D.C.P.F~ダ・カーポ ファンタズマフォーチュン~序章

D.C.P.F~ダ・カーポ ファンタズマフォーチュン~

???
かつて、水面に浮かぶ桜の木があった。
冬でも枯れない桜の木だ。
地図にも載っていない小さな島の集落では災いを呼ぶ黒い桜の木と呼ばれていた。

2001/9/27(木)
「……ご、……ご……!!!」
それは世界が軋む音だ。だからこの世界のどこでもなく誰にでも聞こえる。
目を開ければ空も大地も海もすべてが斜めだ。
自分の足がまっすぐ地面に立っているのかさえわからない。
当時幼かった自分にもただ事ではなかったのは嫌でも分かる。
斜めになった海が黒く燃えているのだから。
斜めになった空が黒く燃えているのだから。
「……ちゃ……ちゃ……ん!!」
まるで重力が逆転したかのように幼い少女の体が黒い空へと消えていく。
その体が半分ほど消えた時だ。
「…………!!」
黒が始まる中、燃える桜の木の前で二人の少女が祈りを捧げていた。
やがて、その二人を中心に世界に再び白が輝き始めたのだった。
それが長倉大悟のすべての始まりだった。

「兄さん、起きて」
地鳴りのように響く何かが聞こえる。耳でも鼓膜でもないもっと奥底から響くその声はもはや一種の衝撃波だ。
「兄さん。……いたずらしちゃうよ?」
衝撃は変わらない。だが、急に甘い匂いと腹の下あたりに妙な感覚が生まれ始めた。
「……ちゅ、ぺろ、……ちゅ、ちゅ……」
規則的な音と声と快感がやがて鼓膜からもっと下の方に意識が集中される。
「……っ!……んっ!!んっ!!!」
やがて熱いものが吐き出され、排熱をしながら見慣れた天井が視界に生まれ始めた。
「……ん、」
カーテンの間から鬱陶しい朝陽がこぼれてちょうど目を焼くようにベールを作っていた。
枕元の時計を見れば大体いつも通りの起きる時間だ。
つまり先ほどまでのものは夢。幻であって現実ではないということだ。
「……で、相変わらず何盛ってるんだお前は」
上半身のみを起き上がらせれば正面にはやはり見慣れた顔。
「あ、やっと起きた」
ティッシュで口元を拭う少女。それは紛れもなく妹の長倉小夜子だ。
「……もっと普通に起こせないのかお前は」
「嬉しいくせに」
からかうように笑う小夜子。俺の手を躱すように後ろに飛ぶ。
本来ならベッドの上から床に落ちる筈だったその小柄はしかし背後にあったドアノブと同じくらいの高さで留まり、宙に浮いたまま体育座りをした。
「そろそろお姉ちゃんが朝ご飯作ってくれるよ。早く起きないと皆食べちゃうんだから」
「……まだ食うのかよ」
「別腹だもん」
小さく笑いながら小夜子は宙に浮いたまま体勢を立て直す。
……見慣れない者には見慣れず奇異として映るだろう。
小夜子には体重がない。強いて言うならばちゃんと抱きしめたりすれば体重そのものはその小柄にあった程度には感じる。だがまるで重力に従うつもりがないかのようにその足が地面につく事はかなり珍しい。
小夜子とは血のつながらない兄妹だがそれでも付き合いはかなり長い。
最初の2,3歳くらいの頃にはこんなことにはなっていなかった。
普通に両足が地面についていた。
こんなことになったのは数年前からだ。そう、最後に音終島に行ったあの日から。
「っと、」
小夜子がドアノブに手を伸ばす。空中で足をばたつかせることで前に進もうとしているのだが出来ずにいる。小夜子は飽くまでも宙に浮けるだけで空を飛べるわけではない。
そのため空を進むことは出来ないと小夜子も重々知っているはずなのでこうやってバタつかせているのは俺の手を借りたいアピールだ。ご丁寧にスカートの中まで見せて挑発までつけている。
「あれれ~?おかしいな~?」
「はあ……」
空中でバタ足やってる小夜子の両足をつかむ。小夜子が安堵の息を吐いた瞬間。
「それっ!」
「ひっ!」
小夜子の足裏を思い切りくすぐってやる。
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!やめ、あめて兄さん……!!きゃははは!!」
さっきまでの余裕たっぷりに兄を誘う姿はどこにもなく、逆さまになりながら笑い悶える姿だけがあった。
「さて、遊ぶのもここまでだ。姉さんの朝ご飯を食べに行こう」
「ぜーっ、ぜーっ、に、兄さんのくせに……」
息も絶え絶えな小夜子の足を片手でつかんで持ち上げながら俺は制服に着替えた。
そのまま部屋を出てリビングへ向かう。最後に時計を見ておく。まだ余裕のある時間だ。
リビングに出れば最初に目に入ってくるのは優しく笑う姉さん……ではなく3匹のワニだった。
「ぐぎゃがががごおぉぉぉぉぉぉん!!!!」
でたらめに叫ぶ3匹のワニ。姉さんや小夜子は名前をつけているが俺には正直区別がつかない。ちなみに市役所に正式に許可を取って飼っている姉さんのペットだ。
「……お、おはよう姉さん」
牙をむくこいつらを無視して俺は台所にいる姉さんに声をかけた。
「…………はよ」
俺の姉さん、長倉八千代。俺の2つ上の姉。こっちは血がつながっている。
仕事で忙しくてほとんど家に帰ってこない両親に代わって家事をやってくれているありがたい存在だ。ちょっと無口で、ワニを飼うなどの悪趣味はあるが大事な家族である。
これでも高校で生徒会長をやっている。実際にその姿を見たことはないがこんな無口で生徒会長やっていけているのだろうか?
姉さんが作った料理がまだ湯気を出したまま台所にある。
「お姉ちゃん、これ運ぶね」
「……ん」
小夜子が壁を蹴って台所まで向かい、皿を両手に持って再び壁を蹴ってリビングまで移動する。おいしそうな匂いだがそれに反応してワニ達がけたたましい声を出すのが正直怖い。
「はい」
「おう、」
小夜子から料理を受け取ってテーブルに置く。ついでに小夜子は俺を蹴る事でまた台所まで飛んでいく。先ほどまで部屋の中で無駄にバタ足していたのが嘘のようにこの浮遊移動を使いこなしている。実際プールなどで泳ぐのと同じ感覚らしい。それを言われたら少しは想像がつく。
「それじゃ食べるか」
食卓に制服姿3人。手を合わせてから姉さんが作ってくれた朝食を食べ始める。
ちなみに小夜子は普通に座って食べている。別に全く地面から離れているわけでもない。
コツがあるらしいが地面の上でも少しだけなら歩くことが出来るらしい。
それはともかく姉さんが作ってくれたベーコンエッグは焼き加減や塩味が絶妙でおいしい。
昔は母さんが作ってくれた料理を食べていたがここ数年はずっと姉さんの料理を食べているからか完全にこの味に舌が慣れてしまった。
「グガギャゴゴゴゴオオオオオッ!!!」
……すぐ近くで檻の中で叫ぶワニ達にはまだ慣れないけど。

食後。洗う時間はないから食べ終えた後の食器は流しに置いたままだ。
とは言え昼くらいには両親が戻ってくる時もあるため帰ってきたならそこで洗ってくれるから甘えられる。逆に言えば俺たちが学校から帰ってきてもそのままだったらその日は帰って来れないと言うことになり、少しだけ寂しさを感じる。まあ、昼に帰って来れたとしても俺達が学校から戻る頃にはもう家を出ていることが多いからあまり会えないんだけども。
「おし、鍵閉めたぞ」
3人で家を出る。俺と小夜子は同じ中学で、高校に行く姉さんは途中まで一緒だ。
家の鍵は2つあり、基本は俺と姉さんが持っている。小夜子も俺も部活やってないし生徒会に入っているわけでもないから学年が違うと言ってもそこまで時間に違いが出るわけじゃない。それに最悪の場合は……
「あ、大悟、千代姉、小夜子ちゃん」
すぐ隣の家。ちょうど同じように出てきた一人の女子。
「鈴姉、おはよう!」
「鈴音、おはよう」
「……はよ」
鈴音=リバイス=天竺。俺と同い年で音終島時代からの幼馴染みだ。
当然小夜子や姉さんともかなり交流がある。さっき言いかけたが仮に小夜子が一番最初に家に帰ってきて俺や姉さんの帰りが遅くなっても鈴音の家に行けばいいという訳だ。
小学生時代ならともかく最近の鈴音は優等生を演じている関係で放課後は寄り道することもなくすぐに家に帰る。何なら小夜子と一緒に帰ってもいいだろうし今までも何回かあるだろう。
「大悟、ちゃんと宿題やったの?」
「いきなりそれかよ。つまらない優等生ごっこは学校だけにしておいてほしいな」
「何よそれ」
「兄さんなら夕べも遅かったよね。宿題なんてやる暇あったの?」
俺達は揃って道を歩く。ちなみに小夜子は首輪(チョーカー)にセットした紐を掴んで風船のように引っ張って移動してる。今日みたいに風が強い日はどこに飛ばされるか分からないから割と本気で危険な日だ。……別の意味で危険な日かどうかは知らない。
「学校に着いてからやるよ」
「間に合うのそれ?」
「何とかなるしならなくてもいいや」
あくびを一つ炊けば他3人がため息をつく。一言も話さないが姉さんも他二人と同意見らしい。
やがて駅へと続く分かれ道。
「じゃあ姉さん。今日も放課後は遅いの?」
「……ん」
徒歩で学校まで行ける中学生組と違って電車に乗る必要がある姉さんはここで別れる。
軽く挨拶をしてから姉さんは駅へと消えていった。
「じゃあ俺達も行くか」
「そうだね」
ちなみに小夜子は鈴音が手を握ることで地を滑るようにして歩いている。一応念のため紐は俺が持ってる。紐を持って浮いているのを引っ張っているとたまに電線とか木とかに絡まりそうになるからそれを避けるための鈴音の気遣いだ。まあ、単に仲がいいと言うこともあるが。
15分ほど歩けば校舎が見えるようになり、知った顔もちらほらと見えてくる。
こうなると先ほどまでと違って鈴音はまるで小夜子とだけ登校したかのように俺と距離を取って歩くようになる。
小学校を卒業して2年。それまでは悪ガキ仲間だった鈴音も急に色気づいて優等生じみた言動するようになって最初は無性に気に食わなかったが今ではまあ、そうだろうなって気持ちにもなる。実際たまに昔と同じような接し方すると周りの目がウザくなるし。
なのでああやって小夜子と一緒にいたとしても結局、
「よう、別居か?」
クラスの男子からからかいの言葉が投げられる。
「うっせ。誰も結婚してねえよ」
「今更今更」
とは言え俺もこの辺りから知り合いの男子連中と一緒になるから鈴音からしても一緒に行動はしづらいだろう。……きっとこうやって幼馴染みは崩れていくんだろうな。
と、寂しさと納得感を得た時だ。THE金持ちって感じのリムジンがすぐ横を通り、少し離れたところで止まる。そこで察した周囲が俺の元を猛スピードで離れていく。
「……はあ、」
俺がため息をついた瞬間だ。
「あらあらあらあら長倉先輩ですの?」
リムジンから降りた女子。短い髪を風に靡かせたその姿だけを見ればTHEお嬢様なのだが、
「どうしたんですの先輩。朝からそんなに寂しそうな気配を醸し出しているんですの?でも大丈夫ですわ先輩。何故ならこのわたくし、乃木坂鞠音が今日も元気にあなたに朝を届けに来ましたわ!さあさあさあさあさあ!!今日も元気よくいい一日にしましょう。あれ?どうしたんですの先輩?まだまだおねむって顔をしていますわよ?わたくしが目の前にいるのになぜそんな顔をする必要があると言いますの?あ、分かりましたわ!まだまだ先輩にとっての太陽と言うにはわたくしが足りないからそんな夜明け前のような表情をしているんですのね。分かりましたわ。わたくし、もっと太陽のように輝きますわ!」
「うるさい」
「へぅっ!?」
一度喋り出したら止まらない壊れたスピーカにチョップ。それからも鞠音が何か喋ろうとするたびにその頭に軽くチョップの連打。するとやがてそれは止められる。
「先輩。それ以上は姉さんが馬鹿になってしまうので許してあげてください」
鞠音へのチョップを止めたのは鞠音と同じ顔の少女。即ち双子の妹である乃木坂潮音である。どちらも大企業である乃木坂財閥のご令嬢であり、俺達が通っている学校の整備や警備までも一社で賄っている。謂わば俺達からしたらお姫様でお得意様で超お客様なのだが鞠音の方がメチャクチャやかましい。しかも去年の春。入学したばかりの鞠音が迷っていた時に俺がさりげなく助けてやったことをきっかけにして妙に懐かれてしまった。そこから妹である潮音とも会って何だかんだで1年くらいの仲になってる。
「潮音。目覚まし時計はちゃんと止めてから登校しないと周りの人の迷惑になるぞ?」
「でも姉さんは可愛いので僕にとってはちょうどいい懐中時計なんです」
「もう潮音ったらいくらわたくしが可愛いからって先輩の前でシスコンを見せてしまっては流石にわたくしも恥じらいというものが……」
「うるさい」
チョップ。鞠音が目を閉じる。当たる前に潮音によって軽く止められた。
どうも潮音は幼い頃から合気道を含めた様々な格闘技をやっているらしく俺程度の素人の攻撃は軽く見切られてしまう。鞠音も少しは経験があるらしいが才能が全くなかったらしく最低限未満の腕前らしい。それもあってかこの二人、双子なのに顔以外は全く似ていない。小夜子と大差ないくらい小柄な鞠音に対して潮音は俺とそんなに変わらない体格だ。
いろいろインパクトが強いこともあってこの二人を「噂の双子」と呼ぶ奴も多い。
「あ、今更ですけどおはようございますわ、先輩」
「おはようございます、長倉先輩」
「ああ、本当に今更だな。おはよう、鞠音潮音」
ここまで終わってからやっとさっき離れていった男子達が戻ってくる。もっと離れたところでは鈴音と小夜子が少しドン引きした顔で俺達を見ている。これが毎朝の登校パターンだ。ちなみに当たり前だがやかましいからと言って鞠音に手を出す奴はいない。なんでも小学生時代に男子がからかい半分に裸にひん剥いたところその日の内にその男子は一家親戚もろともこの町から引っ越すことになったそうだ。どこまで本当かは知らない。

