D.C.IN Mygarnet3章「あしたを許して」前半
・音も光もない更けた夜。真っ暗な部屋で肩を上下させる少女の姿があった。
必死に唇を噛みしめて声が出ないようにしても、心の奥底から溢れ漏れ出る感情を殺すことは出来なかった。
震えた指でスマホの画面を操作する。
「……」
アドレスを入力し、相手を待つ。電話に出て欲しい気持ちと出てこないで欲しい気持ちがない交ぜの中で。
「……赤羽か?どうした?」
幸か不幸か相手はすぐに出てきてしまった。
「……甲斐さん……ごめんなさい……私……」
「どうした?赤羽、何があったんだ……?」
必死に涙をこらえても絞り出す声と共に涙もまた溢れ出る。
「私……私……あの子を守れなかった……」
「あの子……?」
「歌音さんを……あなたと久遠の間の子を、守れなかった……!!」
「か、歌音が……歌音が、どうかしたのか……!?」
「歌音さんが……な、亡くなられました……」
「……ま、まさか……一体何があった!?今すぐ日本に向かう!」
「待ってください……今は皆大変なんです……怜悧さんも……正輝さんも……」
「だからすぐに向かうって言ってるだろ!」
その声を最後に電話が切れる。
「……っ!!」
相手のいなくなったスマホを手に少女は震える。堰き止めきれなくなった感情の瀑布が嗚咽と激情とを触れ回る。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私は、3回も守れなかった……久遠……久遠……!!」
「……」
ドアの向こう。せつなが息を潜めて暗闇に俯いていた。
それは半日前。2040年9月下旬の頃。すっかり肌寒くなってきた秋の頃合。
「……ま、正輝……」
放課後。怜悧が作り出した歌音そっくりのロボットが慌てて正輝と翼を追いかけてきた帰路。
「……どうした?」
正輝は振り返り、声を振り絞る。目の前の少女が偽りになって一ヶ月以上経つが未だどう対応したらいいか分からない。
「……」
翼もまた彼女の姿を直視できずにいた。しかし、今彼女の様子が明らかにおかしいことには気付いていた。
「お、オリジナルからの反応がなくなってたの……」
「……は?」
「僕、12時間に1度はオリジナルの馬場歌音寺とpingでもいいから連絡を取り合うように怜悧から言われていたの……、昨日まではちゃんとオリジナルからの信号を受信できてた……でも、さっきやったら信号が送信できなくなってたの……受信も出来ない……!!」
「……どういうことだ……?」
正輝は頭を整理する。夏の始まり頃にやってはいけない罪を犯した本物の馬場歌音寺は甲斐機関東京支社ビル跡の工場に幽閉されていた。機械で出来た肉体に必要な電力だけをケーブルで供給し、死なないようにした状態でこのコピーロボットから送られてくる偽物の馬場歌音寺の生活風景をリアルタイムで受信し続けるという怜悧からの厳罰。正輝は正直やり過ぎだと思っていたが、怜悧から次の休みの日にでも解放してやろうという提案があって少しだけ安心していた。
だが、そのオリジナルの歌音からの反応が途絶えたとはどういうことだろうか?
「電波の状態が悪いとかか?」
「そんなんじゃない……あの工場にいる他の電源が入ってすらいないロボット達の信号だって僕には分かるのに、その中にオリジナルの反応がないの……!!」
「……それって、」
「……本物の歌音ちゃんに何かあったって事?」
翼の言葉に正輝が振り向き、表情と思考を凍らせる。
「何かって……何が……」
無意識に呟いた時だ。
「正輝さん!」
すぐ近くをやや通り過ぎた車から結羽が顔を見せた。
「結羽!?」
「すぐ乗ってください!」
ドアが開き、3人が迷うことなく車に乗り込んだ。
「出すぞ」
雷歌がアクセルを踏み、車が勢いよく走り出す。
「何があったんだ?」
「2件報告したいことがあります」
結羽がタブレットを見ながら続ける。
「まず、今から4時間ほど前に甲斐機関本社にあるロボット倉庫のドアが破られてその、」
結羽が一瞬だけロボット歌音の方を見る。そして、続ける。
「オリジナルの歌音さんが逃げ出しました」
「逃げ出した!?どうやって……!?」
「未確認ですが、補給していた電力で故意に自分自身のバッテリーを暴走、その爆発を利用してドアを破ったと考えられています」
「……そんなことしたらあいつは……」
「……実際に倉庫から逃げ出した時点で馬場歌音寺に残された電力はほとんどない。バッテリーも手足もデッドウェイトでしかない。恐らくそう遠くまで行けないし、長くもないだろう」
雷歌が代わりに答える。
「……そして、もう1件ですが、これは街のスクラップ工場からの連絡なんですが、本日お昼頃に1体のロボットらしき物体を回収したそうです……」
「それが歌音なのか……?」
「…………ですが、その、」
言い淀む結羽。それを見て雷歌が続けた。
「……対象は妊娠していた上にロボットにも人間にも見えなかったそうだ。第一発見者の通行人が言うには妊娠したように見せることの出来るダッチワイフ……つまり性欲処理用の悪趣味な人形だと勘違いしていたらしい」
「……それって……」
正輝と翼の疑問の表情、それに対してロボット歌音が告げる。
「オリジナルの馬場歌音寺は妊娠していたんだよ。……正輝との子を」
「……え」
翼が表情をなくす。それに気付かぬまま正輝は続ける。
「ま、待ってくれ!それであいつは、歌音はどうなったんだよ!?」
「……今俺達はその工場に向かっている。だが、恐らく期待できない。到着したら俺が先に様子を確認しに行く。しかしそもそも工場から連絡があったんだ。甲斐機関製のロボットが血を流していると」
「……それは、」
「赤羽美咲も矢尻達真もタイミングが悪いのか連絡がつかなかった。甲斐怜悧とは現場で落ち合う予定になっている。……お前達は車の中で待て。いいな?」
雷歌の念押し。正輝達は何も言えないままやがて、スクラップ工場へとたどり着いた。
「……」
「おい、」
雷歌が降りようとした時、正輝もまた車から降りた。
「聞いていなかったのか?お前達はここにいろ」
「……いや、俺にも責任があるかも知れない。だから、」
「……どうなっても知らないぞ。結羽、お前はここに残ってこの二人を」
「……うん」
「……行くぞ」
雷歌と正輝が歩いて先に進んだ。言葉のない夕暮れ。外に吐き出せる状態でない感情が内々から燃え上がってまだ何も起きていない目にしていないにも関わらずに既に嘔吐しそうな気配がある。
「……」
それを無理矢理飲み込み、正輝は来るべきそこへたどり着いた。
「いやぁ、すみません。一般人からの通報がありまして……」
スタッフと雷歌が何かを喋っている。いまいち理解が出来ない。
「こちらです」
スタッフの手招きに雷歌は一瞬だけ正輝を見てから先に進んだ。
そこは鉄分の匂いが充満していた。全ての機械は今動作を止めているが薄暗い部屋で今にも動き出しそうな重量感がいつもなら恐怖を感じたかも知れない。だが、正輝も雷歌も少しだけ鉄の匂いの中に金属以外のものが混じっている事にすぐに気付いた。
「……」
「こちらなんですが、どういう感じなのでしょうか……?」
「見ておく。外してくれ」
雷歌がスタッフを離れさせる。その視線の先。粉々になった物体があった。多くは金属だった。だが、血塗られた肉片も確かにあった。作り物ではない髪の毛や服の残骸も。
「……あ、あ、」
正輝が先に進む。金属片と肉片の中に見覚えのある布があった。それは歌音が普段左目を隠していた眼帯だった。
「ああああ……ううう……うあああああああああああ!!!」
眼帯を掴み、床を何度も殴る。雷歌が止めようとした時。
「……」
そこへ怜悧がやってきた。
「……これってまさか……」
「怜悧、見ない方がいい」
「……あれが、歌音……」
怜悧の目の色は見えない。正輝にはよく見えなかった。
「……何で……」
「姉さん……歌音が……」
「…………」
怜悧が後ろを向き。歩き出し、やがて走り出した。
「……先に車に戻っていろ。スタッフに伝えてくる」
「…………」
雷歌が青い顔をしているスタッフの方へと向かい、何かを伝える。懐から札束を取り出して押しつけた。
「……行くぞ」
雷歌が正輝の背を押した。
駐車場。車の外には怜悧がいて、腕を組んで目を閉じている。
「……あ、」
正輝達が見えると、ロボット歌音が車から降りてきた。
「正輝!お、オリジナルは……?」
「……」
正輝は血塗られた眼帯を見せた。
「……そ、それは……」
「……あいつが付けてた奴だ……」
「……そんな、」
ロボット歌音が膝から崩れ落ちる。正輝はそれを咄嗟に抱き留めた。
「……僕、僕はどうしたらいいの……?僕は、馬場歌音寺の偽物、間に合わせのロボットなのに……。その馬場歌音寺だって甲斐怜悧の影武者にすぎなかった……じゃあ、僕は、僕は、」
「……お前にはあいつが過ごせなかった未来があった。今日まで過ごした時間は姉さんにも歌音にもないものだ。お前は……お前だよ」
「じゃ、じゃあ……僕は、い、生きてていいの……?これまで通りに……馬場歌音寺として生きてていいの……?」
「……ああ。だってお前は、」
その時だった。正輝と目線を合わせていた少女の目が何も映さなくなった。
「……え?」
3回目の景色に凍った正輝へロボット歌音が倒れてきた。途端に消える温もりと鼓動。服の色から感じる重みは既に人間のそれではなく、物体だった。
「……じゃあ、これももう用済みだよね」
視線の先。怜悧がいた。手にはスマホが。
「ね……えさん……?」
「そりゃ歌音がああなったんだから、これにも暴走しないようにアプリで監視するのは当然でしょ?いつでも機能を止められるようにするのも当たり前じゃない。……馬場歌音寺はもう死んだんだから」
冷たい目でアプリをアンインストールする怜悧。片手でロボットの体を持ち上げて車のトランクに放り投げる。
「ま、待てよ……」
「……」
立ち上がった正輝を怜悧は感情のない目で見た。
「何?」
「姉さんは……姉さんはおかしいだろ!!何で、何でこんなことが出来るんだよ!あいつも、その子もどうしてそう簡単に殺してしまえるんだよ!!体も心も!!」
「……おかしいのはあんたよ。歌音はテロを起こした。私達の事をマスコミに話した。ライブをすると言って人を呼んでは爆破テロで全部吹っ飛ばした。あんた、あのテロで何人死んだか知ってるの?私達だけで私刑にするなんて甘かったのよ。その上で無理矢理逃げ出して力尽きて、文字通りのスクラップ。罰が当たったのよ。これも、もう役目を果たしたんだからいらない。それで何かおかしい?」
「何もかもだ!!」
怜悧に殴りかかる正輝。だがその拳は簡単に怜悧に止められ、次の瞬間には怜悧の右足が正輝の胸にたたき込まれていた。
「ぐっ!!」
ただの一撃で正輝は血反吐を吐き散らし、そのまま意識を失った。
「……」
怜悧は何も言わずに正輝を片手で持ち上げて車の中に放り込んだ。
「……」
翼が何も言えないままこちらを見ていた。
「……何?」
「………………ううん」
「……結羽、雷歌。出して」
「……分かった」
俯く結羽。雷歌は運転席に戻り、車は工場を後にした。
夕暮れの黒主家。赤羽、達真、せつな、アリスが待ち構えていた。
「ただいま」
車が止まるとすぐに怜悧が家の中に向かう。
「待て、怜悧」
達真が声をかけるが、
「……ごめんなさい。気分が悪いからもう休みます」
目線を合わさずそれだけを言い残すと怜悧は自分の部屋へと走って行った。
「……正輝?」
既に目を覚ましていた正輝に翼が声をかける。
「…………」
正輝は今自分の表情が分からなかった。ただ、車から降りると、
「大丈夫?」
翼がその肩に触れた瞬間。脳裏に明美、翼、歌音の姿が浮かび、その目から光が消えると、
「うわあああっ!!!」
「え、」
翼の手を払い、正輝が尻餅をつく。
「……正輝……?」
「はあ、はあ、はあ……!!う、うええええっ!!!」
そして茂みに向かうと嘔吐した。
「……何があったのですか?」
赤羽と達真の目が雷歌に向けられる。
「……馬場歌音寺が死んだ。バッテリー切れで公園に倒れていたところスクラップ施設に通報されてそのまま……」
「……え、」
「……っ!!」
「影武者ロボットとして用意された方の馬場歌音寺も怜悧によって機能が停止された。制御アプリもアンインストールされた以上、二度と目を覚ますことはない。……このまま回収させてもらう」
「……そうか」
震えながら俯く赤羽に代わって達真が雷歌と何かしらのやりとりをする。正輝も赤羽も翼もそれ以上何も分からなかった。
「……正輝……」
せつなが嗚咽を繰り返す正輝に触れようとするが、翼がそれを止めた。
「翼……?」
「……せっちゃん、たぶん、僕達は……」
「……?」
理解できないせつな。が、ふたりの話を聞いていた達真が雷歌を遮り、正輝の背に手を置いた。
「正輝、今は休むんだ。何も考える必要はない」
「………………はい」
正輝を優しく起こし、共に部屋まで連れて行く達真は一度だけ雷歌や翼に目配せをした。
「……あの、何が……」
未だ理解に届かないせつな。アリスが聞き耳を立てながら正輝の吐瀉物を掃除し始める。その中雷歌が語る。
「……恐らく正輝は、今女性と関われない。ここ最近何度も女性の死に顔を目の前で見てきた事になるからな」
「……え、」
「……ごめんね、せっちゃん……」
せつなの胸に翼の顔。
「僕が……あの日に正輝を守れなかったから……歌音ちゃんを救えなかったから……ごめんね……」
「…………」
翼の涙。せつなは表情を作れなかった。
翌朝。
「……あ、」
アリスが起きてメイド服に着替えてリビングに来るがそこには誰もいなかった。いつもなら赤羽や正輝、怜悧がいるはずなのに誰もいない。
「……あ、」
しかしわずかに玄関で音がした。
「怜悧様!」
慌てて向かうと、ドアを開けようとした制服姿の怜悧がいた。
「……ん、行ってくるね」
「あの、ギターは……?」
「……もう必要ないから」
そうして振り返ることなく怜悧は家を出て学校へ向かった。
「……」
「アリス」
「せつな様、」
振り向けばせつながいた。
「せつな様、怜悧様が……」
「……うん。行ったみたい」
「……私、どうすればいいんでしょうか……?」
「……アリスはよく頑張ってくれてるよ」
「でも……」
「……正輝も姉さんにも美咲さんにも今は時間が必要なんだ……」
「……はい」
ふたりがリビングに戻る。赤羽と正輝の分も含めて朝食を作り始めた。
「せつな様が……?」
「うん。私にも何か出来ることないかな……って」
そしてせつなはアリスを遙かに上回る手際の良さで朝食を作り始めた。
(……お料理を作るなんてしばらくぶりなのに手が覚えてる。私、もしかしてそんなにつらくなかったのかな……?)
