零式暫界~第4話「4機関オークション」
・8月最終週。白熱を通り越して熱狂の西武大会から約2ヶ月が経過した。
既に2学期は後半を迎え、多くの3年生は試験勉強よりも受験勉強を意識していた。かつて拳の死神とまで言われ空手の全国大会で都度優勝候補とされていた実力者である甲斐廉もまた例外ではない。
実際、円谷高校ではこの時期だけ中間テストも期末テストも赤点の基準が40点以下から20点以下にまで繰り下がっている。
とは言え学校のテスト如きで赤点をとるようなら多くの場合受験で成功するわけがないのだが。
「そろそろ11月か」
甲斐がつぶやく。また寒い時期がやってくると嫌でも今年1月のあの試合を思い出してしまう。赤羽ほどではないが既に右足の人工義足にも慣れつつあった。正座は出来るし、縮地でなら100メートル走もたやすい。階段の上り下りや飛んだり跳ねたりは若干厳しいが日常生活という面ではおおよそ問題ないレベルにまで回復していた。
「ってわけでそろそろ実戦に戻りたいんですが」
「馬鹿は寝てから言え」
主治医の宇治に相談したらばっさり切られた。
「お前、自分の足の事甘くみすぎだ。やっと日常生活に戻れる程度だぞ?西武程度ならともかくカルビや全国なんて夢のまた夢だ」
「そこを何とか!加藤先生に聞いたら宇治先生からドクターストップがかけられてるから試合に参加させられないって……!」
「そりゃそうだ。俺はお前の主治医だからな。本来なら早龍寺の面倒も最後まで見たかった」
「は?早龍寺?あいつがどうかしたんですか?まさか死……」
「んでねえ。西武の少し後くらいにほかの病院に移ったんだよ」
「ほかの病院?」
甲斐は疑問する。自分の右足も赤羽の全身も治してくれたのは大倉機関の技術だ。まだ日本でも世界でもそんなに取り扱っていない人工義体の技術を使って不可逆に近い肉体の損傷を"直"せるのは自分が知る限り、そして予想だに出来る中ではほかに存在しない。
「ほかに全身義体なんて出来る病院があるんですか?」
「ない。早龍寺の場合は肉体が問題じゃない。脳に深い傷を負って意識が戻らない状態なんだ。むしろ逆に大倉で施せる事なんて限られている」
「……じゃあ脳外科?に行ったんですか?」
「……それが俺もよくわからないんだ。大倉会長からの指示でな」
「……大倉会長……」
大会になると会える大倉道場ひいては大倉機関の会長・大倉和也。甲斐もまだ数えるほどしか会話したことがない。去年までは雲の上の人物という印象でしかなかったが最近は少し違っていた。大人の事情というのもあるのだろうが正直胡散臭いとさえ思ってしまっている。
「どこの病院に?」
甲斐が何気なく質問すると宇治はたばこを吸いながら表情を難しくする。
「先生?」
「……お前のところだよ」
「は?」
「だから……甲斐機関」
「………………はぁ!?」
甲斐機関。春先頃から突然存在感を露わにしてきたその組織は単に甲斐と名前が同じだけではない。甲斐が幼い頃に生き別れた父親である甲斐修治が社長を務めている組織であり、種違いの妹である和佐や腹違いの妹である杏奈。そして今年の1月から弟子として面倒を見ている赤羽美咲も所属していたという超身内組織だった。
大倉機関や伏見機関、三船機関と言った甲斐が決して無関係とは言えない3つの組織のスポンサーであり、親会社でもある甲斐機関。その社長である甲斐修治は息子同様何か記念さえあればそれに合わせてとんでもないことをしでかす悪癖があり、ここのところ気を休められていない。
ただ迷惑と言うだけならまだしも、死者まで出ているのだから甲斐としては虫の居所が悪すぎる。そりゃそんな甲斐の事をよく知っている宇治ならこう明言を避けた言い方になるのも無理はないだろう。
そして今、1月の全国大会の準決勝で甲斐と死闘を繰り広げた末に引き分け、以降意識不明のままである馬場早龍寺の身柄が甲斐機関に移動されたとあれば穏やかではないだろう。
「……はぁ、治る見込みあるの?」
「人工義体の技術そのものは大倉が発祥だが、しかし甲斐機関も世界の10年先の医療技術を持っているとされる組織だ。専門外の大倉病院よりかはマシだと思いたいな」
「……ん、人工義体って大倉機関が最初なんですか?」
「ああ、そうだ。つい最近確立されたんだ。尤も、裏ではどうなっているのか分からないがな」
口から大量の煙を吐く宇治。
「話を戻すが、お前はまだ世界には戻れない。俺の見立てじゃ2年は様子見だな」
「2年もですか!?」
甲斐はそろそろ18歳になる。それなのに2年試合に参加できないとなれば未成年の期間が終わってしまう。
「それじゃ俺成人してますよ!?」
「確かに雷龍寺がとった未成年最強の称号は得られないだろうな。だが、お前の空手はそれだけか?」
「……」
「2年すればまた空手が出来るかもしれないって言ってるんだ。大人になってからまた空手を始めればいい。と言うかな、昔から言いたかったが空手を現実逃避に使うな」
「な、何ですかそれは……」
「お前が空手を大好きなのは分かってる。正しいだろう。けど、お前の場合もっと大好きになるかもしれないもの、なってるものもあるのにそれを見ない振りして空手に打ち込んでる。空手の出来なくなった今でもまだほかに趣味を見つけることなく空手だけに道を求めている。……俺はそれが気がかりなんだよ。俺だけじゃない。最首も斎藤もそうだ」
2本目に火をつける。
「もしもお前が空手を逃げ場所として見ずにちゃんと正面から受け止めていれば早龍寺にも勝てたかもしれないな」
「……」
甲斐は何も言えなかった。
「……そうだ。部外秘の情報なんだがな」
「え?」
「俺とお前がここで会うのは今日が最後だ」
「先生、機関をやめるんですか?」
「詳しくはまだ話せない。ただ、ちゃんとお前の足が治るまでは診てやるから心配はするな。尤もお前がどういう判断をするのは分からないがな」
円谷学園学生寮。基本的に全寮制のこの中高一貫校は身よりのない子供を生徒として積極的に入学させている傾向が強い。バリアフリーはもちろんマスコミ対策もばっちりであり、卒業生であっても部外者は簡単には敷地には入れない。
「……っていう触れ込みだけど入るどころか住入ってる奴が何人かいるんだよな」
「いいじゃない。もうここの生徒なんだから」
「同じく」
中庭。まあまあ閉鎖的な環境な中で数少ない直射日光が差す場所。そこに最上火咲とリッツ=黒羽=クローチェがいた。
二人は元々三船機関の人間だ。三船所長が行っていたとされる人体実験から逃げてきたという火咲と、その腹違いの妹である赤羽美咲のクローンであるリッツ。いろいろあって、危険性もないため今はこの学生寮に住み着いている。地味に身寄りがないと言う条件も満たしているので学園長としては断りようがない話だ。……どちらも裏では殺人まで犯しているとされるのだがそこまで言う必要はないだろう。
「何しょげた顔してるのよ。どうせまだしばらく空手やるなって言われたんでしょ?」
「よく分かるな」
「あなた、わかりやすいもの。いくら昔より医術が発達してるからって無理しないでよ。どんな傷でも治す魔法のアイテムがあるわけでもないんだし」
「……分かってるが、じれったいのは仕方ない。赤羽や久遠、矢尻が西武で予想以上の成果出してどこか嫉妬しているのかもしれないな。吹っ切れたって口で何度言っても性根はあまり変わらないもんだな」
ため息付きながらベンチに座る。肩と肩が触れ合ったが火咲は拒まなかった。
「……不思議だな。火咲ちゃんとこうしているのが初めてじゃない気がする」
「…………気のせいよ。あなたには綺麗なお嫁さんがいるんだから私なんかに浮気してるんじゃないわよ」
「別にそんな気は……」
「知ってるわよ知ってますもう聞きました!」
「……火咲ちゃん?」
甲斐が怪訝にその姿を見る。
「…………何でもないわよ。あなたにはあなたの道がある。好きにすればいいのよ。それが正解なのよ。いい?誰にも誤魔化されちゃいけないわ。あなたはあなたが決めればいい」
「……火咲ちゃん」
「それだけよ。私はもう少しここにいるからあなたはどっか行きなさいよ」
「あ、ああ。ありがとう、火咲ちゃん」
甲斐はベンチから立ち上がり、軽く手を振ってから去っていった。
「……最上火咲。あなたからは時々2号機と同じ気配を感じる」
「りっちゃん、もう一回診てもらった方がいいんじゃないの?」
「私が修理中だった間に何があったの?2号機も甲斐機関も様子がおかしい」
「……りっちゃん。デジタルなりっちゃんには分からない方がいいよ」
「……私のデータベースの中に0号機と言う存在がある。基本的にそれはシフルだと思ってるけど、あなたの場合と言う可能性もある。1号機は赤羽剛人。2号機は赤羽美咲。3号機は白夜一馬。私達クローンはその中にない量産型。だとしたらあなたは……」
「三船のナンバリングなんて気にしなくていいわよ。……私は関係ない」
「けどシフルはあなたから作られた。なら、」
「…………0号機か。確かに一応確認しておいた方がいいかもしれない」
「え?」
「りっちゃん。0号機はまだ日本にいるんでしょ?ちょっと会いに行くから」
歩き出した火咲をリッツは慌てて追いかけた。
寮内食堂。中庭を除けば基本的に寮内で大人数が集まることの出来る数少ない場所。朝昼夜と学生なら無料で食事が出来る。
時刻は13時過ぎ。一応病院での診察があった手前、今日は何も食べていない甲斐としてはそろそろ腹一杯食べたいという感覚だ。
「お、」
ラーメンとカツ丼をトレイに乗せて空いた席を探していると、再び見慣れた顔を見つけた。
「ども」
「どもどもです!」
4人席。そこに矢尻達真、矢尻陽翼、権現堂昇が座っていた。
達真の彼女である陽翼はこの春くらいまで長年意識不明で入院していたが甲斐機関の技術のおかげで目を覚ました。それから夏の終わりくらいまではリハビリ込みで入院してたがこの学校に2学期より在籍することになった。
達真の話を聞く限り彼女の両親は一応健在だと思われるのだが事情が事情であるが故にいないも同然であるため、この学園で生活する条件は満たしている。尤も流石に甲斐や達真もいろいろ緊張する背景の中だったが。
「ここ、いいか?」
「大丈夫です」
「いいですよー!」
「陽翼ちゃんは元気いっぱいだな」
権現堂の隣に座り、早速食事を貪り始める。
軽く紹介をしておくと、3人とも甲斐より2つ年下(陽翼は事実上戸籍がないため証拠はない)だ。
矢尻達真。中等部の頃から道場に通わず学校の空手部で稽古をしていた。当時はまだ部員が達真しかいなかったが高校に上がってからはいろいろあってそこそこ部員が増えた。一応甲斐の後輩でも弟子でもないのだがそれに近い関係ではある。8月の西武大会では決勝まで勝ち残るも惜しくも敗れ準優勝に終わった。もちろん初出場と言う経歴からすれば大変優秀な結果だろう。なので大会後に甲斐からめいっぱいしごかれた。ちなみに現在は甲斐の妹や弟子と共に稽古を続けている。
矢尻陽翼。前述通り達真の彼女であり事実上の嫁。とある事情により長い間海外で暮らしていた。ある意味誰より日本人だが日本人としての戸籍はない。本来なら名字もないし。ちなみに女の子のため当然ながら本来だと女子の部屋に入るはずなのだが絡んでる事情が事情のため達真と同じ部屋で生活している。
権現堂昇。とても16歳には見えない巨漢。柔道部。達真の幼なじみらしい。両親は健在と言えば健在だが父親の武者修行に母親がついて行った結果長年一人らしい。既に柔道のオリンピック候補生として名が上がっていて高1ながら大学やそれ以降の進路が決まっているとのこと。ちなみにこの夏までずっと達真と同じ部屋で暮らしていたがその席を陽翼に譲り、自身はほかの男子の部屋に移った。
「ってところか」
「何がですか?」
「何でもない。それより矢尻、12月のカルビには出場するのか?」
カルビ大会。正式名称は全日本空手制覇選手権大会。全日本空手大会こと全国大会の1ランク下の大会であり、出場条件は西武大会で2位以上であること。準優勝だった達真には出場資格がある。
「いえ、まぐれとは言いませんが初出場の俺には調子がよすぎた。12月はもう一度西武に参加するつもりです。その場合、また決勝まで行かないとカルビに出られないんですか?」
「いや、1年以内なら問題ない。西武は4の倍数月に、カルビは6の倍数月に開催される。矢尻は8月で出場資格を得たから来年の8月までは有効だな。今度の12月で西武に出て、その後来年の6月のカルビに出ればいい」
「……来年の6月ですか」
達真がつぶやく。その意味を甲斐は理解するのに少し時間が掛かった。甲斐は3年生だ。よって来年の6月にはもうこの学園にいない。中1の頃から都合6年生活した環境だから離れるとなると寂しいが仕方がないことだ。
「そう落ち込むな。恐らく大倉道場の所属に戻るだろうから大倉道場に来てくれればいつでも稽古を付けてやるぞ」
「赤羽達との稽古はどうするのですか?」
質問は隣の権現堂から。今年の1月から大倉機関の大倉会長から与えられた任務。赤羽美咲との個人的な稽古の事を言っているのだろう。最初は赤羽美咲とのマンツーマンだったが徐々に何故か人数が増えていった。
「さあな。大倉会長と会話できていないからまだ続くんじゃないのか?」
どこか場所を借りていると言えば借りているのだがそこは赤羽美咲と甲斐の妹である甲斐和佐がかつて住んでいた家だったから場所の都合は問題ないだろう。とは言え甲斐自身がまだ卒業後の生活について未定のため可能性の問題に過ぎないが。
「ふう、」
頭の中の情報整理をしながら完食した甲斐。
「すごい。もう食べ終わってる……」
陽翼が感心とドン引きの中間のような表情をする。
「そう言えば最近紅衣ちゃんと一緒じゃないのか?」
甲斐の質問に達真の表情が凍る。
「こころちゃん?」
陽翼の表情もまた凍り、達真の方を向く。
穂南紅衣。中1の頃から達真とはいろんな意味で仲がよかった少女だ。そして今年の春まで例外処置として甲斐のルームメイトだった少女・穂南蒼穹の妹でもある。
「達真?こころちゃんって誰?」
「……いや、その、中学時代の友達だよ。なあ、権現堂?」
「あ、ああ。珍しく3年間俺達3人はずっと同じクラスだったんだ。……まあ、俺達の代は入学前にちょっと事件があったために入学者数が少なかったというのもあるが」
「事件?」
矛先がずれた事に内心ほっとする達真だが今度は逆に甲斐が穏やかじゃなくなる。
「あ、ああ。俺が中学2年の頃に近くの無人発電所で火災が起きてな。それがその、うちの生徒で……」
「え、ここの生徒が火事起こしちゃったんですか?」
「まあ、その……うん」
実際には甲斐と友人二人、とある人物一人と妹の5人が事故的に起こしてしまったものであり甲斐兄妹以外の3人は火傷と一酸化炭素中毒によりこの学園を離れ、入院。それから甲斐とは疎遠になっている。ちなみに妹ともまだその件とその後の件とで陰を引きずっていたりする。
「さて、俺はそろそろ行くかな。宿題もまだ終わってないし」
「押忍。分かりました」
「じゃーねー、甲斐先輩」
「お、おう」
何だかストレートにそう呼ばれる事に不慣れな甲斐だった。
自室。かつては自分の部屋でありながらノックしてから入るのがルールだった。かつての住人・穂南蒼穹のルールである。
部屋が足りず、女子が一人余っていたためにどうしても誰か男子の部屋と相部屋する必要があったために当時の学内選挙で無害認定された甲斐が彼女と相部屋になった。そのため入室時にはノックする必要があったのだ。
しかし、現在は気兼ねなく入室できる。
「あ」
「あ」
その筈だが何故か部屋の中では少女が3人、下着姿で存在していたのだった。
「よ、よう最首。奇遇だな。こんなところで。久遠も来ていたのか」
「あの、どうして妹を無視するんです?」
「っていうか出てって!」
「あははは!死神さんのラッキースケベ久しぶりだね!」
三者三様の攻撃を受けて甲斐は部屋から叩き出された。
数分後、許しが出たので甲斐が再度入室する。
「で、一応男子の部屋で何やってたんだお前達は」
甲斐が3人の少女を見た。
「久遠さんが赤羽さんの胴着を持ってきていたので一度着てみたいと言ったんですよ」
甲斐和佐。現在は大倉道場の胴着を着ている。甲斐の2つ下の妹。現在のルームメイトだが兄妹仲はピーキーの極み。甲斐機関の所属であるが社長である甲斐修治とは血が繋がっていない。ちなみに空手はやっていないのだがシステマと言う軍隊格闘技を身につけている。競輪狂い。
「で、ちょっと面白そうだから服を交換してみたの」
最首遙。現在は和佐の私服の1つである改造巫女服を着ている。甲斐の1つ年下。同じ頃に空手を始めたため甲斐とは日常でも空手でも長い付き合いだ。高2とは思えない幼児体型だがこれでも未成年女子空手界では最強クラスであり、未成年女子の中で最初に全国大会へ出場できる可能性がある数少ない人物である。
「うわあ、思ってたよりブカブカだなぁ。久遠ちゃんもちょっとは成長してると思ってたのに」
馬場久遠寺。現在は赤羽美咲固有の上下一体型胴着を着ている。中学1年生。空手の名門である馬場家の長女であり末っ子なのだが空手少女ではなく普通の女の子ライフを送りたいと思ってる。赤羽美咲にとても懐いているほか、一緒に稽古を受けている関係上事実上赤羽同様甲斐の弟子と言っていい状況となっている。1月の試合で甲斐と戦った早龍寺は兄であり、その兄が植物人間となった直接の原因の甲斐の事は別に恨んでいない。それどころか平然と半裸も全裸も見せるくらいには懐いている。ちなみに家族は健在と言うこともあってか、ここの生徒ではない。
「一応、男子の部屋でもあるって事を自覚してくれ」
ベッドに座る甲斐。すると胴着姿の久遠が膝の上に乗って甘えてくる。いつもならペットの犬みたいに適当に扱うのだが、赤羽の胴着を着ている手前微妙な感覚に襲われて如何ともしがたい。
「あれ、死神さんもしかして美咲ちゃんの服着た久遠ちゃんにメロメロだったりする?いいよ?久遠ちゃんに乗り換えちゃいなよ?」
「はいはい」
口を開いたので軽く頭を撫でてやった。確かにかわいいとは思うが恋愛感情は全くない。
「っていうかどうしてこの部屋に?女子の部屋でいいだろ」
「うん。私も普通にそのつもりだったんだけど和ちゃんと会ったから久遠ちゃんが和ちゃんの部屋でやろうって言い出して……。廉君今日は通院の日だからいないだろうと思って……」
しどろもどろの最首。微妙にサイズが合っていない巫女服がどこか色っぽい。と言うか最近身長とバストサイズとかで久遠に負けたらしく、二人並んでいるととても最首の方が4つ年上に見えない。よくて同い年くらいだろうか。
「で、足はどうだったの?」
「ああ。宇治先生が言うには2年我慢しろとのことだ」
「正確に言えばあの事故から2年なので再来年の1月までだと思いますけど」
和佐が補足する。改造された赤羽の胴着を着た久遠はともかく和佐が着ている最首の胴着は何の可愛らしさもない普通の胴着のためどこか居づらさを感じている。
「……って事は19歳から復帰できるって事か」
ギリ未成年で復帰できたという事で少し反省しつつ、
「で、いもーと。何でそんなことを知ってる?」
「詳しくは社長の発表をお待ちください。たぶんそんなに長くは待たないと思いますので」
「……あのクソ野郎の差し金か」
「……あまり自分の父親をそう言うものじゃないと思います。私が言えた義理ではありませんが」
「聞く耳持たんな」
実際、この学園の生徒は両親がいない或いは何らかの事情で一緒に生活できない場合が多い。そのため、父親が健在で会おうと思えばいつでも会える甲斐の状況は恵まれていると言っていい。だが甲斐としては2歳の自分を置き捨てた父も7歳の自分が学校に行っている間に蒸発した母親も許し難い存在でしかない。なお、母親が同じらしい和佐の現在の家庭環境に関しては興味ないし答えてくれないようだ。……尤も自分が2歳の頃に父は自分と母を捨てた、そして和佐は甲斐の2つ年下で種違いの妹。そして現在は甲斐の父が生活費を出している。と言う経歴は明確なのでまあ想像できないこともないが。
「まあ19歳になるまではせめて今程度には大人しくしていてくださいね。社長も心配しています」
「気が向いたらな」
「もう廉君てば」
最首がため息。久遠猫をかわいがっているのはいいがそれ以外がどうも居心地悪い。そう感じた甲斐だったが、
「あ、いた!和佐ちゃん!」
そこへ新たな声。振り向かず甲斐兄妹はため息を付いた。一応視線を向ければ当たり前のように男子の部屋に入ってくる一人の少女と青年。
「今度は次女か」
「あ・ん・なですぅ!!」
甲斐杏奈。2つ下。甲斐機関の所属であり甲斐とは腹違い……と言う表向きだが実際には執事のライル同様幼い頃孤児だった時に社長に拾われたらしい。それを知るのは和佐だけであり甲斐はまだ知らない。お嬢様を気取っているらしいが機嫌を損ねやすい。尤も甲斐が妹全般を雑に扱っているからなのだが。なお和佐とは小学校中学校と友人だったのだが実は複雑な身内だったことを知ったのはつい最近。
ライル・ヴァルニッセ。年齢不明。杏奈の執事をやっている青年。甲斐とそこまで年齢差はないように見える。社長に仕えているため実質御曹司と言っていい甲斐にも仕える身なのだが杏奈への態度が原因なのか甲斐への敬意は皆無に等しい。ちなみに実際は甲斐の3つ年上である馬場家長男の雷龍寺と小学校時代のクラスメイトでありライバルの一人だったため実年齢は今年21歳。大学3年生相当である。なお、短い期間だったがかつて達真が道場に通っていた頃に稽古を付けていた。名前の通り外国人だが国籍は日本。
「お兄様にも言いたいことはたくさんありますが、今は和佐ちゃんです」
「私ですか?と言いますかあなた、今日はお仕事だったのでは?」
「それなんですけど赤羽さんが少し席を外しているので手が足りないんです。ちょっと手伝いに戻ってきてくれませんか?」
「……まあ、今日は暇なんで構いませんが……」
和佐はちらりと兄を見た。
「……どうした?」
「いや、流石に他人の胴着着たまま出社とか謎シチュ過ぎるんで着替えたいんですけど」
「好きにすればいい。いつもそうしてるだろうに」
「流石に他の人もいる中そんなこと出来ませんよ!」
「……行くぞ」
と言っているとライルが甲斐の襟をつかみ、部屋の外へ引いていく。
「あ、おい、執事!」
「社長がお困りだ。長女君には早く出社してもらわないといけない」
「未成年しか社員がいないのかあそこは!」
「うちは基本的に派遣会社であり、本社に人員は少ない」
「雇え!」
「お前が素直に社長になったらそうすればいい」
「だから嫌だっての!」
廊下で言い合う両者。すると、
「お、何やってんだ?」
そこへ男子と男子(?)が来た。
斎藤新。甲斐とは小学校高学年の頃からの仲。中学まで空手をやっていたが高校進学してからは勉学に励んでいる。ブランクはあるがまだまだ実力者の域に違いはない。夏手前くらいに機関同士の小競り合いに巻き込まれて入院していたが2学期からは復学。ちなみに既にバイト先への住み込み就職が決まっている。
逢坂泉。中学時代に事故で下半身を失い、大倉機関が有する人工義体の技術により常時車椅子。難解な手術と大事故のためそれ以前の記憶と性染色体を失った関係上性別不明。甲斐的には声が高いし髭を生やしているところも見たことないため女子ではないか?と言う疑惑が心のどこかにある。ちなみにその肉体的事情により本来は寮住まいではないのだが。
「逢坂、どうしてここに?」
「あ、うん。僕も今年で卒業だし、ここを見ておきたくて」
「そんな珍しいものでもないがな」
「そうかもしれないけど。……ところでそっちの人は?」
逢坂はライルを差す。
「執事」
「甲斐君の!?」
「まあ、間違っては居ないんだが」
「俺は飽くまでも杏奈お嬢様の執事であり、甲斐機関の職員であってお前とは何も関係ない」
「だそうだ」
「……っていうかさ、」
斎藤が歩み寄り、ライルの顔をじっくりと見る。
「あんた、どこかで見覚えあるんだけど。主に道場で」
「……気のせいじゃないのか?」
ライルは視線を逸らす。明らかに怪しいが斎藤はそれ以上何も言えない。
「準備できましたよ」
ドアが開き、杏奈と和佐が出てきた。
「じゃあお兄様。妹たちはお仕事に行ってきます」
「そうか」
甲斐は興味なさそうに答えた。ライルは一瞬拳を握るが、杏奈が制する。
「そこでお兄様?今晩9時頃はお暇でしょうか?」
「部屋にいると思うぞ?門限あるしな」
「ならテレビをおつけください。社長から発表があると思うので」
「…………」
甲斐は背を向けて歩き出した3人を睨んだ。
夕食を終えて午後9時。非常に面倒くさいものの父が何をやらかすのか見なくてはいけない甲斐は食堂に来ていた。部屋にテレビがないためだ。そして、何が起きて甲斐が暴れてもいいようにか斎藤、達真、権現堂が随伴している。他にも最首や陽翼が集まっていた。
「……」
とても嫌そうに甲斐がチャンネルを回していると、
「これより甲斐機関より発表があります」
聞き慣れた長女の声が響いたところで手を止めた。そして記憶の奥底に眠っていたままで欲しかった中年男性の姿が出てきた。
「皆さん。甲斐機関の社長・甲斐修治と申します。本日は私どもにお時間を割いていただきありがとうございます。今日は皆さんに発表があってこのような場を作らせていただきました」
スマホをいじりながら、しかし甲斐は放送から目を離さない。