「はよーっす」
教室。適当な挨拶をして入ると同じように適当な挨拶が男子や女子から返ってくる。
別にクラスで浮いてるわけでも人気者な訳でもないからそれ以上は特に何もない。
「けどな、」
自分の席。その隣には鈴音が座っている。
「結局何回席替えしてもクラスも同じ、席も隣同士なんだから優等生モードする必要あるのかお前?」
「何よ優等生モードって。別に私達だってもう子供じゃないんだし男子女子で一緒に遊ぶような年でもないでしょ?」
鈴音は一時間目の教科書を出して予習復習の真似事をしている。
端から見れば優等生にしか見えないだろうが実際こいつの成績は実は高くない。
忘れ物や遅刻をほとんどせず先生相手におべっか立てているだけでテストの点数で言えば俺と大差ない。クラスの連中ではどうせ毎回テストで満点取ってるように思われているのが居たたまれない。
特に試験前のこいつに話しかけるのは命知らずの蛮行だと言っていい。何せこいつは我が家のワニどもが唯一恐れる存在なのだから。
「……何か失礼なこと考えてない?」
「ないない」
とりあえず俺も今日の宿題やらないとな。

午前、午後すべての授業を終えて帰りのホームルーム。
来週から中間試験があるのだがその一週間後には学園祭がある。
皆中間試験と言う現実を忘れるためにこの時間ではノートどころかペンすら持たずに賑やかにしている。委員長やってる鈴音とて例外ではない。
「では皆さん。再来週から開始される学園祭ですが出し物の案は何かありますか?」
黒板の前に立つ鈴音。ちなみにこの時担任は役目がないからか鈴音の代わりに俺の隣の席に座っている。そのため退屈だからと眠ることは出来ない。
「はい天竺さん。今年も飲食できるの?」
「いえ、飲食の出し物は2年生から優先的に選ばれるため枠があれば十分に可能だと思いますが……」
「体育館は使える~?」
「はい。体育館は3年生から優先的に選ばれるので3年生としては優先順位は最優先です」
忙しそうに質問攻めを受ける鈴音。
「……天竺さんは真面目ですね」
担任がつぶやく。声色や雰囲気、一瞬の目配せからどうやら独り言ではなく俺に対して告げているようだ。
「……まあ、そう見える努力はしてるみたいですね」
「長倉君がいるからこそ天竺さんも頑張れる時に頑張れているのでしょう」
「……」
担任だからか俺や鈴音の過去も知っている。音終島の悲劇を。
「まあ、長倉君もそんな天竺さんがいるからまあまあまともに授業を受けてくれているみたいですし、いい関係ですね」
「……俺はそんな真面目じゃないっすよ」
大人は少し苦手だ。

放課後。小夜子が鈴音と一緒に帰って行ったのを見てから俺は校内をぷらぷらと見て回る。テスト前と言うこともあり部活をやっている生徒はほとんどいない。
じゃあ何故そんな時に俺が学校の廊下を歩いているかと言えば冷房が効いているからでしかない。
我が家のリビングはとある3匹の爬虫類のために冷房が効いていない。その上自分の部屋には扇風機しかないため涼める環境は学校くらいしかないのだ。
「ふう、やっぱここは涼しいな」
図書室の隣。普段は吹奏楽部が使っている音楽準備室だ。この期間は吹奏楽部はいないのだが冷房が効いている。正確に言えば自由に使えるようリモコンが置いてあるのだ。
どうせ外に出ればクソ暑いのだ。目一杯ここで涼んでいってやろう。
「あれ、先客だ」
そんな時だ。不遜にも狭い室内に暑い空気を入れてきた女子がいた。
「黄緑か……」
「大悟じゃん。またサボり?」
「何のだよ」
夏目黄緑。去年同じクラスだった女子だ。無気力系と言うか俺と同じで何をするにも気分次第。そのためかったるいと思ったことは絶対にやらない主義だ。
「暑い夏への抗議活動?」
「俺は大自然に喧嘩を売った覚えはない」
言いながら黄緑はすぐにドアを閉めて俺の近くの椅子に座る。
「ここ、いい穴場だよね」
「ああ。特にこの時期は最高だ」
真夏で冷房が効いてていつも部活動で使っているがそれもない。最高の環境と言っていいかもしれない。
「黄緑は家に帰らないのか?」
「帰ってもねぇ……」
全身から力を抜いて冷房の涼しい風を浴びている夏目黄緑。
詳しい話は知らないが以前、家庭環境が少し複雑な生徒仲間として職員室で会った記憶がある。父子家庭だってのは聞いたがそれ以上はあまり聞こえなかった。偏見だが女子中学生としては父親と二人きりは少し複雑なんだろう。
お互いあまり深い話はしないまま2年生の生活が終わって今や3年生。クラスは分かれてもかったるい同盟は相変わらずだった。
「大悟の妹さんは、」
「ん?」
「あの物理的に浮いてる子だよね」
「ああ、物理的に浮いてるぞ」
詮索しないと言う盟約があるわけではないが相手の家族を話題にするのは珍しい。
「小夜子がどうした?」
「……いや、珍しいなって」
「珍しいというかオンリーワンだろ。立場的に浮いてる奴ならいくらでもいるだろうが、物理的に浮いてる奴なんて他に知らない」
「……そうだよね」
黄緑の視線は壁に注がれたまま。雰囲気は全くいつも通りなんだが。
「……え、いるの?」
「え、何の話?」
「いや、その反応何だよ。まるで他に物理的に浮いてる奴を知っているかのような反応だったじゃねえか」
「……ふむ、実は僕はね……」
「な、何だよ……?」
「……見える娘なんだよ」
「…………は?」
見える?幽霊とかのこと言ってるのか?こいつこんなキャラだっけ?
「いやぁ、たまに見えるんだよね。足がなくてぷかぷか浮いてる子がさ」
「……お、おう……」
黄緑は至っていつも通り。故に冗談なのかどうかが俺にも分からない。
「……えっと、なんて漫画の話だ?」
「あ、信じてない。まあ、普通の話だよね……」
残念そうな口調だがテンションにも表情にも変化はない。……こいつどんなだよ。

ある程度涼み、ある程度遅い時間。
学校を出て家へと向かう途中。見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「姉さん」
「……大悟」
振り向いたその姿はやっぱり姉さんだった。
「今帰り?遅いな」
「……大悟こそ」
「俺はまあ、涼んでから帰ってきたわけだし。姉さんは生徒会?」
「……そう」
姉さんは寡黙だ。家族に対してだけこのように少しだけ喋ってくれる。
そう。これでも喋ってくれる方なのだ。俺が1年生だった頃、姉さんは3年生で同じ中学だった。当時の姉さんの担任にたまたま会った時に聞いた話では全くと言っていいほど喋らない子だったらしい。実際姉さんに友達がいたという話もない。
姉さんには日頃から負担をかけている自覚があるからもしその負担が重すぎるって言うなら俺にも責任がある。……どうしろって言われてもどうしようも出来ないけど。
「姉さん、こんな遅くまで大変じゃない?」
「……大丈夫」
「無理な時は家族に相談してくれよ」
「……ん」
街灯が照らす夜道の間。姉さんの顔はよく見えない。ただ二人の足音とわずかな息づかいだけが帰路に伴っていた。

???
太陽と月と地平線が一緒に見える黄昏の頃合い。
「全く無茶をするものだ」
その人の声は乱暴なようでどこかに優しさが見える気がする。
私は彼から1枚のレントゲン写真を受け取った。医学の知識はない。そんな私にでも写っているものが普通ではないことくらいは分かる。
「矛盾の安寧……。もはや氾濫を待つだけだってのはお前にも分かっているはずだ」
彼の言葉に私は小さく頷いた。それを見た彼はため息をついてから黒い翼を広げる。
「俺とて立場的にそろそろ危ない。露払いにも綱渡りにも限度はある」
そう言って紅の空に飛び立とうとした彼を私は引き留めた。
「待って……!」
「……」
「……2ヶ月来てないから。……たぶんもう……」
「…………はいはい」
彼は大きなため息をついた。レントゲンからその状態にも気付いていたのだろう。
「全く、偽物のために本物を犠牲にしていく……。そんな倒錯が知れたらこの世界どころか俺も危ねえっての」
「……ごめんなさい」
それでも私は新たな命を差し出した。