やがて、食卓が整う。しかしまだふたり以外はリビングにいない。
「……私、正輝起こしてくる」
「え、でも……」
「大丈夫だから。美咲さんをお願い」
「……はい」
二手に分かれる。せつなは惑いながらも正輝の部屋へと向かう。
「正輝」
ドア越しに声をかける。しかし返事はない。
「正輝」
再び声をかけるが、やはり返事はない。
「入るよ」
ドアを開ける。久しぶりに見る兄の部屋。明かりのない部屋。膨らんだベッド。
「正輝」
歩み寄ると、正輝は毛布で体を抱きしめたまま充血した両目で無を眺望していた。
「ま、正輝……!?」
「!せ、せつなか……悪い、どうした……?」
「あの、朝、だよ。もうご飯作ってあるから……」
「そ、そうか……ね、姉さんは?」
「もう学校に行ったよ。正輝もそろそろ行かないと……」
「…………」
目を閉じる正輝。そして、
「……悪いけど今日は……」
「…………うん、分かった。ご飯、出来てるから」
せつなはそれだけを軽い微笑みを伴って告げると正輝の部屋を後にした。ドアを閉じて少しを歩き、そして静かに涙を流した。
学校。翼は一人歩いていた。せつなから正輝が学校を休むことを伝えられたからだ。
(……正輝、どうして……どうして何も言ってくれないの……?)
スマホを握りしめる。既に何度も正輝にメッセージを送っているが、問題ないとしか返事は来ない。
「あ、矢尻さん」
「え、明坂さん?」
やがて、顔なじみに会った。明坂明美だ。正輝とは中学時代から水泳部での仲間。翼も少しだけ面識がある。
「おはよう!どうかした?あれ、正輝は一緒じゃないの?」
「……正輝は今日休みだって」
「そうなんだ。って事は今日も部活には来ないか」
「今日もって?」
「何だか最近正輝水泳部に来ないんだよね。代わりに馬場さんが来てくれてるんだけど……」
「……歌音ちゃんは、」
言うべきか悩む。この様子だとまだ学校側には歌音のことは何も言っていない様子だった。それにどこまで話していいのかが分からない。歌音の事情は本当に限られたものにしか伝えてはいけないだろう。
「ん?どうかした?」
「……ううん。何でもない」
「……?矢尻さん、何かあった?」
「大丈夫、だよ」
「……何かあったら言ってね」
「……うん。ありがとう」
やがて何を話すでもなく二人は学校へと向かった。
剣道場。静かに剣道部員達が稽古に努める朝練の時間。しかし今日は少し空気が違った。
「おい怜悧。何のつもりだ?あぁ?」
怒声。ぶつけられた先には背に地をついて荒い息をこぼす怜悧の姿。
「てめぇ、一学期の間はライブに専念させてくれって言ったよな?だから2学期になってからは部活に専念するって話だったはずだ。んで、3年生最後の大会が再来週に控えてる訳だ。で?その様は何だってんだ?あぁん!?」
振るわれた竹刀の一撃が倒れたままの怜悧をなぎ払い、壁を突き破る。
「ぐっ!!」
口元を拭い、瓦礫の中から立ち上がる怜悧。面を上げた先にいるのは剣道着姿。装具には心美の名前が刻まれている。
「はあ、はあ、も、もう一本!」
「立ち上がってきたって事は、どういうことか分かってんのかぁ!?あぁん!?」
やがて放たれた異常な一撃を怜悧はまともに受けることも出来ずに握りしめた竹刀が根元から折れて、怜悧自身も尻餅をついて倒れる。
「うううっ!!」
「雑魚が!!」
面が破壊されたその顔に相手からの唾棄。
「いつも弱い弱い思っていたが、今日のお前は竹刀を握る価値もねえな!!」
悪罵を垂れながら面を外す。その顔はどう見ても美女のそれだ。
「そんな奴は雑巾がけでもしてろ、クソが!!」
床に落ちていた雑巾を足で掴んでそのまま怜悧の顔に叩き付ける。
「……ごめんなさい」
汚れ濡れた顔で怜悧はただ謝ることしか出来なかった。視線の先にその相手を、剣道部部長にして生徒会会長である心美小翠を入れることは出来ずに。
今日この日、怜悧は明らかなスランプを迎えていた。実質的に実力では小翠に次ぐ筈なのに他の部員相手にも一度も勝利できていない。結局この日、怜悧はまともな剣道など出来ずに雑用だけをやった。
「……ん、弟君はいないのですか?」
生徒会室。先ほどまでの悪態とは打って変わって礼儀正しそうなお嬢様と言った風貌の小翠の姿がそこにはあった。
「今日正輝君は欠席です」
同じ3年生だが剣道部ではない副会長が返事をする。
「そうでしたか。もしかして怜悧が何か関係しているのかも知れませんね」
紅茶を啜るその姿は間違いなくどこかの令嬢だ。……男子の制服を着ている以外は。
心美小翠。3年生。その体は間違いなく女性なのだが、異常に発達した陰核が男性器に近い性質を持ってしまっている体質を持ち、それに引っ張られているのか自認が曲がっているのか自分を男子だと思っている。普段に関してはおっとりして丁寧口調な人物なのだがどこかたまっているものがあるのか、竹刀を握っていると先ほどのような悪罵まみれの大悪漢として振る舞ってしまう。
「怜悧さんもさっきクラスで少し見ただけですけど、何だか様子がおかしかったですね。もしかして風邪か何かで家族で大変なのかも知れません」
「風邪ですか。穏やかじゃありませんね。後で俺の方から様子を見に行っておきましょうか」
小翠に対して副会長は少しだけ心配をする。
(小翠会長、怜悧さんに対して厳しい部分あるけど竹刀持ってなきゃ平気かな?)
「いいんじゃないでしょうか?」
「分かりました。何か美味しいものでも持って行きましょう」
ニコリと笑う小翠はやはりどう見ても美少女だ。
「ん?」
放課後。何が出来るか分からないが黒主家へと向かっている翼。その先で見覚えのある背中を見た。
「あれって心美会長?」
「ん?君は確か1年生の……弟君の幼馴染みの矢尻さんでしたか?」
「あ、はい。矢尻翼です」
「あなたも黒主君へのお見舞いですか?」
「あ、はい。あの、でも……」
「俺も今から行くところだったんですよ。ご一緒しませんか?」
「……は、はい」
言いながら翼を追い抜く小翠。翼は何とか追いかける。
(……足早い。流石お姉ちゃんが勝てない人。……でも今の正輝に会わせて平気かな?いろんな意味で)
この時代、性同一性障害者はそこまで珍しくはない。ジェンダー思想はもちろんのこと、科学により肉体の性別そのものすら高額な手術を受ければ反転させられるとまでされている。歌音がしたような首から下をロボットにするという手段を使わずとも性別だけならいくらでも交換できる。もちろん今でもそこまでするのは少数派だ。
「ごめんくださいませ!」
小翠がインターホンを鳴らす。やがて、
「はい。どなたでしょうか?」
アリスが出てきた。
「おや、君は黒主さん家の子かな?」
「えっと、みたいなもので……」
「会長。この子は見ての通りメイドみたいなものですよー。アリスちゃん、この人うちの学校の会長。正輝のお見舞いだって」
「え、そうなんですか?……でも、今は……」
「初めまして。心美小翠と言います」
「あ、はい。アリスと言います」
「どう見ても日本人ですが……」
「会長。事情があるんですよー」
「……そうでしたね。怜悧から少し聞いています。ごめんなさいね」
「あ、いいえ!あの、上がってください」
アリスがドアを大きく開き、
「お邪魔します」
「しまーす」
小翠と翼が中に入った。玄関で靴を脱ぎ、アリスの案内で二人がリビングへと向かう。当然翼は何回も来ているので案内されなくても分かる。
「矢尻さんはここへは?」
「何回もありますよー。半分僕の部屋みたいな部屋もありますしー」
「へえ、それは睦まじいですね」
客席に座る小翠。その小翠からお見舞いの品を受け取るアリスに翼が耳打ちする。
「正輝、大丈夫なの?」
「それがあまり……ほとんど部屋から出てこない状態なんです」
「う~ん、やっぱそっかー」
俯く二人。小翠は聞こえていないふりをしながら口を開いた。
「正輝君は体調悪いみたいですね。出来れば顔を見ておきたかったのですが、お暇した方がいいかもしれません」
「え、で、でも……」
「いいんですよ。急に来た俺が悪いんです。怜悧さんもまだ帰ってこないみたいですので」
席を立つ小翠。すると、
「あ、」
ドアが開き、せつなが顔を出した。ちょうど目線が小翠と合ってしまう。
「おや、」
小翠が口を開いた瞬間、青い表情となったせつなが勢いよく来た道を走り出した。
「彼女はもしや怜悧さんの妹さんですか?」
「はい。せつな様です」
「会長。せっちゃんは人見知りなのでー」
「まあ、大体聞いています。うちの学校にもいないようですしね」
鞄を手に小翠が玄関へと向かう。
「ごめんなさい。何もおもてなし出来なくて……」
「大丈夫ですよ。では、正輝君によろしくお願いします」
そう言って小翠はアリスと翼に目配せをして去って行った。
「……あの、翼様」
「なーにー?」
「あの方は女性ですか?男性ですか?」
「おっぱいもおちんちんもある人だよー」
「…………えっと?」
「それより僕はふたりの様子見てくるね-」
翼が勝手に冷蔵庫から取った自分用のジュースを飲み終えるとリビングを後にする。
「……ん?」
帰宅まであと少しと言ったところで怜悧は前方から小翠が迫り来る姿を見た。
「小翠……!?」
「おや、怜悧。今帰りですか?」
「な、何であんたがうちから来るの……!?」
「欠席してた弟君へのお見舞いに。まあ、会えなかったけどね」
「……欠席、してたんだ……」
「知らなかったんですか?」
「……何でもいいでしょ」
小翠の脇を通ろうとした怜悧。しかしその腕を小翠が掴んだ。
「怜悧、朝の……いえ、今日一日の不調は弟君関係ですか?」
「小翠には関係ない」
「ないわけないでしょう?朝も言いましたが、大会が再来週に迫っています。けれど今日のあなたはスランプにも程があります。今日たまたま調子が悪かったというのならまだいいです。けどそれが続くようでしたら俺にも考えがあります」
「……考え?」
「あなたを副将から外します。いえ、場合によっては大会メンバーからも外します。そしてそのまま引退してもらいます」
「……」
「俺は怜悧を脅しているわけではありません。ただ元通りの怜悧に戻ってきて欲しいだけです。では、ごきげんよう」
「……」
怜悧はただ噛み付くようにその背中を見送ることしか出来なかった。
「……」
そんなふたりの様子を窓から見ながら翼が正輝達の部屋がある廊下を渡る。
翼も小翠の話は聞いている。普段もああだし、竹刀を持つと特に変化と気性が激しいと怜悧からよく聞いている。
(お姉ちゃん、今朝も朝練で早く行ったって事は会長と部活で会ったって事だからひどいことになったんだろうな)
思いながら翼は正輝の部屋の前に来た。
「……」
ノックする……勇気は出なかった。どうしても昨日の正輝の姿が目に浮かんでしまう。
(……ずっと一緒にいたのに、正輝にあんな目で見られるなんて……少しだけせっちゃんの気分が分かったよ)