「予てより私どもの傘下として活動していた3つの組織。大倉機関、伏見機関、三船機関ですが今年度を以て活動を一部休止と致します。理由と致しましてはこれまで3つの組織では通常業務の他に空手道場を経営していたのですが規定変更に伴いそれぞれ本業である、病院の経営、自衛隊の一部隊、科学研究所に集中する予定でございます。また、これまでは飽くまでもスポンサー且つ親会社に過ぎなかった甲斐機関がこれら3つの事業を直接営業させていただきたく存じます。……っと、もちろん伏見機関が担当していました自衛隊に関しましては引き続き関連会社の1つのままとなっておりますが」
フラッシュが焚かれたその言葉を甲斐達は驚愕と衝撃を以て受け止めた。
「また、一部スタッフに於きましては甲斐機関への転属が行われる予定です。詳しくはこちらのホームページをご覧ください」
URLが表示されると同時に甲斐はアクセスする。
下らない社長挨拶は無視して2021年度からの業務異動について見る。
「……大倉道場閉鎖……だって……!?」
大倉道場だけでなく、伏見道場や三船道場の閉鎖なども記載されていた。伴い、大倉会長は甲斐機関へと異動となる。そして、甲斐機関の現社長である修治は今年度で辞職して次期社長は和佐が任命されていた。
「また、わたくし甲斐修治も今年で68歳となる身ですので身勝手でございますが甲斐機関社長の座を今年度限りで辞職させていただきます。後任としては我が娘である甲斐和佐に任命しております」
言葉が終わり、画面には代わりになじみ深い姿が現れた。
「皆様、ご機嫌よう。甲斐和佐と申します。この度は急な発表につきご迷惑をおかけいたします。先ほど社長より案内があったように来年度より甲斐機関の社長を引き継ぎさせていただきたく思います。先ほどコンプライアンスの変更に伴い、各空手道場の廃止を申し上げましたがそれは私の綱領となります。理由としましては甲斐機関が医療品メーカーであること。赤十字社とも提携を結んでいる組織としましては遺憾ながら怪我の多い空手道場の運営を両立するというのは如何としがたいのではないかと存じた次第です。もちろん空手そのものを批判するつもりはありません。今回各機関内で道場を経営していたスタッフにつきましては責任持って転職の手続きをさせていただきたいと思います。それでは、皆様。甲斐和佐でございました」
放送が終わる。同時にスマホを投げ飛ばした甲斐を斎藤、達真、権現堂の3人で全力で押さえ込むのだった。
・甲斐機関。円谷学園学生寮からは電車で約1時間と言った場所にある。
11月に入って最初の日曜午前に事件は起きた。
「社長に会わせろ」
受付のソファと警備員を殴り飛ばした少年は、しかし連れと思われる男女に何とか押さえつけられながら会社内にある第一会議室へと案内された。
「空手というのは一般人に手を出したらおしまいなんじゃなかったのか?」
休日と言うこともあり、慌てて出社してきたであろう社長はネクタイを忘れたスーツだった。その左右にはガタイのいいスタッフが何人かと、少女たちがいた。
「黙れ。どう言うことか説明しろ」
甲斐は右腕を斎藤と最首に、左腕を達真と権現堂に、両足を久遠と里桜に押さえられながらソファに座り、しかし噛みつくように父に言葉を放っていた。
「昨日の放送見てなかったのか?」
「見てアレで納得できると思うか。つか長女を呼べ!昨夜部屋に帰ってこなかったぞ」
「……和佐は忙しい身となった。遅くとも来年3月には退学してここの新しい社長となる。今日は恐らく赤羽さんと一緒に実家だろう」
「呼べ!!」
「落ち着けよ」
修治は懐からたばこを出すもライターがないらしく口でたばこを遊ぶ。
「お前が意固地になって俺の跡を継がないって断言したから代わりにあの子が社長になることになったんだぞ。それであの子が自分で考えた綱領で来年度以降の事業が決まったんだ。まだ16歳なのにだぞ?」
「……長女は長男と誕生日が一緒だからまだ15だ。血は繋がってないとは言え娘の誕生日くらい覚えておけ」
「……」
難しい表情になった修治。するとスタッフの一人がライターを渡す。
修治はたばこに火をつけて煙を吐く。
「まあ、そう言うわけだ。空手がしたいならどこか別の道場を探すんだな」
「そう言う問題じゃないってのが分からねえのか!手段が気に入らねえって言ってるんだ。どこまで自分の息子の人生ぶっ壊せば気が済むんだ?ああ?」
「お前だけじゃない。血の繋がらない子供を何人も面倒見ているんだ。少しくらいわがままを言う資格はあるだろう?」
「我が儘の度が過ぎるわこんタコ!!」
甲斐の怒号。修治は深く煙を吐いてからたばこを噛み潰し、
「いい加減にしろこのクソガキ!!俺がどこまで妥協してやってると思ってんだ?一度無関係になったてめぇの分までこちとら養育費支払ってた上に今また社長の椅子をくれてやるとまで言ってんだぞ?あ?意固地になって一人であの学校で暮らしてるてめぇがまた家族一緒に暮らせると、その足の面倒まで見てやるって言ったのにそれ全部我が儘で踏みにじったのはどこのどいつだ言ってみろこのタコ!!」
ヒートアップ。甲斐を仲間たちが押さえるように修治のこともスタッフたちが押さえ込んでいる。いつ取っ組み合いが始まってもおかしくない状況だ。するとそこへ、
「やめないか!!甲斐!!」
「!!」
鋭い声。勢いよく開いたドア。姿を見せたのは大倉会長、伏見提督、そして三船所長だった。
「……三機関の代表達……!?」
思わぬ顔に怒気が収まる。
「甲斐。これは既に決まったことだ。そして我々それぞれの機関の代表もこの事態に納得を示している。お前の父君が言ったようにお前が権利を捨てたことからこの状況を招いたのだ!」
「……っ!!」
にらみ合う。大倉会長とは以前赤羽美咲の兄である赤羽剛人が奇襲を仕掛けてきてそれを雷龍寺が迎撃したとき以来の会話だ。あの頃の時点で何かあると思っていたがしかしここまで事態が変化するとは誰も予想していなかった。
そして甲斐は最悪の結末として父親ごと重役をすべて力ずくで叩き潰してやろうとも頭のどこかで考えていたのだが流石にこの3人を前にしてそれは不可能となってしまった。
「しかし、会長!道場はどうなるんですか!?」
「物理的な意味で言えば甲斐機関と大倉機関のノウハウを集めたクリニックか診療所に変わるだろう。組織的に言えば存在はなくなる。そのため門下生に関しては残念ながら道を諦めるか他の道場への転属となる。確かに残念ではあるがしかし道場経営も大倉機関の仕事の1つだ。そしてその組織に大きな変化が生じた今、道場の経営が出来なくなった。スタッフ含めて出来る限りの補助は行うつもりだ。だからその手を引っ込めるんだ拳の死神」
「…………っ!!」
握った拳はそのままに甲斐はなるだけ落ち着くように自分を押さえ込む。
「廉」
父からの言葉。
「お前は高校卒業したらどうする?甲州院さんはいいと言っていたがどこの大学に行くつもりだ?何をするつもりなんだ?現実逃避に空手を使っているだけなんじゃないのか?」
「……くっ!!」
「声じゃなくて言葉にして相手に伝える努力をしろ。大人として最低限のことだぞ。それも出来ないガキのままお前は18歳を迎えそして何をしようと言うんだ?妹が社長をやっている会社で平社員として働きたくないのならもっと考えて行動をするんだ」
「だが……!」
「現実逃避のいいわけに、空手も空手の仲間も道場も利用するな!」
「…………」
今度こそ甲斐は何も言えないまま力なくソファに座り込んだ。完全に力が抜けた事を感じた斎藤達が甲斐から離れて手足を震わせる。
「君達、すまないね。息子がいつもいつも世話をかける」
修治が目配せをするとスタッフが人数分の椅子を用意した。
「ありがとうございます。でも、空手道場に関しては俺達もあまり納得できていません」
口を開いたのは斎藤だ。そしてすぐさま達真や最首も頷く。
「会長。私達はどうすればいいんですか?このあたりに他の空手道場なんてない。今更白帯から、交流大会からやり直しで他の道場に行くんですか?」
「斎藤、最首。そんなことはない。君達の実力を鑑みて私の方から便宜を図ろう。それから……」
「待ってください!」
新たな声。ドアを開けて姿を見せたのは加藤、雷龍寺、雅劉、剛人だった。
「研磨……!雷龍寺……!!」
「雅劉!?」
「剛人君か……」
それぞれの代表が驚きの声を上げる。
「会長!!いや、師匠!!どうして何の話もしてくださらなかった!?自分達はあなたの口からは何も聞いていない!」
「親父!軍を優先するのは分かるが、まだ軍に入隊できない子供達のために作った伏見道場はどうするつもりだ!?」
「所長、あなたは俺達や火咲、美咲。さらにはそのクローンまで面倒をみてくれた。三船機関が事実上滅んだ後も便宜を図ってくれた。それなのに今度は奪うおつもりか?」
それぞれの言い分。大倉道場の師範・加藤研磨。伏見提督の息子である伏見雅劉。三船機関が作り上げてしまった改造人間・赤羽剛人。
「死神、お前のことはどうでもいいが今回ばかりは加勢させてもらう」
「雷龍寺……」
そしてかつての未成年最強。大倉道場所属にして馬場兄妹の長男・雷龍寺。それぞれが言い分は違えどそれぞれ親とも言える存在に対して異を唱えた。
「研磨、お前には感謝している。だから人事異動の際には真っ先に甲斐機関の重要なポストを用意しようと思っている。雷龍寺に関しても大学卒業後には優先的に甲斐機関で採用したいと思っている」
「納得できるか!!こんな裏切りのような真似、いくら師匠のあんただからって許されるものか!それにまさかとは思うが弟子になら何を言っても必ず就いてきてくれるとでも思ったのか!?だから何も言わなかったのか!?」
「親父、俺も同意見だ。俺は空手はほとんどやってない。けど、子供達の居場所を取り上げるのは反対だ。そしていくら軍人だからって部下の未来を自分勝手で決めるのはアウトだと思うぜ?」
「雅劉、冷静になれ。我々は軍人だ。空手は趣味。趣味のために任務として必要な時間さえも割く。そんなことが許されていた方がおかしい」
「じゃあ俺は退役するわ」
「何!?」
「んで、研磨さんと一緒に新しく道場を開く」
「お前、自分が何を言っているか分かっているのか!?」
「親父、俺が伏見の軍人になったのはな。お袋が死んで悲しいまま、俺を見てくれなかったあんたが原因なんだぜ?あんたもつらいだろうが俺もつらい。だがあんたは軍人だ。だからより優先しないといけないことがあるだろう。俺は、そんなあんたの部下に就きながらもいろんな事情があってやりたいことが出来ない子供達のために働きたい。そう思ったからだ。俺自身空手はやってないからあまり道場の方針には口を挟めないが、それでもあんたがまた子供を見捨てるつもりなら話は別だ。俺は軍人であることを捨ててでも伏見道場に通う子供達を守る。それだけだ」
「雅劉…………!!」
にらみ合う親子。そして師弟。そこで新たな登場人物が増えた。加藤同様大倉の弟子であり、道場と機関両方の幹部でもある岩村だ。
「研磨。お前の気持ちは分かった」
「利伸……!」
「だが、お前に道場の経営が出来るのか?道場の師範と言ってもお前の年収は本来同年齢のサラリーマンと比べてかなり低い方だ。お前が空手だけやって奥さんや子供と幸せな日々を送れているのは大倉機関としての給料が加算されているからだ。いくら空手道場と言ってもうちだけで言っても道場の数は1つじゃない。複数の道場を同時に経営できるだけの財力がお前にあるのか?そして知識や技術はあるのか?言っておくがその辺りを担当していたのは私だぞ?」
「くっ、」
今度は加藤が一歩退いた。
「利伸、お前は師匠の意見に賛成なのか!?」
「せざるを得ないだろう?お前も知っての通り大倉機関は起業した時点で既に伏見や三船と提携を結んでいる。故に三船の裏事情に関しても責める立場にはない」
岩村の発言に三船所長と剛人は目を伏せ、甲斐達は目をむく。対して岩村は甲斐達にも言い聞かせるように言葉を続ける。
「赤羽3兄妹の改造やそのクローン実験に関しても3年前の時点で知っていた。赤羽美咲が三船道場ではなく大倉道場の所属になったのもすべて事前に事情を知っていたからだ。当然三船がやっていたことは人道にも日本の憲法にも反する。これがどう言うことか分かるか?……今初めて知った甲斐達はともかく最初から知っていたお前も同罪なんだよ、研磨」
「……くっ!」
「……加藤先生、本当なんですか?」
「…………ああ。本当だ。クローンだの何だのなんて信じていなかった。ただ三船から転属になった少女を保護するだけだとそう思っていた。だが、俺もどこかで目を逸らしていただけなのかもしれない……」
「研磨。そうしてお前が目を逸らせていたのも私がお前の分まで大倉機関としての業務を行っていたからだ。三船も決してただ法を犯していたわけじゃない。どこかの学校と同じように身よりのない子供を積極的に引き取って非合法的ながらも社会的に生存権を得て生きながらえさせて来た側面だってある。研磨、そろそろ大人になれ。空手だけをしている時間はとっくの昔に終わったんだ。雅劉、お前もだ。軍人として優秀なお前が子供達のために何か行動するのは年齢で退役した後でも遅くはないだろう?お前が軍人として活動しているだけでも救える命はたくさんある」
岩村が一歩前に進み、加藤と雅劉を同時に見据えながら続けた。
「私達がやっていることは決して悪いだけのことではない。お前達がやろうとしていることとは別の慈善事業であり必要悪なのだ。そして直接命を扱う組織である以上、救える命もある。少なくとも子供達の居場所だけを作る空手道場よりかはより多くの子供のためになると自負している。お前達がそれでもなお、我が儘を通すのならもう何も言わない。だが、集めるだけ子供達の期待を集めてやっぱり無理でしたとならない自信がお前達にはあるのか?」
「……」
「……」
加藤と雅劉は唇を噛むだけだ。雷龍寺と剛人もそれ以上何も言えない。
「私達も決して悪戯に空手道場を手放そうと言っているわけではない。大人がやってる会社が大した理由もなしにおいそれと経営方針を大きく変えられるわけがないだろう。……他に、何か質問や反論がある者はいるか?」
岩村の言葉に沈黙以外を作れる者は居なかった。ただ一人を除いて。
「ねえ、岩村さん」
手を挙げたのは甲斐の足にしがみつくようにしていた久遠だ。
「どうした?トイレなら案内させるぞ」
「違うもん。そんなことよりさ、そんなにご大層な理由があって理屈もしっかり出来てるのにどうして加藤先生に話さなかったの?」
「……何?」
「久遠ちゃん難しいことよく分からないけど、岩村さんの話そんなに間違ってないと思うんだよね。まあまあ完璧だと思う。でも、1つだけおかしいと思ったの。……何で事前に加藤先生にさえ伝えてなかったの?大倉会長はともかく岩村さんはちゃんと説得できたよね?納得できる理由も説明できてたよね?それなのにどうして今まで説明していなかったのか。考えたんだけど、思いつくの1つしかなくて」
久遠は続けた。
「前々から準備そのものはしていたけどタイミングだけは分からなかった。やるかどうかも分からなかった。そして実際にやることが決まったのがつい最近の場合。たとえば、昨日の和ちゃんの演説の時とか」
「……久遠、お前……」
岩村が目を見開いた。
「やるかどうかも分からないから加藤先生には言えなかった。ううん、他のスタッフにも言えなかった。逃げ道をふさいだ上でさっきの説明をすることで従わせるために。でもたぶん準備が出来てから間が開きすぎた。だから、久遠ちゃんなんかにこんな事言われちゃってる。じゃあ何で間が空いたのか、それは大倉機関側にスイッチを押す権利がなかったから。スイッチを持ってるのは甲斐機関側であって、岩村さんはただ指示に従っていただけだよ。じゃあ、抜け道どこかにあるよね?間が開きすぎたって言う誤算とスイッチを握られているからこそ完璧に事情を知っているわけでもない」
「……何が言いたいんだ?」
「簡単だよ。岩村さんがさっき先生達を説得できた言葉に事実じゃないことが含まれているかもしれない。それは岩村さん本人も気付いていない事かもしれないけどね」
「…………」
岩村はそこで初めて大倉や修治の方を振り向く。両者は視線を合わせない。
「それに、出来ることならもっと早くやってるでしょ?今年の4月とか。なのに11月なんて微妙な時期にこんな大きな事するなんておかしいよ」
「……」
「で、4月から11月までに何があったかと言えば死神さんとの接触とそして死神さんが次期社長にならないことを決めたから。そしてその結果から和ちゃんが社長になることが決まったから。つまり、昨日和ちゃんが言った言葉は岩村さんが了承を得た話じゃなくて逆だよね。昨日和ちゃんが言ったからスイッチが押された。準備だけはしてたけどスイッチをいつ押すかまでは本当に聞かされてなかったんだ」
「……それなら何だ?」
「うん。岩村さんの理屈じゃなくて和ちゃんの理屈だよ。来年度からどうするかは和ちゃん次第。だからこの場で岩村さんの問いつめても何の意味もない。むしろどういうプランなのか説明を受ける方がいいよ」
久遠の言葉にその場の誰もが口をぽかんと開けることしかできなかった。
そして新たな気配。それは拍手と共に。
「よくできました、久遠さん」
奥の方のドアが開き、和佐と杏奈とライルが姿を見せた。
「……!」
「……」
達真、雷龍寺、剛人がライルと視線を合わせる。
「お前……」
甲斐が和佐を睨む。
「はいはい。暴れないでくださいね。と言うか暴れたら余計に分が悪くなるって分かってますよね?ただでさえ傷害事件起こしてるのに」
「……どう言うことか説明だけしろ。久遠、何か不思議に思ったことがあったら自由に質問していいぞ」
「はーい。じゃあまずどうして和ちゃんは道場をつぶそうとしたの?」
「昨日言ったと思いますけど?」
「昨日空手の胴着着てたのに?少なくとも昨日あの時点ではもう何発表するか決まってたし知ってたよね?久遠ちゃん達に嘘付いてたの?」
時折無垢な気持ちと視線は鋭い刃になる。心を抉られながら和佐は続ける。
「はい。知っていましたよ。と言うより道場に関して言えば次期社長が私になると決まった時……2ヶ月くらい前には決まりました。元々コストも掛かりましたしね」
「甲斐機関って儲かってないの?」
「儲かってますよ。でもまだ日本では別。去年まで本社はアメリカにありましたからね。ドル円換金できますけど直接は出来ませんし、いろいろ手続きとか面倒ですからね」
「手続き?お金の?」
「いいえ。アメリカにある甲斐機関から日本にある3つの機関への指示とか打ち合わせとかがです。リモートで足りる事もありますけど大事なことは直接会って話した方がいいですからね」
「ふうん。で、コストが合わなくなって甲斐機関が日本に移住。3つの道場も取り壊しになったってことなんだ。急だね」
「……」
「何かコストが支払えなくなるようなことがあったの?美咲ちゃん関係?確かシフルちゃんの暴走とかで三船研究所潰す羽目になっちゃったよね」
久遠の言葉に達真がややうつむく。
「まあ、あれは大きかったですね。矢尻さんやリッツさんの手術台とか、後はシフルさんを説得するために陽翼さんを引き取って治療するとか結構無理があったみたいですし」
「ふうん。タイミング合わなくない?」
「…………え?」
「だってそれ今年の話でしょ?まだ半年くらいしか経ってないじゃん。それなのに採算合わなくなったからってアメリカから会社が引っ越しって早すぎでしょ?いっぱいお金掛かったのは間違いじゃないと思うけど今回の理由にはならないよね?」
「それは……」
「もうさ、久遠ちゃん言っちゃうけどコストのための道場閉鎖じゃなくて道場閉鎖のおまけでコスト軽減だよね?つまり、やっぱり道場を閉鎖する理由は他にあるんだよ。それも経営とかそう言う小難しい大人の理屈じゃない。もっと単純な何かがさ」
「…………」
和佐の表情が凍った。
「……まじかよ」
甲斐が怒気を完全になくしてただただ目の前の状況に驚愕してた。ついでに久遠の前では迂闊な話はしないにしようと心に誓ったついでに何か重大な事を忘れてるような気がした。
「ってわけで死神さん。どうする?」
「え、あ、え?」
「ちょっと、久遠ちゃんの話聞いてた?……暴力は駄目だけどさ、死神さんも加藤先生もまだ戦えるって事だよ?今回の発起人である誰かさんの個人的な感情に理屈が重なって空手道場が閉鎖されるって話になったんだからその誰かさんを説得できれば十分撤回は出来るんじゃない?」
「…………本当か?」
「たぶんね。岩村さんも和ちゃんもこれ以上何も言わないし、天才少女久遠ちゃんの大勝利じゃないかな?」
「……すごいけど、久遠」
「何?」
「……もう中学生なんだしいい加減そのキャラはやめた方がいいんじゃないか?」
「え!?何それ死神さんひどいんだ~!!せっかく死神さんのためにがんばったのに!」
「……死神、後で話がある」
「何で雷龍寺にまで飛び火するんだよ。ってかいたなぁ……忘れてた」
ため息を付き、甲斐は再び父に向き合った。視線に気付いた父も新たなたばこに火をつけながら視線に応じる。
「何だ?」
「久遠の話が本当だとして、その誰かさんとやらを説得できたなら道場閉鎖の件、撤回できるか?」
「現実逃避の手段としてなら許さんぞ」
「違うって分かってんだろ?」
「……まあ、そこは和佐次第だろう」
「え!?私!?」
突然話を振られた和佐が割と素の声を出したことで甲斐が大笑いを始めた。
「……まあ、仮定の話ですからね。コスト面が少しでも解決できたならいいんじゃないですか?」
「おけおけ。じゃあ、取引をしようじゃないのさ」
甲斐がにやりと笑い、父と妹を見た。嫌な鏡を見ているようだと父が目を逸らして煙を吐く。
「……何だ?」
「代表戦をしよう」
「代表戦?」
「そうだ。両陣営から実力の近い者同士を出し合って空手の個人戦を行う。そうして勝ち越した陣営の方が勝利。うちらが勝てばその誰かさんに会わせてもらおう。で、そっちが勝てば大人しく指示に従う。どうだ?」
「……甲州院さんはお前をギャンブラーに育てたのか?」
「いや、あんたの血筋じゃないのか?」
「…………さてな。で、人数は?実力の基準は何だ?」
「人数は5人。5対5だ。実力の基準に関してはまず互いに選手を出し合い、その後両者の実力が均等かどうかを話し合い、均等ならその組み合わせで決定。違うなら均等になるまで話し合って選手をチェンジさせる」
「敢えて実力の近い者同士にする理由は?」
「うちらには後ろ盾がない。あんた達はやろうと思えば権力なり財力なりで強い奴らを目一杯集められる。何せ、3機関の代表が揃ってるわけだからな」
「……そちら側には年齢無制限クラスの全国級猛者である加藤研磨がいると言うのにか?」
「そうだ。けど、加藤先生の次に強いのが雷龍寺か剛人になる。そしてこの二人が岩村先輩に勝てる見込みはない。……OKOK?怖いし話こじれるからそこの二人は睨むな」
「……そちらも加藤研磨の次に強く、岩村利伸と互角の選手を選べばいいんじゃないのか?一人くらいはいるだろう?」
「だが、保証がない。少なくとも大倉機関で岩村先輩と互角以上に戦える存在は加藤先生くらいしか俺は知らない。が、そっちからすれば加藤先生と互角に戦える存在すらやろうと思えば探せるんじゃないのか?数は限られるかもしれないが、可能性があるだけでそちらが有利だ」
「……得意な分野だと無駄に舌が回るなお前」
煙を吐く。
「ルールは分かった。だが具体的にはどうする?俺達だけで話し合っても互いに有利な状況にしたがるだけで最終的な公平にはならないんじゃないのか?」
「ああ。だがそもそも今回の案件俺達だけで決めていい話じゃない。加藤先生にすら話していないのだから他にもこの話をしていない奴は山ほどいるだろう。だからその辺の説明も行いその上で今回のルール説明を行う。参加者は大倉、伏見、三船、甲斐の4機関の所属者すべてだ。
この4機関の所属者達で道場閉鎖に賛成派と反対派、中立派に分かれてもらう。代表選手としてエントリーできるのは賛成派と反対派だけであり、逆に公平さの判定が出来るのは中立派だけとする」
「……そこまでやって強い順から選手を選ばない理由は?こう言っては何だが賛成派の方が多数且つ強力だと思うぞ?」
「そうかもしれないがそうではないかもしれない。実際岩村先輩がそっち側に立ってる以上各機関から同程度の幹部がそっち側に就いてると見た方が自然だろう?」
「……なるほど。お前の言うとおりにこちら側が最強から順に強い奴を指名したとしてもそちら側に対等な選手がいないと中立派が判断すればチェンジさせられるってことか?」
「そう言うことだ」
父は煙を吐きながら考える。今回の肝は選手個人の強さよりかもいろんな実力の選手をどれだけ集められるかだ。先ほど息子が言ったように4機関の内強い者から順に5人集めても対等に戦える者がいないと判断された場合には不戦勝すら出来ない。
これでは反対派の方が有利ではないか?そう質問しようとしてしかし踏みとどまった。何故ならその質問は賛成派は強い者から順に揃えようとするが果たして加藤のように空手に生きてるような人物が今回賛成派に回るだろうか。岩村のように裏事情に詳しいものならばともかくしかしそれは甲斐機関が既に根回しをしたものと言い換えられる。何せ今回の件、それぞれの機関は甲斐機関に従っているだけなのだから。
岩村のようにコスト論を言い聞かせて賛成派に引き込もうとしたとしても既にコスト論は久遠によって論破されている。実際にコストが掛かっていることは確かだがそもそも勝てばいいの条件で覆せる程度の赤字だ。理由としては弱い。勝てばよかろうと言うような短絡なら反対派に参加するだろうし、逆に慎重に考えているならば中立派に参加する。
(……これ、うちら詰んでるのでは?)
