13時、雪の下に咲いた花
そう、簡単な祈りだった。段々と消える感嘆。
と言うわけで黒主零の勝手に考察の時間です。大体この考察編は思い立ったが吉日の情動の勢いのままに書いてるので信憑性はないと思ってください。
今回の題目はプロジェクトセカイにおける「迷い子の手を引く、そのさきは」についてです。
まず朝比奈まふゆ。普段は優等生だけど基本的に心を踏み荒らされているため、目が死んでます。そうしてしまった犯人は彼女の母親です。幼い頃からまふゆに英才教育をさせて立派に育ってもらう事を目標にしているエリート思考……が行き過ぎた結果娘の心を踏みにじる事になってしかもそれに気付いていないと言う現代のDVとも言える状態です。毒親と片付けてしまうのは簡単ですが少しだけ考察してみます。
前述通りまふゆの母親はまふゆに立派に育ってもらう事を目標として新学校に行かせたり塾に通わせたりしています。それだけなら別におかしくはないのですが劇中の描写から彼女が学校に行っている間などに当たり前のように彼女の部屋に入っては勝手に物を捨てたりしている問題人物です。それに対する本人の弁は「まふゆのためを想って」「まふゆには必要のないものだから」……まあ、最低でしょう。しかも今回はニーゴで作曲をするのに必要なシンセサイザーまで捨ててしまい、ついにはまふゆから「音楽」すら奪ってしまいます。
誤解なきよう言っておきますがこのような行為に対して庇うつもりは全くありません。何なら筆者も似たようなことをされた経験があるのでイベントエピソードを読みながら肝を冷やす日曜日を送っている次第です。自分でも何でこんな最低の屑親を考察しているんだという気持ちがある日曜日の夕暮れですが疼いてしまったので仕方がありません。
ここから先は完全な想像でしかありません。
まふゆの母親は恐らく「才能を誰にも見つけてもらえずに腐ってしまった絵名」のような存在なのでしょう。幼い頃に何かやりたかったことがあったのかもしれません。しかしそれが出来なかった。周囲から才能か環境を理由にやりたいことが出来なかった少女だと予想します。ただ周囲の顔を窺って喜ぶ顔が見たいから努力する。次第に行動の理由の中心が自分から他人に変わっていく。一種の「メシアコンプレックス」と呼べるかもしれない。理解を得られるにはやりたいことをするのではなく他人に喜んでもらえるようなことをする。
しかし奥ゆかしい可愛らしい少女時代ならともかく学校を出て成人して就職した頃には誰かのために何かをすることは当たり前になっていく。だから自分の行動が肯定されずやがて自分で自分を肯定するしかなくなっていく。大人になればそれを理由に家族からも「出来て当り前だから褒めるなんておかしい」と感情を殺されて次第に自己嫌悪と自己肯定しか心を支えるものがなくなってしまう。
そのまま一人勝手に腐ったままだったならまだよかった。問題なのは結婚して子供を作ったこと。つまり自分を見てくれる人物に巡り合ってしまった事。成長するにつれて燻り続けて来たメシアコンプレックスの承認欲求がそこで爆発してしまうのです。「自分はやはり間違っていなかった」その結果が次の時代……自分の子供の人生を大きく歪めることになってしまったのです。
メシアコンプレックスの人間にとって成功体験とは何かと言われたら「おとなしく他人の言うことを聞いて誰かに喜んでもらう事」以外にあるわけがない。だから自分の娘にもそれを強いる。たとえ今どんなに苦しむことになっても自分を信じてさえいればいずれ報われると存在しうるかも分からない、何ならその手で足で踏み潰している「過去完了形の希望」を餌にして。
普通の人間なら飴と鞭、北風と太陽とでうまく精神状態を整えるものですが雪の下に咲いてしまった花には普通の人間が肌寒いと感じる程度の北風は何も感じないし、太陽の光は届かないし、届いてしまった場合には眩しくて蒸し暑いと感じるだけ。味のしない飴も心のない鞭もただ虐待の道具でしかない。犬や猫に芸を教える時に使う餌のようなもの。犬や猫なら飼い主である以上愛情を与え続けられる。しかしメシアコンプレックスの人間が他人に対して与えられる愛情など存在しない。「自分のために常に誰かに尽くす事」以外自分自身ですら知らない事なのだから。皮肉なことに他人から見たら優等生。評価の高い人間として見られてしまう。本当に求めたものは何一つとして絶対に手に入らないと感じている人間にとっては憎しみしかないと言うのに。
そしてまふゆ母にとって最大の悪手となっているのは「自分がおかしいならそう言って」と言外に問いかけている相手であるまふゆがしかし親の事を肯定してしまっている事である。親には自信がないのだから自分の方が間違っている可能性と言うのは他の誰でもない親自身が理解している。それを周囲が肯定し続けてしまっている事が最大の問題である。「自分のために常に誰かに尽くす事」以外自分自身ですら知らない事なのだから。自分を肯定してくれている他人を否定することなど絶対に出来るわけがない。
まふゆの母親にとってまふゆは完璧である。自分から生まれた存在とは思えないくらいに完璧なのだ。だからこそ期待をかける。自分が正しいと思ったまふゆのためになることなら何だってする。そしてまふゆも恐らく頭のどこかではそんな親がどうかしてる。間違ってると言うのは感じている筈。しかしそれでも幼い頃からたとえ間違っていたとしても自分に対して優しくしてくれたあの頃の母親の記憶がある限り否定することは出来ない。早い話が「共依存」の関係に陥ってしまっているのだ。……社会に出たその瞬間に打ち捨てられるとしても。
亡くなった母親(妻)のために曲を作り続けて来た結果娘に才能で負けた事で心を病みすべてを忘れてしまった父親のために自分を捨てて曲を作り続ける奏。
自分が周囲と違うと言う事が痛いほどよくわかっていて、親しくなったものに程自分の事を伝えることが出来ない瑞希。
才能の限界を父親に思い知らされてしかしそれでもなお自分の才能に立ち向かい、絵を描くことをやめない絵名。
ニーゴのメンバーはいずれも普通の人間とは違った人生を送ってきている。そしてそれは全てまふゆの母親にも当てはまっている側面があるのではないでしょうか。ある意味ニーゴにとってはなくてはならない存在と言うのが皮肉なものですね。
総括。たとえ自分の全てを否定されたとしても自己嫌悪と自己肯定だけで生きてきた人間にとって「自分を信じてくれている人」と言うのは薬としても毒としても強烈すぎる存在なのです。その存在に否定されたとしても「自分のためにその人の笑顔が見たい」から妄執を捨てることは出来ないのです。そして、その人に肯定されることは見捨てられることよりも苦い毒でしかないのです。人間は救われたいと祈ったその日から己に呪われ続けるのです。
19時、全てをゼロに出来なかった男より。