2001/9/28(金)
「……う、」
いつもと違う目覚まし時計の音を聞いて俺は目を覚ます。
寝ぼけ眼のまま時計を見るといつもより30分以上も早い時間だった。
その理由を思い出すより前にすぐ隣で姉さんが起き上がるのに気付いた。
「姉さん……」
「……はよ」
いつものように小さく挨拶した姉さんはそのままベッドから降りて着替え始める。
まだ頭が完全には醒めていないがどうやら昨日俺は姉さんの部屋で眠ってしまったらしい。
昨日は家に帰ってから両親が帰ってきていないことを知って小夜子や鈴音と一緒に4人で台所の片付けをしつつそのまま夕食を食べて……それからどうしたんだっけ?
「……大悟」
「……ん?」
俺も起き上がる。見れば下着姿の姉さんがこちらを見ている。
「……早く出てって」
「……あ~うん……そうだな」
大きなあくびをしながら俺はまだ半分眠ったまま姉さんの部屋を出る。
それから自分の部屋に戻ろうとしてその間にある小夜子の部屋から物音がした。
「……?」
こっそりドアを開けて中を見る。
「……ふみゅ」
見れば小夜子が天井に張り付いていた。結構重めの布団がベッドの上でめくれていることからどうやら寝ぼけたまま布団から出て、何らかの表紙に浮き上がってしまいそのまま天井に激突したのだろう。
「……ふわ、」
あくびを1つ。このまま無視して帰ってもいいが、たまにはやり返してみたくなった。
小夜子の部屋にこっそり入るとまだ眠ったままの小夜子を引きずり下ろして抱き枕のようにして一緒に布団に入った。
こうしているとまだお互い小学生で一緒の部屋だった頃を思い出す。
「……姉さんには悪いけど」
後数分で鳴るであろう目覚まし時計を止めて俺は再び小夜子を抱き枕に夢の世界に旅立った。

「もう、信じられない!!」
それから1時間ほど経過した。
姉さんに怒られながら起こされた俺達。それ以上に小夜子が怒っていた。
「ほら兄さん早く急いで!遅刻しちゃう!」
「わ、分かったから焦らせるなって……あ、ちょっとトイレ行きたい……」
「は・や・く!!」
結構ギリギリな時間になってしまった。
姉さんは先に朝食を食べて家を出た。俺達二人も急いで朝食を食べ、支度をして家を出る。
俺は元からだが今日は小夜子も髪が整っていない。
「ほら兄さん早く!!」
チョーカーに巻いた紐を俺に向けて差し出す姿は早く散歩に行きたい子犬のようだったが確かにさすがの俺もそろそろ全速力しないと遅刻してしまう。今日は朝のホームルームで学園祭の出し物について話し合う予定だ。変な出し物に決まってさらに俺に変な役目が押しつけられたら困る。
「飛ばしていくぞ」
「飛ば……ひゃああああっ!!」
俺は家の鍵を閉めた瞬間に小夜子の紐を掴んで全速力で走り出す。小夜子はまるで凧揚げのように後ろの空を横向きに引きずられていく。こんな暑い夏の時期に朝から全速力するのは正直きついが変な係を押しつけられるよりはマシだ。いつもは15分かかる道のりを5分で走りきる。1年生の頃に気まぐれで陸上部やってた俺の俊足をなめるなよ……!

「ま、間に合った……」
予鈴のチャイムが鳴ると同時に俺は教室に突入した。
「はらひれられ……」
目を回している小夜子は窓を開けて紐で繋いだまま外へと投げる。
すると、遠心力の問題でちょうど真下にある小夜子の教室へと届くのだ。たま~にやる最終手段として1年前に覚えた必殺技だ。
「……ちょっと大悟、小夜子ちゃんが死んじゃうでしょ!?」
「大丈夫だ。うまく回収されたらしいぞ」
下の方から聞こえてくる声。「いいですよー!」と言う声を聞いて俺は紐を放す。すると、少しずつ紐が下の階に巻き取られていく。
「セーフ……」
「人道的にアウトよ!」
鈴音のアイアンクロー。かつてまだ小さかった頃のワニどもの噛み付きを真っ向から破った握力が襲いかかった。
「いてててててて!!俺を殺す気か!?」
「死ぬわけないでしょうるさい!」
「暴力女ぁぁぁっ!!」
「……そろそろホームルーム始めていいかな?」
担任が咳払いするまで俺の頭は軋み続けていた。

昼休み。いつもは姉さんが作ってくれた弁当を食べるのだが今日はそんな時間がなかったので珍しく食堂だ。と言っても小遣いはそんなに持ってないので食べられるものは限られている。
のだが、
「妹さん回収した時、いいもの見れたのでどうぞ!!」
と言う小夜子と同じクラスの男子達が少しずつだがお金を分けてくれたので今日は贅沢をする日だと決めた。
「……妹を出汁にして食べるご馳走はおいしい?」
すぐ近くの席で鈴音と黄緑がものすごい目でこちらを見ていたが気にしない方向で。
「カツ丼と醤油ラーメン。ご馳走と言えばこの二つだよな」
今日は朝から無駄に体力を使ったから腹が減って仕方がない。育ち盛りなのと一緒にいいわけにさせてもらおう。
「あ、お兄さんだ」
ものすごい勢いで昼飯を貪っていると新たな女子の声。
振り向けば小夜子と同じクラスの白河ひばりちゃんがいた。
「お、ひばりちゃんじゃん。飯か?」
「はい。小夜子ちゃんも一緒なんですけどちょっとはぐれちゃって……」
「へえ?」
一息ついてから立ち上がって食堂の中を見渡す。物理的に浮いた姿は見当たらない。
とは言え小夜子はその体質から学校内どころか街でも有名な存在だ。食堂にいる奴らに声をかけていけばその内ヒットすると思う。
「それにしてもお兄さんすごいよく食べますね」
「ああ、さっき君のクラスの後輩達からいいもの見れたお礼にってお裾分けされてね」
「いいもの?」
俺の言葉を受けても意味を理解できないらしくその場で考え込むひばりちゃん。
「白河さん」
そこへ鈴音がやってきた。すでに優等生モードだ。
「そこのろくでなしに関わってもろくな事になりませんよ。今小夜子ちゃんにはメールを出したので待ち合わせ場所に行きましょうか」
「あ、はい。リバイス先輩」
そうして鈴音とひばりちゃんは行ってしまった。ちなみに鈴音はその珍しい名前からいろんな呼ばれ方をする。ミドルネームで呼ぶのはひばりちゃんくらいだが。
「いただき」
「あ」
その後ろ姿を見ている間に俺のご馳走がなくなっていて腹を押さえる黄緑の姿があった。
「おい黄緑てめ!」
「ラッキースケベで買ったご馳走は女子だけの特権だよ」
「意味分からないことを……まだほとんど食べてなかったのに……!」
ってか普通に間接キス以上のことしてるのに気にしないのかこいつは。……そう言うのは鞠音と同じくらい気にしなさそうだな、うん。

斯くして帰りのホームルーム。朝では決まらなかった学園祭での出し物を決める必要がある。何せ、来週月曜からはもう中間試験だ。中学生の学園祭なのであまり大がかりなものは出来ないとして準備期間が非常に短いのが特徴で、実際問題仮に何か出し物を決めたとしても準備自体はほとんど業者が行っている。そりゃどっかの風見学園みたいに生徒だけでいろいろな出し物準備したりなんて現実で出来るわけないもんな。
「と言うわけで以上の2つを最終候補としますので皆さんどちらか1つに必ず投票してください」
鈴音が黒板に2つの出し物の名前を書く。
1.体育館を迷路にして水鉄砲対決
2.いろんな種類の爆弾おにぎりを教室で売るもしくはお客と一緒に作って食う。
この2つとなっている。前者はもちろん後者も意外と面白そうだ。ロシアンみたいなのも考えているらしいし組み合わせも自由自在。闇鍋的な面白さが男子の間で人気なようだ。
「……さて、俺はどっちに投票するかな」

放課後。
「へえ、それで迷路になったんだ」
音楽準備室。昨日と同じように黄緑と一緒に涼む。
「ああ、どうせ迷路そのものは業者が作ってくれるし。飲食だと2年生が優先されるから本当にやれるかどうか分からないしな。黄緑のクラスはどうなんだ?」
「僕のクラスは教室でアイスホッケーやることになったよ」
「教室でアイスホッケー……」
床の塗装とかが大変そうだな。まあ、ちょっと遊びに行ってみようか。

夕暮れよりかは夜に近い頃合い。黄緑と別れて学校を後にして帰り道。
今日は姉さんとは会わないようだ。しかし、別の見慣れた顔があった。
「……お前は」
9月の終わりだというのにどこからか桜の花びらが舞う街路樹の下。黒衣の少女が立っていた。脱色した髪、異国風の黒衣。俺よりかは少し年下に見える小柄な少女。
「……」
「……ファンタズマ……」
その少女を見るのは何度目か……3回くらいか。正直その姿を見るたびに目眩がする。
「……亡霊、か」
その声はやはり聞き慣れたものだがだからこそ受け入れられない。
「あなたにとっては現実から目を背けて抜け殻のお人形と遊んでいる生活からすれば確かに僕は亡霊に過ぎないかもね」
「……」
言葉を返せない。ただこの季節も世界も違うような少女と光景に意識が奪われていた。
「……でも、もうそんなに長くないからね」
それだけ言ってファンタズマは桜吹雪と共に消えた。
「……やっぱりあれは夢でも幻でもなかったか……」
蘇るのは音終島の惨劇。わずかでも思い出すだけで蒸し暑い夏の夜なのに背筋に寒気が走る。「……早く帰ろう」
あれだけあった桜の花びらはもう1つも見えない。街灯だけが照らす暗い夜道を俺は朝と同じように全力で走り抜けた。

???
それは朝焼けか夕暮れか、紅か瑠璃色か。
空が焼けて新しい一日が始まるその頃合いか、或いは最後の灯火だけを残して世界が終わるその頃合いか。
「……もうあまり残された日は長くないぞ」
今日、その人はスーツを着た中年男性の姿で私の前に現れた。
「……あなたは……」
「俺は二代目だ。初代の奴は俺の中に身を潜めている。やはり歪みの直中に直接その姿を見せることは難しくなってきたようだ」
「……」
崩れゆく世界。それを支えてくれるだけじゃなく私にその負荷を与えてくれた恩人。
かつてあの島でわずかに存在していた魔法に関係した存在なのだろうか。
尤も、今私が見えるこの景色が、私が行き交わっている2つの世界がその証明になっていないと言われたら疑うしかないだろう。
「いずれ俺の息子が3代目になる。まだお前よりも幼い子供だが、苦労はさせた方がいい。何かあったらいずれは息子を頼るといい」
「……分かりました」
そして今日も私は新たな命を差し出した。決断の時までこの朽ちた世界を支えるために。