隣のせつなの部屋に向かう。
「せっちゃん、大丈夫?」
ノックする。やがて、ドアが開いた。
「……翼」
「うんうん。僕だよー。さっきはごめんね-」
部屋に入る。せつなの部屋には何度も入ったことがあるが、久しぶりに入る気がした。
「あの人は……?」
「心美小翠会長。生徒会の会長で剣道部の部長だよ-。正輝やお姉ちゃんを見に来たみたいだねー」
「……正輝は?」
「……多分まだ隣にいるんじゃないかな?」
「たぶんって……」
せつなが翼の顔をのぞき込む。一瞬だけだが翼は恐怖の色を見られた気がした。
「……ごめん」
「ううん、せっちゃんのせいじゃないよ。……だからその、ちょっと……」
「うん。一緒に正輝の様子を見に行こうか」
「うん。そうだね」
またふたりで目を合わせてからせつなと翼が部屋を出る。と、
「あ、お姉ちゃん」
「翼。来てたんだ」
ちょうど正面。怜悧が歩いてきた。
「姉さん、お帰り……」
「うん、ただいまー!……で、」
怜悧は正輝の部屋の前まで来ると、ノックもなしにドアを開けた。
「え、」
「こら正輝!今日学校休んだでしょ!」
何の容赦もなく怜悧が中に入っていく。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!?」
慌ててふたりが追いかけると、真っ暗な部屋で正輝と怜悧が対峙していた。
「……何のようだよ、姉さん」
「正輝、あんた随分な目と口をするようになったじゃない」
互いに胸ぐらをつかみ合う二人。
「あんた、女の子に触れないんじゃなかったの?」
「俺が姉さんをどう思ってようとも勝手じゃないのか?」
どこまでも冷たい視線と爆発しそうな視線。それぞれ相手の胸ぐらを掴む手に力が入る。
「いちいち終わったことを気にして周りを巻き込まないで」
「誰のせいだと思ってるんだ?俺は、あいつを頼むって言ったのに……どうして殺したんだ!?」
「歌音のこと?あの子がたくさん人を殺したからじゃない。何度同じ事を言わせれば気が済むわけ?」
「死んだ人は帰ってこないんだぞ!」
「知ってるわよ、そんなこと」
漆黒に軋む空気。怒気を通り越して殺気すら迸る暗い部屋。
「何でも力で解決できると思うな。正悪を自分一人で決めるなよ!」
「他に何が出来たというの?あのロボットだって歌音をモデルにしたのよ?いつ同じテロを起こすとも限らない」
「だからってまだ何もしていない奴を殺していい理由になるか!」
「あれは人間じゃない。殺すって言うのは違うんじゃない?」
「何でそんな平気そうにしていられるんだよ!!……一番つらいのは姉さんなんじゃないのか!?」
「勝手に私の気持ちに踏み込んでこないで!!」
怜悧が正輝を片手で持ち上げて廊下に向かって投げる。当然そこにはせつなと翼がいて……
「!?」
勢いよく投げつけられた正輝がせつなと翼を押し倒してそのまま3人まとめて廊下に転がっていく。
「……ま、正輝……」
「いたた……」
まるで二人を押し倒したような格好になってしまった。
「……あ、……あ、あ……」
フラッシュバックする無数の景色。いずれも暗闇の中で失われた命達。作って失われてしまった命。あの夜。
「う、う、うえええええええええええ!!」
数時間後。黒主家リビング。
「……そうか。こうなってしまったか」
達真が重い言葉を吐く。対面には着替えを済ませたせつな。
「……私、何も出来ない……」
「……」
俯いたままのせつなに達真は何も言葉を出せない。
(……今のところ正輝は女性恐怖症をどう押さえるかが問題だな。しかし、あのテロの時の翼、そして2度の歌音の死を目の当たりにしたのなら俺すらもどうやっていいか分からん。それに、恐らくもっと問題なのは……)
考え込む達真。すると、インターホンが鳴った。
「はい」
達真が取ると、
「俺だ。矢尻」
「あんた……!!」
声を聞き、すぐに玄関へ向かうとそこには甲斐と結羽、雷歌がいた。
「赤羽から聞いた」
「……そうか。だが恐らくあんたは今邪魔だな。本来あの子達を支える立場である父親のあんたには信頼がない」
「かもな。だが、何もしないわけにも行かないだろう」
3人が中に入る。リビングへ顔を出すとせつなと目が合った。
「あ……」
怯えるせつな。甲斐がため息をつくと、結羽がせつなの方へ向かう。
「……それで、今あの子達はどうしてる?」
「怜悧はまたどこかに行った。正輝は部屋で休んでいる。アリスは掃除。翼が今風呂を使っている」
「……ん、赤羽はどうした?」
「今日は姿を見ていない。せつなにも聞かされていないらしい」
「……そうか」
「……ああ、なるほど。あんたの目的はそっちか」
「だけじゃないがな。ただ、歌音の事をかなり引きずっているらしい」
「どこかの誰かさんがわざわざ母親と同じ顔にしたから余計にな」
達真の眼光を受けて甲斐は視線をずらす。と、せつなが口を開いた。
「あの、お父さん……」
「ど、どうしたせつな?」
「あの子……歌音さんはその、本当にお父さんの……娘なの……?」
「…………ああ。そうだ。本当は身代わりの母親役である杏奈との間の子を怜悧の影武者にする手筈だった。だが、相性の問題か出来なかったんだ。そこであの子と……」
「……」
「おい、娘の前でそんなことを言うな」
「……悪い」
俯く甲斐とせつな。
「……でも、歌音さんのお母さんもテロで……」
「ああ。14年前のテロで重傷を負った。即死ではないんだが甲斐機関の技術力でも延命が限界だった。結局1年は持たなかったんだ。ただ、あいつの最後の願いで歌音を怜悧にすることにしたんだ」
「……お父さんは、あの子のことは愛していたの?」
「当然だ。お前達のことも同じように愛している」
「……」
より俯くせつな。すると、
「お掃除終わりました」
そこへアリスと翼がやってきた。
「え、お館様!?」
「おお、アリス。翼ちゃん。久しぶりだね」
「…………どーも」
翼は素っ気なくせつなの隣に座る。
「……はあ、」
甲斐がため息をついた。
「……人徳だな」
達真が小さく笑った。
「で、ここからどうする?怜悧とあの赤羽美咲は探さないといけない。正輝にも誰かがついてやらないといけない。あんたもやっぱりそう長く日本にはいられないんだろう?」
「……確かにそうだな」
「……ん、違うのか?」
「…………まだ考えていることがある。今は子供達に集中したい」
「そうだな。とりあえず怜悧ならあんたが帰ってきたことを伝えればすぐにでも戻ってくるだろう」
「もう伝えたよ」
翼がスマホをいじる。
「……翼、そう軽く言っていい話じゃないぞ」
「お姉ちゃんなら別にいいでしょ?……でも、お姉ちゃんから返事来ない」
「……そうか」
「おい矢尻。せつな。もっと詳しく状況を教えてくれないか」
甲斐が二人の顔を見た。
2016年。10月上旬。
「……ここか」
研護はメナージュに言われてとある場所を訪れていた。それは甲斐機関と呼ばれる医療品メーカーの会社だった。
「そもそもどうして俺があいつの好きな人の家に行かなきゃいけないんだよ。しかもこんな会社の社長だなんて聞いてないぞ」
季節違いの冷や汗をかきながら研護が中に入ろうとすると、
「おにー!おにー!」
小さな少女が何かを言いながらビルから出てきてまっすぐ研護にぶつかってきた。
「きゃ!」
「あ、わ、悪い。君、大丈夫?」
研護の膝にぶつかった少女は泣き出しそうになってしまう。
「ううう、ご、」
「ご?」
「ごめんにゃしゃいぃぃぃ……!」
「あ、ああ、い、いやいいから!」
「怜悧ちゃん!」
と、そこへ新たな声。研護と同じか少し上くらいの少女がビルから出てきた。
「くおんちゃん……」
「怜悧ちゃん、大丈夫?……ごめんなさい、怜悧ちゃんがご迷惑をかけちゃって……」
「あ、いえ。膝にぶつかってきたけど……妹さんですか?」
「ううん。お兄ちゃんみたいな人の娘さんなんだ。ほら、怜悧ちゃん」
「うん……」
怜悧と呼ばれた少女が久遠と呼んだ少女と手を繋ぐ。
「えっと、この会社に何か用かな?久遠ちゃん……じゃなかった私、ここの社長と仲いいから今のお礼に通してあげるけど」
「え、あー、その、」
「うん?」
久遠からの善意に困る研護。そもそもメナージュに言われてやってきたもののアポを取っているわけでも個人的に用事があるわけでもなかった。メナージュからはここに行って不自然なことが起きれば騎士達が何か動くかも知れないからそこで世界を助けてもらうように言えなどと無責任且つ意味不明にも程があることを言われた。まさかそのまま初対面の人に言えるわけもない。
そうして困っていると、
「久遠、どうかしましたか?」
今度また別の少女が来た。赤羽美咲だった。
「赤羽美咲さん!?」
「あなたは……赤羽研護さん」
「美咲ちゃん?この人知り合いなの?」
「何回かお会いしたことがあります。私がバイトしてるコンビニの常連ですよ」
「ど、どうも。赤羽研護です」
「美咲ちゃんと同じ名字なんだ。久遠ちゃんは、久遠ちゃん。馬場久遠寺って言うんだ」
「れーりは、れーりっていうんだよ!よんちゃい!」
怜悧が指を4つ折って研護に見せてきた。
(……この子がひょっとしてメナージュの幼馴染み二人の子供か?メナージュが23歳くらいだから同い年と仮定するなら19歳くらいで生んだのか)
研護が怜悧の頭を撫でてやる。
「それで、研護さんはどうしてここに?」
「あー、いや、メナージュの奴からここに来るよう言われたんだ」
「メナージュさんが?」
「美咲ちゃん、メナージュさんって誰?」
「以前何回か会ったことある人です。甲斐さんやキーちゃんさんと似たような雰囲気の人で……」
「あの二人と?で、その人とこの人はどんな関係なの?」
久遠からの疑問を受けて赤羽が研護を見た。
(どう答えたものか。まさかいきなり街路樹から出てきたメナージュ・ゼロ……つまり時空の闇に落とされた存在だなんて言えないしな……)
「し、親戚なんだ。あの名前もあだ名みたいなものだし」
(つか本名は普通に日本人だし)
「らしいですよ」
「そんな名前の人と?……まあいいや、で、どうするの?」
怜悧を抱き上げながら久遠が訪ねる。尤もな疑問だ。そしてそれは研護が一番知りたい。
「今日メナージュさんはご一緒じゃないんですか?」
「あ、ああ。俺も実はよく分かってない。ちょっとあいつには借りがあるから一度言うことを聞いてやってきただけなんだよな。……もう帰るか」
遠い目の研護。すると、突然自然音が消えた。
「ん?」
音が消えた方を見ると、甲斐機関のビルからだ。見れば窓からの光が見えなくなっている。
「停電でしょうか?」
「え、でも予備電源とかなかったっけ?」
「あるはずですが……何かトラブルでしょうか?」
赤羽と久遠がビルに向かうが自動ドアが動かない。
(……これはもしかしてメナージュの言っていた妙なこと、か?)