父は焦燥する。それはその場にいる誰もが明らかに分かるほどに。
「……」
甲斐は少し考えてから右足にしがみついたままの久遠に目配せをした。
その視線に気付いた久遠もまた少し考えてから口を開いた。
「別にそっち不利じゃないよね?だって数少ないわけだし」
「は?何を言って……」
「だって甲斐機関には岩村さんだけじゃないじゃん。和ちゃんとそこの外国人の人だっている。そちら側で最強なのは岩村さんになるかも知れないけど、弱い側ってむしろそっちだよね?人数も少ないだろうし。だから強さを合わせるのはそっちじゃなくてこっちじゃないかな?」
「……なるほど」
ついつい上を見ながら話をしていたが今回はただ実力の上下が大事なんじゃない。実力だけがかなり重要なポイントになっている。つまり、甲斐機関は和佐を選んだ場合、反対派からは少なくとも全国区の男性は誰も出せないことになる。和佐は空手をやっていないが別の格闘技でそこそこ以上の実力がある。その和佐と互角であると言える条件は同じ高1程度のカルビクラスの女子またはカルビクラス以下の男子中学生となる。言葉にすれば簡単だが実際にこのクラスで和佐に勝てる者がどれだけいるだろうか。
「それに、基本的にそっち側って女の子ばかりだよね?戦力って。女の子でしかもまあまあ以上の実力者ってこっち側で選ぶの苦労するんじゃないかな?」
「……」
修治は考えた。考えて考えて考えるほど罠に落ちているような気がした。
(……相手は岩村や和佐を簡単に論破したとは言え女の子だぞ?たらしな廉が下半身にまとわりついても全く動じない程度に幼い子だ……。どんなに筋が通ってるように見えてもどこかに落とし穴があるんじゃないか?と言うか、かなり頭が回るこの子と得意分野になった途端下も頭も回るようになった廉。この二人の組み合わせだけでうちらはかなり不利……!どうすればいい……!?)
「……社長。あまり考え込んでいると余計に白髪が増えますよ?」
一歩前に出たのは和佐だった。
「1つ条件を追加してもいいですか?」
「何だ?」
「そちら側の選手はこちらが指名してもいいですか?もちろん実力の均整に関してはその後中立の人達で判断となりますが」
「……理由は?」
「甲斐機関側の選手、あなた方はどれだけ知っていますか?中立派が判断って言いましたけど実力を知らない選手をどうやって比較するんです?」
「……だとしたら中立派にも甲斐機関の選手をよく知る人物が必要だよな?」
「……つまり?」
妹からの質問に対し甲斐はニヤリと笑い、3機関の代表を指さした。
「最低でもあの3人は中立に回ってもらう。即ち選手としての参加資格は遠慮してもらうぜ」
「……分かりました。でもあの3人でもそこまで甲斐機関の選手のことは知らないと思いますよ?」
「なら追加だ。組み合わせが決まったら一度60秒程度でいい、スパーリングをするんだ。そこで実力差があれば見て分かるだろ?」
「……」
賛成派即ち大多数が甲斐機関の選手にとって最大の武器となるのは他の3機関とほとんど混じっていないため多くが実力未知数と言うところだ。極端に言えば白帯を巻いているが実力は黒帯並なんて選手がいたとしたら事前情報なしで反対派がそれを知る機会などない。だからそれを作ると言うのだ。
今回の代表戦の前提は実力が近しい者同士であるため、実力を隠すというのはそもそも前提条件にすら外れる。だからこの条件を拒むことが出来ない。
「……いいでしょう。その上でこちらから指名させてくれるんですよね?」
「ああ、そうだ。そしてスパーリングの後に対等かどうかを判断する。そうして初めてマッチング成功ってわけだ。これを5回行い、代表戦開始。3勝した陣営の勝利となる。何か質問や意見がある奴は?」
たぶん甲斐が成人していて喫煙者なら今のタイミングで派手に煙を吐いていただろう。それくらいノリノリだった。
それを感じた上で和佐は義父の顔を見る。つまり、和佐としては異議はもうないと言うことだ。なので一応杏奈やライル、岩村の顔を見る。反応はなかった。
「なら、一応今回のルールをまとめて於くぜ」
スタッフが用意したタブレットに甲斐が書き込んでいく。
甲斐機関の目的:3機関の道場を閉鎖。表向きの目的はコスト。本当の目的は誰か個人の感情。
甲斐達の要求:道場閉鎖に反対。止めさせるためにその誰かに会いたい。
以上の利害の衝突により代表戦を行う。
代表戦のルール
まず3道場の閉鎖に賛成か反対か中立かを甲斐機関含む4つの機関すべてから決めてもらい、3陣営に分かれる。
代表選手を出せるのは賛成派と反対派のみ。
代表選手は実力の近しいもの同士の組み合わせとする。その基準は3機関の代表含む中立派の判断で決める。また、賛成派は反対派の選手を指名できる。(その後、中立派の判断を仰ぐものとする)
なお、その際60秒程度の軽いスパーリングを行うため実力の隠蔽などは出来ないものとする。
代表戦は5対5で行う。先に3勝した陣営の勝利とし、勝利した陣営の要求を敗北した陣営は呑む。
代表戦の試合そのものは公式戦と同じく、本戦・延長戦・再延長戦をそれぞれ120秒ずつ行う。各合間には30秒のインターバルと判定が行われる。そこで引き分けだった場合次のラウンドに進む。再延長戦では引き分けはなく、ダブルノックアウトだった場合でも必ず決着をつけるものとする。
「ってところかな?」
「判定はどうしますか?中立派ですか?」
「そうだな。ただし、どちらかと言えば賛成派つか甲斐機関側である3機関代表の3人は今回除外だ。どうだ?」
「私に異論はありません」
甲斐兄妹が意見を同じにし、そしてそれを周囲に求めた。すると、修治が挙手した。
「何だ?」
「ルールそのものは別にいい。だがうちらが勝った場合の条件を1つ追加したい」
「聞くだけ聞く」
「お前が殴り倒した職員と破壊したソファ。この二つの慰謝料と弁償を何らかの形でしてもらう」
「……う、」
冷静になったところで思わぬダメージ。
「具体的な弁償方法は任せるが個人としては甲斐機関への就職による出世払いと言う形を求めよう」
「な、ならこちらも……」
「一応言っておくがこちらはお前の彼女の長年の医療費をただで引き受けていることを忘れないように」
「…………俺からは特にない。他に誰か?」
冷や汗をかく甲斐だったが他に挙手する者は居なかった。
「……ちなみにいつ開催予定だ?」
「……そうだな。まず一般人っていったらアレだけどここにいない人達に考える時間が必要だろう。連絡自体は今日から開始して来週の土曜日までに決めてもらう。仮にそこで3つの派閥で極端に数に差があった場合特に中立派の数が少なかった場合可能ならもう一週間ほど考える時間を当てるかな。で、遅くても2週間後の日曜日には開催する」
「中立派に賛成派や反対派が紛れ込んでいた場合は?」
「そこは紳士協定……いや、スポーツマンシップってところか」
「そこは適当なのか」
「適当?畳の上に青春かけてる奴が自分の信念に乗っ取ってるんだぞ?ある意味何より信頼できる」
「なら3機関の代表を主審にしてもいいんじゃないのか?」
「かもな。けど、大倉会長以外のことはよく分からないし、何より今回良くも悪くも大人として賛成派として動いていたんだ。今回だけはちょっと例外かな。……それを理解しているからこそここまで何も言っていないと見ていいんですよね?」
甲斐の視線が大倉にぶつけられる。
「……もちろんだ。ただ、」
「はい?」
「今回の件、仮に元の形に収まったとしても私は大倉機関会長の座を引退する予定だ。賛成派が勝利したとしても研磨や利伸など大倉機関のスタッフ達の将来への根回しを済ませば私自身は引退する」
「……その辺りはまあ、口出しできません」
と言ってから、
「そう言えばずっと聞きたかったんですが赤羽との稽古はいつまで続ければ?」
「……彼女の意思次第だ」
「……分かりました」
甲斐がメモしたものを最首などが整え、PDF化したものがその日の内に各機関のスタッフ達に送られた。大きな祭の始まりだった。
・甲斐機関を中心とした4つの機関に件の情報は送信された。
伏見機関の多くは自衛隊員であるのと同じように大倉機関の多くは未成年の空手選手だ。小学生がおよそ800人いて、中学生が200人。高校生は120人ほどで大学生は90人弱。社会人が150人ほどだ。およそ1360人ほどが大倉機関の構成員と言っていい。
中高生以上はともかく、小学生が今回のことをどう思うかは甲斐にも分からないが、
「まあ、世間一般の未成年には保護者と言う便利なものがあるからそれが判断するんだろう」
と発言し、周囲からブーイングを受けた。
「廉君流石にブーメランというか何というかだよ」
最首が呆れ顔。
「……先輩。今回の件、あなたとあなたの父さんの問題なのでは?」
達真は権現堂の背に隠れながらつぶやく。権現堂は立ったまま気絶している。
「ぶっちゃけ死神さん家のお家騒動って奴だよね」
久遠は隠れていないがちゃっかり隣に雷龍寺がいる。
「……どんだけ人を猛獣か何かだと思ってるんだ」
「昨日今日でどれだけ暴れたか考えてからものを言いなよ……」
最首がため息。すると、
「それが原因ですよ」
帰宅中の面々に声をかけたのは和佐だった。
「ほう、イベント前に決着でもつけるか?」
「いい加減にしてください!!」
大声。一瞬誰が放ったのか分からなかった。その声が和佐のものだと認識したのは数秒後だ。
「……な、何だよ……?」
「夏にも言いましたけど、どうしてあの日朝吹さん達があなたの元を離れたのかを考えてください!火事が起きたからでも火傷を負ったからでもありません!あなたが私に暴力を振るったからです!!」
「……」
少し雰囲気が鋭くなる。剣呑だ。
「あさぶきって?」
久遠が投げる。
「……朝吹大和君と朝明星吹葵君。前に言った廉君の友達二人だよ」
「……へえ、」
「それより死神。暴力というのは何だ?詳しく話せ」
雷龍寺が言葉の槍を向ける。
「…………いや、詳しくは言えないと言うか。まあ、ボコボコにしたのは確かで……」
「……あの二人はそれを見てあなたから離れたのですよ。当時はまだ妹としての仲よりも友達と言う時間の方が長かった。それでもあの二人は失望したのです。それ以来空手から離れたようですが結局あなたの本質は変わっていない。拳の死神なんかじゃない。あなたはただ気に入らないことがあったら暴力で解決しようとするだけの子供です」
「…………っ!」
甲斐は拳を握るがしかしそれ以上は何も出来ない。
「そもそも今回のことだって本来第一有権者と言っていいあなたが我が儘に棄権したからこそ起きた事じゃないですか!確かにあなたの事情は暗く重いものだと思います。今更社長があなたに接触してきたこともいろいろな事情があってのものです。その中には偶然もあります。ですけど、」
和佐が甲斐に歩み寄り、耳打ちする。
「……気付いているのでしょう?お義父さんが離れたのは私達のお母さんが不倫をしたからだと。……お母さんが私を産んだからだと」
「…………」
「私にも責任があります。だから次期社長を引き受けたのです。私のことを嫌ったままでも構いません。過去のことはすべて私に押しつけても構いません。だからせめて……」
「せめて自分を変える努力くらいしろよ」
「!!」
新たな声。甲斐は振り向くことが出来なかった。ただ、背後に気配が二つあった。
「……朝吹さん、朝明星さん……」
和佐の言葉で事態を理解する。
「……」
しかし二人はそれ以上何も言わないまま去って行ってしまった。
「…………」
甲斐は顔面蒼白のまま無言。
「…………分かったでしょう?あなたのすべては我が儘なんです。だから、」
「和佐さん、それってルール違反じゃないかな?」
「!?」
また新たな声がした。甲斐はその声をどこかで聞いたような気がしたがしかし、誰のものかは分からなかった。実際振り向いてもその顔に覚えはなかった。
長いであろう銀髪をシニヨンでまとめた中学生くらいの少女。
久遠が何か反応をしているが、少女は笑顔で手を振るだけだ。そしてその視線は和佐へと向けられる。
「……干渉はしないんじゃなかったのですか?」
「そのつもりだったんだけどね。GMとして和佐さんの今の言動ちょっとずるいんじゃないかなって」
「どう言うことですか?」
「だって和佐さん、来週からのゲームに賛同したよね?それなのにれんく……対戦相手の精神をゲーム開始前に揺するのはよくないんじゃないかな?」
「……家庭の事情です。あなたには引っ込んで居ていただきたいです」
「うん。家庭の事情なのはよく分かってる。けど、今のは和佐さんの方がずるいよ。トゥ……あの二人をこの近くに呼んでおいて精神的に揺さぶったんだもの」
「……何だって……?」
甲斐は和佐を振り向く。
「あの二人の連絡先を知っていたのか……?」
「…………あの二人もまた甲斐機関の技術で火傷を回復したので」
「…………」
甲斐は目を閉じて呼吸を整える。いろんな感情と情動を何とかして押さえ込む。
「あの二人は無事なのか?」
「ええ、私と同じくらいには退院しています。まだ進路は決まっていないので絶賛受験勉強中みたいですが」
「まさかと思うがあの二人、甲斐機関じゃないだろうな?」
「違いますよ。一般人ですし、何の関係もありません」
「……ならいいが……」
「で、次は私からの質問ですが。あなたの目的は何ですか?」
和佐の視線は少女に向けられる。
「僕の目的?そんなのないよ。なんか面白そうなことしてるなって見て、その上で和佐さんがズルいことしてたから口出ししただけだよ」
少女は抱きついてきた久遠の頭をなでながら続ける。
「ゲームが決まった以上、開始前に攻撃するのは反則だよ。もしこれ以上何かあるなら僕が相手になるから」
「……あなたがですか?」
視線をかわす和佐と少女。やがて和佐のスマホがバイブする。
「P2じゃないんだ」
「……」
少女からの声を無視して和佐がスマホに応じる。
「……すみません。完全に私の埒外のところで精神攻撃が発生してしまいました。受けますか?」
和佐が本当に困ったような声で甲斐を見た。
「は?今度は何をしたんだ?」
「あの子が、キーちゃんが目を覚ましそうみたいです!」
甲斐機関直属の病院。甲斐達は黒服に運ばれてやってきた。
流石に大人数且つ半数以上は無関係という事もあり、甲斐、最首、久遠、和佐だけの参加となった。
「さいとーくんって面識あったんじゃないの?」
「面識はあるけど、あるだけって感じかな……?まあ私も実は言うほど話した事とかないんだけどね」
「……ふうん。ところで実はあまりキーちゃんって子詳しくないんだけど」
「……あ、ああ。元々は幼なじみだ。けど小学校入った頃から付き合うようになって……」
甲斐は一瞬だけ和佐の方を見た。それに気づいたのかどうかは分からないが、
「私は孤児院で彼女と知り合いました」
「あれ?キーちゃんって家族はどうしたの?」
「……実はな、火事は一度じゃなかったんだ」
「へ?」
「両親二人とも居なくなった俺はすぐに甲州院家に引き取られたわけじゃない。いや、今考えればかなりすぐって部類なんだが即日じゃない。最初の2、3日は根無し草だったんだ。孤児院に引き取られる可能性もあった。が、あの子が家に泊めてくれることになったんだ」
「……まさかと思うけどその時に火事起こしちゃったとか?」
「……その時と言えばその時なんだが。キーちゃんの家族はあまり俺を引き取ることに肯定的じゃなくてな。それでもキーちゃんと一緒にいたいと思ってしまった俺は近くの無人発電所に逃げ込むんだ」
「また無人発電所」
「……そこで俺達はとある部屋に居座って寝泊まりしてたんだが何やら寝ている間に変なボタンを押してしまったらしくて……」
「……火事?」
「そう。それも結構大きな火事でな。周囲の住宅も全焼。それでキーちゃんの家も……」
「…………あ~」
「キーちゃんの姉であり当時中学生だったキアちゃんは無事だったんだが無理してバイトまでして俺達の世話をしてくれていたんだが過労で倒れてな……。その頃にやっと俺は甲州院家に引き取られた。キーちゃんやキアちゃんも引き取られるはずだったんだが流石に3人増えるのは厳しいって事で……」
「それで?」
「キーちゃんは孤児院。キアちゃんは入院。キーちゃんはそこから学校に通ってたがキアちゃんとは疎遠になって、退院後どうしたのかは分からない」
「で、それからは?ってか和ちゃんは?」
「私は……その、いろいろあって孤児院に住んでてそこで彼女と会ったんです。そして彼女伝いで友達として最初はそこの人と会ったんです」
そこの人呼ばわりは流石に一言言いたかったが甲斐は飲み込んだ。
「そうして友達として接している内に実は兄妹だと言うことが分かったりしたんですが」
「その際に愚弟とも知り合ってる」
「……彼女は中学に上がる際に孤児院から出て円谷学園に入学したんです」
「って今死神さん達がいるところだよね?」
「そうだ。で、俺が中学2年の時に今度はあの事故が起きて……」
「……キーちゃん呪われすぎじゃない?主に火に」
「く、久遠ちゃん……!」
久遠のほっぺたを軽くつねる最首。
やがて車は病院の駐車場に到着する。これまでも何回か来ている場所なのに甲斐兄妹は心臓の鼓動を感じていた。
何度も見たエントランスが違和感しかない。その違和感の先でエレベーターに乗り、3階で止まり、関係者以外立ち入り禁止エリアへと向かう。
「……待っていました」
部屋の前。そこに赤羽美咲がいた。
「赤羽……」
何だか久し振りにその姿を見たような気がする。しかし今は、
「どうぞ」
赤羽がドアを開け、甲斐達が心臓バクバクさせながら先に進む。
「……あ、」
ベッドを傾けて起きあがった体勢でゆっくりしている彼女は、
「キーちゃん……!」
「れ……ん……く……ん……?」
弱々しく言葉を出す彼女はまさしく甲斐達が夢見た姿だった。
「長年眠っていた影響で筋肉や神経はかなり衰えています。しばらくはリハビリが必要だと思います。ですが半年以内には退院できると思います」
「…………そうか」
「……嬉しくないのですか?」
「嬉しいに決まってる。だけど、言葉にならないんだ……」
甲斐はゆっくりとキーちゃんへと歩み寄り、そのやせ細った手を握る。
「お帰り……キーちゃん」
「……ただ……いま……れんく……ん」
笑顔を見せ合う二人。それを見届けてから和佐は背を向けた。
「和ちゃん?」
「……これ以上私はあの人達といる資格がないので」
「……かずちゃ……」
「……」
自身を呼ぶ声に和佐が足を止める。
「……あなたも素直になった方がいいのでは?」
「……」
赤羽の言葉を受け和佐が目を伏せる。
「……最首さん、久遠さん。赤羽さんと一緒に少し席を外していただいてもいいですか?」
和佐からの言葉を受け3人は病室を後にした。
「死神さん達、何話してるんだろうね?」
少し離れた場所に用意された椅子に3人が座って待機する。
「分からないけど、今は3人にしてあげよ?積もる話もあるんでしょうから」
「……かもね。まあ、久遠ちゃん的には久しぶりにこの温もりを堪能するのにゃー」
久遠は赤羽の腰回りに抱きついて猫のように甘えている。その頭を優しくなでていると、
「赤羽ちゃん。昨日の話は聞いた?」
「はい。4機関の道場の件ですよね?」
「そう。大変なことになっちゃったよね。赤羽ちゃんはどうするの?反対派?それとも甲斐機関だから賛成派?」
「……私は」
「と言うか美咲ちゃんだよね?提案したの」
突然の久遠の言葉に赤羽と最首の表情が凍る。
「……え?」
「久遠ちゃん見る限り甲斐機関のトップは死神さんのお父さんぽいけど、その次の偉い人って和ちゃんとか美咲ちゃんだよね?昨日の反応見るに和ちゃんでも杏奈ちゃんでもなかったっぽいし。そもそもあの二人空手関係ないし」
「……」
「え、久遠ちゃんどういう……」
「だから空手道上の閉鎖を提案した甲斐機関の人物って美咲ちゃんだよね?」
「……え、なん、で……?」
最首は椅子から少しだけ立ち上がり、隣の少女を見た。
「……」
「たぶん死神さんも気付いてるよ。久遠ちゃん的には美咲ちゃん達と楽しく過ごせるなら別に空手じゃなくてもいいんだけど流石に理由が分からないんだよね。西武で決勝に進めなかったって事は理由にするには少しないなってなるし。でも、昨日大倉会長はいつものあの稽古は美咲ちゃんが望む間は続けるって言ってたし。美咲ちゃんは空手やりたいの?やりたくないの?」
「……私は、空手がしたいです。でも、空手があの人を苦しめるなら……」
「あの人って死神さん?まあ、右足あんなことになっちゃったからね。でも、それで死神さんから空手を奪うの?それとも、いつものあの稽古だけを死神さんの空手にするの?」
「……私は……」
「……その答えを出すための今回のイベントなのかな?じゃあ少なくとも美咲ちゃんは反対派にはこないってわけだよね?」
「……久遠、私を軽蔑しますか?こんなにあの人のお世話になってるのに陰からあの人の大好きなものを奪おうとしている私のことを」
「……正直久遠ちゃんは分からないよ。分かりたくない……。こんなに美咲ちゃんと一緒にいるのにわたしには何も分からないよ……」
久遠は赤羽の膝の上でスカートを握りしめる。
「……久遠」
赤羽はただその頭をなでることしかできない。そこへ、
「なら私と戦いなさい」
火咲とリッツがやってきた。
「最上さん……」
最首の前を通り過ぎて火咲が赤羽の前に来る。
「あなたも来たのですね」
「一目見たら帰るわよ。でも、赤羽美咲。最高に煮え切らないあんたを見たらムカッ腹が立ってきたの。今度の4機関イベント。私は中立に回るつもりだったけど気が変わったわ。反対派として参加する。そしてあんたと決着をつけるわ」
「……私にあなたと戦う理由がありません」
「過去からも未来からも逃げるというの?」
「……」
視線をぶつける赤羽と火咲。すると、
「ん、」
ドアが開き、甲斐と和佐が出てきた。
「火咲ちゃん、来てたのか」
「…………」
火咲は、しかし声をかけてきた甲斐ではなくその奥の少女の顔をまっすぐ見ていた。
「……あ」
目が合う。記憶の奥底にあるそれとは少し違うがしかし、まさしくあの少女が目の前にいるという事実にいつしか火咲の目からは涙がこぼれていた。
「……ああ、キーちゃんだ。何か言いたいこともあるだろう。入ったらどうだ?」
甲斐が道をあける。周囲すべての視線を浴びながら火咲は一歩だけ前に進み、
「……いいえ。私は決着をつけてからにするわ」
決意を込めた目で赤羽を見ると、そのままリッツをつれて去っていった。
「……どうしたんだ火咲ちゃん」
「……甲斐さん、お話があります」
「ん?」
「……私、賛成派として参加します」