2001/10/1(月)
学園祭の出し物が決まり、業者に発注をかけたところで楽しみの前の苦労段階。即ち中間試験が始まる。正式な日程は明日から木曜にかけてだ。今日一日はどの教科も新たにページを進めると言うことはなく、ほとんど自習に近い状態だ。だからといって気が楽というわけでもなくしーんと静まりかえった教室の空気も合わさってだいぶかったるい。
確かに3年生だからそろそろ本格的に受験戦争に備えないといけない。
言ってみれば学校のテストなんて本当に試験でしかない。学校の試験程度軽く高得点を取らなければ志望校なんて行けるはずがない。
「……」
かったるくて仕方ないが俺も姉さんと同じ高校に通うために3年生になってからは少しだけ頑張っていた。塾に通うことはないが姉さんに勉強を教わったり、夜に自習をしたりして成績を上げている……と思う。
漫画とかでたまにあるエスカレーター式の学校が少しだけ羨ましい。
ただエスカレーターだと行きたいところにいけないというのが引っかかるか。
「……」
隣の席を見る。鈴音がいつもより真剣に自習をしている。見ているのは教科書のようだ。
鈴音も一応俺と志望校は同じで、姉さんと同じ高校に行くのが目標だ。
ただ、正直俺より成績の低い鈴音が合格するにはちょっとハードルが高い。
今教科書を見ているのも成績の低さを今更ながら少しでも補おうとしているからだ。
周りからはいい意味で他にやることがもうないからと思われているのだろうが、逆である。正直ここまでとは思っていなかった。
「鈴音」
休み時間。席を立とうとした鈴音を呼び止める。
「何?」
「今日の放課後、うちで勉強会でもやろうと思うんだけど」
「……」
鈴音は可能な限りその冷静な優等生としての表情を崩さないようにしていたが割と結構崩れかけていた。なんか、棚ぼたと言うか思ってもいなかった誘いだったようでうれしさを隠しきれないって顔をしている。
「……ま、まあ?大悟がどうしてもって言うなら仕方ないわね……?」
「声裏返ってるぞ」
俺だけ志望校に合格してお隣さんがどこか知らない底辺校に進学なんてなったら流石に寝覚めが悪い。俺だって今のままじゃ合格できるか分からないのだから鈴音はもっと危ないだろう。

と言うわけで放課後。
「……何だか久しぶりに来る気がする」
鈴音が我が家にやってきた。実際小学校時代までは毎日のように来ていたが、中学に入ってからは劇的に少なくなった。
「小夜子と一緒に遊んだりしないのか?」
「基本は私の家とかショッピングに行ったりだから……でも、あまり変わってない。懐かしいな」
鈴音がリビングを見回す。最初俺だけ帰ってきた時はガウガウ叫んでいたワニ達は鈴音の匂いを感じた瞬間から置物のように静かになった。
「……君たちも変わらないね」
鈴音が姿を見て声をかければまるで犬のような鳴き声をする。こいつらこんな声出たのかよ。「千代姉は?」
「生徒会の仕事があるからそれが終わったらだな。それまでは俺達だけでやるぞ。とりあえずお前の場合基本からだな。せめて明日からのテストの赤点を回避するところからだ」
「いや、私でも赤点を取ったことはないから」
「……そうか?確か去年くらいに美術のテストが……」
「この子達けしかけるよ!?」
鈴音がワニの檻を開けようとする。マジで怖いからやめてくれ。
「と、とりあえず基本からやってみよう。教科書読み返して基本を理解し直すのは悪い話じゃない」
「でも、それだけで受験なんて出来るのかしら……?」
「同じ志望校目指す俺が言うのも何だが普通、受験って自分の手が届かないところを目指すわけじゃないからな。理解できてないのにまぐれか一夜漬けかで普通だったら手の届かない格上の学校に合格できたとしても普段の授業にまずついて行けないだろ。だからそんなまぐれに期待するくらいなら基本を完璧に仕上げとけ」
「……大悟のくせに理論的なことを……」
「小夜子、」
「はいはい」
二階の俺の部屋から小夜子が飛んでくる。その手には大量のドリル。全部俺が今までのテスト勉強の時に自作したものだ。
「うわ、懐かしい。まだやってたんだこれ」
「お前も1年生くらいの時までは使ってただろう?あれを今までも使っていたんだ。これを使って出来れば今日一日で全教科をそこそこ出来るようにするぞ」
「で、出来るのかな……?」
「赤点委員長にはなりたくないだろ?ってか今までだってギリギリでも赤点にはならなかったんだ。やりゃ出来る。1年生までの内容なら小夜子にだって分かる。むしろ小夜子は予習も出来る。俺は自分の勉強やるからまずは小夜子と二人で1年生分から始めるんだ」
「う、うん。分かった」
「なんか私もやるのが必須になってない?まあ、私も明日からテストだけど……」
ブツブツ言いながらも二人は勉強を開始した。

勉強を開始してから3時間。腹が減ってきた頃に姉さんが帰ってきた。
すでに姉さんには事情を説明してある。
「疲れてるみたいだけど大丈夫?姉さん」
「……ん」
姉さんは一度部屋に戻り、私服に着替えてからやってきた。
夕飯を作りながら空いた時間に俺や鈴音に対して分からないところを教えてくれる。
ただでさえ7時過ぎにやっと帰ってきたというのにさらに俺達に付き合ってくれる。
流石に悪いと思っているのか鈴音や小夜子も料理の手伝いをする。
夕食を終えた後も5人での勉強会は続き、気付けば10時過ぎ。
「一夜漬けを何度もしてきた俺が言うのも何だがどんなに準備をしても寝不足はすべてを駄目にする。だから今日はそろそろ終わりにしよう。言っておくが鈴音、帰ってから続きをしようとか思うなよ?勉強道具は俺が預かっておくからな」
「え、そこまでするの……!?」
「誰のためだと思ってるんだ。俺も今日は夜更かしせずにさっさと寝るから」
「は、はーい、」
多少納得いかない表情だが同時に少しは納得しているからか鈴音は鞄をリビングに置いたまま隣に帰っていった。
「……鈴音お姉ちゃん別に帰さなくてもよかったと思うけど」
「は?どういうことだ?」
「夜遅いんだし……。いくらすぐ隣りでも女の子一人を夜道歩かせるのは危ないんじゃない?」
「……そう言ってる間にもう家についてそうだがな」
まあ、明日以降は考えてみるか。

それから翌日以降。午前中にテストを終えると午後には帰宅。そして勉強。そんな一日が始まった。姉さんはテスト日ではないからまだ夜遅くならないと帰って来れないが昨日までにやっていた方法でひたすら教科書を読み込んだりドリルをやったりすることで基礎能力を高めていく。
鈴音もそこそこ諦めかけていたテストが思った以上に簡単に思えたと言っているため間違いなく効果はあるだろう。
「……甘いものでも買ってくるか」
鈴音と小夜子を家に残して俺は近くのコンビニに向かう。
「おや、」
コンビに手前。そこにいたのは潮音だった。
「長倉先輩。こんにちは」
「潮音か。お嬢様がコンビニなんて珍しいな」
「僕たちを何だと思ってるんですか……?」
敬語ではあるが背が近いからかあまり後輩に見えない。顔はそっくりだが相変わらず鞠音と双子とは思えないほどしっかりしてる妹だな。
「お昼ご飯ですか?」
「おやつを買いにな。今鈴音や小夜子と一緒に勉強会やってるんだ」
「天竺先輩ですか。そう言えば幼馴染みでしたね」
「ああ。家も隣同士なんだ」
「仲がいいんですね」
口元に手を当てながら小さく笑う潮音。何気ない仕草がお嬢様らしさを醸し出している。
「潮音は?どうしてこんなところに?」
「僕は散歩です。姉さんも一緒なんですが今は席を外しています」
「そ、そうか」
多分コンビニのトイレだな。けどお嬢様がコンビニのトイレとか大丈夫か?……いや、普通に学校のも使ってるだろうから問題ないか。
「コンビニ入ってもいいかな?」
「はい。僕も行きます」
潮音と一緒にコンビニに行く。鈴音や小夜子、姉さん以外の女子と一緒にいるのは少しだけ違和感がある。あまり気にしないようにしつつ甘いものやカップ麺などを買い物かごに入れていく。
潮音の方はトイレに近い雑誌置き場にいる。別に雑誌などを手に取る様子はない。ただ、猫の写真が表紙の雑誌をちらちらと見ているのが少し可愛い。けど流石に雑誌を買うだけの金は持っていない。ああ言う雑誌って大抵高いし。
「あら潮音。お店の中に入ってましたの?まあ、外は暑いですからね。対して店の中は冷房が効いていて涼しいですわね」
「姉さん。長倉先輩がいるよ」
「え?」
トイレから出てきた鞠音と目が合った。
「あらあらあらあら長倉先輩じゃありませんか。奇遇ですわね。テストの方はどうですの?妹さんや幼馴染みの先輩と一緒に勉強会やってると噂を聞きましたが、あ、今はその合間の休憩時間みたいな感じですわね。それにしても潮音と一緒にわたくしのおトイレを待っているだなんて先輩ってばいつの間にそんな趣味を得たんですの?」
「あ~うるさいうるさい。公共の場なんだから静かにしろ。そんな趣味はない」
最後の部分だけ少し大きな声で言う。いや、よく行くコンビニで変な誤解なんてされたくないし。
とにかく噂の双子を脇に置いて俺は本来の要件を果たす。今は鈴音のために甘いものを買うのが先決だ。
「ってかお前達テストはいいのか?」
「おほほほ!わたくし達を誰だと思っていますの?」
「姉さんは意外と頭いい方ですよ、先輩」
「……妹から辛辣な評価を受けているぞ」
最近思うけど潮音って割とシスコンじゃないよな。まあ、本気で嫌っているわけではないだろうけど。結構大人っぽいのかも知れない。背丈からそう感じるだけかも知れないけど。
「先輩は高校どこに行くんですの?まさか引っ越しなされるとか?」
レジで商品通して帰ろうとしたら鞠音から声をかけられた。
「いや、その予定はないよ。姉さんと同じところに行く予定だ」
「……八千代先輩と」
やや裏返った声は潮音だ。どうも潮音は姉さんのことをどこか意識しているらしく、姉さんのことになるといつものクールが崩れる。
この時ばかりは鞠音の方がおとなしく見えるが……。
「や、八千代先輩はどこの高校でしたっけ?」
「隣町の高校だよ」
「……そ、そうですか……」
読めない表情。姉さんと同じ高校に行きたいって言う感情は見えるがどうも何かそれ以外の感情も見える気がする。
「あら、先輩なかなか潮音に対して鋭くなったんですの?」
「は?」
突然鞠音が俺の顔をのぞき込んできた。まるで俺の考えていることを読んだような言葉だ。
「なんだお前テレパシーでも使えるのか?」
「いえいえ。潮音に対する表情で何となく分かりますの。……そうですわね。潮音、このまま先輩の家にお邪魔するのはどうでしょうか?」
「え?……いや、いきなりそんなの迷惑だよ……ですよね?」
潮音が顔を見てくる。背丈はほとんど変わらないがのぞき込んでくるような仕草は流石双子と言ったところか。元々顔がほとんど同じと言うこともあってまず間違えることのない二人だけど今この瞬間だけは迷いそうになる。
「まあ、俺は別に構わないけどお前達はいいのか?お嬢様だろ?」
「別にお嬢様でも一日中ぎっしり予定が詰まっているわけではありませんわよ?まあ、流石に成人して乃木坂の家を完全に継ぐとなれば今みたいにたやすくお散歩というわけにはいかないかも知れませんが。けど、別にまだ中学生の身の内は他の同い年の子供と大差ありませんわ」
「……そっか」
意外と言えば意外だがまあそれもそうかと思った。けど成人したら、か。
今の話からするとこいつらとは大人になったら少し距離が出そうだな。それこそこいつらだけじゃない。姉さんや小夜子は家族だからともかく、鈴音もその内幼馴染みじゃなくなる。高校までは同じかも知れないが大学は?就職してからは?
「先輩。あまり気にしちゃいけないと思いますよ?」
鞠音がまたのぞき込んでくる。
「……何の話だよ」
「いえいえ。ただもしかしたらわたくしの言葉にいらぬ未来の心配でもしてしまっているのではないかと少しお節介を焼いてみたかっただけですわ。別にわたくしも潮音もただ同じ中学の先輩だから長倉先輩とお話をしている訳じゃありませんわ。ちゃんとそこそこ大好きだからお喋りしたり交遊したりしているんですのよ。ね、潮音」
「……姉さん。咄嗟に大好きとか言っちゃうと誤解されるよ?あ、いや、先輩のことが嫌いなわけじゃないですけど」
「ま、まあ、分かってる」
前々から思っていたが鞠音は純粋というか何というか無邪気な奴だな。