研護が周囲を見回す。見れば周囲もどこかおかしい。どうやら信号が動いていないようでたくさんの車が立ち往生している。
「甲斐さん、聞こえますか?」
赤羽がどこかにスマホをかける。怜悧が心配そうにのぞき込んでいるが久遠がすぐに宥める。
その時。
「!!」
3人のすぐ近くにある街路樹。その影が動いた。
「ブランチ!?」
見覚えのある影に研護が動く。が、
「危ない!!」
それより早く研護のスマホからラストが出てきて影から放たれた光を受け止める。
「ラスト!?」
「僕は大丈夫!」
受け止めた場所から煙を上げながらラストは動く影を睨み、手から閃光を放つ。その一撃が影をかき消した。
「……今のは、」
赤羽達が疑問と驚愕を意味する視線を注ぐ。
「あ、いや、これは……」
「研護。すぐにメナージュに知らせた方がいいよ。……もしかしたら僕達のせいでヒディエンスマタライヤンが少し早く動き出したかも知れない」
「は……?」
2040年。
雨が降る夜になった。
「……」
赤羽は一人彷徨っていた。そこは円谷学園跡地。この前の爆破テロによって完全に閉鎖されてしまった思い出の場所。
「……誰か、力を貸してください……」
まるで祈るように雨の中にか細い言葉を投げる。
「……別の世界の私、紫歩乃歌さん……時空を超えられるのならどうか、何事もなかった頃に時間を戻してください……」
しかし、夜は雨音だけを返す。赤羽の祈りに答える者はいない。そのはずだった。
「……」
気付けば正面に紫電の花嫁がいた。
「……あなたは……パープルブライド……!?どうして……!?」
「……赤羽ちゃんが過ちを犯しそうだから」
「過ち……私が……ですか?」
「そう。あの子達のために」
「……私は、あなたのお陰でこの世界にやって来れました。また赤羽美咲になれました。けど、そうまでして得た未来であなたや甲斐さんの子供を救えない……それじゃ一体何のために私はここに、奇跡の世界にいるんですか!?」
「……」
「……こんな、こんな無力な私を奇跡の世界に残すために久遠は殺され……そしてあなたは、そんな姿になったと言うんですか……キーちゃん…………!!」
「……僕はパープルブライドだよ、赤羽ちゃん。でも、」
パープルブライドは泣きじゃくる赤羽に歩み寄り、その仮面を外した。
「今だけは長山三咲の力が必要みたいだね」
「……ううう、」
「赤羽ちゃん。僕も久遠ちゃんも赤羽ちゃんに呪いたくて、こういう風に悲しんで欲しくて未来に生きてもらったわけじゃないよ。ただ、僕達はもうこうなるしかなかった。赤羽ちゃんは違った。だから僕も久遠ちゃんも希望を託して赤羽ちゃんに生きて欲しかったんだよ。……廉君や美夏ちゃんがあの姿になってしまったのも同じような結果なんだと思う。僕は、もう長山三咲としてはどんな世界にもいられない。甲斐三咲ももうこの世界にしかいない。……この世界でも普通の家族ではいられていないのかも知れない。僕も廉君もあの子達についていてあげられない。だから、赤羽ちゃん。僕達の代わりにあの子達をお願いね。でも本当に赤羽ちゃんがつらかったら言ってね……?その時は、」
「そ、その時は……?」
「……今度は僕がこの世界をリセットする」
「……そんな大事をしてしまったらあなたは、」
「騎士達に見つかってしまうかも知れない。でも、これが僕の責任だから」
「……そんなのつらすぎます……」
「だね。ありがとう、赤羽ちゃん。だから、ちょっとだけお客さんを連れてきてもらったの」
「……お客さん?」
「……ちょっとだけ心配だけどね」
そう言って目の前のパープルブライドはかつてと同じように小さく笑った。
黒主家から歩いて数分。怜悧は誰もいない公園にいた。
「……」
以前までならライブハウスが使えない時には歌音とここで練習をしていた。だが今では雨が降るだけの公園だ。「……」
今でも目を閉じずとも怜悧の目には隣で歌音が歌の練習をしている姿が見えている。
「怜悧、ここのメロディなんだけど……」
「うん、そうだね。ここ難しいよね、怜悧」
今を映さない目で怜悧は雨の中の虚空に向けて答えた。
(今私が壊れるわけにはいかない。私がテロを許しちゃいけない。悪いのは怜悧なんだから。だから、これでいいんだよね、怜悧?)
「そこでね、怜悧……」
「あなた、一人で何やってるの?」
「!?」
突然の声に怜悧が慌てて現実に戻る。声のした方を見るとそこには少女の姿があった。だがそれは上半身だけ。下半身は海鮮系の生物のそれになっていた。
「……私、まだ幻見てるんだ。確かに怜悧はいろんな姿になれるんだもんね……」
「だから何一人で会話してるのよ。怜悧ってあなたのことでしょ?ねえ、お姉ちゃん」
「…………え?」
青と銀の間の綺麗なロングストレートの少女。顔立ちや上半身だけの姿だけを見れば小学生程度に見える。しかしあまりに下半身が異形すぎた。
「あ、あなたは……?ま、幻じゃない……?」
「私はルネ。ルネッサ=峰山。黒主4兄妹の末っ子だよ。お姉ちゃん」
ルネと名乗った少女はその触手で怜悧を捕らえる。
「ひっ!!」
「お母さんやお義母さんに頼まれてわざわざここに来て?奇跡の世界とやらのきょーだいがどんなのか楽しみにしてたのにざーんねん。何があったのか知らないけど一人でお話ししちゃう痛い子がお姉ちゃんだったなんて」
触手の握力は無機質な暴力だった。
(く、苦しい……!!私じゃなかったら、普通の女子高校生とかだったらバラバラになってる……!!なんなのこの子……!?)
「私と同じでゼノセスターの素質があるかもなぁって思ってたのに。はぁーあ」
どんどん締め付けが強くなっていき、怜悧の骨が軋んでいく。
「ぐっ、ぐがああああああああ!!!」
「あれ?まだ生きてるんだ。流石お父さんの第一子。ぬるま湯みたいな世界にいるくせに普通の人間でもないんだね。関心関心。でもやっぱりこんなに貧弱なお姉ちゃん嫌だなぁ」
「ぐっ、うううう……!!」
「……あれ?やっぱまだ生きてる。さっきまで全然生きてる気配のない目をしてたのに。生きたいとか思い始めちゃったりしたの?思い上がるのも程ほどにしたら?今のあなたなんてレイプする価値もないんだけど?」
さらにきつくなる圧力。怜悧の骨や肉に亀裂が走ってもなお弱くなる気配はない。
(何で……一体何なのこれ……何が起きてるの……!?)
「私、一番嫌いなんだけど?死にたいとか現実逃避してるくせに苦しくなったら死にたくない、もっと生きたいなんて目をする奴。しかもそれがあの黒主零の血を引く私の姉だなんて、ひどい皮肉。はぁーあ、お父様も騎士やめちゃって普通の人間になっちゃうし。本当退屈」
「あ、あなた……!!」
血がにじむ手足を何とか動かして触手から逃れようとする怜悧。
「だから抵抗なんてしないでさっさと死んじゃってよお姉ちゃん」
つまらなそうに触手にさらなる力を込めるルネ。怜悧の骨が肉が内臓がついに潰れそうになった時。
「はい、そこまで」
一人の少女がやってきた。中学生程度に見える。
「はぁ、」
ルネがため息をつき、怜悧を放り投げた。
「歩乃歌。あんたまで来たの?」
「ルネ。流石におイタが過ぎるよ。怜悧ちゃんを殺す気?和佐さんに怒られるよ?」
「歩乃歌には関係ないもん。はぁーあ。まつりもみらいもひまりとかって言う後輩の面倒で全然構ってくれないし。私もここじゃなくてもう1つの要監視世界に行けばよかったな」
「……な、何なのあなたたちは……?」
血反吐を吐き散らしながら怜悧がルネと歩乃歌を見る。
「気にしなくていいよ、怜悧ちゃん。ただのお節介焼きだから」
「歩乃歌が来るなら歩乃歌だけでよかったじゃん」
「まあまあ。……で、怜悧ちゃん」
「な、何よ……」
「悩み事があったら、解決しそうにないなら一度肩の力を抜いて歌でも歌ってみたら?僕は怜悧ちゃんのプリズムボイス聞いてみたいな~!」
「……」
「そう睨まないで。ほら、P・O・P・P・Y!」
「……」
「あはは。じゃあね、怜悧ちゃん。ほら、ルネ。行くよ」
「ぶー!」
歩乃歌はルネを伴ってどこかへと去って行った。
「……何だったのあれ。やっぱりまだ私の幻……?」
口元を拭い、立ち上がる。
(……あれ、さっきまで全身の骨が折れてたのに……本当に夢だったの?あの子が歌うくらいまではすごく痛かったのに……)
自分の体を見る怜悧。雨で濡れて冷えていた体まで温かくなっていた気もする。
「……まあ、どうでもいいか。それより、聞いてよ、怜悧……」
午後9時過ぎ。
「で、こうなった訳か」
道場から戻ってきた達真が見る黒主家のリビング。
青い顔の正輝。俯いたままのせつな。何かブツブツ言ってる怜悧。あたふたしているアリス。それを宥めようとしている翼。無言で目を伏せる赤羽。どうしようも出来ずに窓際で腕を組んでため息ばかりの甲斐。
「家庭崩壊だな」
コーヒーを飲む雷歌。達真の分のコーヒーを用意する結羽。
「どうぞ」
「すまない。……で、お前どこに行ってたんだ……?子供達を放置して」
達真が赤羽を見る。
「……私にも思うところがあるんです」
「……お前の言いたいことも分かる。お前が先輩を頼るなんて相当だろうからな。今回は仕方がないか。ふらっと出てしばらく戻ってこないなんて昔みたいだな」
「…………」
赤羽は火咲の表情で達真を睨んだ。
「で、怜悧。どうしたんだお前は」
「…………」
「怜悧?」
「矢尻さん……ご飯は?私と、怜悧の分……」
「お、おい、怜悧……?」
「ねえお父さん……今日は怜悧は一緒じゃないの……?」
「……お、お前……何を言ってるんだ……?」
「ビデオ……いつも送ってくれてるじゃない。今日は怜悧と何を話そうかな……?」
うつろな目で何もないところをまるでスプーンでスープを飲むかのような仕草を始めた怜悧の姿を見て甲斐と達真が目を合わせた。
「お、お姉ちゃん……?どうしたの……?」
「翼、紹介するね。この子は怜悧って言って私と同じ名前の子なの。ちょうど翼と同い年だったかな?」
「……お、お姉ちゃん……」
真っ青な顔で涙をこぼし始める翼。
「……しっかりしろよ、姉さん」
青い顔のまま正輝が怜悧の胸ぐらを掴む。怜悧がゆっくりとうつろな目で正輝を見る。
「っ!!!」
目が合った瞬間に正輝はトイレへと走った。
「わたし……わたし……」
せつなが声をこぼし、どこかへと走り去る。
「せつな様!!」
それをアリスが追いかける。
「怜悧……まだかな?」
「お姉ちゃん……っ!!うあああああああああん!!」
怜悧がまた無をスプーンで掬う横でついに翼が号泣を始めてしまった。
「…………おい、どうするんだこの地獄絵図」
「………………さあな」
達真の言葉に甲斐はため息をつくだけだった。
2016年赤羽家。
「そう。ヒディエンスマタライヤンが……」
ラストの仮説を聞いたメナージュがうなずく。
「おい、どういうことなんだよ」
「ライランドが言っていたでしょう?あのゲームの先にブランチはいない。根拠としてブランチ……その正体であるヒディエンスマタライヤンは非常に狡猾だからと。あのゲームに関わっていたかは分からないけどこうしてあなたが要監視対象である甲斐機関の人間に干渉したから行動を変えてきたのよ」
「あの甲斐機関の社長がお前の……で、3つに分かれた奴なんだな?」
「そうよ。甲斐機関社長の甲斐廉。少し前まではまだ学生だったからもう一人の方が社長代理を務めていたみたいね」
「もう一人って幼馴染みか?」
「ええ。あの子は天才だから、飛び級で大学を出ているみたいなのよ。どこで手に入れたかも分からないブラックカードとか言うもので会社を買収してね」
「……とんでもないな」
「……そんな子でも、世界を新たに作った代償は避けられなかったのよ」
「……どういうことだ?」
「以前天使について説明はしたわね。滅亡した世界の生き残りを回収して新たな世界が誕生するまでの間仮住まいの世界である天使界に住むようになった人間達」
「あ、ああ。正直そこら辺まだ把握はしてないが」
「あの子はね、天使界という小規模とは言え全く新しい世界が作られたその代償をその身に受けて普通の人間として死んだ後にパラドックスになったのよ」
「パラドックスって言うのはえっと31体いる奴だったよな。騎士の敵の」
「そうよ。その32番目になった。密かに一人で罰を受けたからまだ騎士達には認知されていないみたいね」
「……何でだ?何でその人が一人で罰を……」
「他にいなかったのよ。あの人の周りにいた人間は」
「……って事は、」
研護が今日会った3人を思い出す。
「赤羽美咲はパラドックスになったあの子に助けられて別の世界に渡るわ。馬場久遠寺は間に合わなかったけど」
「…………そうか。なら、あの小さい子は?怜悧って言ってたけど」