「……」
「そして私は私自身と決着をつけてきます」
「……まあ、よく分からないが頑張れ。これくらいしか師匠として出来ることはないな」
「……まだ私を弟子だと思ってくれているのですか?」
「……お前にも何らかの迷いがあるんだろう。ここで暴力に訴えてお前を拒絶することは簡単だ。が、俺はもうそんなことは可能な限りしたくない。お前の言いたいことを試合でぶつけてこい」
「……押忍」
4機関のイベント……何か名前が欲しいという久遠の提案により4機関オークションと名付けられた今回のイベントはやはり大いに混乱を招くものだった。そのため800人いた小学生は事実上中立ですらない棄権と言う状態となり、中高生も大半が中立と言う名の棄権だった。
一応かろうじて賛成派22人、反対派1200人、中立派7200人と言う形でイベント自体は成立した。
それに伴い、11月21~23日の三連休を使って選手選抜と5回戦を行うことが決定されそれぞれ連絡網が回る。
「ふう、」
病院。甲斐はあれから毎日お見舞いに来ていた。キーちゃんは少しずつだが声を取り戻しつつある。なお今日は達真と陽翼も一緒だった。
「いやあ、初めて会う気がしないんだよね。僕とキーちゃん」
「……ぼくも、そんな、きだよ。よはねちゃ……ん」
「……ぶっちゃけキャラ被ってると思うんだが?」
「いや、そんなこと俺に言われても……。あとたぶん時期的には陽翼の方が先ですよね?」
「何か言ったか?」
「い、いえ。……その辺治すんじゃありませんでしたか?」
「……善処したい。や、マジで」
実際、陽翼の言動を見てその境遇を知った甲斐は嫌でもキーちゃんのことを思いだしていた。一人称が僕の女の子で髪型が同じツーサイドアップで、とある事情から長年意識不明で入院。
「達真と甲斐先輩も仲良くすればいいのに」
「いや、陽翼ちゃん。俺結構こいつに優しくしてると思うよ?」
「……まあ、龍雲寺や燐と比べたら優しいといえるかもしれないな」
遠い目をする達真。甲斐は苦笑いしか浮かべられない。
「けど陽翼ちゃん、本当にキーちゃんのリハビリに協力してくれるの?」
「はい。僕も似たような状態でしたから一緒に頑張れると思います。ね、キーちゃん」
「ね……」
確かに早くも気が合ってそうだった。
それから面会時間いっぱいまで話をしてからキーちゃんを置いて3人は寮へと戻る。
「……また電車か」
「達真。最近少し乗り物酔い大丈夫になってきたよね。その調子だよ!」
「……頑張るか」
青い表情の達真。若干距離をとる甲斐だったが、
「ん、」
「あ、」
前方。この前和佐と口論した銀髪の少女を発見した。
「やあ、お久しぶりだね」
「……僕っ娘が増えた」
「うんうん、いいよね僕っ娘」
少女が陽翼と視線を合わせると突然ハグをした。
「で、君誰よ?」
「う~ん、名前はまだ言えないかな。と言うか君ともなるだけ会いたくないんだけど」
「え?初対面だよな?」
「今のその君とはね。正直、僕きみのことあまり好きじゃないんだよね。すぐに返してくれたとは言え大事なもの奪われてるし」
「……甲斐さん、何やったんですか?」
少女とハグしながら陽翼がやや侮蔑的な視線を送ってくる。そう言うサービスは矢尻とだけにして欲しい。
「記憶がないんだが」
「そりゃそうだろうね。だから君の方はあまり気にしなくていいよ。ただ、4機関オークションだっけ?それでもし和佐さんが試合をするってなったら僕が相手をしたいんだ」
「君、空手出来るのか?」
「ううん。でも、体術なら出来るよ」
悪いがとてもそうは見えなかった。ただ、何となく歩き方や指を見て、
「君、剣道やるの?それも結構実践的な」
「あ、分かるんだ。流石。剣道じゃないけど剣はやるよ」
一瞬意味が分からなかった。が、
「もしかしてうちの極真空手に近いパターンか?聞いたことないが」
「まあ、僕のことは別にいいじゃん。で、どう?和佐さんの相手させてくれる?」
「……飽くまでも指名権は少数である向こうが持ってる。指名されるように何かアピールでもするんだな」
「そっか。じゃ、僕が勝った場合と指名されなかった場合正輝君連れてくるって言おっかな」
「まさき……?」
一瞬何故かその単語に引っかかった。
「何でもないよ。じゃあ、当日にね」
それだけ言うともう一回陽翼とハグしてから少女は去っていった。
「……何なんだあいつ?」
「……さあな」
達真と甲斐は呆然とすることしかできなかった。
ともあれ、これで対戦の希望が2組出たことになる。
「……どっちも反対派から出ようとしているのが4機関どこにも所属していないばかりか空手もやっていない女の子な件」
その言葉に若干暗くなる3人。
「……矢尻、お前はどうする?」
「俺、実際には大倉道場にも所属してないんですが」
「この際だからいいんじゃないのか?赤羽は向こう側だし、その赤羽と対戦相手は決まってるから久遠や最首も出ないだろう。そうなりゃうちらから出るのはもうお前くらいしかいないぞ」
「……今更ですけどあのちっこいの、久遠寺が甲斐機関は女ばかりだって言ったの割と本当なんですね。赤羽もそうでしたし」
「……ああ。けど、一人いるじゃんか。あの陰気な執事が」
「……あの人は俺を指名しませんよ。実力が釣り合っていません」
「……やっぱりお前の師匠か?」
「時期は短かったですけどね。向こうも俺のことを覚えているかも分かりません。それにあの人は馬場雷龍寺や赤羽剛人の同期。実力も近いようですからそのどちらかを選ぶでしょう」
「……なるほどな。この前あの二人も反応してたのはそう言うことか」
「まあ、一応当日試合をする準備だけはしておきます」
「ああ」
空手の稽古だけがないいつも通りの秋の日々が過ぎていく。この前の大会の時とは正逆な肌寒い季節が来つつあった。
そんな中、4機関によって貸し切りにされた体育館で品評会ならぬ選手達の選別会が実施されることとなった。
かつて西武で使われたその体育館に4機関の選手達や代表が集まる。中立派に関しては3機関の代表以外はリモートによる参加となっている。
「それではこれより4機関オークション選手選別回を始めたいと思います。視界はわたくし、甲斐杏奈がつとめさせていただきます」
マイクを持っているのは杏奈だった。確かに賛成派の立ち位置かもしれないが彼女は空手が出来ない。なので今回はある意味中立派と言っていいかもしれない。司会進行役としては適任だろう。
「では改めてルールの説明をさせていただきます。近い実力の持ち主同士が試合を行う代表戦を5回行い、3勝した陣営の勝利となります。甲斐機関を主とした賛成派が勝てば3機関の道場は閉鎖され、いろいろ弁償のためにお兄様は卒業後甲斐機関の社員となります。逆に反対派が勝利すれば今回の道場閉鎖を取りやめにする交渉が可能となります。
今日行うのは選手の選抜がメインとなります。賛成派側から立候補した選手が反対派側の選手を指名。実力の比較のために60秒程度の軽いスパーリングを行い、実力に差がないかどうかを中立派のみなさんが判断。お手持ちのスイッチで妥当・妥当じゃないを決め手もらい、妥当が過半数を超えた場合マッチングが成立となります」
杏奈の言うとおり既に中立派の手元にはスイッチが配られている。
「それでは、賛成派からまず立候補したい選手はいらっしゃいますか?」
杏奈の声に真っ先に反応したのが赤羽だ。
「はい、赤羽美咲さん。誰を指名しますか?」
「最上火咲さんを」
「……逃げるのはやめたようね」
一歩前に出て挙手した赤羽に対し、火咲もまた一歩前に出る。彼女たちの姿に周囲には軽くどよめきが生まれた。赤羽の真紅のワンピース型胴着も珍しいが、しかしそれと全く同じものを火咲が着ているというのは何かしらの裏を感じざるを得ない。しかも、火咲のものは両腕の袖が長袖になっていて先端が結ばれている。つまり全く手は使えない状態だ。
「……本当にその手でやるつもりですか?黒のメンテナンスマシンを使ったらどうですか?治るのは私が保証しますよ」
「嫌よ。私は私、もう最上火咲なのだから」
二人が話し合いながらコートの中央に立った。
「……」
龍雲寺がスマホのアラームを60秒にセットして互いに見せる。二人は反応しない。
「それでは、はじめっ!!」
岩村の号令を受けて両者が距離を詰める。
「早い……!!」
そのスピードは思わず甲斐が声を上げるほどだった。10メートルあった距離が一瞬で潰れ、気付けば互いに蹴りと蹴りをぶつけ合わせていた。
意外なことに体格で大きく劣る火咲の方がパワーもスピードもあり、やや有利となっていた。
実際中立派を中心とした火咲を知らない多くの人物は見るからに両手にハンデがある火咲が不利なんじゃないかと予想していたがしかし、それは大きく裏切られた。
(……火咲ちゃんの動き、いつものムエタイじゃないぞ。空手だ。しかも、俺が赤羽に教えたものに酷似している。……最首がまだ関係していない頃の最初期の赤羽の動きが一番近い。どうなっているんだ?)
甲斐は火咲の動きを目で追えば追うほどどうしても赤羽美咲を重ねてしまう。
「……っ!」
赤羽は想定とは違う状況に焦燥していた。たった60秒のこのスパーリングは飽くまでも品評のため。しかし火咲はそう思っていないようだった。
(あんな古いサイスーツを使って……この人はこの60秒で私をしとめるつもりだ……!)
(覚悟なさい。偽物以上にいびつなあんたをこの私が破砕してみせる)
鋭く重い火咲の膝蹴りが赤羽の下腹部を穿ち、その体を宙に舞わせる。
「……!!」
「……っ!!」
その瞬間、互いの体が高速回転し飛び後ろ回し蹴り同士が激突した。その直後、
「じ、時間です!!」
龍雲寺の声とアラーム音が響いた。
「……」
赤羽と火咲は同時に着地する。
「……今のはどっちも白虎一蹴だったぞ……?赤羽はともかくどうして火咲ちゃんがあの技を使えるんだ……?」
甲斐が疑問する中、中立派で審議結果が出たらしく電光掲示板に妥当の文字が出力された。
「決まりました!!まず1組目!賛成派・赤羽美咲さんと反対派・最上火咲さんのマッチングが決まりました!!」
「……」「……」
両者はにらみ合い、そして無言のままコートの外へと出て行った。
「い、一回戦目からすごい勝負でしたね……。では、続きまして2組目。賛成派から立候補どうぞ!!」
「……」
一歩前に出たのはライルだった。その姿に雷龍寺、剛人、達真が緊張を作る。
「ライル、誰を選ぶ?」
完全に素の口調で杏奈がライルに問いかけた。ライルはやや呆れながらもしかしはっきりとその名を口にした。
「矢尻達真」
「!」
誰より驚いたのは指名された本人。雷龍寺と剛人の視線を同時に受けたのも心臓に悪いが、今すべての視線を一身に受けている状況が不慣れすぎる。
「……受けるのか?受けないのか?」
「……受けるさ」
ライルの手招き。達真は己の両頬を叩いてから前に出る。
「それでは、賛成派からライル・ヴァルニッセと反対派の矢尻達真さん!コートへ!!」
導かれるままに両者がコート中央に立つ。
「……どうして俺を選んだ?」
「構えろ。どれほど強くなったか見定めてやる」
「……いいだろう」
構える両者。龍雲寺が緊張のままアラームをセット、両者に見せ、
「では、はじめっ!」
岩村が号令すると同時、達真とライルが距離を詰める。しかし、
(早い!)
達真がまだ距離を詰めているというのに既にライルは達真が進むべき分まで迫り、急停止したばかりの達真に飛び蹴りを放つ。
達真はギリギリで防御をとるが急停止したこともあって体勢が整えられずに後方に吹っ飛ばされてしまう。
「くっ!」
踏みとどまった達真にライルが再び迫り来る。気付けば目の前に迫り来る膝蹴りをギリギリで回避しつつ軸足を蹴りつけるがびくともしない。ばかりかライルは放った膝を地につけぬまま回し蹴りに移行して達真の左腕を蹴りつける。
「ぐっ!!」
肩を押さえながら後ずさる達真を追撃するライル。
「どうした?妥当と見なされずこのまま下がって俺の前から消えるか?」
「……いい加減にしろ……!!」
達真は跳躍。両膝からライルの顔面に迫る。ライルは跳び回し蹴りで達真を側面から襲撃する。
(この距離ならお前の足は届かない。膝蹴りからスイッチしても無駄だ)
(俺は強くなったんだ……立ち止まってなんてない!!)
達真は蹴られた体勢から両拳をライルの放った足に叩きつけ、ライルがひるんだ瞬間に自身を空中で回転、
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
両足をかかとからライルの顔面にたたき込む。
「時間です!!」
そこでアラーム。
達真が着地すると、
「……本番を楽しみにしている」
ライルはそれだけ言ってコートの外に歩いていった。
電光掲示板には妥当の文字が出力されていた。
「決まりました!!2組目は賛成派はライルで反対派は矢尻達真さんに決定しました!!マッチング成立です!!」
「まあ、ぶっちゃけ最後の一撃が決まってなかったら妥当じゃなかったろうけどな」
戻ってきた達真に甲斐が伝える。
「……俺は勝てるでしょうか?」
「難しいだろうが全力は出してこい。……いやあ、本当なら俺がやろうと思ってたんだがな。ちょうど良さそうだし」
「……いや、あなたドクターストップ掛かってるでしょ」
甲斐は超音速で達真を殴ろうとしたがしかし途中でやめた。そのため達真はいきなり前髪が一部砕け散った怪奇現象に恐怖した。
「……いいのですか?」
戻ってきたライルに和佐が問う。
「本当は矢尻さんを瞬殺して早めに望みを絶たせてから雷龍寺さんか剛人さんと戦いたかったのでは?」
「確かにそのつもりでした。が、俺の思っていた以上にあいつは強くなっていたようです」
「……いい勝負になるといいですね」
「……ええ」
それだけ言ってライルは杏奈の傍まで戻った。
「では、次3組目を決定したいと思います!賛成派は誰が行きますか?」
「はい」
和佐が挙手して前に出た。
「和佐ちゃん、誰を選ぶの?」
「公私混同しないで真面目に司会をやってください。……久遠さん、どうですか?」
「え、」
和佐は挙手した手をまっすぐ久遠に向けた。
「……あの野郎、完全論破されてこんなイベントを設定された事で久遠を恨んでやがるな」
甲斐は睨むが、和佐は無視する。
「さあ、どうですか?」
「……久遠ちゃんは……」
「そう。行かなくていいよ」
「!?」
と、そこへ突然姿を見せたのはジャージ姿の銀髪少女だった。
「あなた……こんなところにまで……」
「和佐さん、確かにゲームだけどやっぱり勝つためなら容赦しないんだね。だから踊らされるんだよ、0号の時みたいに」
「あなたはどうして私を追いかけ続けるのですか……!?」
「前にも言ったよ。僕は和佐さんに借りがある。だからあなたが間違っているなら僕はあなたを止める。断るんだったら正輝君とルネ連れてくるんだから」
「…………あなたは……!!!」
「か、和佐ちゃん。顔が怖いですよー?」
杏奈からの冷や汗スマイルを無視して和佐は握った拳から指一本出して少女に向ける。
「いいでしょう。最上さんと赤羽さんのように私もあなたとの決着をつけます。あなたからの挑戦、受けて立ちますよ……紫歩乃歌さん!!」
「むらさきほのか……」
甲斐がその名をつぶやく。何故かものすごく泣きたくなった。
「何だ……どうしてあの子にものっそく申し訳ない気持ちが沸いてくるんだ……?」
「知らない方がいいよ」
歩乃歌と呼ばれた少女はコートへと向かう。歩乃歌が到着した瞬間に和佐が眼前に出現する。
「いいよね。空手の縮地ってごまかせるから」
「大丈夫です。空手の範疇でしか技を使いませんから」
「本当は互いにハンデなしの方がいいんだけど、そうも行かないよね」
コート中央でにらみ合う両者。再び龍雲寺がアラームをセットする。
「それでは、はじめっ!!」
岩村の合図で両者が動き出す。その速度は先ほどの赤羽と火咲のものを遙かに上回っていた。
「……互いにスピードだけなら全国クラスだな」
甲斐がギリギリ目で追える。
「そもそも和ちゃんって空手じゃないよね?」
「ああ。システマだったかな。たぶん甲斐機関で習ったんだろう。とは言えうちの学校の空手部に属しているわけだから少なくとも基礎はできるだろう。あとは、武術同士のルールの差異だな」
「どう言うこと?」
久遠が訪ねてくる。
「たとえばボクシングはパンチだけだろ?まあ、足もステップなんかで重要な要素なんだが。けどパンチしか使っちゃいけない武術なんて他にない。同じように柔道はパンチはおろかキックでも駄目だ。相手をつかんで投げるだけ。まあ、本当はもっと詳しいだろうが。で、逆に空手は殴るも蹴るもOKだが相手の体を1秒以上掴んだら反則だ。だから少なくともこの三つの武術は同じルールで戦えない」
「じゃあ和ちゃんのは?」
「詳しくは俺も分からないが、軍隊格闘技だ。恐らく殺さずしかし確実に相手をしとめて無力化する武術だろうな」
「……相手の子は?」
「知らない。見たところ剣道はやってそうだが、身体能力はかなりハンパないな。体術に関してはかなり我流だな」
「俺を呼んだか?」
と、そこへ雅劉が来た。一瞬何のことか分からなかったが、
「いや、あんたのじゃない」
「知ってる。ただのジョークだ」
「雅劉さん、システマってどんなのか知ってるか?」
「さっきお前が言った内容で間違ってないぜ。軍人が使う格闘技には他にコマンドサンボって奴もあるがこっちは武器のない状況でも相手を殺す事に特化してるな。CQCとはある意味正反対だ。対してシステマは捕らえ所がない動きで相手を征する……らしい」
「らしい?」
「コマンドサンボもそうだが、システマも歴史が浅い。おまけに軍人格闘技だから基本的に外部に情報が漏れることもほとんどない。そしてコマンドサンボとは違ってシステマは競技として認められていないんだ」
「え?コマンドサンボは認められているの?」
「ああ。非殺傷のスポーツサンボとしてだがな。けどシステマはまあまあ謎に包まれているんだ。……お前の妹さん、ロシア軍にでも入隊してたのか?」
「……流石にそんな話は聞いていないが」
会話している中、達真はコート上での戦いを見て戦慄していた。
これまで空手部の活動で和佐のスパーリングは見たことも相手をしたこともある。だから、西武で準優勝した自分なら春、初めて会った時よりかは善戦できるだろう、あわよくば技あり1つくらいなら取れるんじゃないかと思っていた。だが、
「……レベルが違いすぎる……馬鹿か俺は……!?」
和佐の動きが全く読めないのは冷や汗が目に入ったからではない。システマという独特で未知な体術を申し分ないほど身につけている和佐の実力故だ。正直、まともに対応できている歩乃歌が不思議で仕方がない。
「じ、時間です……」
龍雲寺が告げると同時、両者が動きを止める。
「はあ……はあ……」
「……自ら私の前に立ちはだかるだけあって以前よりかなり腕を上げたようですね。ですが、まだまだです」
「どうかな……?」
歩乃歌は指についた血を見せる。そこで和佐は己の左手小指がへし折れている事に気付いた。
「指を……」
「僕もまだまだ捨てたものじゃないと思うけど?」
「……いいでしょう、あなたを私の敵として認めます」
和佐が背を向けてコートの外へと歩き出す。歩乃歌が一息ついてから同じように歩き出す。電光掲示板には妥当の文字が出力されていた。
「き、決まりました!!何が何だかさっぱり分かりませんでしたが第3試合は賛成派・和佐ちゃんと反対派・紫歩乃歌さんで決定しました!!」
「ちなみに女子最強と名高いはるちゃんは、あの二人に勝てるの?」
久遠からの純粋な質問。自信家の久遠としては珍しく自分は勝てないと言外で言っているような質問だった。
「……女子最強って。私そんなじゃないと思うけどな」
「未成年女子で唯一全国大会に出られる可能性があると言うだけで最強クラスだと思うぞ」
甲斐が補足。
「うん。ありがとう。でも、ちょっと厳しいかも。相手が空手じゃないって言うのもそうだけど尋常じゃないスピードだった。あれがシステマとか言う格闘技のものなのか分からないけど、まあ厳しいよね」
「……和ちゃんそんなに強いのに久遠ちゃん指名したの?」
「安心しろ。もしあの子が割って入らなければ俺が相手をしていた。どのみち少しお仕置きは必要だ。もちろん可能な限り暴力は避けてな」
見れば甲斐はうずうずしていた。別にお仕置きするのが待ち遠しいのではない。久々に高レベルの試合を見れて興奮しているのだ。
「では。続きまして第四試合の組み合わせを決めたいと思います。賛成派からは誰が出ますか?」
「……」
挙手をして一歩前に出たのはかつて一度だけ見た顔だ。
「……3号機……!」
火咲がその名を呼ぶ。
「火咲ちゃんあれは……?」
「三船のトップシークレットだった個体よ。三船が私や赤羽美咲、赤羽剛人を使って人体改造をしていたのはもちろん知ってるわよね?」
「ああ」
「その技術を使っていて所長はある疑問を抱いたのよ。元から生きている人間を改造して強くするのではなく、一から作ったらどうなるのかと」
「一から……!?」
「そう。あの男は最初から戸籍なんて存在しない。改造元なんて存在しない。一から三船によって作られた男。その上で偽造された戸籍での名前は白夜一馬。かつて一度だけ試しに大会に参加した結果白帯でありながら段位持ちの黒帯を何人も圧倒して撃破したことから最強の白帯、マスターホワイトなどとも呼ばれているわ」
「……そんなとんでもない奴だったのかよ」
甲斐が戦慄しながら白夜を見る。同時にかつて久遠を拉致したシフルが使役していたクローン達を思い出す。彼女たちも人間性がほとんど見られなかったが白夜の場合皆無と言っていい。
その白夜が指さした相手は雷龍寺だった。
「ほう、俺を指名か」
雷龍寺が不敵に笑い、前に出た。
「待て、雷龍寺。あいつは、」
「話は聞いていた。だが売られた喧嘩は必ず勝うのが畳の上の男と言うものだ」
「……1号機、赤羽剛人に勝利した実力を調査する」
「いいぜ?ポンコツ。出来るもんならやってみろ」
「おっと!!これはとんでもない組み合わせになりました!!情報によればついこの前まで未成年最強の称号を持っていた馬場雷龍寺さんと甲斐機関最強の戦士・白夜一馬さんと言う全国大会でもおかしくない組み合わせです!」
興奮の杏奈。その隣でライルが冷ややかに両者を見る。同じような視線を剛人も送っていた。そして両者がコートへとやってくる。
いつも以上に緊張している龍雲寺がアラームをセットする。
「それでは、はじめっ!!」
岩村の号令と同時に両者が一気に距離を詰めた。その速度は先ほどの和佐と歩乃歌以上。そして比べものにならないほどの無駄のなさ。蹴りは出さずに足を止めたまま打撃の応酬。かと思えばすぐさま狂ったように動き回り、異常までに鋭く重い蹴りの応酬へと変わる。