「と言うことだ。2名追加でよろしく」
帰宅してから最初にそれだけを告げ、噂の双子のエントリーを見た鈴音と小夜子は当然に驚きの声を上げるのだった。
それから5人で勉強会をやり、夕方過ぎくらいに姉さんが帰ってくると皆で夕食を食べることになった。
「……八千代先輩の作ったご飯……はううう」
潮音がちょっと少し大分壊れかけていた。
食事が済んでからは流石に噂の双子は迎えが来た。いつかのようにいつものようにリムジンだ。
「八千代先輩。夕食ありがとうございますわ」
「これは感謝のものです。お受け取りください」
お嬢様らしい言動で双子は姉さんに何かを渡した。
「…………これは」
「先輩が欲して止まないものですわ」
「どうかお大事にお使いください」
鞠音はスカートの裾を掴み、潮音は左手を前にしてから車に乗り、去って行った。
この辺り完全にお嬢様だよな。潮音の場合は紳士って感じだったけど。
「姉さん、何もらったの?」
「…………なんでもない」
姉さんはそれだけ言うと受け取ったものをポケットに入れて台所に戻っていった。
姉さんが隠し事なんて珍しい。けど、隠し事の1つや2つ人間だから当たり前だよな。
「さて、俺は風呂にでも入るか」
玄関のドアを開けようとした時だ。
「待って」
その手を掴んで止めるものがいた。振り向けばそこにファンタズマがいた。
「さ……ファンタズマ……!?」
「しっ!……ついてきて。時間は取らせない」
「……」
ドアから手を離し、俺は彼女の後を追う。本当に時間を取らせる気はないのか、家の前の横断歩道を渡って正面の歩道にある小さな公園のような場所に彼女はいた。
「……この辺りか」
彼女は木陰になるように体を預ける。
「どうしたんだよ。流石にあまり時間かけると怪しまれるぞ?」
「……」
ただでさえフードで顔を隠している上に夜道と言うこともあって顔色はうかがえない。
「さっき乃木坂鞠音にも言われていたけど」
「あ?何のことだ?」
「あなたが未来を望まないで」
「……は?」
「あなたにそんな資格ないから。……それだけ」
本当にそれだけ言って彼女は去って行ってしまった。……呼び出しておいて悪口かよ。
けど、あいつの事を思うと決して否定も出来ない。
「……今日はよく女の子と会う日だな」
それだけ言って俺も帰ることにした。

2001/10/8(月)
中間テストが終わった。
俺だけじゃない、多くの生徒達が安堵の息を吐きながらいよいよ待ちに待ったお祭りへと望む一週間が始まる。
「……なんじゃありゃ」
いつものように小夜子、鈴音、黄緑、ひばりちゃんと登校していると遠くから見た学校校舎は見慣れたものではなくなっていた。
校舎を取り囲むように道路のようなものが螺旋状に建設されていた。
俺達だけじゃなく他の生徒達も皆馬鹿みたいに改造された校舎を見上げることしか出来ない。ただ、こんなこと出来る奴なんて大体限られてるだろう。
「……噂の双子か」
「そう言えば2年生の教室で規格外のゴーカートをやるって話があったような気がする」
鈴音が青い表情でため息をつく。確かに俺もゴーカートをやるって話は聞いたような気がするが、中学の文化祭でここまでやるか普通?
「あら、長倉先輩じゃないですか」
「あ?」
噂の姉の方の声が聞こえた。……空から。
「どうしたんですの?朝から皆さんで空を見上げて」
地上10メートルくらいをゴーカートで飛びながら鞠音と潮音が手を振っていた。
鞠音は立ち上がっていてスカートがひらひらとしてたまに水色のものが見えるのだが、とてもそれより空飛ぶ車の方に目が行った。
「……お、おい鞠音潮音。それって……」
「それ?……ああ、スカイカーですの?実は乃木坂財閥で空飛ぶ車の開発を行っていまして。試作機がいくつか完成したのですがテストの機会に恵まれていなくて、それで今回そのテストも兼ねて学園祭の出し物に使ってみようと思ったんですの。ああ、もちろん安全性は保証してから用意していますの。運転免許がないわたくし達のような未成年でもこうして自由に操縦できるんですの。まあ、学園祭ではあのように空中に道路を作ってコースを制限してさらに安全性を確保していますの」
相変わらずうるさい奴だな。空飛んでるからチョップも出来ない。って言うか相変わらずとんでもない奴らだな乃木坂財閥。
「先輩方も当日は遊びに来てください。……出来れば八千代先輩も連れて」
潮音が何か言っているが小声になりすぎて聞き取れなかった。
まあ、大体何を言っているのかは想像できたが。
「では、またごきげんようですわ」
珍しくおほほ笑いをしてから二人は校舎の方へと戻っていった。てか自前で自由に設備用意できるのか……。ずるいというかチートだなあいつら。
「……小夜子とひばりちゃんのクラスは何をするんだ?」
「あ、うん。無難に百人一首だよ」
「私達もほとんどやり方とか知らなかったんですけどなんかすっごい得意な人がいたんでその人が仕切ってるんですよ」
「へえ、」
まあ、普通中学生の出し物なんてそういう可愛いレベルだろう。断じてあいつらがおかしいと言うだけで。まあ、1年生はまだ予算が低く見積もられてて大規模な工事や設営は出来ないだろうから特に不思議はない。
「兄さんのところは迷路だっけ?」
「ああ、そうだ。あとこれはまだ決まってないんだがそれだけじゃつまらないからって水鉄砲サバゲーみたいなのも追加するらしい」
「何ですかそれ?」
「何でも水に濡れると光る石を首から下げた状態でいくつかのチームに分かれて迷路の出口を目指しながら相手チームに水鉄砲をかけるんだ。で、チーム内全員に水がかかって石が光ったら脱落。そうして無事なチームだけが出口を目指して進んでいく……って壮大な奴を一部の連中がやろうとしてるんだとさ」
「けど、もう今週から始まるんだよ?準備とか大丈夫なの?」
「さあな。業者に頼んで光る石とか水鉄砲とかを持ってこれるかどうか何じゃないのか?」
実際、スケジュール的に厳しいとは思うがやってみたいという気持ちはある。面白そうだからな。
「先生の話によると今日一日はまだ体育館で業者が工事してるから俺達は暇が多いから小夜子のクラスでも手伝いに行こうと思ってたんだが……」
「大丈夫だよ。さっきも言ったけど用意するのって百人一首のカードだけだから」
「ま、そうだよな」
校舎を巻く空中道路に目を取られていた生徒達が朝のチャイムを聞いて前に進み始めた。思ったより時間が経っていたようだ。俺達も急ごう。

午前中にテストの返却や難問などの解説が行われた。俺はもちろん鈴音も赤点からはほど遠いまあまあの点数を取ったらしく他の女子達と見せあいっこをしている。変な意味ではない。それで他のクラスだったら出し物に関するシフトや具体的なサービスなどの決め事をするんだが俺達のクラスの場合出入り口の案内人かポスター制作くらいしか決めるものがないからか午後以降は結構暇になる。
「明日の午後からか」
まだ明日の午後からは校内の生徒だけしか公開されない。だから飲食関係もすべて金銭のやりとりはなく、先着制。とは言え今回飲食をやるクラスはかなり少ないらしい。
毎回毎回倍率が高くて保険を探すくらいなら最初から飲食や体育館を使った大がかりな奴は除外して考えた方がいいと恐らく担任から教わったのだろう。
だから逆に倍率が低くなって今回俺達は体育館をまるごと使えるようになったのだ。
まあ、その分工事に時間がかかるらしく明日の午後までに間に合うかどうかは分からないらしい。
「……」
昼休みに軽く体育館をのぞきに行く。他にも同じような考えの奴がちらほらといる。
「へえ、」
外側だけ見るとほとんど完成しているようなものだった。業者達も今は昼休みなのか工事のけたたましい音はしない。ただ改造された体育館だけがそこにはある。
中をのぞきに行きたい気持ちではあるが流石に邪魔になるだろうし、危ないから明日の楽しみにしておこう。

「で、ここがアイスホッケーか」
黄緑のクラスにやってきた。左官工事のように教室は床からスケート場のように改造されている。
「今日一日から明日の午後までは邪魔になるからって追い出されたんだ」
教室の前。黄緑が床に座って船をこいでいる。いつも眠そうにしてるな、こいつ。
「元に戻すまでまた大変そうだな」
「土日にやるみたいだから僕達は気にする必要ないよ。業者の人たちは休日にお疲れ様ってしか言えないけど」
黄緑の言葉が聞こえたのか教室の方で何人かの業者さん達の笑い声が響いた。
「……ちょっと恥ずかしいかも」
「気にするなって。その体勢じゃパンツは見えていない」
俺の声を聞いてゆっくりと黄緑が自分の下半身を見る。実際持ち物でスカートは隠れているから下着が見える可能性はかなり低い。
「……いきなりなんてことを言うんだ」
「ジョークだよ。にしてもしばらくこの調子じゃ暇だろうな」
「そうだね。授業もないし。だから他の連中は家に帰るなり部活行くなりしてるんだけど」「黄緑は帰らないのか?」
「……実は家には働かずに酒ばかり飲んで暴れているクソ親父がいて妹共々日々暴力を……」
「は?」
「ジョークだよ。いや、お酒が好きな父親はいるけどちゃんと昼間は働いてるから」
「そ、そうか……」
もしかして実は根に持つタイプか?気は合うかも知れないがよく分からない奴ではあるな。「ところでテストの点数はどうだったんだ?」
「君のようなタイプが突然そんなこという時は大抵いつもは点数悪くてその時だけ運良く山が当たっていい点数を取ったってシチュエーションだと相場は決まっているよ」
「いや、俺の場合以外と毎回点数高いし」
「本当に?見栄を張ってもそろそろ受験だって近いんだからあまりよくないよ?」
「ちゃんと志望校も決まってるし模試受けた感じの合格率も低くねえよ」
実際A判定だから何か起きない限りはほぼほぼ合格間違いないだろう。
「……へえ、」
「黄緑は高校どこに行くんだ?」
「……そうだね、特に決めてないかな」
「おいおい、もう10月だぞ」
「まあ、大抵の3年生は決めてあると思うけど僕の場合は……まあ、どこか歩いて行ける距離の近い高校を目指すんじゃないかな。あ、これ今回の点数ね」
黄緑が鞄からテストの用紙を見せてきた。俺と大差ない点数だった。
「普段の成績が分からないからあれだがこれなら俺と同じところに行けるんじゃないのか?」
「え、僕と同じところ行きたいの?」
「お前個人に限定してるわけじゃない。けど、高校だとこれまでと違ってもっと顔なじみが減るだろ?俺としても鈴音以外に何人か知った顔があった方が少しは気が楽って奴だ」
「……天笠さんも結構成績いいんだ?」
「いや全然。今回は俺や小夜子、姉さんが総出で面倒見たから中々いい点数取れてたけどいつもは結構ひどいぞ」
「それは意外」
相変わらずマイペースな奴だ。あまり表情が変わらない。躱されてるのかと思う時もあるがまあ、こいつもこいつでこういう雰囲気を楽しんでるんだろう。流石にそろそろ付き合いも長いから大体の空気は読めるようになった。
「そっちは順調?」
急に黄緑が話しかけてきた。一瞬何の話か分からなかったが
「出し物か?体育館で業者さん達が一生懸命やってるよ。俺達は明日の午後までにシフトとかを決めるだけで十分さ。迷路そのものはまず迷う事なんてないだろうしな。それに例の水鉄砲サバゲー要素も用意するために意外と開いた場所が多いようになってるんだ」
「……それ迷路?」
「道そのものに迷うより分かれ道が多いから咄嗟に相手に逃げられるとすぐに追えなくなって、逆に逃げた側が不意打ち狙いやすいように調整したらしい」
「それを一朝一夕で用意できるの?発注は一週間以上も前なんでしょ?」
「不可能を可能とする超人中学生を頼ったらしい」
「……ああ、噂の双子か」
黄緑が立ち上がって窓の外を見る。いつもなら青空が見えるが今日は空をゴーカートが走っていた。
「……いったい何と引き換えにして不可能を可能にしたんだろうね」
「……それは俺も聞きたいような微妙な感じだ」
「もう全部乃木坂財閥がやっちゃえばいいんじゃないかな?」
「流石にそれは無理だろう……たぶん」
何故か俺が頼めば鞠音辺りは二つ返事で了解しそうだけど、流石に潮音が止めるだろう。多分。
「……ちょっと怖いがその双子の様子でも見に行こうかな。黄緑はどうだ?」
「ん~、いいかな。もう少ししたら帰るよ」
「お、そうか。じゃあな」
「ん。また明日」
工事してる教室を見てるのもそれはそれで地味に楽しいが、空飛ぶゴーカートの方が楽しそうだ。あの双子の力の前に屈するようでそれはそれで悔しいけれど。

