「語学オタク」の覚悟
趣味が「語学」と書くくらいなので、「外国語を学ぶこと」が好きなのは間違いない。ただ、これを人に話すと「語学オタク」と呼ばれることが多い。私はこの呼ばれるのが学生のときから嫌だった。なんで私は「オタク」と呼ばれたくないのかというのをあまり深く考えたことはなかったが、「お前は無駄なことをしている」というニュアンスをそこに感じ取ってしまったからだと思う。語学をする理由は「好きだから」の一点でいいのだが、そうなると「実用的でないことに自分のリソースを過剰に注ぎ込む人」つまり「オタク」に自分が分類されてしまう。自分のやっていることは何か意味がなければならないという自意識が「自分はオタクである」ということを認めたがらない。どうしたら役に立つとかそういう視点を取っ払って「好きなものは好き」と開き直って自分の好きなことができるのだろう。実用性という価値観をどうしたら笑い飛ばせるのか。
世間的には外国語は「スキル」と認識されていて、言葉を選ばずに言ってしまえば「金儲けの道具」になっている。純粋に外国語を学ぶことで喜びが得られるのではなく、外国語を駆使することで社会に貢献できたり、個人にとってメリットがあるから語学は学ばれているという認識がどちらかと言えば一般的だろう。言葉はコミュニケーションの道具だから他者に自分の意志を伝えてなんぼ、だから「会話」が外国語の一番人気のコンテンツになる。note で「語学」というワードから追尾してくる記事もたいていそうだ。
私は不思議と「語学を活かした仕事」に引かれることが少なかったのだが、それはやっぱり「語学ができることでもたらされる自分へのメリット」があるから語学をしているのではなく、「語学をすることそれ自体が自分へのメリット」に思えてしまう人間だからだと思う。外国語の知識や運用能力を「手段」と捉えることに抵抗がある。私にとって語学は道具じゃない、喜びの源泉だ。
今現在はまったく働いていない状態で、この1月と2月は好きなように語学をやっている(がしかしまだまだ時間が足りない)のだが、このペースで語学を続けるのは無理だろうと当たり前だが思っている。今取り組んでいるのが英、仏、独、露、葡の5言語で、自分の語学力を落とさないために必要な時間を仮に週最低10時間とすると、一カ月で200時間くらい語学に時間をかけなければならない。今はニートだからいいけど、働きだしたらまずできない。労働をしていたら、せっかく積み上げてきたものを放棄しなければならない。つまり、自分の好きなことをするためになるべく可処分時間を作らなければならず、それにはフリーターやニートをやるしかない。「そんなの世間が許さないよ」という結論だが、仮に自分が就職して、自分の好きなことを放棄すればそれでいいのか。それが大人か。就職しても未練は残るから、満員電車のなかでポッドキャストを聞いたり、仕事で疲れた体に鞭打って寝る前に Duolingo をやることになるだろう。そのくらいで満足できればいいが、たぶんそのうち何もかも嫌になって「自分の好きなことをやろうとしてこんなに疲れるなら最初からやらない方がいい」というような考えに至ってしまい、語学を放棄する、そんな未来が見える。語学をしない人生もそれはいいかもしれないが、正直私はもうこれなしで生きる意味が見えないくらいにはなっている。ただ働くだけの人生に意義を見いだしにくくなっている。
もし今の自分が語学を継続するなら、覚悟を決めるしかないのではないか。自分の好きなことをするために積極的に働かないという覚悟を、齧れる脛を最後まで齧る覚悟を、100円のジュースを買うことができない覚悟を、親が死んだら自分も腹を括る覚悟を。学生のときは「自分はこれが好きだけど、まったく無駄なことをしているんじゃないか」という恐怖心があった。だから自分を洗脳して好きなことを辞めるように努めてきた、あるいは社会的価値があることが自分の好きなことであるはずだと思いこもうとしてきた。去年の12月に左腕を骨折して療養しなくてはならなくなり、暇な時間を語学に当てられている今現在は「無駄なことをしてますけど何か?」という「私のしていることは無駄だけど、私はこれが好きで、私にとってはこれしか意味のあるものがない」という覚悟が求められている気がする。世間的な価値がないと、自分の好きなことを継続するだけでもかなりの精神力が要る。別にそれが間違ってるとは思わないが、自分のしていることに世間価値を付与しようと奮闘している人があまりにも多すぎるような気がして、もっと無意味に生きている人が多少多くなってもいいのではないかと思う。