見出し画像

昭和10年代の台湾-屏東のデブ惰民

途中末広町の宋君の事務所に寄り諸手続を行い、昼食は近所のうどん屋でカレーうどんを食べる。昨今軍人の間ではカレーうどんが流行しているらしく、日本人は何にでもカレーを入れて食べるのが好きだと笑い、そんなに好きならばいっそ菓子にカレーを入れてみてはどうかと云うのだが、これもまた存外に旨いのかも知れない。自分の隣には大ボクロに沢山の毛の生えた肥えた醜男が大盛りの白飯を下品に平らげていた。宋君は自分に、あれは市尹(※市長)の放蕩息子だからジロジロ見ないほうがいいと耳打ちした。

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

京兆尹〈けいちょういん〉の記憶

青春時代に台湾を訪れた際、私は仁愛路にある京兆尹という菓子店によく立ち寄っていました。京兆尹は宮廷料理や菓子を専門とする飲食店で、名前の「京兆」とは首都(特に長安)を指し、「尹」は長官という意味です。日本語にすると「都知事」に近いニュアンスでしょうか。

(京兆尹本店)

京兆尹本店に行ったことがないという方も、かつて台北の故宮博物院(三希堂)に京兆尹のカフェが併設されていたため、記憶に残っている方は少なくないかもしれません。

(当時故宮博物院で出されていた「ブルーベリーのミルフィーユ大福」)

ただ、京兆尹は薬膳料理の店というイメージが強く、全般的に味付けが控えめだった印象があります。台湾の料理は味が濃いものが多い中で、その控えめさがかえって印象的でした。
私自身は「ブルーベリーのミルフィーユ大福」が大好きでしたが、京兆尹は2017年に閉店しました。もうあのほのかな味わいを楽しむことができないと思うと、少し寂しい気持ちになります。

前置きが長くなりましたが、今日は「尹」についてお話ししたいと思います。

当時の屏東市尹・伊藤完二氏

『昭和丙子台湾屏東之旅』が書かれた1936年5月当時の屏東市の市尹(市長)は伊藤完二氏でした。わたくしにとってまったく面識のない方なので、氏とつけさせていただきます。

氏の経歴は以下のとおりです。

伊藤完二(1897-没年不明) 1897年4月生。大分県出身。1925年に京都帝国大学法科を卒業し、台湾総督府に入る。台湾総督府財務局税務課勤務、台湾総督官房秘書課勤務、高雄州警務課長を経て、1930年6月台湾総督府警察官及司獄官練習所主席教官、台北州内務部地方課長、台北州官房文書課長、新竹郡守、屏東市尹、台湾総督府交通局参事兼逓信部庶務課長、台南州内務部長、台南州総務部長を経て、1943年3月から台湾総督府交通局理事兼逓信部長を務めた。1945年8月8日に依願免官となった。

https://www.jacar.go.jp/english/glossary_en/gaichitonaichi/career/career.html?data=201
wikipediaより

まさに当時のエリート、というべき経歴です。

1945年8月8日、終戦直前に免官となった理由は分かりません(この2日前には広島に原子爆弾が投下され、この日の夜にはソ連が満州への侵攻を開始しています)。戦後は故郷の杵築市に戻り、福岡相互銀行杵築支店長を経て、大分県人事委員会委員長を務めたことが確認されています。ただし、没年は不明です。地方新聞の黒枠記事(訃報欄)を丹念に調べれば答えが出る可能性はありますが、現時点ではそこまでの調査には至っていません。ただし、『大分県議会の歩み 第7巻』によると、1972年時点で存命であったことが確認されています。

伊藤市尹のドラ息子

ところで『昭和丙子台湾屏東之旅』には気になることが書かれています。

自分の隣には大ボクロに沢山の毛の生えた肥えた醜男が大盛りの白飯を下品に平らげていた。宋君は自分に、あれは市尹(※市長)の放蕩息子だからジロジロ見ないほうがいいと耳打ちした。

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

伊藤氏のドラ息子のことをこき下ろしていますが、個人的にはこんな絵にかいたような痛い惰民が本当にいたのだろうかということが気になりました。そこで、実際に調べてみました。

伊藤氏は1897年生まれ、1936年であれば満年齢で39歳。京大を出てから台湾に来ているので、仮に息子がいてもローティーン(10代前半)というところでしょうか。国立国会図書館のデータベースを駆使していると、1943年に帝国秘密探偵社が発行した『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』には伊藤氏の息子に言及された記事がありました。全文を引用します。

従五勲六 総督府交通局理事 逓信部長 台北市佐久間町1ノ1官舎 閲歴 大分県和一郎次男明治30年4月16日同県速水郡杵築町に生る大正14年京大法科卒業総督府法務秘書各課員高雄州刑務課長台湾警察官司獄官練習所主席教官台北州内務部地方課長兼官房文書課長新竹郡守屏東市尹等歴職総督府交通局参事逓信部庶務課長台南州内務総務各部長を経て昭和18年3月現職同14年欧米に出張す 宗教浄土宗 趣味古書画武道 家庭妻すみ(明38)大分県荒木明長女・継子三蔵(昭2)

(『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』より)

昭和2年生まれとすれば、満年齢でわずか9歳の子どもです。仮に現在も生きているとすれば、2024年時点で満98歳となります。肥満児であったことはともかくとして、9歳にしてホクロにたくさんの毛が生えているという特徴や、大盛りの白飯を外でドカ食いしている様子は、いずれも現実的には考えにくい話です。そのため、宋君が筆者に出鱈目を言った可能性が高いでしょう。あるいは、筆者が聞き間違えた可能性も否定できません。もし後者だとすれば、「市尹(しいん)」という言葉を一体何と聞き間違えたのでしょうか?

当時の台湾で市長クラスとなるためのの条件

当時の台湾ではいわゆる市長クラスの官僚になるための条件は主に以下の2点でした。

  • 男性であること

  • 日本人であること

アメリカの「WASP」に通じるひどい条件ですが、実は帝国大学卒業や高等文官試験(現在の国家公務員総合職試験)合格が求められているわけではありませんでした。その理由についてすでにいくつかの研究が行われていて、戦時中は多くの台湾官僚が当時日本が占領した南方地域に派遣されたことから人材不足が慢性的になったことが影響しているとされています。

なお、屏東市尹(1940年以降は市長)の最終学歴一覧にまとめてみました。高等文官試験合格者は初代の伊藤完二氏のみでした。

伊藤 完二(1933.12-1936.10)京都帝国大学法科大学 
宗藤 大陸(1936.11-1937.11)不明 
高木 秀雄(1937.12-1939.3)愛媛県 松山中学校
谷 義廉(1939.4-1939.9)台湾総督府国語学校師範部甲科 
大関 喜雄(1939.10-1941.5)東洋協会専門学校
山下 若松(1941.6-1942.12)関西大学商業学科(2年次修了)
神田 利吉(1943.1-1945.8)不明

最後に

ところでわたくしがはじめて台湾に足を運んだのは1995年、終戦50年の年でした。なにか昔のことを調べようとすると、だいたいこの50年というのがひとつの区切りになっていて、これを超えてしまうとなかなか当時のことが肌感覚でわかりづらくなっていきます。聞き取りをしても、語り手の記憶がかけがえのない青春時代の美しいかたちになって収まっていて、いろいろつき合わせていくと、ときに「?!」となってしまうこともあります。

その考え方で行くと、1970年代のことを調べるならちょうど今がよい時期ということとなります。1970年代の台湾って、わかっているようで実はよくわからないことが多いので、将来の台湾研究を目指すなら今がチャンスかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!