「あの子は天使界に渡ったの。そして最初の天使になる」
「……え、待てよ。3つに別れる社長、その嫁、娘、赤羽美咲、馬場久遠寺……この5人しか生き残らなかったのか!?」
「その内二人は亡くなるから実質3人ね。いずれも普通の人間ではなくなる。噂によれば、全員普通の人間で生きている奇跡の世界なんてものも存在するそうだけど、信じられないわね」
メナージュがアップルジュースを飲む。
(……もっと聞きたいけどこいつからしたら苦い話だろうな。自分含めて身の回りの人間全員不幸になったわけだし)
研護がペットボトルの茶を飲む。
「で、どうするんだ?ラストに監視させてるけどいくらあいつでもそのブランチには勝てないんだろ?」
「絶対無理ね。調停者として目覚める前のブランチならともかく、進化の終を司るディオガルギンディオのヒディエンスマタライヤンには騎士であっても無被害に倒すのはほぼ不可能よ」
「……けど、このままじゃこの世界がリセットされるんだろ?」
「ええ。ごくわずかな人間以外は全員死ぬわ。確かに2016年のリセットは確実ではない。けど、起きる世界の方が多いのよ。だから騎士達とかにうまく匿ってもらえればいいのだけれど」
「……けど、そしたらメナージュ・ゼロのお前はまた時空の闇とやらに幽閉されるか、完全消滅かの2択か」
「……私は別にいいのよ。あの二人の幸せを見届けることも出来ないって決まってるんだから」
「……そうやって諦めてるから進めないこともあるんじゃないのか?別にお前は何も悪くない。運が悪かっただけだ。なら、生きたいって願ってもいいんじゃないのか?」
「……そう簡単な話じゃないのよ」
「生きたいと願うことの何がいけないんだよ。……よし、分かった」
「何するつもり……?」
「甲斐機関の社長に会うんだよ。その社長が騎士なんだろ?俺の力で3人と言わずいくらでも増やしてやるぜ」
「あなた、何言ってるの……!?そんな事して何になるのよ……!?」
「世界のリセットやらなんやらでてんやわんやしてるって言うなら人員を増やしてやる。そして俺達を救ってもらうのさ」
「ま、待ちなさい……!あなた最近変よ。何でそんな、変に前向きなのよ!」
「お前が助けてくれたからだろ。今までの俺は自分が偽物だと思ってたから前向きになんてなれなかった。けど、今は違う。あの時お前が俺も本物なんだって教えてくれたから今度は俺がお前を助けたいんだ。それに、俺自身も世界のリセットなんてもので殺されるなんてまっぴらだからな」
「だ、だけど、騎士を増やすなんて事をしたら余計大変なことになるわよ!その歪みでパラドックスが強くなるかも知れない。そうなったらこの地球の運命は……」
「あーだこーだうるさい!!素直に生きたいって言え馬鹿!!」
「それが普通の手段じゃ出来ないからあーだこーだ言ってるんじゃない!」
向かい合い、つばを飛ばし合う二人。
「兄さん達がまた喧嘩してる」
「元気いっぱいだね-!いつ結婚するのかな?」
妹達が部屋に来てることにも気付かない二人。
「とにかく、あなたがあの人に接触するのは駄目よ。何をするのは分かったものじゃない。それに……実際今月だけ。今月の残り少ない時間だけしかもうあの二人に幸せの時間はないわ」
「リセットされるからか?」
「ええ。それに、あの二人はしばらくの間会えない。世界と引き換えにあの子の方は悪魔になって、あの人は騎士。次に会うのは……二人が戦う時だから」
「え、どういうことだよ!どうしてその二人が戦うんだよ!」
「言ったじゃない。あの子は、長山三咲ちゃんは天使界を作った代償として悪魔と言う存在になったのよ。ある意味私と同じメナージュ・ゼロよ。それにパラドクスになったって話もあるしね。あの人は……廉ちゃんは騎士だから次に三咲ちゃんと会ったら戦わなきゃいけないのよ……」
「……なんだよそれ……。せっかくお前が諦めたのに……そんな二人が幸せになれずに戦わなきゃいけないなんて……どんな運命なんだよ……」
「研護……」
「……俺には無作為に誰かを何かを増やして運命をバグらせることしか出来ないのかよ……!!所詮音終島の悪意だけを集めて出来た桜の木じゃそれが限界なのかよ……!!」
「……桜の木……それよ!」
「……え、」
「音終島と対を為す島……初音島に行きましょう。あそこには純粋な想いで奇跡を起こす枯れない桜の木があるわ。……きっと研護なら枯れない桜の木も奇跡で答えてくれるはず」
「……けど、いいのか?甲斐機関にすぐにいけなくなるぞ?」
「行かなくていいのよ。私とあの人達の縁はもう切れてるんだから」
「……お前も、何か吹っ切れたよな。この前から」
「あの二人とずっと一緒にいてくれるって約束してくれた人がいるもの」
夜が明けた。
「……朝か」
物置になっていた自分の部屋で目を覚ました甲斐。日本で朝を迎えるのは久々のことだった。
「……」
そして一人の部屋で目を覚ますのも久々だった。
「……妙な感覚だ。とっくにいなくなったのに眠りから覚めればあの二人が隣にいるんじゃないかって想ってしまう。こんな馬鹿だからせっかくの奇跡の世界でも仲間や家族を悲しませてばかりなんだ」
着替え、リビングへと向かう。
「あ、お館様。おはようございます!」
アリスが朝食の準備をしていた。
「おはよう、アリス。赤羽はどうした?」
「まだお休みになられています」
「そうか……あいつも相当やつれてるからな……。けどもっと問題なのは、」
「……皆さん大変お疲れのようです。でも、特に怜悧様が……」
「……そうだな」
「あの、お館様。怜悧様が言うその、怜悧って言うのは……怜悧様ご自身の事ですか?それとも……」
「……歌音のことだ。歌音には半年前まで甲斐怜悧の影武者であることは伝えていなかった。だから怜悧も歌音のことをずっと怜悧と呼んでいたんだ。たまたま同姓同名の別人だと想わせるように……」
「……と言うことは、」
「怜悧は歌音がいなくなったことを本当は受け入れられていない。幼児退行なのか記憶障害なのか分からないが、間違いなく精神的に厳しい状態になっている。今日にでも病院に連れて行こうと思っている」
「では、学校はお休みされるって事ですね。連絡しておきます」
「え、アリスがするのか?俺がやるよ。保護者だからな……失格かも知れないけど」
甲斐が家庭電話に向かおうとした時。
「……ううん。私が伝える」
せつなが現れた。しかも、
「せ、せつな様!?」
せつなは学校の制服を着ていた。入学以来一度も袖を通したことのない制服を。
「せつな……お前、」
「今は姉さんも正輝も厳しい状態だから……私にはこれくらいしか出来ない。半年前、私は家族じゃないんだってすごくつらい思いをした。でも姉さんも正輝も今苦しんでる。私は自分の苦しみよりも二人がこのままの方がずっとつらい。いやなんだ……だから、甲斐せつなとして黒主せつなとして歩き出そうと思う。まだ、知らない人は怖いけど」
「せつな様……!!」
「……すまない」
甲斐がせつなに歩み寄る。
「だからお父さん。本当のことを話して。私は一体何なの?」
「父さんの古い知り合いから預かった子供だ。厳密に言えばその知り合いの子ではないんだが」
「別の赤羽美咲って言ってた。どういうこと?」
「詳しくは言えない。父さんもよく分かっていない。でも、信頼できる人だ。あの赤羽も父さんの大事な弟子で後輩だから」
「…………よく分からないからまだお父さんのためには頑張れない。だから、私は姉さんと正輝のために頑張る」
「……それでいい」
甲斐はせつなの頭を少しだけ撫でてやった。わずかに目尻が熱くなるせつなだが、キッチンへと向かう。
「アリス、手伝うよ」
「は、はい!じゃあこちらをお願いします!」
仲睦まじく料理をするせつなとアリス。それを見て甲斐は少しだけ笑ってソファに座る。
(……さて、怜悧と正輝はどうしたものか)
「……せ、せつなさん!?」
やがて赤羽がやってきた。制服姿のせつなを見て驚きを隠せずにいる。
「美咲さん。おはようございます」
「お、おはようございます。あ、あの、どうして……」
「私、今日から学校に行きたいと思います。姉さんや正輝、それに美咲さんにも心配かけたくないから……」
「……せつなさん……」
「……赤羽、お前はもういいのか?」
「……正直私もまだ受け止められていません」
「……あの、お父さん。美咲さんは……」
「歌音の母親である馬場久遠寺は赤羽の親友だ」
「……」
「……あ、」
それだけでせつなもアリスも察してしまった。昨日既に馬場久遠寺という人物の最期に関しては聞いている。つまり、赤羽は親友の最期をその娘の最期でフラッシュバックしてしまったと言うことだろう。
「……あの、甲斐さん」
「何だ?」
「正直に答えてください。歌音さんは……歌音さんがしてしまったことは罪なのでしょうか?甲斐さんはどう思っているんですか……?」
赤羽からのまっすぐの視線。それは赤羽美咲でもあり、最上火咲でもあった。
「……俺達以外誰も知らないとは言え歌音は円谷学園で爆破テロを行った。犠牲者もたくさん出ている。しかも怜悧や正輝を騙して決行した。それは許されないことだろう。本来なら逮捕されて罪を償うべき事だ。だが、この件は他に誰も知らない。後から立証することも出来ない。自白した本人が亡くなっているんだからな。
だが、だからこそどう受け止めるかは俺達自身が決めることだと思う」
「どういうことですか?」
「許すも許さないもその死を受け入れてそれぞれ自分たち自身の心で折り合いを付けていかなきゃいけないことだ。ひどいことをしたのは事実だ。だから許さないと思うのも自由だし、当然だ。だが、許してやれるのももう当事者である俺達しかいないんだ……」
「…………」
赤羽はうつむき、涙を拭った。
「分かりました。私はまだ受け入れられないかも知れません。でも、彼女の孤独は分かっていたつもりです。その後悔も。だから、今はただご冥福を祈ります」
「……そうか」
「だから甲斐さんも、もうご自分を許してもいいんじゃないですか?」
「……」
「それは責任から逃げることになるかも知れません。でも、それが許されないことなんですか?あなたは今まで頑張ってきたじゃありませんか。今こうして子供達の傷を癒やしながらそのまま普通のご家庭に父親として戻られてはどうですか?怜悧さんも正輝さんも苦しいですが、あなただって何年もずっと苦しんでいるはずです……!」
「……よく考えておくよ」
少しだけ笑った。
「よし、せつなが美味しい料理を作ってくれてるからな。怜悧と正輝を呼ばなきゃな」
「私が呼んできます。正輝さんはお願いしていいですか?一応私も女性なので」
「ああ」
そう言って二人が廊下へと向かった。しかし、数分後。
「怜悧がいない!?」
リビング。甲斐、正輝、せつな、アリスが驚きの声を上げる。
「はい……それに制服と竹刀がなくなっているんです……」
「まさか学校に……!?正気に戻ったのか……!?」
「……姉さん……アリス、せつな。悪い。後でちゃんと食べるから俺もすぐ学校に行く!」
「あ、正輝!」
正輝が部屋へと急ぎ、すぐに制服に着替えてせつなと共に家を出て行った。
その後ろ姿に赤羽は少しだけまた涙を流した。
剣道場。
「……いい度胸だな、怜悧」
竹刀を握る小翠の前。同じように竹刀を握る怜悧がいた。
「……」
「言葉すら喋れなくなったお人形さんの分際で……俺に勝てると思ってるのか!?」
小翠が駆ける。一瞬で彼我の距離を埋めて暴力の一閃を振るう。
「っ!」
怜悧はギリギリでそれを受け止めて、しかし威力を抑えきれずに吹き飛ばされる。
「どうしたどうしたぁ!?守ってばかりなのかぁ!?どんなに鎧をまとおうが、心の弱さは守れねえんだよ!!!」
小翠の一撃が怜悧の竹刀を粉砕し、その体を何メートルも吹っ飛ばす。
「っ!!」
背中を強打し、転げ回る怜悧。しかし、その目は確かに小翠を真っ向から捉えていた。
「はっっ!!代わりの竹刀をさっさと用意しろ。いつまで持つのか、いつまで待たせるのか、俺に剣で答えやがれ!!!」
叫ぶ小翠。怜悧はすぐに近くにあった別の竹刀を手に取り、小翠へと向かっていった。
「いいじゃねえか!!所詮てめぇはてめぇ含めた誰かを守るための力なんざ向いてねえんだよ!むき出しの刃、触れるもの全てを切り裂く人殺しの力なんだよ!!守りなんざ捨てろ!心なんざ捨てろ!!全てを捨てて相手に、俺に立ち向かって来やがれ!!甲斐怜悧!!!」
小翠の一撃を受けて籠手が粉砕するが、怜悧もまた竹刀で小翠の肋骨を粉砕する。
「ぅぅぅぅぅぅっ!!」
面と面をぶつけ合い、互いの全力が相手の防具を破壊していく。
「っっっっ!!!!」
声なき絶叫の怜悧の一撃が小翠をぶっ飛ばし、腸をぶちまける。