「……雷龍寺の動きについてきてやがる」
「当然よ。1号機よりかも強力に仕立ててあるのだから」
「……実際には俺の強化コピーだ」
剛人がやってくる。火咲はわずかに後ずさる。
「俺のデータをベースにして上方修正をかけている。今年の冬に俺と戦った程度の実力のままならあいつに勝ち目はない」
「……けど、あんたもあいつもとっくに前に進んでるんだろ?」
「……当たり前だ。だから馬場雷龍寺もこのスパーリングだけで決着をつけようとしている」
甲斐がギリギリで追いつけない動きを剛人は完璧に補足できている。勝負としてはギリギリで雷龍寺が上。しかし白夜の動きが勝利ではなくデータを得るためのものであることに剛人と雷龍寺は気付いている。
やがて、そのまま60秒が経過した。雷龍寺は軽く息が切れているが白夜は全く呼吸を乱していない。そもそも人間らしい呼吸という機能があるのかどうか。
「……次はぶっ壊す」
「……データ解析完了」
両者が背を向けて歩き出し、電光掲示板にはやはり妥当の文字が光っていた。
「……で、4組目まで出たわけだが」
甲斐が言葉を出す。
「……向こうってまだ誰か居たか?」
「確かに、私が知っている限りでは他にいないかも」
「私も情報は掴めていないわ」
火咲は剛人に目配せをする。と、剛人は目を伏せた。
「……俺はある可能性を知っている」
「可能性?甲斐機関の5人目を知っているのか?岩村先輩なら今回主審に回ってるんだぞ?」
そう。もし岩村が主審をやっていなければ5組目は岩村VS加藤になるだろうと踏んでいたがその様子がない。実際に今日は主審を貫くつもりなのかスーツだ。かと言って岩村以外に加藤の相手が出来る選手も居ないだろうから事実上加藤は今回出場せずと言うことだろう。
「可能性としてだ。実際そいつが5人目として出てくる可能性はかなり低い。何せ、まだ目を覚ましてさほど経っていない」
「……目を覚まして……?」
一瞬キーちゃんのことを思いだしたがまああり得ないだろう。だとすれば誰か。
そして、新しい足音が会場に生まれた。
「賛成派の5人目の方、ただいま到着したようです!」
杏奈の声。それよりかも甲斐は轟く鼓動の理由を探していた。
「……何だ、この感じ……この感覚は……高揚感……!?」
甲斐の様子を見て剛人はため息をついた。
「5人目は……俺だ」
そうして声と共に姿を見せたのは
「…………馬場早龍寺…………!!!」
今年1月の全国大会準決勝で甲斐と戦い、引き分けに終わった相手。
馬場早龍寺が甲斐の前に姿を見せたのだった。
「指名する相手はお前だ、甲斐廉!!!」
「……!」
まさかの台頭と指名ににわかに沸き立つ会場とリモート内。
「こ、これはとんでもない事になりました!!賛成派の5人目として現れたのはあの、馬場早龍寺!!そして指名した相手はお兄様……こほん。拳の死神・甲斐廉!!!この組み合わせは今年1月の全国大会準決勝戦のそれと同じになります!!うわ、リモート内のコメント欄が大変なことに!」
「……帰ってきたんだな、お前も」
「……ああ。お前と決着をつけるために」
不敵な笑みを浮かべながらにらみ合う両者。そのままコートへと向かおうとすると、
「ま、待ってください!!」
赤羽が声を上げた。
「甲斐さん!あなたはドクターストップが掛かっています!その足であの馬場早龍寺と戦うつもりですか!?」
「当たり前だ。どんな足だろうが手だろうが売られた喧嘩は買う。そして、ついてないケリは必ずつける」
「やめてください!!」
「……どうした、赤羽……」
「わたしは……あなたに傷ついて欲しくない……」
いつしか赤羽は涙を流していた。中々笑顔も見せない少女の涙に甲斐はわずかに表情を変える。だが、コートへと向かう。
「待ってください!甲斐さんのその足がスクラップになってしまう……」
「スクラップだろうが何だろうがそんなことは関係ない。俺との決着を全力で求めている男が畳の上で俺を待っているんだ。だから行かなくちゃな……!」
泣き崩れる赤羽に背を向けて甲斐はコートへと降り立つ。
「……早龍寺兄さん……」
「龍雲寺。こんな形でもまた畳の上でお前と会えるとは思っていなかった。特別に世界で一番熱い戦いを誰より近くで見せてやる。何、今日はまだ前哨戦。60秒で我慢してやるさ」
ざわめく会場。コートの中央に構える甲斐と早龍寺。まるでさっきまで全国大会の試合をやっていたかのように互いの熱気が一気に爆発する。
「……準備はいいな?」
若干緊張を含んだ岩村からの質問に、両者は構えることで答える。
「それでは……はじめっ!!」
岩村の号令。同時に両者は距離を詰めた。
「いくぜ……!!!」
「いくぞ……!!!」
互いに一歩も退かない。同時に中央に到達し、早龍寺の前蹴りと甲斐の拳が激突を果たす。そしてそれは一度に終わらず、瞬く間に同じ数だけ激突を果たし、火花を散らす。
一撃で甲斐を粉砕するつもりで放った早龍寺の蹴りを甲斐はパンチで的確に相殺させていく。しかし、ボディにたたき込めるだけの間隙がない。右足が健常ならばいくらでも突き進めるのだが今の甲斐にはそれが不足している。
「ならば!」
早龍寺は甲斐の腰を蹴り上げて、甲斐を真上へと蹴り飛ばす。さらにそれは連続して発生し、いつしか二人は地上から離れた場所へと舞い上がっていた。
「膝天秤……!?」
「耄碌したか!?俺の技は妹などとは違う!!」
空中で早龍寺が回転し、両足のかかとで甲斐の両肩を抉り、一瞬だけ甲斐の帯を掴んで地面に向けて放り出す。
「膝曼荼羅!!」
早龍寺に背を向けた形となった甲斐の背中に膝をたたき込み、そのまま甲斐ごと高速回転しながら地面に落下する。
「な、何ですっかー今のは!?」
杏奈の悲鳴に近い声がマイクを通して会場全体に響く。
「さっきから思ってましたけどこれ空手ですか!?」
「はいはい」
ライルが杏奈を抱き上げてどこかへ連れて行き、代わりに和佐がマイクを握った。
「はい。空手です。畳の上で帯を締めた者同士が戦っているのですから」
和佐の声。同時に、
「朱雀暴食ぅぅぅぅぁぁぁぁっ!!」
甲斐の両拳が早龍寺の腹にたたき込まれ、コートの外まで吹っ飛ばす。
「早龍寺さんがと言うか馬場家が縦方向だとしたらあの人は横方向ですね」
互いに同時に立ち上がった甲斐と早龍寺が不敵な笑みのまま再び距離を詰めて攻防を開始する。まだスパーリングは開始して10秒しか経過していない事実に気付いた者達が驚く。
「朱雀幻翔!!」
甲斐がフェイントと変調込みで、しかし超スピードで迫り来る。その速度にもなれば多くの選手にとってフェイントや変調など無意味だ。しかし同格以上の存在である早龍寺には十分通用している。だが、
「なめるな!」
早龍寺はフェイントも変調もすべて見切った上で跳び膝蹴りを甲斐の胸にたたき込む。と、
「知るか!!」
甲斐は攻撃を食らったまま秒速8発のパンチを早龍寺にたたき込み、うめきながら着地した早龍寺に追撃を放つ。早龍寺は一瞬心を無にすることで築いた制空圏で甲斐のパンチをすべて受け流す。
「!」
「速いが、相変わらずそれだけだ!」
早龍寺の槍のように鋭い前蹴りが甲斐の下腹部を穿つ。
「三叉!」
そこで先ほど踵で抉った両肩のダメージと共鳴し、中間点である甲斐の両肺が突然悲鳴を上げる。それでも、
「ふううううううんんんんぬがあああああああぁぁっ!!!!」
甲斐は耐えて超速の正拳突きをたたき込んだ。
「あれは、綺龍最破……!?」
達真がかろうじて目で追うと、早龍寺の体が再び吹っ飛び、コートの外を転がる。空気やら血液やらを吐き出しながら早龍寺が立ち上がり、3倍速の縮地で一気に甲斐の懐に迫る。
「!?」
「疾風津々浦々!!」
小さなジャンプをしてからの超速の前蹴り。それを秒速3発ずつ繰り出して甲斐の全身至る所を蹴り抜いていく。
「くううううううううううう!!」
激痛と共に全身から脱力を感じた甲斐は再び正拳突きを繰り出す。
甲斐の拳が早龍寺の蹴りと蹴りの間をくぐり抜けていき、心臓間近にたたき込まれる。同時に早龍寺の蹴りが甲斐の顎をぶち抜いた。
「……がっ、」
「ごふっ!!」
両者白目を剥きながら踊るように千鳥足でさまよい、そして二人同時に倒れた。
「…………えぇぇ……?」
龍雲寺がもはやドン引きする。アラームはまだ20秒以上後だ。
「……たった40秒ですべてをぶつけてダブルノックダウンしやがった」
「……早龍寺め、帰ったら鍛え直しだな」
剛人が呆れ、雷龍寺がため息をつく。
「…………さて、」
岩村が努めて冷静な顔をとる。しかし内心は焦燥していた。こんな高レベルな殴り合いでダブルノックダウンしてしかも引き分けなしとかどうやって判断すればいいのか。
リモート上でももうこれ一回戦でいいんじゃないの?とか燃えたけどこの二人やらせちゃ駄目だろとかコメントが寄せられていた。
「……当日考えるか」
岩村が笑顔を見せ、背後の電光掲示板に非妥当の文字が映し出された。
互角じゃないから妥当ではないのではなく、全くの互角で決着が付かないから妥当じゃないと判断されたらしい。あともうある意味決着ついてるし。
「……え~っと、」
さすがの状況に和佐も冷や汗を浮かべていた。
「……岩村さん、6人目いきますか?」
「……だとすると研磨だが、」
岩村は自分の服と、向こうの方で袖をまくっている加藤を見比べた。
「……同じ結果にならない保証がない」
「……逆指名とするか」
剛人が一歩前に出た。
「逆指名って、前提条件を無視して反対派である赤羽剛人さんが相手を指名すると言うことですか?」
「そうだ。対戦相手は……」
「ま、まて……」
そこで、声。甲斐と早龍寺が立ち上がった。
「何だ、お前達はもう選手にはなれないぞ」
「だからお願いしたい。次はちゃんと決着をつけるから」
「ダブルノックダウンなどとは言わないから」
「「また俺達を戦わせてください」」
頭を下げた二人。沈黙が広まる会場で、背後の電光掲示板から非の字が消えた。
「……勝手にしろ」
剛人はため息。
「……はぁ、では、第5回戦の組み合わせは賛成派・馬場早龍寺と反対派・甲斐廉で決まりました。これで、全5戦すべての組み合わせが決まったことになります」
咳払いをしてから和佐が続ける。
「第一回戦。賛成派・赤羽美咲VS反対派・最上火咲。第二回戦。賛成派はライル・ヴァルニッセ。反対派は矢尻達真。第三回戦。賛成派はわたくし、甲斐和佐。反対派は紫歩乃歌。第4回戦は賛成派・白夜一馬。反対派は馬場雷龍寺。そして第5回戦は賛成派・馬場早龍寺。反対派は甲斐廉となります。あ、当日はちゃんと教育し直した次女が司会進行役をするのでご安心ください。それでは、明日の本番をお楽しみください」
リモート放送が終了され。同時に甲斐と早龍寺はいろんな人からこっぴどく叱られたのだった。
・4機関オークションが始まる少し前。火咲はシフルと会っていた。
「どーしたの、ひさき」
「へえ、アプリなしでも日本語話せるようになったのね」
「えーごのほーがりく」
「りく?楽じゃないの?」
「シフル、通訳するから言いたいことスマホに入力して」
リッツが火咲の人形から脱出してシフルに近寄る。
一応シフルは火咲から作られたクローンなのだが三船では火咲の存在は何故か明かされない事が多かった。それが関係しているのかシフルの顔は火咲に似ていない。シフル含め、羽クローン達はいずれも赤羽美咲と同じ顔をしている。そして火咲と赤羽は腹違いの姉妹だが顔はそんなに似ていない。だから、一見すると火咲よりもリッツの方がシフルと酷似していて姉妹かクローン元のように思えてしまう。
髪がやや黒い銀色なのがリッツでベージュのような銀色なのがシフルだ。尤も火咲達三船の少女達は互いにひと目見ただけで相手のことが自然と分かるのだが。
「……火咲、何か用かだって」
「りっちゃん。そもそも私も0号機の言いたいこと英語でも分かるんだけど」
「……そうだったわね。シフルといるとつい……」
「まあいいけど。で、0号機」
「その呼ばれ方は好きじゃない」
シフルが翻訳アプリを使用して応対した。
「じゃあ、シッフルン?」
「……もっと嫌」
「シッフルンさあ、最初の記憶って何?」
「……最初の記憶?」
「そう」
「……」
シフルは首を傾げながらも頭の中の情報を整理する。
「……妹たちがいたわ」
「三船の研究所で?」
「そう。リッツや青、白がいた。赤羽美咲やあなたはいなかった」
「……それはいつ頃?」
「……思い出したくないけど2、3年くらい前だと思う」
「……」
「火咲、それがシフルに確認したいことだったの?」
「……そう。だってシフルは私のクローンだから」
「……認めたくないんだけど」
シフルはぷいっと顔を背けてはリッツの胸を揉み漁る。
「シフル……自分からは私達と接触できないから溜まってるんだね」
「生意気よ、リッツ。黙って私と性的なことをすべきだわ」
とか言いながらシフルはリッツの服の中に手を入れ始めた。
「火咲、あなたには出来ないでしょう?」
何か得意げに火咲を見てきた。しかし火咲は無視。
「どうでもいいわよ、そんなの。それよりシフル。あなた、拳の死神について何か知ってる?」
「拳の死神?甲斐廉のこと?この前少し話した以外にはそもそも面識自体ほとんどないわ。書類上の情報なら三船のデータベースに載っている限りのことは頭にあるけど」
「……そう。……確かにあなたは久遠を人質に使った。疑うのが間違っていたか」
「……火咲、あなたが何を知りたいのかが分からないのだけど」
「別に。ただ、もしかしたらすべては赤羽美咲から始まったのかもしれないと言うだけよ」
それだけいって火咲はリッツを連れて去っていった。
2020年11月22日。午前9時。西武大会で使用された寒川体育館。
女子更衣室。火咲はリッツに着衣を手伝わせていた。
「……本当に赤羽美咲と戦うの?」
「そうよ。私があの赤羽美咲を破砕するのよ」
「破砕ね」
「!」
声。振り向くと、いつの間にか歩乃歌が近くのロッカーを使用していた。
「あんた……」
「やっほー。真実に近づきつつあるけどまだ何も知らない火咲」
「……あんた、一体何者なのよ」
「そうだなぁ。火咲、1の次は2かもしれないけど、2の前が1とは限らないってところかな?」
「はぁ?」
「1足す1が2にはなるけど、2を主語にした場合答えが1になる組み合わせは無限にある。何が言いたいかって言うと火咲、この世界は1のすぐ後の2じゃないんだよ」
「……」
歩乃歌が制服を脱いでジャージに着替える。一瞬だけ見えた彼女のスマホは見たこともない機種だった。
「火咲、君は1足す1の結果の2だけど、相手の美咲は2ー1の赤羽美咲じゃないから」
「……何となく分かってるわよ。あの赤羽美咲は私が知ってる赤羽美咲ではない」
「ビンゴ。それと同じように今の火咲はあの美咲が知っている存在でもない。メビウスの輪みたいに正しい順序じゃなくなってるんだ」
「……何となく疑問なんだけど、あんたはあの赤羽美咲を追いかけてきたの?」
「まあ、ついでだけどね。飽くまでも僕の目的は和佐さんだよ。そろそろ旅を終わらせてあげないとね。僕だって永遠の旅を続けるつもりはないから」
「……」
火咲は出かけた言葉を飲み込んだ。ちょうどリッツが火咲の袖を丸めていた。
「火咲、僕なら君を元に戻せるけどどうする?」
「……」
火咲は歩乃歌の言った言葉の意味が一瞬分からなかった。だが、その真意に気付くと同時にその顔を見た。
「……あんた、本当に何者なのよ」
「僕は紫歩乃歌。ほんのちょっと長く中学生やってるだけどの女の子だよ」
コート。岩村、遠山、龍雲寺、剛人が試合やリモートなどの準備をしている。客席では4機関からあらゆる選手達が観戦のために集まっていた。
「……何でこんな事になっちゃったんだろうね」
最首がつぶやいたのを久遠は聞き逃さない。
「……今回悪者って誰なんだろう?」
「え?」
「死神さんが大人しく甲斐機関社長を引き継げばよかったのかな?でも死神さんは昔お父さんに捨てられたのを根に持ってるから嫌だって断ったわけだし……」
「久遠ちゃん、たぶん世の中は良いことと悪いことに分けられるほど単純じゃないんだよ」
「……久遠ちゃんだってそれくらい分かってるけど、納得はできないんだもん」
「あなたはそれでいい」
「え?」
聞き慣れない声。久遠が振り向くとそこにはシフルが居た。
「えっと、確かシフルちゃんだっけ?」
「そう。シフル=クローチェ。あなたが馬場久遠寺。赤羽美咲の大事な子」
「え、ちょ、ちょっと照れちゃうな……」
珍しく赤面の久遠。それを見ながら最首は問う。
「どうしてあなたが?」
「今回のことは4つの機関全部に関わることだから」
「……なるほど」
「あ、いた。シフル~!!」
次の声。見れば陽翼が遠くから手を振っていた。しかもその隣には、
「え、キーちゃん!?」
陽翼と権現堂に支えられながらキーちゃんが歩いてきていた。慌てて最首が迎えにいく。
「ど、どうしたの?大丈夫なの!?」
「キーちゃんがどうしても行きたいって言うから」
最首と陽翼の会話。中々レアだなぁと権現堂が感心している。
「キーちゃん。大丈夫なの?」
「……へい、きだよ……はるちゃ……ん」
何とか返事をする。
「当然宇治先生からの許可は取っています。何かあった場合には自分が医務室まで運びます」
「ありがとう、権現堂君」
「……」
陽翼がじっと、最首と権現堂を見ていた。それに気付いた権現堂。
「陽翼、どうかしたのか?」
「いや、この子いくつ?」
陽翼は最首を見ていた。確かに長年眠っていた陽翼と大差ないほどの小柄だし、ちゃんとした自己紹介をしていなかった気がする。
「17歳。高校2年生だよ、陽翼ちゃん」
「わ、わ、わわ!僕より年上だった!すみません、最首先輩」
「大丈夫。慣れてるから」
一瞬遠い目をする最首だった。
「はるちゃん、はるちゃん!」
席から久遠の声。呼ばれた4人が久遠のところへと向かうと、ちょうど試合の準備が出来たのか杏奈がドレス姿で入場してマイクを握った。
「皆さん!!お待たせしました!!これより4機関オークションの本戦第一試合を行いたいと思います!」
「格好以外はまともになったかもね」
久遠のツッコミを杏奈は一瞬無視できなかったが、素通り。
「では、選手入場お願いします!」
杏奈の声に合わせて賛成派と反対派の10人がそれぞれ反対同士のドアから入場してきた。
賛成派、赤羽美咲、ライル=ヴァルニッセ、甲斐和佐、白夜一馬、馬場早龍寺。
反対派、最上火咲、矢尻達真、紫歩乃歌、馬場雷龍寺、甲斐廉。
入場した10人はそれぞれ先頭を残してコートに入らず待機。先頭の二人だけがそのままコートに入る。即ち。
「……」
「……」
赤羽美咲と最上火咲がコートの中央で無言のまま視線同士をぶつけ合わせていた。
「……あの二人、いろいろあったけどついに正式に試合するんだね」
「……美咲ちゃんが向こう側になるなんて予想もしてなかったけど」
「……みさき……ちゃん?」
キーちゃんが反応する。
「うん。……うん?キーちゃんって本名なんだっけ?」
「なが……じゃな、くて……かい、みさき……」
「かいみさき……え、キーちゃんも美咲って言うの!?」
「字は違うけどね。美しく咲く方の美咲じゃなくて三つ咲く方の三咲」
「で、えっと、死神さんと同じ名字なんだ?ひょっとして陽翼ちゃんと同じ感じ?」
久遠の視線が陽翼に。
「まあ、僕の場合は元々名字がなかったからどうせ結婚するし達真のをそのままもらっちゃおうって話になったんだけどキーちゃんは?」
「…………」
陽翼からの問いに沈黙のキーちゃん。代わりに冷や汗全開の最首が答えた。
「た、たぶんご家族がその、もういないから……じゃないかな?」
「……あ~、うん。そうだよね。死神さんの周りだもんね。うんうん。話も聞いてたね。ごめんね、キーちゃん」
「……いい、よ……」
キーちゃんが弱々しく久遠の頭をなでた。
一方でコート上では杏奈ではなく岩村の方から改めてルールの説明がされた。
「公式戦同様、1試合120秒。本戦、延長戦、再延長戦の3ラウンド制となっています!本戦、延長戦では判定で引き分けが生じますが再延長戦では必ずどちらかに判定をしてください!!」
岩村の言葉は主にリモートで参加している中立派に対して送られている。
公式戦同様の試合でありながらコートには主審の岩村以外に判定役のスタッフが立っていないという違和感満載の状態となっている。
「まあ、そもそも今回4機関の空手道場をかけた戦いなのに4機関の空手道場に所属している反対派が死神さんとらい君だけって時点でアレなんだけどね」
「賛成派も赤羽ちゃんと早龍寺君だけだよね……?」
「第3試合においてはどちらも空手を使わない者ですしな」
久遠、最首、権現堂の言葉はごもっともだった。
実際中立派にも空手道場をかけた戦いなのに空手道場に属さない者が居るのはどう言うことなのかという声は挙がっている。とは言え、指名権は賛成派にあるという条件を皆承諾している以上その賛成派が選んだ相手を無視できないのも事実だ。
「そろそろかな」
最首も久遠もシフルも複雑な表情でコートの上を見る。
同じ胴着に身を包んだ似た容貌で、実は腹違いの姉妹同士の戦い。
「……」
スタッフ席から剛人が1秒も見逃さないと言うように目を凝らしている。
「……」
甲斐機関の会議室。三船所長が落ち着かないと行った感じで様子を見ていた。
「では、第一試合を開始する!!」
そして岩村の宣言。それに合わせて雅劉、剛人、加藤が同時にアラームをセットする。
「正面に礼!!お互いに礼!!構えて……はじめっ!!!」
ゴングが鳴った。同時に両者が尋常じゃない速度で距離を詰め、1秒と待たずに交戦を開始した。速度に関してはわずかながら火咲の方が上だった。縮地ではないのに縮地と同等以上の速度で迫り、そのまま蹴りを打ち込む。単純な一拍子だがしかしこのレベルの一拍子を出せるのはカルビレベル以上にしか居ないだろう。対応できている赤羽の方が不思議なくらいだ。
「っ!」
互いに制空圏を築き、少しずつしかし高速で互いの領域を奪い合う。わずかでも相手のバランスが崩れた瞬間、玄武鉄槌が飛び交う事になる。元々超パワー&スピードのパンチを武器にした甲斐が編み出した四神闘技を、ハイスピードファイターの二人が同時に繰り出しているその光景は甲斐にとっても俄に信じ難い。そしてもっと信じられない変化が訪れた。
「!?」
わずか一瞬のことだ。火咲の膝が赤羽の臑を穿ち、赤羽が宙を舞った。
「くっ、」
ギリギリで着地した赤羽に迫る火咲。
(……火咲ちゃん、まさか玄武に朱雀を混ぜたのか……!?)
