識台湾」という言葉が流行していた。日本語では座りが悪い並びなので、ぼくは「台湾認識」とよんでいたが、当時、台湾に関する小さなスピーチを行うときのテーマは決まって「私の台湾認識」というたぐいで、このスピーチを発表しあうことで私たちの台湾への認識が深まり、そして自身の価値観の基盤に組み込まれていったという印象がある。

黒夜光明(闇の向こうにある光明)

この頃の日本は「平成」という元号を使っていた。元号というのはアジア諸国で使われている年数の数え方で、現在は日本しか使われていない。平成は一九八九年から始まったが、いま改めて思い出してみると、当時の日本は、そして平成全体はあまり明るい時代ではなかったのではないかと気づかされる。

平成元年に北京で起こった天安門事件は、当時ティーンエージャーであったぼくにとってとても衝撃的で、戦車の前に立ちはだかる若者をテレビで見たぼくは、おそろしい時代がはじまる檻の扉を開けてしまったと思ってしまった。その後の世界は至るところで戦争が起こり、気がつけば日本もまた、政治的にも経済的にも、そして社会的にも混乱を呈して収拾のつかない状態に至っていた。

このときぼくたちはなにをしていたのか。総括してみると、自分のことばかりで、現実を直視しようともしなかった。

日本の社会は、とても煩瑣であり、多様性を認めず、自分より劣ったものに対して差別することや無視することが当然だと思っている、冷酷で鈍感な社会であった。残念ながらそれは現在も変わっていない。そしてとかく印象的だったのは、当時の台湾人は、台湾に対していっこうに関心を向けようとしない日本人にいささかうらめしげな愚痴をこぼしていたことである。

平成乙亥(平成7年)

一九九五年の日本については、戦争こそないものの、とにかくいやな時代だった。
阪神淡路大震災や、当時日本の社会をゆるがせたオウム真理教事件は台湾でも大きく紹介されていたが、私たちはなぜこの時代に生きているのか、そしてこれからどこに向かおうとしているのか。

私たちは闇の向こうにあるはずの光明を探して手探りしもがかなければならなかったはずだが、この時代の日本でやたらと流行していたのは「実力主義」という言葉だった。このフレーズは、可能性のある若者にとってやたら心地のよいものであったが、光明の先にはおそろしい怪獣が待っていて、その正体は新自由主義であったことが明らかになっていく。当時の若者の多く、特に、入学試験の学力のみをたのんで生きようとした人たちは、この怪獣に容赦なく踏みつぶされ、四半世紀を経た今もその痛手から癒えることなく、人生の後半を生きようとしている。そして、時間は不可逆に過ぎているのだ。

ところで一九九五年は十干十二支で「乙亥」にあたる。唐末の詩人・曹松は「乙亥歳」という漢詩を詠んでいる。令和の日本は本土を巻き込む戦争こそ起こさなかったものの、この詩の状況と似ていると感じたので全文を引用して文を擱きたい。

沢国の江山 戦図に入る
生民何の計りごとあってか 樵蘇を楽しまん
君に憑る 話す莫れ 封侯のこと
一将功成って万骨枯る
(水郷地帯の山も川も戦場に組み入れられてしまった。こんな中では、民衆はどうして木や草を刈るようなささやかな生活でさえ営むことができようか。君よ、諸侯に封ぜられることなど、どうか言わないでほしい。一人の将軍が手柄を立てるとき、その陰には無数の人々の命が奪われているのだから。)

曹松は「乙亥歳」 和訳は関西詩吟協会のHPより引用しました。


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