「がはっ!!」
腹から鮮血を飛ばしながら小翠が激しく笑う。その姿は魔王以外の何物でもなかった。
「甲斐怜悧ぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
「つ!!」
そして放たれた一撃を怜悧は防がなかった。
「!?」
威力の瞬間、小翠は竹刀を手放す。直後怜悧の体が何メートルも先のロッカーに突っ込んでいき、破壊する。
「……怜悧さん」
汗まみれだが冷静に戻った小翠が怜悧に歩み寄る。
「あなたは……」
その視線の先。血を流しながら、涙を流しながら声なく笑う怜悧の姿があった。
「……俺を誰かと間違えているようですね。……胸くそ悪いです」
小翠はその場で壊れた防具の全てを脱いだ。
「……犯す価値もない」
そしてそのまま更衣室へと去って行った。
保健室。正輝とせつなはそこに来た。
「来たか」
刀斗が先に来ていた。
「刀斗、姉さんは!?」
「いるぞ」
刀斗が一歩下がり、正輝とせつながベッドに急ぐ。そこには、
「………………」
虚空を見るだけの怜悧の姿があった。
「姉さん……どうして」
「俺が来た時には既にこうだった。どうやら誰も見えていないらしい」
「……そんな、」
正輝が手を伸ばそうとして渋る。代わりにせつなが怜悧の手を握る。
「姉さん……?」
「…………」
しかし、怜悧は答えない。代わりに、
「誰かは見えているようですよ」
そこへ小翠がやってきた。
「会長……!」
「正輝君。お加減はどうですか?」
「あ、はい。何とか……。それより姉さんは、何があったんですか!?」
「いつも通り俺と朝の稽古をしていました。何も喋らないので奇妙ではありましたが気迫がありましたので俺も全力で相手をしたのですが……どうも怜悧は俺以外の誰かを、その誰かしか見えていないようでして」
「え?」
「俺に倒されて非常に満足そうな顔をしていました。……今見るにまた夢の中に消えているようですけれど」
「……姉さん、」
「正輝君。怜悧はどうしたんですか?最近様子がおかしいように見えます」
「……知り合いが亡くなったんです」
「もしやバンドの……?」
「……はい。ちょっと込み入った事情があるんで詳しくは話せないんですけど……」
「……そうですか。なら俺の出る幕ではないですね。それでも何か手助けできることがあったら言ってください。正輝君もしばらく生徒会は不参加で大丈夫ですので」
「……すみません」
「……では、」
それだけ言って小翠は去って行った。
「……ところでそっちのは?」
刀斗がせつなを指さす。と、せつなが一瞬正輝の背後に隠れる。だが、
「く、黒主せつな……で、甲斐せつな。この二人の妹……」
「へえ、俺は絶乱刀斗。よろしくな」
刀斗が手を伸ばした。その時。
「はぁーあ。くだらない」
また別の声が聞こえ、同時に触手で刀斗が吹き飛ばされた。
「ぐばっ!!!」
「刀斗!!」
身構える正輝とせつな。正面。コンクリートの壁を粉砕して下半身触手の少女が現れた。
「な、何だこいつ!?」
「あら。正輝。妹に向かってどんなリアクションしてるのよ」
「い、妹!?」
「そうよ。私はルネ。ルネッサ=峰山。戸籍なんてものがあったら甲斐ルネなのか黒主ルネなのかは知らないけど」
「な、な、何なんだ!?」
「今言ったじゃない。私はあんた達の妹。末っ子。ゼノセスター」
「ぜ、ゼノセスター!?」
正輝とせつなは見る。その異形、一瞬ロボットかと思った。だが、明らかに生物的すぎた。完全に人間とは別種の生命体だと判別するしかない。
「あれ、でも美咲じゃない」
ルネがせつなを見て一気に近づく。
「ひっ!!」
「ふぅん。赤羽美咲の遺伝子に近いわね。黒主切名に近いけど微妙に違う?どちらにせよ、私達の遺伝子にあの女の遺伝子が混じってるのは気に食わないわ。犯してあげる」
ルネが触手をくねらせてせつなに迫る。
「や、やめろ化け物!!」
正輝がルネの前に立ちはだかる。
「化け物?……へえ、実の妹に向かって化け物って言うんだ?」
「俺はお前なんて知らない!俺の妹はせつなだけだ!」
「でもそっちとは血、繋がってないじゃない。私とは繋がってるのに」
「は、はぁ!?」
混乱する正輝。確かに何故かデジャブのようなものを感じるがそれ以上に何より異形への生理的嫌悪感が強い。「まあいいわ。奇跡の世界とやらの兄妹の顔を見ておきたかったんだけど怜悧も正輝も美咲もみーんな、退屈。何でこんなふざけた世界が奇跡なんて呼ばれてるのかしら。ん?」
「そこまでだ!ゼノセスター!!」
今度は雷歌がやってきた。
「雷歌!」
「あら、雑用天使まで来たの?奇跡って言うのは随分と肥だめみたいなくだらないものなのね」
「お前、どうしてこの世界にいる!?」
「知らなかったの?ゼノセスターは単体でなら時空の壁を無視できるの。お母様に言われて別次元の兄妹の顔を見に来たのよ。そしたらこの体たらく。全くくだらないわ。どうしてお父様はこんな世界に落ちてしまったのかしら」
「お前には関係ない話だ。さっさと元の世界に帰れ」
「いやよ。何で天使ごときの命令を聞かないといけないのよ。言っておくけど私、あんた達のことだいっっっっっっっっっっっきらいなんだからね!!!」
振るわれた触手が壁を粉砕する。
「くっ、第七階級の化けものめ……」
「へえ、あんたも私を化け物呼ばわりするんだ。……バラバラにしてやるんだから」
ルネが触手を雷歌へと向ける。その時。
「っ!?」
突然後ろから怜悧がルネの首を絞める。
「あら怜悧。いきなりご挨拶ね。喋れもしないお人形さんのお姉ちゃん?」
「…………」
全体重と腕力をかけて怜悧がルネの首をへし折りに掛かる。対してルネも触手の一本を怜悧の腰に巻き付けて一気に締め付ける。
「……っっ!!」
「悲鳴くらい上げたらどう?そうしたら貫通させてあげる。アドバンスなんて世界を滅ぼしたお馬鹿よりもっといい子供を孕ませてあげるわ。このゼノセスターの子供をね!!」
内臓どころか背骨まで粉砕されそうに変形していく怜悧の腰。ルネの首に掛かる怜悧の握力もかなりのものだ。少なくともルネの上半身から来る背格好の近い少女なら間違いなく死んでいるだろう。
「やめろ怜悧!ゼノセスターに生身の人間じゃ勝ち目がない!何より、姉妹で殺し合うな!!」
雷歌が手を伸ばした時。
「何の音ですか!?」
そこへ小翠がやってきた。その顔を見たルネが突然触手を止めた。
「こ、こ、こ、心美小恋瀬小津帆小長瀬小翠ぃぃぃぃぃぃ!?」
「え、何か長い」
「いやああ!!あいつ!あいつだけはいやなのぉぉぉ!!」
ルネは怜悧を投げ飛ばすと、すぐさまどこかへと走り去っていった。
「……今のは、何ですか?」
「い、いや、俺にも……」
小翠が正輝に問う。
ただ二人の視線が怜悧へと注がれる。
「姉さん……?」
「…………」
やがて、怜悧は再び倒れた。
「っと!!」
頭を打つ直前ギリギリで小翠が受け止める。
「会長、姉さんは……?」
「気を失っているだけです。……尤も、今日はずっと似たようなものでしたが」
「……」
「馬場歌音寺さんでしたか?俺も少しだけ会ったことがあります」
「……」
「明るそうな人でしたね」
「……ええ。でも、俺達にも姉さんにも言えない何かを秘めていた。それを俺達は……探ることしか出来なかった……!!」
「黒主正輝……」
刀斗の前で正輝は崩れ落ちそうに震え出す。せつなはそれを見てその肩に手を触れそうになり、引っ込める。「……俺も詳しい事情までは分かりません。ですが、」
小翠が正輝の肩に手を置く。
「っ!!」
「苦しい時には苦しいと言うのが勇気という名の強さです。誰にも弱さを見せないのが強さではありません。この怜悧のように……」
小翠が正輝の手を引き、気を失ったままの怜悧の肩に乗せた。そして……
「俺、余計なことをしてしまったでしょうか?」
数時間後の保健室。突貫工事で壁を塞いだそこのベッドで正輝と怜悧が眠っている。
「……いえ、」
せつな、刀斗が正輝の吐瀉物などの掃除をしていた。
「今、兄は……正輝は女の子を意識できません。彼女を目の前で失ってしまったから……」
「…………そうですか」
小翠は自分の手を見て目を伏せる。
「それにしてもさっきの化け物みたいな女の子は何でしょうか?」
「わ、私も知りません……。何か私達の妹みたいなこと言ってましたけど……」
「少ししか見えませんでしたが、何か下半身が……」
「はい……イカとかタコみたいに……」
「怜悧を強く縛っていたように見えますからただのコスプレとかではないようですが……」
そこで小翠の視線が雷歌へと。
「そもそもあなたは?」
「俺は甲斐機関の人間だ」
「甲斐機関……そうですか」
「あの、会長は私達のことを……?」
「……直接聞いたことはありませんが、怜悧からそれとなく察する要素はありました。そもそも同姓同名でしたしね」
「……ま、まあ、確かに姉さん隠してませんからね」
「……それで、甲斐機関はさっきの少女については?本当に甲斐廉の娘なんですか?」
「あれは甲斐廉の娘ではない」
「え、」
「あれは黒主零の娘だ」
「……くろすぜろ?誰ですか?」
「あの男の別世界での名前だ。それ以上は部外者がいる間は話せない」
雷歌の目が小翠と刀斗を見ている。
「……別世界、もしかしてたまに結羽やあなたが私を美咲って呼ぶのは……」
「お前の別世界での名前は黒主美咲だ。俺も黒主美咲としてのお前はよく知ってる。甲斐せつなは初めてだ」
「……黒主美咲……」
「……何だかよく分からない話ですね。変な事情に巻き込まれるのも嫌ですのでいったん口を慎みますか」
「……ん、」
そこで雷歌がスマホを見た。
「甲斐廉からだ。娘達を回収したいとの事だ。俺が正輝を運ぶ。誰か怜悧を運んでくれ」
「……やってみる」
せつなが怜悧を起こして何とか歩かせる。体格が違う上運動不足であるせつなでは少しきつい。
小翠は手を貸そうとしたが、同じように手を貸そうとしていた刀斗を制して立ち止まった。
「俺達部外者はいない方がいいでしょう」
「……それもそうですかね」
「……悪いな」
雷歌は正輝を米俵のように肩に担ぐと、怜悧を持ち上げる。
「あ、」
「せつなはドアを開けたりしてくれ。駐車場まででいい」
「……うん、分かった」
「……それと、」
「え?」
「……そこの心美小翠じゃないが、お前がこうして学校に来たこと。その勇気は間違いなくこいつら二人にとってプラスだ。こんな時でもなければ喜んでいただろう。……そこは勘違いするな」
「……うん、ありがとう」
夜。黒主家。
「……はあ、」
甲斐がリビングでため息をつく。精神科の医師を呼んで怜悧とついでに正輝も診てもらおうとしたが結局二人とも目を覚まさなかった。一応正輝の方だけは口頭での問診をした結果やはりPTSDとなっている可能性が高いとのことだった。
「お疲れ様です」
そこへ結羽がやってきて麦茶を差し出した。
「すまない。……子供達は?」
「怜悧さんと正輝さんは変わらず。せつなさんは既にお休みになられました。お疲れのようでしたので……」
「無理もない。久々の学校な上に怜悧と正輝がこれだからな。本当はもう少し休んでてもいいんだが、」
「せつなさんは自分に出来ることをやりたいそうなので」
「ああ、分かってる。……にしてもどうにかならないものか」
再びため息。
「……そう言えば今日矢尻は?」
「矢尻さんは娘さんを看ています」
「翼ちゃんを?何かあったのか?」
「それが昨日の件をやはり気に病んでいるようで……」
「……あー、」
思い出す。幻覚が見えているかのような怜悧の姿を目の当たりにして号泣していた。しかも確か翼はサイボーグ状態の歌音から攻撃を受けて一度正輝の前で心肺停止している。責任を感じているところもあるのだろう。
「……困ったものだな」
「……私は今までいろいろな世界を見てきました」
結羽が語る。甲斐は視線を向けた。
「魔法とか世界の命運とか。そう言うSFな世界が多かった。けど、それがほとんどないこの世界が私は一番心が苦しいです……。こんな、こんな正輝さんは初めてで……」
「……何が間違ってたんだろうな」
甲斐が天井を見上げた。
怜悧、これでいいんだよね?私、正輝達を守ってる。
怜悧、これでいいんだよね?私、小翠と戦って、剣道部最後の大会に出るんだよ。
怜悧、怜悧?どうしてそんな顔をしているの?怜悧、いつもみたいに笑って。
だって、怜悧がいけないんだよ?正輝や翼を悲しませたから……せつなに手を出そうとしたから。
でも、怜悧は私と違っていつも正しい。だからもしかしたら私がやったことは、やろうとしたことはいつも間違ってるのかな……?だから正輝があんなに……ねえ、怜悧。答えてよ。私と怜悧、どっちが正しいの?