制空圏を最大限に活用してカウンターを狙う玄武鉄槌。そこにリズムの変調やフェイントから連続攻撃を仕掛ける朱雀幻翔を混ぜたのだ。
そして実際に赤羽に手痛い打撃を与えた最大の要因は、先端が縛られていて全く手が使えない状態となっている筈の火咲の両手だった。
幼い頃から三船による実験のせいで両手の握力を失った火咲は物を掴めないだけでなく、パンチの質も常人と比べて遙かに低い。パワーが皆無に等しいパンチを赤羽は恐れる必要は全くない。しかしスピードがとにかく尋常ではない。たとえフェイントだと分かっていても眼前で両手を超スピードで振るわれては一瞬と言えども警戒しないわけはない。そして実際には拳をふるえない火咲に対してパンチを警戒することは全くの無駄となる。
赤羽と火咲レベルの超高速戦となると一瞬でも全く無駄な動きをしてしまえばどうなるか。それが先ほどの打撃だ。
しかも、火咲の膝は赤羽のボディではなくスピードの支柱となる足に与えられた。これを以て赤羽はただでさえギリギリで自分より速い火咲に対してそれまで通りの速度で対応できなくなった。鳥同士の空中戦で片翼を痛めてしまったようなものだ。まだ試合開始して30秒程度ながら赤羽は致命的と言っていい損傷を得てしまったことになる。
「……」
赤羽は冷静をつとめる。しかし実際に己の致命的不利を悟っても居た。
火咲もまた冷静をつとめていた。だが相手の焦燥を見逃さない。
「……あの二人、同じ顔をしてるね」
久遠がつぶやく。それに対してシフルがアプリを操作する。
「火咲はすべては赤羽美咲から始まったのではないかと言っていた」
「え?」
「火咲が何を言いたいのか私には分からない。けど、1つ仮定できることがある。……赤羽美咲もまた火咲のクローンではないかと」
「……美咲ちゃんが火咲ちゃんのクローン!?」
「そう。それも後のクローンとは違い、影武者的な役割なのかもしれない」
「……あの二人、同一人物を演じていたってこと?」
「そう。火咲の口振りからするに火咲がかつて赤羽美咲を演じていた可能性が考えられる」
「え、どういうこと?火咲ちゃんの方がお姉さんだよね?なのに妹の方を演じていたの?」
「赤羽美咲は2006年1月14日生まれとなっている。対して最上火咲は2005年6月6日生まれとなっている。腹違いだから姉妹であっても1年未満の誕生はおかしくない。けど、もしも最上火咲だけが腹違いと言うのが設定だとしたら……」
「最上さんが生まれた瞬間にクローンが始まって赤羽ちゃんが作られて、それなのに最上さんが赤羽ちゃんの影武者として赤羽ちゃんを演じていた?ちょっと訳が分からなくなって来ちゃった……」
「……火咲は何故か自分が最上火咲であることを演じているような素振りをたまにする。だから、もしかしたら火咲の方が本当の赤羽美咲なのかもしれない」
「……じゃあ、美咲ちゃんは?背は火咲ちゃんの方がだいぶ低いけど火咲ちゃんの方がめちゃくちゃおっぱい大きくて年上だよね?」
「……胸は関係ない。けど、たとえばその成長が原因で赤羽美咲を演じられなくなったとしたら……」
「ま、待って!それって、つまり赤羽ちゃんは……赤羽美咲って存在は二人が生まれるよりずっと前から生きていたような風に聞こえるんだけど……!?」
「そう。赤羽美咲は別にオリジナルが存在する。そして火咲と今の赤羽美咲がその影武者的なクローンとして誕生。だが火咲は胸が原因で演じられなくなった。だから腹違いの姉・最上火咲としての人生を今送っている……考えすぎかもしれないけど」
シフルの考察。スケールというかこれまでの根本を覆すような言葉に、その場の誰もがただ混乱しただけだった。
「けど、火咲ちゃん。死神さんに教わったわけでもないのに美咲ちゃんと同じ技を使うんだよね……」
一方、コート内。まるで眼前の存在を跡形もなく消し去りたいと言わんばかりに火咲は攻め立てる。腕が使えず、足だけとは言え朱雀込みの動きでは赤羽は玄武に徹してもギリギリで直撃を回避するのが精一杯だ。
「くっ!!」
ついにはガードの上から蹴り飛ばされる。
ガードした両腕が激痛で感覚が薄れていく。しかし、下ろした瞬間に下手をすれば命はないだろう。火咲の動きは赤羽がよく知る空手の動きに酷似しているがしかし火咲の真の切り札はムエタイだ。肘と膝を用いたタイの軍隊格闘技。空手では肘は禁止のため出せないが、ムエタイで鍛えた脚力は赤羽の想像と限界を遙かに超越しているだろう。純粋な脚力で見れば漫画技を出せる久遠より上かもしれない。
(……一撃でも膝の直撃をもらえば命はないか)
知識と感覚がそう告げている。おそらく敗色は覆せないだろう。破砕に目覚めていないからと最上火咲を舐めすぎた。しかし、畳の上で諦めるなどとは自分が一番尊敬するあの男からは教わらなかった。
「せっ!!」
「!」
気合い十分。赤羽は火咲の膝蹴りを防御ではなく回避した。そして感覚が薄れていく両手で挟み込むように火咲の放った右膝を殴る。
「玄武鉄槌の完成系に挑むのか」
甲斐がつぶやく。かつて遠山相手に使った技。その完成系のため赤羽は火咲の膝を挟み込んだままドラゴンスクリューのように回転した。
「!?」
「玄武鉄槌……!!」
火咲の右足は固定された膝から力ずくで捻られ、赤羽の全体重と運動力を以て無理矢理火咲の体ごと回転させられる。最も威力が集中して負担がかかるのは固定された上で火咲自身の全体重をかけられる火咲の右膝だ。
「っっっっ!!!」
空中で関節が外され、そのまま火咲の体を回転させるための負担がすべて膝に集中する。
「せっっ!!!」
そして体勢が整っていないまま軸足となった左足から二人分の体重と勢いを乗せられて無理矢理火咲が着地させられる。
「…………くっ、」
全身から血の気が引いていく。激しい嘔吐感と寒気と激痛に襲われた火咲はその場から動くことが出来ない。
「……決まったな」
甲斐がつぶやく。その場にいた他のメンバーも全く同じ見解だった。
「……はあ……はあ……はあ……はあ……!!」
荒い息のまま火咲は生まれたての子鹿のように小刻みな千鳥足を繰り返すことしかできない。脳に酸素が回らず、視界がぐるぐると回転する。
そして、その視界の中で赤羽の背後に佇む甲斐の姿を見つけた。
(……そう。あなたもあの時、こんな気分だったんですね……。だったら、)
その時、誰もが目を剥いた。直立すらままならない火咲が曲げた左腕を正面に、脇を締めた右手を引いて新たな構えをとった。
その構え、見覚えのある者は多く、そしてそれ故に驚愕を隠せずにいた。
その色は甲斐と赤羽が最も濃かった。
「バカな……何を考えているんだ……」
「……どうしたんですか?」
事態を知らない達真が問いかける。が、答えたのは雷龍寺だった。
「最上火咲は死神が誇る最強の技を仕掛けようとしている」
「……拳の死神最強の技……青龍一撃……!?」
達真も実際に見たことはないが、一緒に稽古している時に赤羽が練習しているのを見たことがあった。
「青龍一撃は相手の制空圏を見切り、縮地で接近し、その勢いのまま綺龍最破による正拳突きを繰り出す拳の死神最強の必殺技、しかし最近やっとまともに戦えるようになった程度の右足じゃ本人でさえ満足に繰り出すことは出来ない」
甲斐が滝のような冷や汗を流しながら続ける。
「……両手足が満足じゃない状態で火咲ちゃんが使える技じゃないぞ……!?」
全く同じ感想を赤羽が、そして火咲自身でさえも得ていた。
(確かに。破壊された両足、握力のない両手で行うのは無理が過ぎるでしょう。でも、たった1つや2つの無理に勝てなくてはこの勝負を挑んだ意味がない。私が信じる最強の技で私は……赤羽美咲に勝つ……!!!)
壊れた左足に体重を集中。酸素の回らない脳で、血走った両目でしっかりと相手の動きを見極める。感覚のない右手に意識を集中させて無理矢理握り拳を作る。
そして、再び会場は沸いた。
「……」
対する赤羽美咲もまた全く同じ構えをとったからだ。
(……私にとってこの技は最初に見たあの人の技だ。名前は言ってなかったけど馬場早龍寺さんに対して使ったあの技。真似して成功したことは一度もない。それでも目の前のこの人に応えるには、この技しかない)
鏡写しのように同じ構えをとった少女が二人。沈黙の空気の中、ついに動き出した。
「「青龍一撃!!」」
前足に集中した体重、これを脚力で倍増させて前に進む歩法「縮地」
空手家として自然と鍛え上げた感覚の攻防領域である「制空圏」
歴戦を制した事で彼我のすべてを見極めた後一撃で打ち砕く「綺龍最破」
3つの極意をすべてつぎ込んだ最速最強の正拳突き同士が今、互いに相手の胸へとぶち込まれる。
(……このまま……このまま……たとえあの最上火咲のようになったとしても……!!)
火咲の両肺と心臓とを守る巨乳が拳で歪み、捻れていく。
(私は、前へ行くんだ……!!!)
火咲の袖が破け、凝固と言っていい状態で固まりきった右拳が姿を見せた。そしてそのまま赤羽のチェストガードを粉砕し、彼女の心臓を守る乳房へと突き刺さっていく。
「……っ!!」
やがて、技は終結に至り威力は爆発した。
両者の足下には水たまりのように血液がこぼれ落ちた。
「…………くっ!!」
赤羽の髪を結んだまま離れなかったリボンが解け落ちる。同時に火咲の右拳から血が吹き上がった。
「……なに、が……」
火咲の口と胸から大量の鮮血がこぼれ落ちた。べちゃりと吐瀉物のようにこぼれ落ちたそれは火咲の右乳房だった。
「……ごめんなさい。私はもう負けるわけにはいかないので」
赤羽は涼しげに言い、踵を返すと同時火咲は仰向けに倒れた。
「火咲ちゃん!!」
甲斐と達真がコートへと走る。申し訳なさそうに頭を下げる赤羽とは今は言葉を交わせない。ただ血だまりの中に倒れた火咲へと駆け寄る。
「救護班!!早く!!」
甲斐が叫び、すぐに救急車が呼ばれ、救急隊員が担架と共に走ってくる。
両手足が破壊され、右胸から大量の血を流した火咲が担架に持ち上げられる際、一瞬だけ甲斐と目が合った。
「ごめんなさい……甲斐さん……」
「!」
そして火咲は運ばれていった。
「……赤羽!」
甲斐が振り向く。と、そこでは赤羽が歩乃歌に思い切り頬を叩かれていた。
「見損なったよ、美咲。……を使うなんて」
「…………ごめんなさいっ!」
泣き枯れた赤羽の声を聞いたのは甲斐と歩乃歌だけだった。そして二人には赤羽が走り去っていくのを黙って見ることしか出来なかった。
「……えっと、まさかのハプニングと言うか、これ本物ですか……?」
杏奈の声が会場に響く。
「……えっと、この場合どうしたら……」
「……賛成派の勝利だ」
「え?」
剛人が言葉を届ける。
「第一試合は賛成派・赤羽美咲の勝利だと言っている!」
「ひっ……!!」
剛人の宣言にどよめく会場。しかし、反対の声は挙がらず第一試合の結果は賛成派である赤羽の勝利に終わった。
甲斐機関と三船機関のスタッフがすぐにやってきてコート上の清掃が行われた。火咲の乳房もそこで回収された。
・4機関オークション。一回戦目は賛成派である赤羽美咲の勝利に終わった。
対する火咲は重傷を負ったため即座に大倉機関の病院へと運ばれていった。
「……これは若干よくないかもしれないな」
歩乃歌がつぶやく。
「怪我の具合がわかるのか?」
「いや、たぶん火咲は元通りに戻ると思うよ。……元通りにね」
「?ま、まあ、それならそれでいいか」
暗い表情のままの歩乃歌に少し疑問を持つが、甲斐は達真の肩を叩いた。
「行ってこい、矢尻。バカ師匠を思い切りぶん殴ってくるんだ」
「……そんなつもりはありませんが、全力でやってきます」
達真が帯を締め直してからコートへと向かう。対してライルもまた無言のままコートへと臨む。
「……おい次女」
「あんなですぅ!わたくし、今日は公平な立場なんであまり話しかけない方がいいと思いますぅ!」
「ライルって奴、どんな奴だ?どうして甲斐機関にいる?」
「……ライルもわたくしも元は孤児でした」
「……ん!?お前も!?血繋がってないの!?」
「……ま、まあその、はい……。和佐ちゃんとキーちゃんさんみたいな感じですかね。で、甲斐機関に拾われた私達ですが、ライルはアメリカ人と言うこともあって日本語が喋れませんでした。甲斐機関はいずれ日本に本社を置く予定でした。なので先にライルには日本に来て日本語を話せるようになる必要があったので小学校を日本で過ごすことにしたのです」
「……そこで雷龍寺と」
甲斐が雷龍寺を見る。
「ああ。俺より2年遅く空手を始めたくせに小学校の間は俺や赤羽剛人と互角くらいの成績を残すことになった。……またアメリカに戻って以降は
最低限の稽古しかしていなかったようだがそれでも矢尻が勝てるとは思えない」
「……それを決めるのはあいつ自身だぜ」
甲斐は達真の背中を見る。
「……それでは、第二回戦を始めたいと思います!」
杏奈が中央に戻り、マイクを握る。
「賛成派はライル=ヴァルニッセ!反対派は矢尻達真さんです!」
杏奈の合図に合わせて両者がコート中央に立つ。それを確認してから岩村が号令を開始する。
「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」
号令がくだされ、達真とライルが同時に距離を詰める。半身を切ったままの前進で正面からの攻撃を許さない体勢だ。そのため本来なら前に進みにくく、速く距離を詰めない。しかし、熟練しているからかライルの進みはかなり速い。
「いや、そこそこ鈍いな」
雷龍寺がつぶやく。甲斐も半信半疑だが同じ感想を同時に抱いた。
それでも達真からしたらかなりの速さを感じていた。
この歩法の利点は正面からの攻撃に強いことだ。そして欠点は足の遅さ。そして側面からの攻撃に弱いことだ。
「!」
距離を詰める達真。それより先にライルが射程へと達真を入れる。
先手で攻撃してきた相手への対処は基本的に正面からの迎撃となる。だが、
(正面からの迎撃が出来ない……!)
迫るライルの回し蹴りを達真は両腕でガードするしかない。しかし相手の方がパワーが強いため達真はわずか一撃で体勢を崩される。
(……いや、これは……!)
重心が傾いた達真は構えを崩し、半身を切ったライルの正面に立つ。
「せっ!!」
ライルの下腹部への前蹴り。攻撃に対して平行立ちだったため回避は出来ず、直撃を受けては持ちこたえるのも難しい。だが、
「!」
ライルは直撃を受けてもびくともしなかった。腹筋で耐えたのだ。
そして、攻撃がほぼ無意味に終わった達真はその瞬間無防備に等しい。
「はっ!!」
ライルは跳躍し、達真の左肩を踏みつけるように蹴り入れる。
達真より10センチ以上も大きいライルからの下ろす攻撃はかなり有効となっている。
「ぐっ!」
実際に達真は鎖骨が折れたかと錯覚するほどの激痛を感じていた。もし鎖骨が折れていたら達真は利き手での攻撃力を半減されていて、勝ち目はほとんどなくなっていただろう。
(同じ型同士で戦いながら指導する……少しだけ予想したがそんな甘い考えはやめた方がいいな。むしろそれを利用して今俺の利き手を潰そうとしてきた。遠慮ない人だな、相変わらず……!)
距離をとる達真。対してライルは組み手立ちに構え直す。
「矢尻は得意技を潰されたわけだな」
甲斐がつぶやく。西武でもそうだが、達真は本来知り得ない筈の古いテクニックを使う。それ故に一種の初見殺しとして数多の優勝候補を破ってきた。だが、そのテクニックはすべて目の前にいる男から教わったものだ。その上、身体能力も技術もすべて向こうが格上。
「ふつうなら勝ち目がないな」
「でも廉君は達真君が勝つって信じてるんでしょ?」
歩乃歌が笑う。
「……そんなんじゃないが。君、何となくデジャヴるな」
「何だ。お嫁さんが生きている状態でもこの呼び名嫌いなんだ」
「……何の話だ?」
「別に~」
歩乃歌が試合の方を注目する。甲斐も小さく鼻を鳴らしてからコートへと視線を戻す。
「はっ!」
ライルが攻める。その制空圏は完全に達真のそれを支配していたため、達真が何をしても全く無意味に終わり、瞬く間に滅多打ちにされる。
「ぐっ!!」
そもそも制空圏自体完璧に出来ているとは言えない達真が、格上の完成された制空圏に対抗できるわけがなく、この劣勢は当然の結果だ。
雷龍寺や剛人から見れば穴だらけの制空圏であっても達真からすれば出口なしの迷宮のようなもの。達真が何をしようとしても予想されていたカウンターで潰される。
さらに突然ライルの両腕が達真の両脇へと添えられる。
「クワガタ……!」
「はっ!!」
対処に思慮した達真。その一瞬にライルの跳び膝蹴りが達真の口元を穿った。
「ぶっ!!」
ヘッドギアの上から前歯が一気に揺れる。根本からへし折れたかのように激痛が走るが、
(……一本も折れていない……!)
構え直す達真。既にライルもまた構えなおしていてやや数秒してからまた猛攻がくる。
(何故今時間をあけた……!?)
ガードしながら達真は何とか思考を巡らせる。
(遙か格下の俺を相手に攻め倦ねる必要がある?いや、格下相手だからこそ、攻撃の選択肢が多すぎて迷うのか。だったら……!)
達真はバックステップで一気に距離をとると両腕のガードを下ろした。
「……」
ライルが驚愕。しかし、構えは下ろさない。
「……ノーガード戦法」
「そうだね。カウンターを狙ってるのかな?」
甲斐と歩乃歌が達真を見る。通常、最大限に備えても全く通用しない格上相手に無防備をさらすというのは勝負を捨てたも同然だ。しかし、達真はこれまでもカウンターを得意技としていた。西武の決勝戦でもカウンターが成功していなければあそこまでの名勝負となる前に達真は敗れていただろう。
「けど、あの人達真君の師匠なんでしょ?通用するの?」
「難しいだろう。が、次女や雷龍寺の話からするにあの執事が小学校の頃に矢尻の師事をしていた。なら矢尻もまだ小学校低学年くらいだろう。その頃既にカウンターファイターだったなんて可能性は少し考えられない」
「……ってことは達真君の戦法はあっちの人譲りじゃないオリジナル。だから通用するかもしれないと?」
「そうだ。それにあっちの執事は自主トレは怠っていなかったかもしれないが組み手自体は長年行っていないはずだ。矢尻が得意とするカウンターは反射神経が勝負となる。格上でもしばらく実戦から離れていた執事の虚を突けるかもしれない唯一の技だな」
甲斐が見る。既に雷龍寺や剛人、そしてライルもまた達真の制空圏を見破りに掛かっている。
敢えて無防備をさらしてカウンター勝負に出たとしても攻撃手段は限られるものだ。あらゆるカウンターパターンを高速で脳内再生し、最も効果的な手段を導き出す。
「……はっ!!」
答えが出た。ライルが距離を一気に詰める。放つ技は正面からの跳び蹴り。甲斐のような特殊な例を除き、百戦錬磨の達人の多くが信頼している最良の手段と言えば正面からの跳び蹴りだろう。
実際にライルの足は長い。達真の手足以上だ。これで相手の顔面を狙えば達真はガードこそ出来てもカウンターが届かない。長刀三倍段の法則だ。
(……これしかない)
達真はガードを下ろしたまま自ら跳び蹴りへと飛び込んでいく。
「!」
驚くライル。達真の顔面へと見積もった蹴りは達真がしゃがみながら前進したことで達真の頭上へと突き抜けていく。そして達真は
「せっ!!」
ライルの右足の下でライルの右足の付け根に向かって跳び蹴りを放つ。距離が近すぎるため蹴りとしての威力は激減している。しかし、膝裏辺りから力を加えられたことでライルの膝が曲がり、自らの顔面へと激突を果たした。
「!?」
「木こり額面打ち」
甲斐がその名を口にする。
「え?」
「矢尻の放った技だ。格上殺しとして有名な机上の空論だ」
「机上の空論なの?」
「そうだ。考えても見れば実力でも体格でも上の奴が放った跳び蹴りにカウンターを打ち込むなんて普通に考えたら出来るはずがない。だが、矢尻はそれを成功させたんだ。多少マイナーな技を使う傾向にあるがそれでも正統派な空手選手である矢尻がこんな博打みたいな技をするはずがなく、成功することもないと高をくくった執事への最大限のカウンターだな」
説明する甲斐の前でライルは体勢を崩して後ずさる。今の一撃でライルは膝と足の付け根と額とを同時に痛めた。そこを見逃す達真ではない。
「せっ!!」
やや斜めに向いたフロントステップ。当然ライルの脇を抜けていく。が、
「!」
ライルの横を通りすぎる際に達真は踵でライルのふくらはぎを踏みつける。
再びバランスを崩したライルのわき腹に達真がローリングソバット空手の回し蹴りと違って踵から蹴りつけるプロレス技を受けたライルは大きく横にずれる。
「ひたすら相手の側面を奪い続けてるね」
「最初の半身千鳥足の続きのつもりなんだろう。或いは矢尻自身が編み出し、完成させたあの型の本当の姿なのかもしれない。相変わらずあいつは正統派に見えてピンチに陥った時こそ真価を発揮するギャンブラーだな」
苦笑いの甲斐。その眼前で達真が再び相手のふくらはぎを踏み抜き、ついにライルが膝をついた。
「せっ!!」
下段払いの達真。同時に岩村から技ありの合図。
「……あの達真君の技ってさ、」
久遠が口を開いた。
「死神さんがよくやる正面から相手の後頭部を殴る技を何とか再現しようとした奴だよね」
「え、……あ、確かにそうかも」
最首は戸惑う。通常どちらも行わない技だから最首としてもあまり得意ではない。
「死神さんのパンチが引き戻す際に殴るのに対して達真君は前に出てすれ違い様に踏みつける。正反対だけどやっぱり師弟なんだね」
久遠の言葉を聞いた達真は内心で否定する。
(……何とか判定で有利を得た。後はこのまま耐えればいいだけだが……させてくれる気がしない)
正面。立ち上がったライルが帯を締め直す。そして、
「はっ!!」
「!?」
達真が身構えるよりも速く達真の膝を踏み抜き、それを足場にして跳躍、一瞬で達真の真横に移動したライルが着地より先に、」
「はあっ!!」
全体中をかけた回し蹴りを達真の後頭部にたたき込む。
「が……っ!!」
意識が遠のく、気付いた時には達真はうつ伏せに倒れていた。
「せっ!」
「技あり!よって技あり相殺!!」
岩村の声を聞き、達真が立ち上がると同時アラーム音が響く。
「時間です!判定を!」
岩村が言うと、加藤、剛人、雅劉はそれぞれ引き分けの意を示す。つまり、インターバル後に延長戦を行うと言うことだ。
「……ふう、」
コート中央から少し離れた場所に達真が移動する。わずかな間だが気を抜いて休める。そして今の試合で延長戦まで進めたことに感謝しかない。
彼我の実力差を十分認識している達真は正直ここまで持たないと思っていた。だが、持ちこたえている。
(……どこまでやれるか)
呼吸を整える。そこで足下にわずかな赤いシミが見えた。先ほどの火咲の血だろう。文字通り乳がもげるまで戦った先ほどの彼女の姿は忘れられない。そして背後を振り返れば陽翼や権現堂の姿。
(……いや、違うな。……負けられない……!)
頬をはたき、気合いを入れ直す。
「インターバル終了!!これより延長戦を開始する!」
岩村の合図を受けて再びコート中央に向かう達真とライル。
「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」
号令。同時に両者が再び前進する。今度は半身千鳥足ではなく、通常通り正面を向いたままだ。
「……」
達真の歩調を完全に見破っているライルは自分からやや歩調を崩して達真が前に進むと同時に前蹴りを放つ。中段故先ほどのようなカウンターは出来ない。
しかし達真は腕で無理矢理払いのけて前進。ライルの胸へと膝蹴りを打ち込む。自分の鳩尾よりも高い位置への膝蹴りと言うこともあり、威力は低減している。だが、達真は続けた。
「せっ!!」
膝蹴りを受けてわずかに後ずさったライルへ、膝を伸ばすことで前蹴りへと変形。そのままライルの下腹部を蹴り込む。
「……達真君少し有利じゃない?」
歩乃歌がつぶやく。それは不思議を含んでいる。つまり、
「そうだ。あの二人の実力差は全く変わっていない。あの執事は今の連撃を予想した上で敢えて食らったんだ」
「それって……」
「意趣返しだ」
甲斐が言った瞬間、ライルは拳を放った。まっすぐに飛んだ拳は達真の両鎖骨を一気に粉砕する。
「!?」
痛みより先に達真は己の両腕の違和感を得る。腕立て伏せをしているかのように肩の可動域が大きく狭まった感覚。そして激痛。
「くっ……!」
「はっ!!」
ライルの回し蹴りは達真の上腕に打ち込まれ、達真は無理矢理腕を内側へと押し込まれる。当然鎖骨が折られていて自由に内側にも外側にも曲げられない状態でだ。
「ううう!」
「はっ!!」
逆の回し蹴り。今度は腕が外側へと無理矢理押し込まれ、達真の肩に激痛が走る。それも、どちらも左肩へのダメージだ。
「……これは、もう詰んだかもな」
甲斐が吐き捨てるように。歩乃歌もほぼ同じ意見だった。
しかし、
「……っ!」
達真は拳を握り、その場で跳躍。ボディダイブする形でライルへと飛び込み、腰の回転だけで拳をライルの鳩尾に打ち込む。
「ぐっ!!」
「せっ!!」
着地した達真がライルのふくらはぎを踏み抜き、再び膝を折らせた。
「技あり!」
岩村からの号令。これにより判定では再び達真が有利となった。
「……どうしたんだ矢尻。今のは誰の予想も裏切ったぞ……?」
甲斐はそう言うが、
(……筋書き通りだろう)
雷龍寺、剛人は同じ感想を持つ。
(鎖骨を折られたのは想定外だろうが、相手のカウンターを誘ったのは筋書き通りだ)
(カウンターに対するカウンターまで奴はちゃんと考えていた。矢尻達真、少し将来は侮れないかもしれないな)
「「にしてもあいつ、鈍りすぎだろう」」
ため息混じりの二人の言葉と視線をライルは背後で受け止めていた。
(……あの二人、いつかしばく)
立ち上がったライル。確かに今の反撃は予想だにしていなかった。
だが、カウンターで相手の鎖骨を破壊するという目的は果たした。延長戦はまだ1分以上残っている。ほとんど腕が使えなくなった格下を葬るには十分すぎる時間だ。もちろん油断は出来ない。格下相手とは言え技ありを既に2回ももらっているのだ。こちらの想定外には違いがない。
(だから、そろそろ終わりにする)
ライルが一瞬だけ杏奈を見る。自分と同じ孤児の少女。そこそこ年下だが互いに寂しさを埋め合った唯一無二の存在。彼女が望むことなら何だってしてやりたい。それを貫き通すために得た力だ。
「はっ!!」
ライルが一気に距離を詰める。
「!」
達真が気付いたときには既にライルの射程であり、ライルは鬼のように上段蹴りを繰り返す。薄々予想はしていた。腕を曲げづらい今の状態で一番有効なのはガードせざるを得ない上段への連続攻撃。防げば腕が持って行かれるし、防がなければ意識を持って行かれる。
(けど、予想できたなら……!)