で、2年生の教室。
「あらあら長倉先輩じゃないですか。まさかまさかこんな早い時期にわたくしの教室に来るとは思いもしませんでしたわ。まさかまさかまさかわたくしに興味がありまして?いけませんわ長倉先輩。わたくしラブリーなのは分かりますがこんな周囲に目があるところでは……いいえ、わたくしも女です。傍目を憚る気持ちよりかもドラマチックにドラスティックにグラマラスに着こなして盛大に愛を打ち明けられたいというもの。さあ、いつでもいいですわよ!」
とりあえず鞠音の頭にチョップをたたき込んだ。
「きゃん!」
「いろいろ言いたいことはあるが、本当にいろいろありすぎるが、興味があるのはお前よりお前のクラスの出し物だっつーの。口を開けば延髄チョップを当てたくなるようなマシンガン女よりかも年頃の男子には空飛ぶゴーカートの方がラブリーすぎるんだっての。ほら、神妙に案内しろ」
チョップの連打。潮音がいないから面白いように当たりまくる。あまりにも面白いから途中から頭に浮かんだリズムに合わせてたたきまくることにした。
「じゃっさいびーこみゅにけーしょん」
「せ、せめてサクラサク系にしてくださいまし……!」
「あ」
声。振り向けば潮音が教室に戻ってきた。
「よう、潮音。様子を見に来たぞ」
「いらっしゃいませ長倉先輩。うちの出し物は予定通り午後までには完成します。恐らく行列が予想されるので一番乗りしたければ早めに来るといいと思いますよ」
「顔パス予約は?」
念のため鞠音の方を見て言う。
「確かに確かに長倉先輩ならわたくし達としましてはそれくらいのサービスはしたいところなのですが、この出し物はわたくしたちだけのものではありませんのでわたくしたちだけでは判断できませんわ。ただ、最終テストとして先輩にプレイしてもらうと言うのはありかも知れませんわね」
「……そうこなくちゃな」
「もう姉さんたら。……先輩、こちらです」
やや呆れながら潮音に案内される。教室のベランダが改造されていてそこに空に浮く車が何台かある。
「俺、免許持ってないけど平気だよな?」
「はい。運転そのものは自動ですので。ハンドルを切ったりアクセルやブレーキを踏んだりで多少制御が出来るようになる程度です。で、本来すでに工場でメカニックさん達が様々なテストをしているのですが、わたくし達以外どうもこのクラスの人達が高所恐怖症でして、ここでのテストの手が足りないんですの」
「……それでよくこんな出し物をしようと決まったな」
皆一斉に口笛を吹き始める。まあ、クラスの大半が高所恐怖症だなんて事前に調べておかない限り分かるわけないだろうから仕方ないとは思うが。
「まあ、それにそんなラッキーのおかげで俺が一番乗り出来るんだから感謝しなきゃな」
多少の緊張を胸に俺は空に浮くゴーカートに乗り込む。
「シートベルトはちゃんときっちり締めてくださいませ」
「投げ出されるなんて事はないと思いますが厳守でお願いします」
「分かった」
座席は一人乗りにしては幅が広い。横になるのは難しいが多分投げ出されるのを少しでも回避するためだろう。真っ逆さまにでもならない限り飛び出ることもなさそうだが。
「スイッチを入れてください。そうすれば空中コースを自動で飛び走り回れると思いますわ」
「念のため僕達も後ろから後を追いかけますので」
「分かった」
普通の車よりさらにシステムは単純で簡単になっているらしく、ギアのようなものは見当たらない。ハンドルとアクセルとブレーキと起動スイッチだけが存在する。
シートベルトでがっちり上半身を固定してからスイッチを入れて初めてアクセルを踏めるようになる。未成年の学生が使うものだから安全設計は普通の車よりも何倍も上だ。
きっとこれは試作機で何年かしたら普通の車でもいろいろ採用されるんだろう。そう考えるとドキドキもするし、緊張で変な汗も流れる。
「長倉先輩。肩の力を抜いてください。遊園地で陸を走る普通のゴーカートと大差ありませんわ。何なら普通の車で後部座席や助手席に座っているのともほとんど変わりません」
潮音が何かしらの計測器を見ながら声をかけてくれる。少しだけ安心が生まれる。
「先輩。恐怖は誰にもありますわ。でも、先輩はそこにドキドキしていらっしゃいますよね。それは物事を楽しむコツですわ。是非我が社のテストパイロットを勤めていただきたく思います。もしよろしかったら中学卒業後はわたくしのところに来ません事?中卒でも全然構いませんわ」
「いや、流石にそれはいい」
この状態でチョップは流石に出来ない。物理的にも感情的にも。とは言えまあ、将来もし仮に路頭に迷うことがあったら小夜子や姉さん鈴音共々世話になるかも知れない。
「……先輩、準備できました。いつでもいけます」
「潮音、」
「はい?」
「あれをやってくれ」
「あれ……ですか?」
俺の発言に戸惑う潮音。その直後に鞠音が口を開いた。
「全システム、オールグリーンですわ。先輩、いつでもいけます!」
流石鞠音はノリが分かっていた。
勢いよくアクセルを踏んで俺を乗せた車は空を走り出す。ゴーカートであるため屋根はなく、ダイレクトに風が俺の全身をなで回す。感覚としてはジェットコースターに近いと思った。あれと違ってわくわくドキドキと言う訳ではなく、むしろ自分で制御できる事に興奮が止まらない。確かに双子が言うように出来ることは限られているがそれでも自分の手で未成年の俺が空を走るというのは中々言葉にしづらい興奮があった。
「先輩、調子はどうですか?」
後ろから潮音の声がする。軽く振り返ってみると双子が後ろから車に乗って追いかけてきていた。そう言えばついてくるって言ってたな。
「最高だよ!」
「それは何よりですわ!」
一瞬とはいえ空を走りながら後ろを見ても全く運転には問題がなく、安全運転そのものだ。説明にあったとおり自分の手で直接運転しているわけではなく車に内蔵されたコンピュータによって制御されているのは正しいようだ。だから少しだけ荒っぽいことをしてみたりする。「せ、先輩!?」
後ろから潮音の驚く声がする。そう、俺は今窓というか外側に身を乗り出していた。当然飛び降りるわけではないし、シートベルトは締めたままだ。スリルが欲しいだけで死にたいわけではないからな。空を走るジェットコースターにはやはりスリルが欲しい。きっとそう思うのは俺だけじゃないだろう。物珍しさにやってくる客だけじゃない。一見しただけじゃ分からないがこいつの本質はそんなにスピードが出ない安全なジェットコースターだ。
アクセルを全力で踏みつけてもあまりスピードは出ない。ハンドルを切ろうとしてもわずかに頭を振るだけだ。両方を組み合わせても遊園地のアトラクションにいくらでもあるようなそんな感覚だ。ジェットコースターとゴーカートを足し算してそこからさらに何かをプラスしたり感覚ではない。
「……ふう、」
10分ほど空の旅を味わうと再び双子の教室に戻ってきた。
「お疲れ様でした!」
後輩達に出迎えられながら俺は車から降りて教室に足をつける。わずか10分ほどだが地に足ついている感覚を思い出して俺の両足が笑い始める。
「どうでしたか、先輩」
やがて後ろから双子も降りて教室に戻ってきた。
「そうだな。面白かったけど思った以上に意外としっかりしてるな。途中ちょっと自分でも怖いと思うような動きをしたのにほとんどぶれなく動いてくれた」
「当然ですわ。我が社の商品は安全安心を心がけていますもの」
「でも、ちょっと怖かったですよ先輩。僕としては気が気じゃありませんでしたよ」
笑みを浮かべる鞠音と胸に手を当ててため息をつく潮音。全然そんな経験も知識もないが日々自動車工場とかではテストが行われるたびにこんな光景が見られるんだろうな。

1年生の教室。小夜子のクラスは確か百人一首をやるって言ってたな。特に準備するものはないから前日準備も暇だって言っていたが。
「……なんじゃこりゃ」
小夜子のクラスに来てみたら、
「ん~~!!ん~~~!!!」
「はい、私の勝ちです」
何故かロープでグルグル巻きにされて風船のように浮いた小夜子を背にひばりちゃんが行列を作ってる男子達と一斉に花札をやっていた。
「……どういう状況だよ」
「あ、先輩」
ひばりちゃんが俺に気付く。それに併せて男子達が背伸びして敬礼を始めた。
「……ひばりちゃんこれは?」
「あ、はい。そもそも花札って需要あるのかなと思って。実際最初の一時間くらいはごくごくわずかな女子だけが来てたんですよ。何で男子来ないのかなって思ってクラスの男子に聞いてみたら最近の男子は遊戯王みたいな面白いカードゲームが流行っているから今更花札なんて退屈だっていったんですよ。実際に私も少しかじっていたんで気持ちも十分分かるんですよ。なので花札を改造してそれらのカードゲーム風にしたらこの通り男子達がいっぱい来てくれたんですよ」
「…………小夜子は?」
「客寄せです」
「……おい、」
とりあえず小夜子を解放してやるか。
「おっと、駄目ですよ先輩。今この教室では小夜子ちゃんに触りたいなら私にカードで勝たなきゃいけないルールになってるんです。さあ、私と花札でデュエルしてください!」
「……いいだろう」
並んでいた男子達が俺のために場所を空けてくれる。そして俺はひばりちゃんの前に立つ。
「ルールは?」
「最初は普通に花札ですよ。それが終わった後に花札で遊戯王です」
「……訳分からん」
俺の場合花札のルールすら分からないんだけどな。