私も怜悧もよかれと思った事をしてどうしてこんなに悲しいのかな?ねえ、怜悧?
「ここよ」
メナージュが潮騒の風を浴びながら指を指した。船で揺られながら研護が視線を向ければその先に大きな桜の木が見えた。
「10月なのに桜が咲いている……!?」
「初音島の枯れない桜の木。魔法で生み出された願望器のようなもの。最初はこれを作った魔法使いが自分の孫を支えるためのものだったけど、やがて人々の純粋な願いに反応してどんなことでも叶えてしまう呪いの道具となってしまった」
「何でだ?」
「純粋な願いならどんな願いでも叶えてしまうからよ。結局その孫娘の手で一度は枯らされてしまった。けどそれからも北欧から来た少女や、孫娘の手で何度も復活を果たしている。制御できるなら、と」
「制御できているのか?」
「厳しい話ね」
「……そんなものに俺達は今から世界の破滅を防ぐよう願いに行くのか」
まだいまいち現実味がない。自分自身や妹達すらその手の魔法で増やしているにも関わらずに。
「けど、大丈夫なのか?地球の命運すらどうにか出来るのか?その魔法の力は」
「……難しい話ね。枯れない桜の木の魔法が、本当に魔法によって為されているものなら可能性はあるわ。けど、音終島のようなその血に根差した力だった場合ヒディエンスマタライヤンが手を加えていないとも限らない。ヒディエンスマタライヤンは地球に根付いている。その上で今は地球の管理人がいない状態だから、ヒディエンスマタライヤンが好き勝手出来るのよ」
「なんだよ地球の管理人って」
「ザ・プラネットよ。いろいろな星に存在する管理人で、その星を管理している存在。星に籠もっての防衛戦なら騎士やパラドクス相手でも互角以上に渡り合える。けど今地球にはいないのよ」
「……つまりその枯れない桜の木で願いを叶えるのが地球の管理人の役割だったらそれは今ブランチが握ってるからブランチが起こそうとしている地球のリセットを防ぐって願いはそりゃ叶えられないって事だな」
「ええ。そう言ってるじゃない」
「わかりにくいんだよ、専門用語が多い上にスケールが段違いだから」
「そう。覚えておくわ」
「……ったく。……そろそろ港に着く頃か」
研護が降りる準備をしていると、視線の先にどうにも見過ごせないものがあった。
「……」
音終島。既に人の住んでいない水没した人工島。かつて自分が生まれた場所。
(……まさかまた見ることになるとはな)
やがて、船が港に着き、研護とメナージュが降りる。
「で、向かうのは枯れない桜の木か?」
「ええ。ここから結構歩くことになるわ」
「マジかよ」
それから二人が歩くこと数時間。詳しい位置はメナージュも把握していなかったためかなり迷った結果既に夕暮れとなっていた。
「ったくどれだけ時間が掛かったんだよ全く」
「仕方がないじゃない。地図持ってないんだから」
「……ん、誰かいる」
汗だくになって歩く研護。その視線の先に少年一人と少女二人がいた。
「驚いた。おばあちゃんが言ってたことはホントだったんだ」
アッシュブロンドの髪をした少女が告げる。
「別の世界から魔法使いが来るなんて、おとぎ話の中だけだと思ってたよ」
「……何の話をしているんだ?」
「……まずいわ」
「え?」
隣を見ればメナージュが顔色を変えていた。
「どうした?」
「あれは世界が忘れた少女……もうひとりのメナージュ・ゼロ……私が会うわけは行かないわ。それに、2016年にどうして……?まさか時間をいじられた……!?」
「お、おい、メナージュ?」
「撤退よ。あの桜の木に魔力は感じられない」
「は?」
急ぎ足でメナージュが撤退を始めた。研護は訳が分からないまま踵を返し、
「すぐ忘れちゃうと思うけど、一応名乗っておくね」
後ろ、大きな桜の木を背に少女が語る。
「あたしは、アイシア。よろしく」
(……あれ?普通に名乗ってる?メナージュ・ゼロって本名名乗れないんじゃなかったのか?)
「どうしたの研護?」
「いや、あの子。普通に名乗ってるけど……」
「ああ、あの子はいいのよ。意味がないから」
「意味がない?」
「あの子は世界が忘れた少女。あの子が何をやっても世界側があの子の言動を記録しない。そうすることで辻褄を合わせているのよ。あなたが私の本名を知っているようにあの子に関しても強い魔力の持ち主ならきっとあの子のことを覚えていられるわ」
「……あの子とは知り合いなのか?」
「いいえ。私が一方的に知っているだけ。……先を急ぎましょう。帰りの船がなくなるわ」
急ぎ足のメナージュ。研護も後を追いかける。しかし、
「……困ったわね」
港。既に最終便は発った後だった。
「お、おい、高校生にホテルとか泊まる金ないぞ……?」
「そうね。私も持っていないわ」
「……てか一応俺未成年でお前成人してるわけだから俺に何かあったらお前が逮捕されるぞ……?」
「それは困ったわね」
「……そうだ。魔法で何とかならないのか?」
「難しいわね。この前のラストとの戦いで私は無理矢理ナイトメアカードを使った。あの分の消耗がまだ回復できていない。今無理に魔法を使ったらどうなるか分からないわ」
「……マジかよ」
研護がうなだれて何度も船の予定を見るがもちろんその日の便は既になかった。
「はぁ、どうしようか」
「何だ?乗り遅れか?」
声。二人が振り向けば漁師らしい男がいた。
「え?あ、はい」
「そうかそうか。なら俺の家に泊まるか?」
「え、いいんですか!?」
「もちろんだ。港町に住んでたらこう言うのはよくあることだ。気にすんな」
「あ、ありがとうございます!!俺、赤羽研護って言います!!」
「長倉大悟だ。よろしく」
「長倉大悟……!?」
メナージュが小さく驚きの声を上げた。
「そっちのはお姉さんか?」
「えっと、みたいなものです」
「今日は妻がいないんだがまあ、一晩くらいなら大丈夫か。OK。一緒に来てくれ」
大悟がトラックに二人を案内する。そのトラックで揺られている間。
「おい、この人がどうかしたのか?」
小声でメナージュに問うた。
「……長倉大悟は矛盾の安寧の主よ」
「矛盾の安寧?今度は何なんだよ」
「昔、幼馴染みの女の子が死んだ時に音終島の桜の木に願ったことで世界は分岐した。彼女が死ななかった世界と死んでしまったままの世界に。この死ななかったイフの世界を矛盾の安寧と呼ぶのよ。分岐したイフの世界だからこそその世界で時間が進むごとに本来の世界は大きく歪んでいく。でもそれを知った長倉大悟は現実と向き合って元の世界を選び直したのよ」
「……またすごい話を突然するなお前は」
「……世界の裏側ではそこそこ有名人なのよ」
「けど、その話が本当なら妙なもんだな。ある意味では俺達も今から世界を分岐させるかも知れないのに」
「……」
メナージュは答えなかった。
やがて、トラックは一軒家に到着する。
「ここだ。まあ、一晩は好きにしてくれ」
「ありがとうございます!」
大悟が部屋を案内する。と、
「あれ、お父さん。お客さん?」
一人の少女が出てきた。年齢は研護よりやや年下の中学生くらいだろう。
「ああ。最終便に間に合わなかったらしい」
「そうなんだ。あ、私は長倉光って言います」
「赤羽研護です」
「……メナージュ・ゼロよ」
「めな……?」
「気にしないで」
「は、はい」
「メナージュさん。部屋が少ないから申し訳ないけど娘と同じ部屋で今日は過ごしてくれないか?妻の部屋もあるけど流石に勝手には使えないから」
「ええ。ありがとうございます」
「あ、案内しますね」
光がメナージュの手を引いて自分の部屋へと向かう。
「長倉さんは漁師なんですか?」
残った研護が大悟に訪ねる。
「ああ。元々は隣、音終島で生まれ育ったんだけど水没して住めない環境になったからな。そう言う人達用にこの初音島で漁師になるキャンペーンがあって。もう10年くらいやってるが中々いいもんだぞ、漁師」
「は、はあ……」
「で、研護君はどうして初音島に?」
「俺も実は音終島で生まれたんです。でも、沈んだって聞いたんでこの初音島に……」
「そうか。正直あの島にいい思い出はないけど、それでも故郷がなくなるのは嫌だもんな」
「……そうですね」
「……よし、暗い話はなしだ。これから夕食を作るから待っててくれ」
「あ、はい。ありがとうございます!!」
台所に行く大悟。
(……しかし、この少年。あのファンタズマ……カシワギサヨコと同じような気配を感じるんだがどういうことだ?)