達真は相手の上段蹴りに合わせて跳躍し、跳び蹴りを重ねる。
「!?」
絶妙なタイミングだった。激突させたのは同じ上段跳び蹴りだったが目的が違う。ライルのは達真の頭を狙ったもの。しかし、達真はライルの蹴りにぶつけるためのもの。達真の頭にまだ届いていない状態で放たれた中途半端な蹴りに達真が正面から力をぶつけたのだ。
「2回目、だ」
再び不意の蹴りを重ねられてライルの膝が中空でねじ曲がり、妙な角度で関節が曲げられる。そしてライルが足を下ろした瞬間に達真はその膝を足場にして跳躍。両膝をその顔面にたたき込んだ。
「技あり!!計上二回にして一本!!」
岩村の号令はしかし意味をなさない。両膝を受けたライルはそのまま仰向けに倒れたからだ。
「……せっ!!」
達真が鈍いながらも下段払いを放ち、
「技あり!立てるか!?」
岩村がライルの顔をのぞき込む。と、
「……もちろんです」
ライルは平然と立ち上がる。甲斐と達真は驚愕に、雷龍寺と剛人は呆れ顔に。杏奈は、心配しているがしかしこちらを信じている顔だ。
(なら、それでいい……)
鼻が潰れ、鮮血が漆黒の胴着を濡らす。右足は膝の辺りにまだ違和感が残っている。それでも、立ち止まる理由にはならない。
「いくぞ……」
達真は身構えた。もう相手は自分を格下だとは思わないだろう。残る40秒足らず、それこそ殺す気で迫り来るに違いない。
そう思った瞬間、達真は宙を舞った。
「……っ!!」
全く攻撃が見えない。これがライル=ヴァルニッセの最高速度だ。
甲斐でさえギリギリで目で追えるスピード。達真からしたらどんな攻撃を受けたのかさえわからない。ただ気付けば自分は押されていき、全身に激痛が走る。これまでのようにカウンターなどまず不可能だと頭が認識してしまうほどの実力差。久遠のような漫画技でも達真のようなカウンターでもない。純然たる空手の基本技が目に見えない速さで達真の心身を抉っているのだ。
実戦から離れすぎた今のライルには綺龍最破など使えない。それを達真は知らないが故にいつどこから必殺の一撃が飛んでくるかわからない恐怖にも襲われる。自分とほぼ互角の衣笠の一撃でさえ意識が飛びそうになるほどの威力だった。それを格上のライルにされたら……。
(いつ、いつだ……どれだ……どれなんだ……!?)
やっと目が慣れてきたがしかし体がついて行かない。鎖骨が折られているなど関係ない純粋なスピード、反射神経の差。もしも最初からこのまま来られていたら……。
「達真~!!!」
その時だ。
陽翼の声が耳に届いた。
「諦めないで!!」
「……っ!」
肝が据わる。その感覚を達真は初めて得た。全身が得心する感覚。動いたのは手刀。手首のスナップだけの簡単な動き。それがライルの放ったパンチの手首に、蹴りの足首に当たり攻撃を真横にずらす。
「……!」
「ピグモンとか言ったか」
目の前の男から習った防御の基本形。鎖骨が折れていてもある程度は通じる防御手段。そこから、
「せっ!!」
達真の跳び膝蹴りがライルの胸に打ち込まれ、ライルが再び後ずさる。
(攻め勝つ……押し通る!!)
(大したものだ。だが……!)
両者この勝負で初めてとなるラッシュの撃ち合いへと移行。頭で考えた最善最適を捨て、殴り合いの中で生まれた本能による最善最適が体を動かす。疲労困憊の激闘の中で両者の制空圏が加速度的に研ぎ澄まされていく。マシーンのように冷徹に、猛獣のように荒々しく、数式のように美しく打ち合いが続いていく。そして、
「せっ!!」
跳び蹴りやや未満。そんな中途半端な一撃がライルの腹に打ち込まれた。
それは不完全で未熟で再現性がない。しかし、達真が放った綺龍最破の一撃だった。
「……よく、やったな……」
「……押忍」
2度目のゴングが鳴り、ライルは再び仰向けに倒れた。
「勝者……反対派・矢尻達真!!」
岩村の宣言に沸く会場。そこに賛成派も反対派もなかった。
「……ふう、」
息をつき、畳の上に座り込む達真。ヘッドギアを外せば滝のような汗、紅潮しているのに蒼白の満ち足りた表情。
「…………やるじゃねえか」
素直じゃない甲斐の表情が見えた。
「まあ、勝った方がグロッキーなのはどうかと思うがな」
「え?」
甲斐が指さす方向。見ればライルは杏奈相手に頭を下げていた。会話内容は聞き取れないが穏やかな雰囲気だった。
「矢尻。鎖骨が折れてるだろ。すぐ病院に行った方がいい」
「押忍。けど、もう少し居させてください」
「どうしてだ?」
「この先にある本当の勝負を見たいから」
達真の視線は雷龍寺に向けられていた。
「まあ、達真君が勝ったから4戦目までは間違いなく進むよね。でも、その前に」
ジャージの袖をまくり、歩乃歌がコートへと向かう。
「僕の勝負も忘れてもらっちゃ困るかな」
「……」
歩乃歌が動いた。それを見たことで賛成派からも和佐が歩き出す。
・4機関オークション第3試合が始まろうとしていた。
岩村もほかの3人も中立派もある意味どの試合よりかも注目しているし、緊張もしている。
「……さて、やろうか」
「……手短に片づけてあげます」
コートに上がった両者はどちらも空手の胴着を着ていない。ヘッドギアさえ着けていない。
片や未開域の格闘技、片や格闘技ですらない体術。仮にも空手同情の運命を賭けた戦いの中堅戦にしては異色すぎる組み合わせだった。
「……」
最首は久遠の表情がよくないことに気付いた。
「久遠ちゃん?具合良くないの?」
「……ううん。ただ、美咲ちゃんも和ちゃんも何であっち側なんだろうって」
「……うん、そうだよね」
「……火咲ちゃんや歩乃歌ちゃんに譲ったけど久遠ちゃんが出ればよかった」
「……あの二人はちゃんと久遠ちゃんの分まで頑張ってくれるよ」
「……うん」
久遠の頭を軽くなでてやった。その後ろで。
「…………」
キーちゃんが二人の姿を眺めていた。
「これより第3試合を始めます!なお、お二人とも空手ではない格闘技で戦うつもりですが、ルールは空手に沿ってもらいます」
杏奈からの声に歩乃歌も和佐も否定しない。
「顔面へのパンチ、1秒以上相手の体を手で掴む、金的への攻撃、背後への攻撃、押し出し、肘での攻撃。これらはすべて反則となりますので気をつけてください」
これもまた両者否定せず。それを受けて杏奈が岩村に目配せをする。
「では、これより第3試合を始めます!正面に礼!!お互いに礼!!構えて、はじめっ!!」
ゴングが鳴った。アラームがセットされる……よりも前に両者は激突を果たした。
流麗な川のように無駄がない和佐の動きに対してそれを無理矢理身体能力と反射神経で追随する歩乃歌。どちらも言葉はなく、攻撃を放ってはそれを回避しあう。回避前提の削り合い……まるでフェンシングのような戦いだった。
和佐が使用しているのはシステマだが、制空圏を用いている。制空圏というのは空手で定義されている概念だがしかしほかの格闘技でも共通の概念と言える。人間と人間が直接戦うのであればそこに制空圏も綺龍最破も必ず存在すると言っていいだろう。
ただし、格闘技はそれぞれのルールに基づいて武器を作り、鍛え、望んだ末に制空圏や綺龍最破を得るのだが、
「っ!」
歩乃歌が一撃を胸に受けて後ずさる。ただの一打で歩乃歌の胸元の生地は大きく歪んでいた。
「まさか、チェストガードすら着けていないとは」
和佐は構えを崩さない。
「空手に限らず胴着と言うものが存在する格闘技のそれはかなり頑丈な素材で出来ています。さらに女性はバストを守るためにチェストガードを着けるのがほぼ義務付けられています。その両方を身につけずに畳の上に上がるなど」
「仕方ないじゃん。僕の時代、そんなのなかったんだから」
「セントラルは0号と戦うため、PAMTの実験のために作られた世界ですからね。余計な娯楽は不要なのでしょう」
「でももうセキシキルアルクスはいない。……いや、あの子になったんだっけ?まあ、どっちでもいいや。これが僕の流儀。半裸でスライト・デスと戦ったのは伊達じゃないよ」
「けど、ここでは歌えませんよ?」
「それでも世界は僕のために歌ってくれる」
にやりと笑った歩乃歌が走る。その距離の詰め方は格闘技のそれではなく、陸上競技のそれに近かった。ただ一方向に全速力で走り抜ける動き。それだけあって単純な速さでは先ほどのライルをも大幅に上回るのだが、
「はあ、」
ため息。和佐は歩乃歌の突進を受け止めもせずに流していた。そして自分の脇をすれ違った歩乃歌のわき腹に横蹴りを打ち込む。
「っ!!」
ガードも出来ずに歩乃歌が後ずさる。
横蹴り。空手では中々ないシチュエーションだ。何故なら基本空手は正面からの対応を前提として型が生み出されている。
一方でシステマは軍隊格闘技。戦場では真っ正面から攻撃してくる方が少ない。故に側面への攻撃、防御が基本型として含まれている。もちろん本来なら背後からの攻撃も用意されているのだが今回使用するつもりはない。
「言っておきますが、あなたにとって最悪に不利な状況です」
横ステップ。一瞬で歩乃歌との距離を詰めその時には歩乃歌と正面で向き合っていた。
「あなたに格闘技の経験も知識もないこと、生命体としてあなたはGEARを使うならともかく使わなければただの女子中学生……よりはまあ強い方ですか。対して私はGEARなど使わなくても十分。あった方が便利ですけどね」
和佐の拳が歩乃歌の顔面に迫る。しかしそれは命中せず寸前で止められた。代わりに拳をその位置に置いたまま和佐は体を歩乃歌の側面に潜り込ませる。
「!」
「それで私に勝てると思いますか?」
和佐の蹴りが歩乃歌の上腕に命中する。これも空手ではあり得ない、上腕への攻撃を前提とした技だ。その狙いは肺である。
「ごほっ!!」
「しかも私が使うのは清く正しく誠実な空手ではなく、近代化されて実際の戦争ではほぼ使い道がないとは言え相手を無力化ないしは殺害することを目的としたシステマ。少し強い程度の女子中学生が勝てるわけがないんです」
指の第一関節を曲げた状態での突きが歩乃歌の胸に当たり、そこから第二関節をも曲げることで拳を完成させ、さらなる威力を重ねる。
「ぐっ!」
「私の邪魔などせずに大人しくセントラルに帰ってください」
自身を独楽のように回転させ、高速の超低空回し蹴りで歩乃歌のふくらはぎを払い飛ばす。が、
「嫌だね!」
歩乃歌は耐え、立ち上がった和佐の腹に蹴り込む。
「!」
「踵ぉ!!」
足の先端……中足(ちゅうそく)から当てて威力が乗ってから踵で相手を蹴り抜く。蹴りそのものは素人並。しかし脚力だけなら女子中学生でトップクラス。その蹴足を受けた和佐が後ずさる。
「僕は和佐さんに絶対に勝って元の世界に帰してみせる。和佐さんの旅を終わらせる。そのためだけに、僕はここに来たんだ……!!」
「……私はまだ終わりません……!」
両者が距離を詰め同時に蹴り込み、相手を弾く。より大きくバランスを崩した方が間隙となる。それは歩乃歌だった。
「……っ!」
「そこです!」
バランスを崩した歩乃歌へと和佐が迫る。しかし、
「脚力なら上の僕が怯むわけないよね!」
歩乃歌はそのアンバランスを利用して独楽のように体を回転させて両足の踵から和佐の足を狙う。
「知ってましたよ?」
しかし、和佐は跳躍して低姿勢になった歩乃歌の腰を全体重かけて踏みつける。
「っぐっ!」
倒れた歩乃歌。しかし和佐は下段払いをしない。飽くまでも空手の試合ではないと決めているからだ。
「……」
岩村は困惑していた
(……いったいどうしろと?)
その視線の先で立ち上がる歩乃歌。その口元が少しだけ動いていた。
「……」
和佐が構えた瞬間、歩乃歌の右足が和佐の下腹部に打ち込まれる。
「くっ!」
「……」
歩乃歌は続けて指を少し曲げた状態の平手で和佐の肩を強く叩く。
それを和佐が払えば、歩乃歌の足が和佐の頬横数ミリを貫く。
「僕が歌だと思ったものが歌なんだ……!」
「あなた……!」
和佐の攻撃を受けて立てる体じゃなかった歩乃歌は、しかしそれまでとは比較にならないパワーとスピードを見せ始めた。未だ逆転とまでは行かないが差はどんどん縮まっている。
歩乃歌のワンツーを和佐が片手だけで弾き、空いた手で歩乃歌の鳩尾を狙うと、歩乃歌は一歩前に出ることで本来より数瞬早くその拳を受け止め、威力を減衰させるだけでなく手首にもダメージを与える。その筈だった。
「!?」
「ぬかりましたね」
しかし、再び歩乃歌がバランスを崩す。それは演技ではなかった。
「ど、どうして……」
「これが格闘技ですよ」
和佐はパンチを途中で止めていた。歩乃歌が前進することでパンチを利用することを読んでいたのだ。だから延びきった時に一番効果を発揮する通常のパンチではなく、敢えて射程を犠牲にして拳に相手が触れた瞬間に威力が発揮される形にした。
「格闘技というのは型や技だけでなく、知識、情報、経験すべてが組み合わさって出来るものなのです。ただ手足を使った打投極絞だけで世界各地様々の格闘技が生まれるはずがありません。
手足だけを使った打撃専門の格闘技と言う共通点が空手とキックボクシングにはあります。でも、この二つの格闘技が全く同じ格闘技だと思いますか?素人目に見たとしても全く別の格闘技だとわかるはずです。何故か?
ボクシング特有のフットワークを有しながらパンチだけでなくキックまでも使って相手を削りあうフェンシングのようなスタイルがキックボクシングであり、防御重視で相手に合わせて臨機応変に戦うのが空手です。
あなたの力がたとえ今の何倍もあったとして、そして私の動きをどれだけ真似できたとしてもそれは私のシステマとは違う。格闘技ですらない以上、絶対に私には勝てない。……だからあなたは場違いなんですよ」
一歩する和佐。歩乃歌はその動きを見る。しかし、放たれた前蹴りを歩乃歌は防げずに弾き飛ばされる。
「くっ!」
「あなたの意見はわかりました。ですが、今はここであきらめておいてください」
和佐は踏み込む。構えた歩乃歌は、しかし、
「!?」
その衝撃に回避も防御もえられなかった。和佐が正面から歩乃歌の後頭部を叩き、衝撃で前にかがむのと同時に和佐が自身の膝を歩乃歌の顎に打ち込み、さらに歩乃歌の前に出した右足の膝を踏みつけていた。
「…………っ、」
「遊びじゃないんですから、技名なんて不要」
和佐が足を戻すと、歩乃歌はそのまま前のめりに倒れたのだった。
「た、立てるか!?」
岩村が近寄って様子を見る。しかし、歩乃歌は震えたまま立ち上がる気配がない。
「……技名どころか本来は技という区切りすらいらないんだがな」
甲斐は小さくつぶやく。
「どういうことですか?」
「システマのような戦争で使われる殺し合いのための武術は基本の型とそれを適切な場面で扱える技術さえあればいい。空手といい柔道といい、技というのは独立した単体の動きなんだ。どんなにうちらがやっている空手が実戦的だったとしても本物の殺し合いで使われたあの武術とは根本的に違うんだ」
「……なるほど」
達真の目の前。ひょっとしたらそろそろまともに戦えるかもと思っていた彼女の姿はしかし、以前より遠くに見えた。
「勝者・賛成派・甲斐和佐!!」
岩村の宣告。和佐は一礼してから下がっていく。
「……これで反対派もおしまいですね」
そう、小さくつぶやいた。代わりに出てきたのは人ならざる巨漢・白夜一。
「……ご、ごめん」
歩乃歌がふらつきながら戻ってくる。
「あれだけ偉そうなこと言ってたのに結果だけ見たら瞬殺だった……」
「いや、うちの長女が思ったより強かったってだけだ。それに、ここから2連勝すればいい。そうだろ?」
「ああ、もちろんだ」
雷龍寺が軽く準備運動をしている。歩乃歌が完全に戻ってくると入れ替わるように雷龍寺が畳へと向かう。
「……でも、あの白夜って人気を付けた方がいいと思うよ。雰囲気が完全に人間じゃない」
「……ああ、分かってる」
この少女がどれだけ事情を知っているかは分からないが本当に人間じゃないことは明かすべきではないだろう。
「こっちだって人外の強さを持った化け物だ。勝ち目くらいはある」
「……信じてるよ」
歩乃歌の視線が甲斐を見ている。これはちょっと勘違いが起きているのでは?
「……始まるか」
気にせず甲斐は畳の上を見た。岩村の表情は先ほどとは別の色で戸惑っていた。無理もない。馬場4兄妹に稽古を付けていたのは岩村なのだ。そして岩村は恐らく三船の裏事情も知っている。つまり白夜がどういう存在なのかも知っている。
「……そもそも最初に伏見で剛人をおびき寄せるために位置をリークしたり逃げ場所を用意したのもあの人の差し金か」
誰にも聞こえない程度につぶやいた。
「では、これより第4試合を始める!賛成派・白夜一馬!反対派・馬場雷龍寺!正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」
岩村の号令。同時に一気に距離を詰める雷龍寺と白夜。互いに様子見、しかしそれでもある程度のレベルの選手なら太刀打ちできずに削り殺されてしまうだろう。
今回の5戦の中では間違いなく最高レベルの試合であり、それまでお祭り騒ぎをしていたギャラリーも緊張して試合の様子を見守る。
「……厳しい戦いだと思うよ」
歩乃歌が汗を拭いながらつぶやく。
「あっちの奴を知ってるのか?」
「うん……。別人だと思うけど僕が知ってる白夜一馬ならあの雷龍寺って人は絶対に勝てない」
「……たとえあいつが歩乃歌ちゃんの知ってる奴だとしても、あいつなら勝てるさ。だって歩乃歌ちゃんも雷龍寺のことを知らないだろう?」
「……そうだけど、」
「なら今は仲間を信じて見守るだけだ」
しかし甲斐はこのさぐり合いの段階で既にやや雷龍寺が不利であることに気付きつつあった。
「……っ!」
さぐり合いの蹴り合いだがほんの僅かだが雷龍寺の方が力負けしている。パワーだけでなくスピードも劣っている。まるで達人同士の囲碁の対局のように目に見えない、感覚だけで分かる領域で少しずつ雷龍寺が押し負けている。
(……この感覚、戦い慣れている感じじゃない。呼吸するように当然のように有利に戦いを進められている。感覚じゃない、まるでコンピュータのようだ……これが三船の人造人間とやらか……)
やがて素人目にも、とまでは行かないがある程度以上経験があるものならば分かるほどに雷龍寺が劣勢になっていく。しかし、
「……仕掛けているのか」
剛人がつぶやく。
(……元々雷龍寺の方がやや不利だったが完全に劣勢になるまでの時間が早すぎる……まさか、何か狙っている……!?)