「う、」
15分後。床に膝を折ったのはひばりちゃんだ。
「せ、先輩強すぎません?」
「小学生時代最強のデュエリストだった俺に勝てるわけないだろ?」
と言うわけで小夜子を解放する。
「に、兄さん!!」
「あー、よしよし。ひばりちゃんが少しだけ調子に乗ってたな。てかひばりちゃんも花札詳しくないって言ってたしデュエマ部分で補ってなかった?ってかこのルール花札必要か?」
「う!」
「……これに懲りたらまあ、いつか俺と普通にデュエルだな。互いによく分からない花札部分はカットして正々堂々やろう」
「……お姉ちゃんに勝ちたかったのに」
「ん?」
「あ、いえ。何でもないです。小夜子ちゃんもごめんね」
「ま、まあ、ひばりちゃんは調子乗る時すごいの知ってるから……」
「う!」
2段階にへこんだひばりちゃん。
「……花札やるスペースとその他カードゲームやるスペース用意したらいいんじゃないのか?」
「……それだ!!」
俺の提案にひばりちゃんや男子達が一斉に声を上げた。

2001/10/9(火)
朝起きた俺は違和感に気付いた。
「……」
隣りに小夜子がいた。普通に寝ていた。けど、このその顔を見るたびに生まれるメチャクチャな違和感。俺の服が寝相以外で特に乱れていない状況。
「お前、ファンタズマか?」
「……ん、」
俺の声を聞いて隣の少女が目を覚ます。
「……兄さん?あれ、僕は……」
「僕って事はやっぱりファンタズマかお前」
「……いい加減その名前やめてくれないかな?僕には柏木小夜子って名前があるんだけど。ふわ、」
あくびをしながら上体を起こすカシワギサヨコ。その名前は小夜子がうちに引き取られる前のものだ。3年前の世紀末に起きたあの事件よりもっと前のものの筈だが。
「なんでその名前……?つか何しに来たんだよ。なんで寝てるんだよ俺の隣で」
「兄妹が一緒に寝て何が悪いの?今僕の部屋はあの偽物が使ってるみたいで気持ち悪いし」
「……ちょっと前に俺にあんなこと言っておいて添い寝かよ」
「嘘は言ってないよ。兄さんが偽物の妹を愛でている間は、兄さんが鈴音お姉ちゃんのために世界をねじ曲げている間は、兄さんに未来なんて大層なもの訪れるわけないじゃんか」
カシワギサヨコはベッドから立ち上がり、魔法か何かで一瞬でパジャマからいつものような黒衣へと装いを変える。
「……こっちの方がいいかな」
すると、カシワギサヨコは杖のようなものを軽く振るうと、黒衣の姿から俺の中学の女子の制服へと一瞬で装いを変えた。こうしてみると違和感以外は小夜子……長倉小夜子のそれとうり二つだ。俺じゃないと見分けがつかないだろう。
「いや何でその格好」
「今日は文化祭でしょ?やっと中学生になったんだし少しは楽しみたいもの」
「え、学校来るのか……!?」
「僕が学校行っちゃいけないの?まさかと思うけど兄さんはあの偽物を庇ってるとか?それとも僕のことが嫌いになったとか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……ただ、小夜子が、もう一人の小夜子も学校行くんだぞ。鉢合わせになったらどうするんだよ」
「知らないよ。偽物の事なんて。邪魔なら消せばいいんだし」
カシワギサヨコは杖をあげる。何をどうするのかは想像もつかないがあまりいい雰囲気ではなさそうだ。
「……文化祭に来るのは百歩譲っていいとしても、あっちの小夜子に危害加えるのはやめてくれ」
「……どうしてあの紛い物を兄さんは庇うのかな?えっちなことして情が移っちゃったとか?勘弁して欲しいな、僕は別に近親相姦なんて望んでないんだけど。って言うか正直勝手に人の名前と顔を使って兄さんとえっちなことなんてしないで欲しいんだけど。もし子供とかできちゃったらどうする気?あの紛い物は」
頬を膨らませて視線を鋭くするカシワギサヨコ。その仕草は昔の小夜子そのものだった。
「大体義理とはいえまだ12歳の妹相手に何してるのかな兄さんは」
「そ、それは……」
「言っておくけど僕がちゃんと復活出来てもそんなことはしてあげないんだからね」
そう言うとカシワギサヨコは部屋を出て行った。
「お、おい待て……」
慌てて追いかけて部屋を出るがもうすでにその姿はなかった。相変わらず神出鬼没な奴だ。「どうしたの兄さん?」
声。振り向けば部屋から小夜子が出てきた。パジャマ姿で目をこすっている。長倉小夜子の方で間違いないようだ。
「い、いや、何でもない……」
「……?もう、文化祭が始まるからって早起きしちゃうなんて子供なんだから兄さんは」
あくびをしてからまた小夜子は部屋に戻った。部屋の時計を見ればいつも起きる時間より2時間以上も早かった。
「……夢ってことにして寝るか」
数秒考えて出した結論だった。

登校した俺はと言うか俺のクラスのメンツは荷物を教室に置いてから体育館へと向かう。あれから一日でどうなってるか皆気になって仕方がないようだ。
「……おお、」
昨日の時点でそこそこ形になっていたが今ではほとんど完成と言っていい状態だった。
「まだ内装工事が終わってないからこれ以上は中に入れないんだって」
鈴音が張り紙を見る。俺も一応見ておくと確かにそう書いてあった。
「この段階になって中に入って様子が見れないのはもどかしいな」
「でも、もう最終段階に入ってるんだから安心できる証拠よ。業者さんを信じて待ちましょう」
「そうだな。……それまで何してようか」
夢であってほしいと無茶な願いをしていたがカシワギサヨコもたぶん学校のどこかにいるんだろう。先にあいつを見つけておくか?けどあいつ魔法みたいなものですぐどこか行っちまうもんな。あの様子だといろいろ見て回るつもりではあるだろうが、悪戯などはしないだろう。それでも同じ顔が二人いるのはまずい。
「……噂の双子が二組になりそうで怖いな」
仮に小夜子と鉢合わせた時とか二人を見てしまった時のためのいいわけを考えながらカシワギサヨコを探す旅に出ることにした。
「……いろいろやってるんだな」
ついでにいろいろな教室も見る。小物を作って売るところもあり、毛糸を使って帽子を作るとかってのも出来るらしい。
「あれ、お兄さんだ」
俺の顔を覚えているらしい後輩から声をかけられた。
「俺のこと?」
「はい。さっき妹さんが来ていたので。妹さん普通に歩くことも出来たんですね」
「……お、おう、何作ってた?」
「毛糸の帽子です」
「……あんがとさん」
あいつだな。多分顔を隠すための帽子だな。小夜子への配慮とかじゃなく、単純に面倒なことになるのを隠すための準備だろう。
とにかく、毛糸の帽子で顔を隠している奴を探すか。
「あ、長倉先輩。さっき妹さんがビーズでアクセサリー作ってましたよ」
「長倉先輩。さっき妹さんが焼きそば食べてましたよ」
「おっす大悟。さっき小夜子ちゃんが障害物競走出てたぞ。普通に陸上競技できるんだな」
あいつ、どれだけエンジョイしてるんだ?まあ、誰かと接するなんてたぶん俺以外になかっただろうしあっちの小夜子だけじゃなくあいつにとってもこれが初めての文化祭。学校のイベントなんだ。我慢させるつもりはないけど、あっちの小夜子とニアミスしないように出来れば俺の目の届く範囲で遊んでいて欲しいんだけどな。てか本人に対してどう説明しよう。
「あ、兄さん」
とか何とか言ってると1年生の教室がある廊下。プカプカ浮いている小夜子と遭遇した。
「兄さんのところってもう出来た?」
「いや、最終調整らしい。多分午後には遊べると思う」
「そうなんだ。楽しみ」
「……小夜子は参加できるのか?」
「どういうこと?」
「いや、迷路だし。浮いてるとちょっとな……」
天井の高さにもよるが流石に物理的に浮いている奴が迷路に挑戦するのは少しチートなような気もする。
「大丈夫だよ。ひばりちゃんと一緒に行く予定だから。手繋いでてもらうんだ」
「それはよかったな」
女子が二人手を繋いで迷路に参加か。微笑ましい光景になりそうだ。
「兄さんも私のところに来てよ。ひばりちゃん改心して普通にカードやってるからさ」
「改心ね……」
そんな大げさな話でもないとは思うがまあ、明日以降いくらでも見て回る機会はあるだろう。「ん、」
小夜子と一緒に廊下を歩いていると、前方。人だかりの中に毛糸帽で顔を隠している女子を発見した。見慣れた異国風のマントが風に靡いている。つまり、あいつだ。
「……」
「どうしたの?兄さん」
「あ、いや、その、」
どうしよう?いざってなったら俺は小夜子にあの小夜子をどう説明したらいいんだ?ってかあっちの小夜子がこっちの小夜子を知っているようにこっちの小夜子もあっちの小夜子を知っているのでは?……いや、あまり都合よく考えない方がいい。下手をすればパニックだ。文化祭どころじゃない。説明求められて俺がそれに素直に答えちまったら下手すれば文化祭自体がなくなってしまうレベルだ。さて、どうしよう……
「変な兄さん。そうだ。あっちで毛糸の帽子作ってる教室あるんだって。そろそろ肌寒い季節だし行ってみようよ」
「え、いや、あっちは……」
かけだして空を飛ぶ小夜子。慌てて追いかける。小夜子が言ってるのはさっきあっちの小夜子が行った可能性が高い。クラスの奴が迂闊なことを言ってしまえば大変なことになるぞ……!
「そ、それより、」
「ん?」
「俺、腹が減ったんだ。何か食べに行かないか?」
「え、まだお昼前だよ?朝ご飯食べなかったっけ?」
「さっきからいい匂いばっかしてるだろ?ついつられてな」
「……まあ、少し早いけどいっか。じゃ、どこ行く?何おごってくれるの?」
「何で俺がおごること前提なんだよ……」
まあ、あっちの小夜子と遭遇しないなら今は何でもいいや。
「………………」
小夜子の手を引いてそこから離れる俺の背中を見ている視線があった。俺はそれに気付かないふりをしてその場から去ることにした。