一瞬だけ振り返り、研護の様子を窺った。
朝焼け前。まだ瑠璃色が空を支配する朝早く。
「……」
制服姿の怜悧が玄関へと移動する。
「……」
玄関には竹刀袋がある。しかし中の竹刀は折れたままだ。
それを怜悧は持たずに靴を履こうとした時。
「どこへ行くつもりだ?」
声。振り向かずとも分かる。父親の声だ。
「……」
「怜悧。お前は自分が何をしているか分かっているのか?別に悪いことをしているわけじゃないし、咎めようとしているわけでもない。確実にお前の身に何か起きているのは誰も疑っていない。誰もお前が演技をしているなんて思っていない。むしろちゃんと、」
言葉は終わった。怜悧が折れたままの竹刀を甲斐に向けていた。
「……っっ!!」
その表情、目の色を甲斐は知らない。悔恨とも絶望とも憎悪とも違う。だが、行動の意味は分かっている。
「怜悧。今日はちゃんと休むんだ。一緒に病院に行こう。昨日のうちに連絡を取ったからお母さんも今日中には来る。また家族みんなで暮らそう。だから今は……」
「……じゃ……な、い」
「怜悧……?」
甲斐の前。必死に言葉と声を絞り出す怜悧の表情。
「みんな……じゃない……れいり……れいりが……れいりは……れいりは……」
「怜悧……」
「れいり……こえが、きこえないよ……れいり……れいり……れいり……」
「もういい、もういいんだ!!」
怜悧を抱きしめる甲斐。
「もういいんだよ……怜悧。お父さんが間違ってた……ごめん。ごめんよ、怜悧……」
「……れいり……ちがうよ、れいり……いないよ……れいり……」
怜悧はただうつろな目で必死に竹刀を握りしめていた。
リビング。朝が来て正輝が目を覚まし、そこへやってくるとやはり空気は重かった。
「あ、正輝様」
「アリス……おはよう」
いつもより数歩下がった距離でアリスが笑顔を見せる。
「正輝」
キッチンの方からせつなもやってきた。
「せつな……今日も学校に行くのか……?」
「結局昨日あまり授業受けられなかったから……でも、」
せつなの視線はソファの方に。そこには怜悧が座っていた。今でもまだ折れた竹刀を握ったまま、どこでもない場所を眺めている。
「……姉さん」
正輝が歩み寄ろうとしたところで雷歌がそれを止めた。
「雷歌、」
「掃除の手間をかけさせるな」
「……っ、」
正輝は少しの間、壊れた姉を見て自席に戻った。そして少し離れたところで電話をしている父の姿を見る。
「……まだいたのか」
「……流石に家族がこうなってるんだもの。仕事を優先なんて出来ないでしょ」
せつなが正輝にホットコーヒーを渡す。
「……悪い。ところで、美咲さんは?」
「矢尻家の方に行っていますよ」
「矢尻家?師匠のところに?どうして……」
「ここはお館様がいますから。それに今翼様も……」
「翼がどうかしたのか?」
「…………その、」
言い淀むアリス。正輝が近づこうとしてその足を止める。
「……くっ!」
動かない自分の足を小突く。しかし震えるばかりだ。
「……翼は少し責任を感じてるらしいの」
せつなが兄の背中に話す。
「自分が原因なんじゃないかって」
「そんな、翼が何をしたって言うんだ……」
「お前の前で一度死んだだろう」
雷歌の声に正輝の脳裏でまた蘇る記憶。
「……くっ!!」
必死に嘔吐を堪え、頭を振る。
「雷歌……俺達はどうしたらいいんだ……?」
「乗り越えることだ。何か別なことでも考えて、そうすれば時間がやがて今の全てを過去にしてくれる」
「そんな無責任な……!!」
「責任を追及した結果、家族をこんな目に遭わせた男を俺は知っているぞ?」
雷歌の視線は一瞬だけ甲斐の方へ。正輝はそれを追いかける必要もなかった。
「……どこに連絡をしているんだ?」
「精神病院だ。一度怜悧を医者に診せてこれからどうするのかを決める。今の怜悧はもはや正気じゃない。一般人の手には負えないからな」
「……けど……!」
正輝が拳を握りしめ、怜悧の傍に寄る。
「そうやって逃げるのかよ!!歌音を殺した事から……!!!」
「正輝……」
「おい、やめろ」
「姉さん!!そうやって現実から目を背けて……あいつが浮かばれるのかよ!!姉さんの代わりに今まで生きてて、そして死んだあいつを姉さんが覚えてやらなくてどうするんだよ!」
勢いのままに怜悧の肩を掴む。
「好き放題に俺を殴って蹴って投げ飛ばして、多分歌音にも同じ事をしたんだろ!?そんなあんたが何でそうやって被害者みたいな顔をしてるんだよ!!甲斐廉の娘である甲斐怜悧はそう言うのが嫌いだから本名を名乗り続けてきたんじゃないのかよ!」
「正輝……」
せつな達を背に、嗚咽と胃液をこぼしながら正輝は噛み付くように怜悧を睨み、迫る。
「俺は逃げない……あいつを助けてやれなかった俺自身の責任と、あいつを殺した姉さんへの憎しみから、絶対に逃げない……!この苦しみを絶対に忘れてなんてやるものか……過去になんて変えてやるものかよ!!」
襟首を掴みあげ、その虚無の目を睨んで叫ぶ。
と、
「……そう。正輝が覚えてるならそれでいいや」
「え……」
怜悧の口から弱々しい言葉が漏れた。
「……姉さん……」
「あーもういいや」
怜悧は折れた竹刀の柄尻で正輝を突き飛ばすと、まっすぐリビングを去った。
「……え?」
倒れ、仰天する正輝の顔面に折れた竹刀が落ちてきた。
学校。正輝とせつなが遠巻きに3年生の教室を眺める。視線の先には怜悧がいる。まだどこか元気がなさそうに見えるが、普通にクラスメイト達と接しているように見える。
「……姉さん何があったんだよ」
「分からないけど、正輝の言ったことに何か関係があるんじゃないの?」
「え、あれで?」
ドアに隠れながらコソコソ話をしていると、
「お二人さん」
「「!?」」
声がしたので振り向くとそこには男子制服姿の美少女が立っていた。即ち小翠である。
「か、会長……」
「怜悧が気になるんですか?」
「そ、それはもちろん……」
「確かに今日の怜悧は昨日までの怜悧ともまた違ってどこかおかしいように見えます。俺にもそう見えるんですからご兄妹にはもっと不自然に見えるのでしょう」
「……」
小翠の言葉にせつなが目を伏せる。
「剣道の稽古も普通通りにやっていました。でも、まだ昨日の怜悧の方が強かった」
「どういうことですか?」
「気をつけてください。今の怜悧はもしかしたら昨日までより危ういかも知れません」
「……昨日までよりも……?」
二人は話しかけることすら出来ずにただ怜悧の姿を見ているだけだった。
それはどこまでも続く暗い闇の水平線。黒の波の代わりに全ての曇天が揺れる天地無用の修羅場。
体に感覚はなく、目から見える暗黒の景色に神経と血管が萎縮する。ならばこれは悪夢という奴だろう。
「悪夢の明晰夢……最悪な奴だな」
自分自身の声で研護は目を覚ました。
見慣れない天井を見て経緯を思い出す。
「……大悟さんはいないか」
隣の布団を見る。既にこの家の主人は海に出たらしい。
「……このままだと大悟さんに何も言えないままこの島を出ることになるな。それは何とか避けたいけど、」
起き上がり、着替えてリビングに向かう。
「ってか泊まっちゃったじゃんか。一応父さんには言っといたけど仕事大丈夫か……?」
豆腐を作らない朝は思い出せないくらい久しぶりだ。時計を見れば朝はまだ5時半程度。いつもよりは遅いがそれでも普通の生活をしている人間からすればかなり早いだろう。
「しかも初対面の相手の人間の家。どうしたらいいんだ?」
日を跨ぐことになるとは思わずゲームの類いも持ってきていない。最近姿を見ないあの相棒に妙な遠慮が生まれる。
寝直すにしても完全に目が覚めてしまっている。
「……散歩にでも出かけるか」
鍵は持っていない。なので仕方なく庭から外に出ることにした。
「……初音島か」
まだ朝日が昇ったばかりの島を研護は一人で歩く。水平線の先にはやはり音終島の姿がある。
恐らく音終島を歩いていたとしても向こうから初音島は見えていたのだろう。
「……音終島か」
自分の生まれた場所というよりメナージュが長年封印されていた場所という認識が強い。
(……そう言えば大悟さん、世界をどうにかしたとかメナージュが言っていたな。俺に増やす魔法があるように大悟さんにも何か魔法があるのか?こんな不思議な力を持って大悟さんはどうしたんだろう……?)
いろいろ考えながら歩いていると、
「あ、」
港に一人の少女がいた。どこかで見た気がするが、思い出せない。
「ん……わ、珍しい。こんな時間に男の子がいる」
「え、あ、」
少女のルビーのような目がまっすぐ自分を見た。
「う~ん、幽霊じゃないよね?」
「えっと、その、」
「あ、ごめんね!話しかけちゃって。あたしは、船が来るのを待ってるんだ」
「船って……」
まだ朝は早い。この時間に動く船があるとしたら漁船だろう。当然この少女がそれを待っているとは思えない。だから本島か外国に行く旅船を待っているという意味だろうが、流石に時間が早すぎる。
「あ、もちろんまだまだだって知ってるよ?でも、行く場所がなくって」
「行く場所……?もしかして昨日のに間に合わなかったとか?」
「みたいな感じかな。それより君はどうしたの?いくら初音島でもまだクリパの時期じゃないから補導されちゃうよ?」
「クリパ?」
「あれ?この島の子じゃないの?」
「……生まれは音終島なんですけど。今回はちょっとだけ旅行に」
「そうなんだ。じゃあ君も船を待ってるんだね」
歩み寄ってきた少女。中学生くらいに見える。しかしその雰囲気にはどこか大人な感じも混じっていた。
(何だこの子……まるでメナージュと一緒にいるみたいな感じがする……。それに、以前どこかで会ったような気がするのに全く思い出せない……)
「あの、どこかで会ったことありますか?」
そう問うと、少女は一瞬だけどこか悲しい表情をしてから、
「ううん。ないよ」
笑ってそう答えた。
やがて、朝日が昇り少し。
研護が大悟の家に戻ってくる。
「あら、どこに行っていたの?」
メナージュが起きて朝食のトースターを食べていた。
「散歩にな。それで……えっと、何だっけ?」
「どうしたの?寝ぼけているのかしら?」
「いや、誰かに会ったような……」
「…………そう。何でもいいわ。光ちゃんに聞いたところ最初の便は後1時間後よ。光ちゃんは学校に行ったし長倉大悟は仕事。どちらも気にせずに帰って構わないそうよ」
「……そうか。じゃあ仕方がないけどこのまま帰るとするか」
研護は財布の中身を全て複製してテーブルの上に置く。
「これでいいだろう」
「…………研護、一応言っておくわ」
「何だ?」
「あなたのその力、もう使わない方がいい」
「どういうことだ?」
「私と会った頃のあなたならまだ彼女のことを数日は覚えていられたはず。その程度の魔力はあった。けど、今のあなたは一般人と大差ない。あなたのその力は回復しない力よ」
「……もし、限界まで使ったらどうなる?」
「あなたの存在は摩耗し、その果てに消滅するわ」
「……そうか」
「冷静ね」
「まあ世界の消滅がどうとか言われた後ならな。どっちにせよ変わらないなって」
「ならどうするのかしら」
「……」
「結果が変わらないかも知れない。それであなたは諦めるのかしら」
「……最後まで望みは捨てない。……なんて格好いいこと言えない。ただ、何かはし続けていたい」
「……勝手な答えね」
「俺は一般人だからな」
研護はメナージュの皿からトースターを一枚奪って口に放り込んだ。
それから数時間ほどして研護達はようやく見慣れた風景へと帰ってきた。
成果はない。ただ大悟への悔いを残したままの帰還。
「そう言えばラストはどうしたんだ?」
「まだ甲斐機関にいるわ。ヒディエンスマタライヤンが廉ちゃんをどうするか分からないもの」
「廉ちゃんね。……会うわけにはいかないんだよな?」
「ええ。迷惑はかけられないわ」
「……そうか。……じゃあ、やることは1つだな」
そう言って帰宅してから研護はラストパラダイスのゲームを起動した。
「何してるのかしら」
「いや、クリアしていないゲームを放置したまま世界滅亡なんて嫌だからな」
「……そのゲームは危険よ。間違いなく裏世界の手が加わっている。私ももう好き勝手するほど魔力は回復していないわ」
「それでもいいだろ。ただ、二人でゲームしようぜ。あそこでならお前を本名で呼べるんだから」
「……それが目的?」
しかしメナージュの目は笑っていた。