午後。ぴったしとまでは行かないが2時くらいにはうちのクラスの工事が終わり、いよいよ俺達のクラスも文化祭を始めることが出来るようになった。出し物を開始する前に何人かで一度迷路の中を見てみることにした。
「……」
天井は高いが、小夜子ならチート出来そうな隙間はある。と言うか、水鉄砲サバゲーもやることが確定しているのか壁に小さな穴がある。そこから水鉄砲で相手を撃てって事なんだろう。よく間に合ったな、一週間経ってないのに。
「ほほうほうほう、ここがお隣さんご自慢のダンジョンか」
迷路から出ると、入り口に黄緑が並んでいた。
「黄緑、来たのか」
「駄目だった?」
「いや、ただまだ中身をクラスの連中で見ている段階だ。1時間くらいしたら挑戦できるんじゃないか?」
「まだ1時間かかるんだ。午前からちょくちょく様子を見に来てたんだけどな」
「悪いな。近くにいれば予約扱いで開店と同時に入れてやるから待っててくれ」
「オーケー」
そう言って黄緑は体育館前の廊下に座り込んでどこから出したのか一冊の本を読み始めた。自由な奴だな。
「どれどれ……」
何の本を読んでいるのか覗いてみる。文字ばかりだから小説だろうか?
「あ、こら。これは見ていいものじゃないよ?」
「何だエロ本か?」
「……まあ、ある意味否定は出来ないんだけど」
「おいおい、マジかよ」
「ただ、趣味がちょっとあれだから。僕も好きで読んでるわけじゃないし」
「どういう意味だよ……」
何か踏んではいけないスイッチ踏みそうな気がする。ある意味エロ本を好きで読んでいるわけじゃないって。
「何かそういうバイトでも見つけたのか?」
「中学生だからバイトは出来ないよ」
「まあそうだけど」
バイトか。確かに来年からは高校生だから出来るようになる。やってみたいなって気持ちはあるが、別に金に困ってはないんだよな。
「そ~っと、」
小夜子が黄緑の読んでる本を読もうとするが、黄緑は隠した。
「駄目だよ妹ちゃん。これはまだ君には早い」
「そ、そう……」
「小夜子。一応念のため客が入る前に小夜子も中に入って見てみてくれ」
「え、もう入っていいの?」
「遊ぶわけじゃなくて浮いている小夜子でも安全に遊べるかどうかの確認だ。……チートできるかの確認でもあるがな」
「ふうん?まあ、いいけど」
小夜子の手を引いて体育館ダンジョンへと入る。迷路だけあって照明が薄暗く、壁伝いに歩かないと別の意味で迷いそうになる。迷路としてはいい雰囲気だ。
「じゃあ小夜子」
「分かった。……離さないでよ?」
「分かってる」
犬のリードを小夜子の首につけてから小夜子が天井に向かって浮上していく。
「……壁の高さは……まあまあか。でも、何か物投げたら危ないかも」
見上げれば小夜子は大体5メートルくらいの高さにいた。天井がない壁の縁に足をかけて周りを見ている。薄暗い照明だがあれだけ照明に近ければ眩しいし、暑いだろう。
「う~ん、すぐ近くが眩しすぎて、向こうが薄暗くて見づらいな」
小夜子が周囲を見渡す。うっすらとしているが、天井から見ているだけあって端の方まで形がよく分かる。壁の高さは均等。十分な高さだから小夜子がちょっと跳んだだけでは届かないだろう。
「……これなら大丈夫かな?」
壁の上辺を歩く。重力に逆らっているため足を滑らせたとしても転落することはない。足場さえあるのならどこまでも高い空を歩いて行ける。そのためか小夜子は高いところに恐怖はあまりなかった。……今日この時までは。
「え……!?」
壁の上辺から上辺に飛び移ろうとした時だ。足を滑らせた。それだけなら何も問題ない。落下はおろか転倒してけがを負うこともない。だが、
「痛っ!」
通常の転倒と同じように小夜子は転び、頭から足場にたたきつけられた。
「な、何で……!?」
頭をさする。と、その手が何者かに押さえつけられた。
「動くな」
「……!」
声。自分のそれと全く同じ。故に振り向くことが出来ない。
「お前は世界に弾かれた偽物だ。そのお前が世界に認められつつある。喜べ、もう僕より高く跳ぶことは出来ない」
「……」
「だが、お前は自分の足で自分を支えられない不完全な命だ。風船みたいに無意味にプカプカと浮いていればよかったのに」
「……じゃあ今度はあなたが風船になるのかな?」
「……」
押さえる手に力が入る。爪が肌に食い込んで血が滴る。
「くっ、」
「虫は空を飛んでいるよりも地を這いずっている時の方が潰しやすい。這いずることも出来ない虫ならわざわざ潰す価値もない。……中身のない風船の分際で精々自分の重さに足掻くんだな」
次の瞬間。小夜子は蹴り落とされた。

「小夜子!?」
手に持っていたリードに突然力が入った。上の方は暗くてよく見えない。けどこの感覚は知っている。凧揚げが木の枝に絡まって地面に落ちた時のあれだ。
「あいつ、墜落したのか?まさか……!?寝てる時だって重りがないと天井に張り付いてる奴だぞ!?」
壁を登って様子を見に行きたいけど流石に無理だ。けど、今このままリードを持ったまま探すのも難しい。もっと絡みそうで怖い。
「誰か他に来てくれたらいいんだけど……」
それも難しい。壁が邪魔して体育館の外にまで声が届かないようになっている。鈴音辺りが異変に気付いてくれるといいんだが。
「……」
リードを見る。今、これが小夜子の命綱になっているとしたら?小夜子と唯一繋がっているものだとしたら……?それが、小夜子にとって悪影響を与えているものだとしたら?
「どうすればいい……!?」
動かなきゃいけない。でも動けない。リードを持ったまま動けば余計に絡まってしまうかも知れない。もしかしたらリードは今小夜子の首を絞めているかも知れない。そのまま動けば余計に締めてしまいかねない。どうしたら……!!
「…………」
壁に手を伸ばす。何故そうしようと思ったのかは分からない。だけどこれしかないって俺は確信した。
「……今、ここでもう一度……」
「駄目!!」
と、そこへカシワギサヨコが飛来した。
「お前、どうしてここに……!?」
「そんなことどうでもいい!それよりまたそんなことしたらどうなるか分からないよ!?」
「……あいつを助けるためだ」
「どうして!?どうして僕よりあの偽物なの!?世界に弾かれて風船みたいに浮かぶしか出来ないあの偽物が……いまはもうそれすら出来なくなってるあの不完全な柏木小夜子が、長倉小夜子がそんなに大事なの!?
「……勘違いするな。俺にとってはあいつもお前も大事な妹だ!」
俺はリードをカシワギサヨコに預ける。
「……正気じゃない」
「家族のためなら世界もねじ曲げる。それがお前の兄貴だ。お前が一番よく知ってるだろ?」
そうして俺は走り出した。小夜子を探すために暗闇の迷路を。

「……」
僕は預けられたリードを握る。わずかに伝わってくる重り、揺れる感覚。それはすべてあの地を這いずる偽物に繋がっている唯一のもの。僕が突き落とした偽物。不純物。
でも、兄さんはあの偽物まで妹だと思ってる。優しいなと思う反面、気に入らなかった。
「……暗闇の中、誰にも気付かれないまま重さに耐えられずに死ねばいいんだ。……いいはずなのに」
僕は跳んだ。カシワギサヨコという存在はどちらも世界から弾かれている。真っ二つになって弾かれた。僕の方が本物の、柏木家に生まれて長倉家に引き取られた小夜子だ。
「……」
壁を越えて暗闇に立つ。そこに偽物はうずくまっている。やはり自重に耐えられずに立ち上がることさえ出来ない。
「……な、何しに来たの……!?」
恐らく怒りを帯びた視線は暗闇で届かない。僕もそんなものはどうでもいい。
「助ける義理がない」
「……」
「けど今のところお前が死んだら僕がどうなるのか確実なところは分からない。だから、」
手に持っていたリードを離す。うずくまっている偽物の足下にそれは落ちる。
「殺しはしないけど、死ねばいい。それだけだよ」
それだけ言って僕は飛び去った。

「小夜子!」
迷路を走ること数分。前もって地図は配られたが本番で楽しみたいからと読んでなかった。だからこんなに迷ってしまった。けど、ちゃんと小夜子はそこにいた。
「小夜子!大丈夫か!?」
「兄さん……」
小夜子は床にうずくまっている。よく見たらリードの持ち手があった。つまりカシワギサヨコはさっきまでここにいた……?ってことは二人の小夜子が……!?
「どうしたんだ!?まさか落ちたのか!?」
「そ、そうみたい……何でか知らないけど浮かないの……」
「浮かないって……」
小夜子の腰に手を回して持ち上げる。相変わらず軽い。軽いのだが、体重通りの重さだ。いつもならそれこそ風船のように軽いのに。
「重力に負けている……?」
「……あいつは世界に認められたとか言ってたよ」
「……」
あいつ。つまりカシワギサヨコ。それを確認したかったけど、何故か俺の口からはその言葉が出てこなかった。

文化祭は始まった。が、俺は学校にはいなかった。小夜子を病院に連れて行ってるからだ。
元々医者からは何故浮くのか分からないと言われていた。俺も詳しくは分からない。カシワギサヨコの言葉を信じるなら恐らくあの日まで一人だった小夜子から分裂した存在で、難しいことは分からないけど世界から弾かれているからだと思う。
で、そんな小夜子が浮かなくなった。その原因は多分医者に診せても分からないだろう。今回のメインとしては落下による怪我の確認だ。天井近くから転落したんだ。もしかしたら骨折とかもあるかも知れない。ただでさえ小夜子はこれまで地に足ついて歩いていなかったのだから骨が脆くなっていてもおかしくない。
「……」
「あ、姉さん」
廊下で待っていると、姉さんが大急ぎで走ってきた。学校を早退してきたのだろう。
「……あの子は?」
「今レントゲン撮ってるよ。もしかしたら骨折してるかも知れないし」
「……そう」
姉さんは隣に座る。息を整えてからレントゲン室のドアを見た。やがて松葉杖で全身を支えながら小夜子が出てきた。
「あ、お姉ちゃん」
「……」
姉さんは小さく微笑んでから小夜子を優しく抱きしめた。
「ちょ、今やっとバランス持ってるんだから危ないよ……」
「大丈夫。お姉ちゃんが支えてるから」
「……お姉ちゃん」
抱き合う二人。血は繋がってないけどちゃんと姉妹だって事だ。
だからこそ、こうなってしまった以上はしっかり決着をつけないといけない。
「小夜子、骨折とかはどうだった?」
「大丈夫みたい。私、ほとんど足の筋力ないからこうしてないと立てないんだけどね」
小夜子が松葉杖を見せる。まあ、足が折れてるから松葉杖ってイメージは強いと思うが。
「本当に浮けないのか?」
「……うん。今までどうやって浮いてたのかも分からないし。逆にどうやったら歩けるのかも分からないや」
今まで重りをつけて地面を歩いていたのは足の筋肉とか体幹とは無関係なものだ。足を骨折した人がリハビリとしてプールの中で歩く事もあるらしいが、この時足の筋肉や膝関節はほとんど使われていない。それと似たようなものなのかも知れない。
それから、外科医からの診断結果を聞いて俺達3人は帰宅する。ちなみに診断結果と言っても打撲とかそういうものだけだ。突然浮けなくなった理由は見当もつかないらしい。
「ふう、歩いて疲れるなんて初めてかも」
帰宅してリビング。ソファに座る小夜子は大きく息を吐いた。それを見てワニ達が騒ぐ。どうやら浮いていない小夜子に驚いているようだった。
姉さんが冷蔵庫からオレンジジュースを出してコップに入れる。俺はそれを取って小夜子に渡す。
「落とさないようにな」
「ありがと」
両手で受け取った小夜子は恐る恐るコップに口をつける。どうやら腕の筋肉はまともに機能しているようだ。
「さて、これからどうする?」
「これからって?」
俺の言葉に気怠げに小夜子が返す。
「文化祭どころじゃない。このままじゃ日常生活だって難しいだろ」
「そうだね……。どうしよ」
結構厳しい状況にも関わらず小夜子の反応は乏しい。呑気なんじゃない。心身的に疲れ切っているんだろう。無理もない。俺達で言うなら突然自分にかかる重力が何倍にも上がったんだ。
「……今は休んでて」
姉さんが小夜子の頭をなでる。
「うん……」
テレビをつけて小夜子がぐったりしながら放送されていたテレビを見る。その小夜子を見ながら俺は姉さんと一緒に台所の方へと向かう。
「どうする?」
「……今は様子を見るしかない。時間はかかると思うけど筋力が人並みに戻るまでの間だから」
「……そうだな」
確かに今はかなり体調が悪そうに見えるけど、冷静に考えたら少しずつ普通に暮らしていけば筋肉も戻っていくだろう。空に浮くことのない普通の人間に戻るだけだ。

「どうして!?どうして僕よりあの偽物なの!?世界に弾かれて風船みたいに浮かぶしか出来ないあの偽物が……いまはもうそれすら出来なくなってるあの不完全な柏木小夜子が、長倉小夜子がそんなに大事なの!?」

「……」
あのカシワギサヨコの言葉を思い出す。

「俺には分けて考えることが出来ないだけだよ」