甲斐が気付いた瞬間、雷龍寺の両足が地を離れた。
「!」
白夜が両腕をガードに回した瞬間。雷龍寺の両足が白夜の両肩に打ち込まれる。
「あれは両足の腰回し!?しかもあんなほぼノーモーションで!?」
甲斐が驚き、対面の早龍寺が拳を握る。そして、雷龍寺が着地した時白夜の前蹴りが雷龍寺の腹を穿つ。
「ぐっ!!」
着地した瞬間の重心移動、そのベクトルを完全に見切られていたかのような的確な一撃を受けた雷龍寺は尻餅をついてしまう。
「せっ!」
そこで白夜が下段払いを行う。
「わ、わざあり!!」
岩村の宣言にどよめく会場。甲斐も早龍寺も剛人でさえ驚愕を隠せない。
「……早龍寺のそれを遙かに上回る一撃を受けたのにただの前蹴り一発で雷龍寺から技ありを奪っただと……!?」
「化け物め……」
「……だから封印されていたというのに……!」
三者三様。その視線の先で雷龍寺が立ち上がる。
「続行!」
岩村の宣言と同時に雷龍寺が距離を詰める。真っ向勝負だ。
「……」
白夜の蹴りをかいくぐり、懐に飛び込んだ雷龍寺の素早いワンツー。威力はともかくスピードだけなら甲斐に匹敵する。しかしそれも、
「……」
「なに……!?」
白夜は怯みもせず膝蹴りで雷龍寺を宙に浮かせ、眼前やや下に上がった雷龍寺の下腹部に拳をたたきつける。やや振り下ろすタイプの一撃は打撃としては最も威力を発揮する。
「ぐっ……!!」
今度は何とか着地に成功した雷龍寺だがそのギリギリのバランスを崩さんばかりに迫る白夜。鋭い蹴りはすべて雷龍寺がギリギリ対応できる速さに制限。代わりに狙いを回避行動も防御行動もとりづらい胴体中心よりやや下、丹田まわりへと集中。
「……人体だけじゃない。雷龍寺の動きのすべても学習して完璧に倒すためだけの動きをしているのか……!」
白夜の攻撃を受け続けた雷龍寺はやがて一瞬だけだが完全な間隙を産んでしまった。
「!」
そこへ白夜が重い一撃を、雷龍寺の埒外のスピードでたたき込む。
形としては腰回しに近い。しかし、腰回しが側転するように放つ踵落としだが、こちらは側転する勢いで放つ膝蹴りだ。
再び雷龍寺の体が宙を舞い、腹部の生地を赤に染める。
「雷龍寺!」
出血を確認した甲斐が叫ぶ。岩村もいつでも止められるように一歩前に出た。しかし、雷龍寺は着地して白夜向けて腰回しを繰り出す。両足ではない、先日見せた早龍寺のそれと同等の片足だけの一撃。白夜は軌道を完全に見切り、軸足となっている左足へと下段前蹴りを放つ。と、
「せぇぇぇいやぁぁっ!!!」
「!?」
空中で雷龍寺は腰からさらにもう一回体を回し、両足が地面から離れる。
「牙渡り!!」
「!」
軸足だった左足が回転の勢いを付けた膝蹴りへと変わり、白夜の顔面を襲う。それをギリギリで防ぐ白夜だったが威力を逃がすために一歩下がった瞬間に逃がした後ろ足の太股に雷龍寺の右踵が炸裂する。
「ぐ、」
白夜が後ずさり、膝をつくと
「せっ!」
雷龍寺が下段払いをして技ありを奪い返す。
一連の流れを見た甲斐は右足をさする。
「……最初の両足腰回しもすごかったがそれを越える技まで完成させていたとは……まだまだ壁は厚いか……!」
腰回しを対処されることを見越して繰り出す膝蹴り。それを防がせることで最初の腰回しを成功させる二段構えの技・牙渡り。
剛人も見たことはない技を終えた雷龍寺が構え直す。
「さあ来い。まだ試合は始まったばかりだぞ」
「…………」
白夜が立ち上がり、一気に距離を詰める。この試合始まって初めて自ら攻勢に出た。放つ左手は正拳突きか貫手か、まだ分からないが雷龍寺は注視しつつ無視。一見矛盾する動作が一瞬一瞬が勝負を分かつことも珍しくないこの世界において雷龍寺がおこなったのは観察を一瞬で終えて分からなければ無視をして先に進み、動きがあったら即座に対応すると言う構えだ。その構えとして雷龍寺は一歩前に出る。
対して白夜は全身に対するカウンターとして前蹴りを繰り出した。ねらうのは相手の顔面……よりやや下。
元々回避も防御もしづらい前蹴り。それを前方へ重心移動しているタイミングで繰り出す。下手すればその重心移動までもが前蹴りの威力を高める。しかし、
「!」
白夜の足先が雷龍寺の胸に触れた瞬間に雷龍寺は僅かに体の角度を変えた。これにより命中したはずの白夜の蹴りは威力を届けながらも雷龍寺の胸を、胴着の布地を切り裂きながら滑っていった。
「……まあ、よく考えれば当然の話だよな」
甲斐のつぶやきを達真は聞いた。
「どんなに高性能なコンピュータでも出来るのは飽くまでも演算。事前に蓄えられた情報を基ににして計算して動くものだ。対してうちら格闘技やってる奴は戦えば現在進行形で無限のパターンで動く。相手が自分の動きを知っているのならばそれをわきまえた上で行動できる。人間だからそりゃ癖はあるがな、その癖さえも時に武器として扱えないような奴が体術の達人になれる訳ないだろ」
甲斐と達真の視線の先で、雷龍寺の全体重が乗せられた蹴りが白夜の蹴りを放っていた足の根本にたたき込まれた。
「……軸足ではなく蹴った足に……!?」
「日本刀でも腹殴られたら折れるだろう。蹴った足、殴った腕は攻撃のためのものだ。通常、防御には向いていない。この勝負は、あらかじめ用意された完璧ごときで不完全な人間様を相手にした時点で決まってるんだよ」
牙渡りの踵と今の一撃。その両方を受けたことで白夜の右足は激痛に苛まれていた。折ることも斬ることも出来ない格闘技に於いて最も威力があるのはやはり打撃だ。その場その場に於いて極めて威力の高い打撃を2度も受けた白夜の右足は既に限界を迎えている。しかし、白夜に痛覚という機能はなかった。
「!」
もはや動けないと思っていた白夜はしかし当然のように動き出し、雷龍寺へと攻撃を再開する。
人間がコンピュータの限界を易々と超えられるのに対しコンピュータもまた人間の不意をいくらでも突ける。何故なら良くも悪くも相手だけが人間だからだ。
「……先輩、これ大丈夫なんですか?」
達真が、歩乃歌が甲斐に心配の目を向けた。
「結論はさっき言ったはずだぜ?」
甲斐は欠片ほども心配せず試合ではなく早龍寺の方を見ていた。
対する早龍寺も甲斐の方を見ていた。
その尻目。白夜が前蹴りを放った瞬間に雷龍寺の前蹴りが白夜の顔面に刺さった。ヘッドギアを粉砕して砕けた部分が白夜の両目に刺さる。
視力を失ったコンピュータは勝機がないと悟り、その機能を停止した。
「そこまで!勝者は反対派・馬場雷龍寺!!」
岩村の宣言に会場が沸いた。和佐とライルは驚愕を隠せずにいた。
「おい、どんな面してるんだ長女」
「ど、どうしてあの白夜が負けたんですか……!?」
「お前がそこの僕っ娘に対して言った言葉通りだろうが。どんなに強くてもそいつのやってることは格闘技じゃない。そしてそいつは人間ですらない。それが何よりの理由だ。戦う前には少し不安があったが、今は自信を持って言える。雷龍寺だけじゃない。本物の強さを持ってる奴なら誰でも勝てる。で、今から本物同士の戦いって奴を見せてやるよ」
甲斐が笑ったままコートへと向かう。対して雷龍寺がコートから戻ってくる。
「死神。まさか今の試合で俺の底が知れたつもりでいるんじゃないだろうな?」
「まさか。だけど、決してあんたにも負けるつもりはないって今から見せてやるさ」
途中。二人は軽くハイタッチを交わした。
・機能を停止した白夜。早龍寺より先に剛人が接近を果たした。
「……」
一瞬だけ早龍寺と視線を交わした剛人は、前蹴りの一撃で白夜を吹っ飛ばしてコートから除外した。
「精々頑張れ」
それだけ言い残して剛人は再び去り、そしてコート中央に甲斐と早龍寺が足を踏み入れた。
「お、おおお……もうコメント欄がすごいことになってますよ……?」
杏奈がわなわなと震えている。ちなみにドレスから制服姿になっていた。
「それだけすごい組み合わせと言うことです」
そこへ赤羽がやってきた。
「あ、赤羽さん。その、もう大丈夫なんですか……?」
「……こうなることは想定していませんでした。でも、この勝負は私にとっては、赤羽美咲にとってはとても大事な勝負なんです」
「……さっき久遠ちゃんとかが言ってましたけど、やっぱ赤羽さんって赤羽美咲さんではない感じですか?」
「……久遠がどう言ったのかは分かりませんので」
赤羽はただコートの上を見ていた。あの時と同じ顔ぶれ。場所は違えど、そこに立っているのはあの日最強を競った二人の男。
「……」
「……」
甲斐と早龍寺はお互い口角をあげた状態で無口だ。口を開かぬまま相手を見つめている。
以前見た時と比べてどちらも重心が偏っていた。本来の実力通りとは行かないだろう。
この勝負で本当に全てが終わってしまう可能性すらある。
「……それを望んでいるんだろうな」
その感想は剛人や雷龍寺、加藤、岩村などこの試合を見届けている一定以上の実力者なら誰しもが抱いていた。
「……」
赤羽はただ静かに両者を見つめる。
「……で、では!4機関オークション最終戦を始めたいと思います!!」
咳払いをしてから杏奈がマイクを握る。
「賛成派からは、馬場早龍寺さん!!反対派からはおにい……甲斐廉さん!!」
やがて進行は岩村へと移り、
「それでは、最終戦!!正面に礼!お互いに礼!!構えて……はじめっ!!」
岩村の号令と同時についに始まった最後の戦い。その場にいたものは当然そうでないものでもこの戦いに心躍らないものはいない。
まるで火花のように甲斐も早龍寺も一気に距離を詰めて拳と拳をぶつけ合わせた。
「磁音!!」
互いに繰り出したのはただのパンチではない。防がれたとしてもガードにダメージを与えるように調整されたパンチだ。コークスクリューパンチに近いだろうか。命中した時だけその瞬間に手首をひねり、回転を加える。
(……お互い試合前から試合が出来る状態じゃないと言うのにお互いに意地でも相手の体力を削る技から勝負を始めるのか)
岩村のそれは半ば呆れだ。そもそもこうして畳の上に立っていることそのものが正気じゃない。利害を超えた情熱だけを求めるのがロマンだとすれば岩村にはそれがないのだろうか。いや、実際雷龍寺も剛人も呆れに近い感情は抱いていた。
もう少しで自分達にやっと追いつく。そんなレベルの後輩達がしかし今、最低でもこの試合が終われば片方は二度と畳の上に上がれなくなる。そしてそれが両方と言う可能性もかなり高い。
生涯を捨ててでも決着を付けたい関係に憧れがないわけではないが、
(……惜しいものだ)
残念だという感情が強かった。
「くっ、」
試合開始から1分。この前の前哨戦ではお互い既に気絶していた段階だがしかしまだお互いに意識はあった。そしてぎりぎりで何とか戦えていると言う感覚がどんどん強くなっていく。
かつてならここから動きが加熱していくという段階ながら既に体が限界だと叫びをあげている。それを無視して何とか力を振り絞る。
「のっ!!」
甲斐のパンチ。それは普段達真達が見慣れたものと比べて数段劣る。
よって早龍寺にも手首のスナップだけで逸らされ、
「せっ!」
早龍寺が前蹴りを繰り出す。本来なら先ほど雷龍寺や剛人が放ったそれにやや劣る程度の蹴りはしかしやはり数段劣るものだ。
甲斐が殴っていない腕で受け止めて、数歩後ろに下がる。
ここに至ってコメント欄でも何が起きているのか気付くものも出てきていた。
この二人、この前の前哨戦の時点で既に二度と全力を出せない体なのではないかと。
気力と体力だけで何とか畳の上で戦う二人の攻防は試合開始前に沸いた情熱という期待に添えるものではなかった。
「……達真、」
震える陽翼。
「……あの人が選んだことだ」
達真はそれしか答えられない。
「……」
赤羽もまた震えを隠しきれない。全くの素人である杏奈でさえ赤羽がいつでも飛び出せるようなそんな状態だと気付いている。
「……美咲」
「……」
そんな赤羽の傍らに歩乃歌が現れた。
「こうなりたくないから美咲はこの騒ぎを起こしたんでしょ?確かに嫌だもんね。あれだけの戦いを終えてやっとたどり着いた平穏な日常の果てがこんな血戦なんて」
「……」
「結局、あの人はこうなんだよ。向こう見ずな炎。レックレスファイア。一秒後には水に飛び込んで消えるとしても自分が望んだ情熱を信じて突き進む。それしかできない人なんだ。……あの対戦相手の人もこの世界には紫音がいないからこうなってるんだろうね。或いはあの人と戦えてしまっているからか」
歩乃歌の視線の先。早龍寺の蹴りが止まり。上げた足で踏みとどまる。
「はあ……はあ……はあ……」
上げた足を蹴りへとシフトできなかった。健常な肉体を持っていれば子供にだって出来る簡単なことがもう出来ない。
「お互い意地のままに自殺し合ってる。これがあの人達が選んだ結末なんだよ」
甲斐の拳が早龍寺の鎖骨に打ち込まれる。本来なら鎖骨など一瞬で砕くその一撃でしかし先に砕けたのは甲斐の右足を支えている人工皮膚の方だった。
「くっ!!」
右足から血液と人工皮膚がこぼれ落ちる。視聴者が見ているカメラからは見えなかったがその場にいたものからはよく見えた。
当然早龍寺の目にも見えている。だからこそ早龍寺は構えた。
「……腰回し」
その技の名前、内容をもはや知らないものはいない。そして甲斐も早龍寺でさえも時間が止まっているかのような緊張に苛まれる。
「勝つのは俺だ!!」
そして早龍寺が技を仕掛けた。軸足である左足に全体中を懸けて右足で放つ後ろ回し蹴り風踵落とし……腰回し。
先ほど雷龍寺が繰り出したものとは比べものにならないくらい劣る一撃だが甲斐にとっては死神の鎌も同然だった。
今襲う痛みよりかもかつて襲った痛みのイメージが強い。だからこそ、
「!?」
甲斐は前に踏み出した。それこそちょうど早龍寺の踵を右足で受け止める形になるように。
「くっ……ううううっ!!!」
そしていざその鎌が甲斐の右足を穿つ。人工皮膚で固められた膝周辺が威力に耐えきれずにパキパキと割れ、ブチブチと裂けて膝から下の感覚が一瞬で消えた。
「何を……」
その行為、意図を理解できたのは雷龍寺と剛人、岩村などの甲斐を知る超上級者達だけだった。赤羽や歩乃歌でさえも気づかぬその意図に早龍寺がかろうじてたどり着いた瞬間。
「青龍零式!!」
腰回しを終えて着地したばかりの早龍寺の胸に放たれたのは甲斐の必殺の一撃。腰回しを弱所に受けきり、その痛みへの反発を威力に変えて拳に乗せて放った綺龍最破たる最強の一撃だ。
「っっっ!!」
胴着の胸部分が血肉ごと拳の形に凹み、槍のように早龍寺の胸を貫く。
「ぐおおおおおおりゃああああああああああああ!!!」
甲斐廉最強最後の一撃。それを受けた早龍寺は血しぶきをあげながら背後に倒れた。
「……最後の一撃に全てを懸けたんだ……」
歩乃歌がか細くつぶやいた。そこで初めて赤羽や和佐、久遠達が悟る。
「あの人にとって右足はもはや枷。それが狙いだって言うなら喜んで差し出した。そしてあの人の右足は完全に破壊された」
「……それで枷を失ったことでたった一度だけ何も庇う必要がない全力の一撃が出せた……」
言葉は終わる。会場は静寂に包まれる。
「……当たり前のことだが、」
「何だ?」
倒れたまま早龍寺が口を開いた。
「…………敗北の方が勉強になるものだな」
「…………そうして強くなってきた奴がよく言うぜ」
甲斐は血塗られた拳のまま下段払いを放った。
「そこまで!!勝者、反対派・甲斐廉!!!」
岩村の合図でわき上がる観衆。より静寂を深める久遠達。
「おにいさま……!!」
杏奈は飛び出した。もうライルも歩乃歌も止めなかった。
甲斐は走ってくる杏奈やその後ろで固まったままの和佐、歩乃歌、赤羽を見てからゆっくりとその場に倒れた。
「すぐに救急車を!!」
岩村が指示をとばし、黒服達がスマホを手に取る。
杏奈が倒れた甲斐に掛けより、起こそうとするが体重も筋力も足りない。
「……」
ため息をこぼしながらライルと雷龍寺がやってきて甲斐を引き起こした。
雷龍寺はライルに甲斐を預けると早龍寺の方へと向かう。
「……俺はこんな満足を与えるためにお前を鍛えてきたわけじゃない」
「2回目だな、その言葉は」
「ああ。何度でも言ってやりたい言葉だ。……また始めるぞ。また鍛え直してやるから今度はちゃんと治してこい」
「…………そうだな」
深い息を吸う。深い息を吐く。そして早龍寺は担架で運ばれていった。
「……」
黒服は甲斐の方へと担架を運ぶが、甲斐は手で制する。そして赤羽、和佐の方に視線を向けた。
「これが結果だ。さっき早龍寺も言ったが敗北から学べることは多いぞ」
「……だからあなたはバカなんですね」
「……うるさい」
やがて、宇治がやってきてぶっきらぼうに杖を投げつけた。
「お前は十分にバカ野郎だ」
「……でしょうね」
甲斐は杖を受け取り、左足だけで歩き出す。その視線は既に赤羽だけに注がれていた。
「……これでいい……わけもないか」
「……本当ですよ」
「赤羽」
「……何ですか?」
「……最高の最後をくれてありがとう」
「…………そんなの、私は嬉しくありません……」
涙ぐむ赤羽。それを見て歩乃歌と和佐は顔を見合わせて息をついた。
それから、和佐と修治による記者会見が再び行われ、
「やっぱり甲斐機関次ぐのやめました。普通の女の子続けます」
突然の和佐の言葉に誰より驚いたのは父親だった。
「自己的に終身雇用してくださいね、お父さん」
「え、えええ………………?」
それから記者会見はコントになった。
結果として各道場は廃止されなかった。道場以外の部分は大倉に組み込まれ会長交代も起きなかった。
ほぼ全てがこの騒ぎが起きる前の状態に戻ったわけである。
「で、何か言うことはあるかこの大バカ野郎ども」
病室。たばこを7本も同時に吸いながら宇治が修羅のような顔で甲斐と早龍寺を睨んでいた。
「えっと、こんぐらっちゅれーしょん?」
「めでたくねえよすばらしくねえよ。あれだけまだ試合やるなつったのにどうして満身創痍通り越して全力で戦うんだよお前達は」
煙だけで病室が覆われそうなくらいニコチンを吐く宇治。久遠や杏奈が咳こむ。
「とりあえず早龍寺、お前は全治1年。それまでは絶対安静で退院どころか病院の外から一歩も出すつもりはないからそのつもりでいろ」
「お、押忍」
早龍寺が一瞬だけ雷龍寺を見るが雷龍寺はたばこを吸うかのような仕草で返した。
「で、甲斐。お前だが、」
「まあ、言われるまでもないと言うか何というか……」
あの試合の後、甲斐は緊急手術を行った。人工義体となった足の部分が血管や神経を傷つけていないかの調査がメインだった。それが完了し、傷ついていた部分を再び人工義体にすることで治療。それから右足全体を再度人工義体化したのだが以前までのそれとは違い、生身を使った義足兼ギプスのような仕組みになっていて最初からまともに歩くことは出来るが膝関節が機能していないため蹴りはおろか階段の上り下りや正座などは物理的に出来なくなった。つまり完全に空手選手への道は閉ざされたという事だ。
「けど、それがお望みだったんでしょう?」
和佐がため息。
「あれだけ空手を現実逃避の手段にするなと言われたから空手の出来ない体にした。そして最後の最後として馬場早龍寺さんとの決着をつける。親子そっくりですよね、その部分。開き直って思い切ってとんでもない方に舵を切る」
「……う、」
赤羽、和佐、歩乃歌、杏奈、久遠、最首が割と本気で睨んできているため反論は出来ない。
「で、お前どうするの?空手出来なくなったからそっち系の進路もないだろうし」
斎藤が女性陣をなだめながら訪ねた。確かに既に高校3年生の11月だ。不慮……とは言い難いが事故によりスポーツ推薦が取れなくなったのだから情状酌量の余地はあるが引き延ばしたところで困るのは自分自身だ。
「う~ん、パパがいいって言うなら大学かなやっぱ」
「パパ?」
赤羽が目を丸くする。
「優樹お兄さまのお父様ですよ。実父と区別するためにそう呼んでるそうです」
和佐が補足。
「そんなことするくらいなら機関を継いだらどうです?」
「え、やだ」
実際向こう側の完全敗北で親子関係は結構深刻になっている。実際向こうの機嫌を戻す方法は勝利したにも関わらず敗者側の言うことを聞くしかないとか言う理不尽な手段しかなかった。
「空手道場を潰されたくないと、空手選手として続けたいからと勝負に乗ったのに、選手生命を潰してまで勝利してその上で敗者側の要望に完全に添わないといけなくなるとは飛んだ横暴だ……あ、はい。何でもありません」
再び女性陣からの冷たい視線。
「別にいいんじゃない?もう意地張らなくても」
ため息混じりに歩乃歌が提案。
「廉君が会長になったら割と結構全て解決するんじゃないの?」
「確かに間違ってないな」
右足=空手に関しては諦めるとして進路面でも金銭面についても問題が解決する。ぶっちゃけ感情だけが邪魔をしている状態だ。
「ただ、それまずくないか?勝者側が自分の利益のためだけに敗者側の要望全てに答えるとか」
「もちろんまずいと思うよ?」
「ふつうはね」
何故か歩乃歌と久遠がハイタッチする。
「ど、どういうことだ?」
「そりゃそうでしょ。廉君について来た人たちは廉君と目的が一緒だから手を貸した。それなのに負けた側の言いなりになったんじゃついてきた人たちへの裏切りだよ」
「でも死神さん。今回はそれ当てはまらないよ?だって今回空手道場をどうするかで賛成、反対が分かれてたんだもの。そこが問題にならないって言うなら反対派の人たちに文句なんてないと思うよ?」
「……そもそも、今回反対派としてあなた方の代表選手になった人たちの中で一人でも道場廃止に反対だからと言う理由のみで参加した方はいらっしゃいましたか?」
和佐がため息をつく。
確かに思い返してみれば火咲も達真も歩乃歌も相手への因縁があるからこの戦いに参加した。雷龍寺も道場廃止反対の意志はあったがどちらかと言えば白夜との戦いがメインだった気がする。そして自分はただの反抗期。
「……あれ、もしかしてこっちが親の跡を継ぐことそのものって誰も反対してない……?」
「うん」
その場にいた誰もが当たり前のように頷いた。
数日後。
「と言うわけで甲斐機関の新会長を務める甲斐廉です。よろしくぅ!!」
三度行われた記者会見で甲斐がサムズアップをするとお茶の間では笑いがこぼれ、そして控え室では激怒して暴れる旧会長を大倉、伏見、三船の3代表が全力で押さえつけるのだった。
2021年3月。めでたく桜が舞う季節。ここ円谷学園高等部ではそろそろ卒業のために学生寮では引っ越しの準備が実施され始めていた。
とは言え、引っ越しは確定しているため多くの卒業式は住み込みで働ける就職先ないしはアパートを借りていることが多い事もあり、9割以上の生徒は既に荷造りどころか既に引っ越しを完了していて卒業式を待つばかりの身だった。
「……ふむ」
数少ない例外。甲斐廉である。
せっかく親の言いなりになりたくないために空手の大勝負を挑んで勝利したというのに結局進路の都合から親の会社である甲斐機関を継ぐことになったのだが、住む場所をどうするかで未だに悩んでいた。
この学生寮に移る前に引き取ってくれていた甲州院家に戻るか、前会長である父親の家に住むのが丸いのだろうが前者は申し訳ない気持ちがあるし、後者はあまりにも居心地が悪いと予想できるためしたくない。
「じゃあ兄様。私の家はどうですか?今なら執事とかわいい次女がついてきますよ?」
「それら抜きなら考えてもいい」
「私の家ですよ!?」
頬を膨らませる次女こと甲斐杏奈。前々から人懐っこかったがどうもこの前の勝負で介抱したり一緒に救急車に乗ってから距離感がさらに縮んだ気がして仕方がない。
いや、確かにかわいいのだがこうして徹底的に冷たくしないと何かどこかで一線越えそうで怖い。
「おい、お嬢様を冷たくあしらうな」
早速執事ことライル=ヴァルニッセから文句。
「荷造りを手伝ってもらっておいて何だが今もう完全にあんた部下だよな?次女のじゃなくて俺の部下だよな?」
「間違えるな。俺は飽くまでも杏奈様の付き人だ」
「……給料払ってるのはうちの会社だと思うんだが……」
「先輩。この人頑固だから……」
同じく甲斐の現在不要と確定しているものを捨ててくれている後輩の矢尻達真及びその彼女である矢尻陽翼が半ば諦めている表情で様子を見る。
達真はかつてライルから直接空手の指導を受けていた身で、この間の勝負こそ達真が勝ったものの稽古などでしごかれては頭が上がらない。なのでライルの一瞥には恐怖するしかなかった。
「……いやあ、お互いパワハラ師匠には悩まされるっすよね」
甲斐の弟子である燐里桜が100キロくらいある段ボールを持ち運びながら言う。言わずもがな甲斐から荷物の量を3倍にされた。
「里桜、お前の家に引っ越すという手もあるんだぞ?」
「先輩は俺に死ねと?」
「大丈夫大丈夫。手しか出せないからもうお前の方が強い」
「……手だけしか使えない状態で半年くらい前に俺を一撃で病院送りにした人が何か言ってるっす」
しかしそれ以上里桜は軽口をたたくことはなかった。
「もう、そういうのやめたんじゃなかったの?」
最首遙が入室した。小学校時代からいつも一緒にいるから忘れがちだが最首は1つ年下だ。なのでまだこの寮を離れたりはしない。
ちなみに現在左腕を骨折しているがついこの前に行われたカルビ大会女子の部の決勝戦で衣笠愛と闘った時の怪我だ。無事勝利しては名実ともに未成年女子最強の座に上り詰め、未成年女子で初めて全国出場の切符を手に入れた。
「こいつだけは別だ。殴られないと仕事しないからな」
「殴られないように仕事してるんすけどね」
絶対に甲斐の手が届く範囲に入ろうとしない里桜がつぶやく。
「最首も1年で2回腕を骨折するなんて災難だな」
「まあ、1回目はともかく2回目は勲章みたいなものだから」
1回目というのは約1年前に赤羽剛人の奇襲を受けた時だ。ちなみに治療費は後々忘れた頃に三船機関から振り込まれた。
「でも廉君。実際これからどこに住むの?」
「それなんだよな。両父の家は無理だし次女のは論外だし」
「あ・ん・なですっ!!」
次女が抗議しているが無視。執事が身構えているがもっと無視。
「無難なのは社員寮なんだがさすがに会社のトップが社員寮に住んでたらいろいろ問題だよな」
法律的には全然問題ないだろうが社員からしたらプレッシャーにも程がある。
「いっそのことお家買ったらどう?ローンとかすれば十分出来るんじゃない?」
「まあそれも考えたんだが何だかなぁ……」
甲斐が頭をかく。最首でも甲斐が何をいいたいのか分からなかったが、
「こいつに一人暮らしは無理だって」
そこへ斎藤新がやってきた。最首同様長年の友人で、現在はバイト先兼就職先で暮らしている。
「斎藤、どうしたんだ?」
「いや、お前がまだまた進路に困ってるって聞いてな」
「進路自体は別にそうでもないんだがな」
「で、斎藤君。どういうこと?」
「ん?ああ、こいつに一人暮らしは無理だって。今まで穂南や妹さんにおんぶにだっこだったんだぜ?今更一人で住める訳ないだろ」
「い、言ってくれるじゃねえか」
「声が震えてるぞ」
実際図星だった。いや、斎藤の言うようにおんぶにだっこだったって訳でもないが例の戦いで甲斐の右足は完全にお陀仏になりバリアフリーの家じゃないとまともに生活できず、肉体労働も厳しい。
そんな状態で一人暮らしは甲斐にも難しいと分かる。
「じゃあ久遠ちゃん一緒に住もうか?」
そこへ今度は馬場久遠寺がやってきた。そろそろ中学2年生になることもあり成長期がきたのか、少し前まで最首の肩ぐらいだった背も今ではほぼ同じだ。
「確かに久遠ちゃんなら安全かもしれないけど、」
「やめろ。雷龍寺や早龍寺に殺される」
一緒に稽古してるだけでも目くじら立てられていたのに同居とか言われたらどうなるのか分かったもんじゃない。
「で、久遠どうしたんだ?」
「ああ、うん。火咲ちゃんの病院行ってきたよ」
最上火咲。例の戦いで赤羽美咲と戦い、敗北して重傷を負った少女。現在は甲斐機関の一部となった三船機関の病院に入院している。あの戦い以降面会謝絶で甲斐も顔を見ていなかったのだが。
「火咲ちゃんどうしてた?」
「あ~うん、元気そうだったよ?ただその……」
久遠は隣の来訪者の顔を見た。
「……」
隣にいた赤羽美咲は何も言わない。
「どうしたんだ?」
甲斐からの視線を受けて赤羽は罰が悪そうにそっぽを向いた。
「……何でもありません」
例の戦い、4機関オークションは元々赤羽がこれ以上甲斐に無理して闘ってほしくないから起こしたものだった。言ってみれば元凶で黒幕だったからか少々赤羽としても合わせる顔がないと感じているらしい。
甲斐も全く気にしてないと言えば嘘になるが。
「甲斐さん、新居ですが私が和佐さんと使っていたあの家はどうですか?」
「あそこか」
甲斐が無事だった頃、よく赤羽や久遠相手に稽古を付けていた道場代わりの家。そこは赤羽や甲斐和佐がこの寮に入る前に住んでいた家だ。
今でもまだ大倉機関から家賃が支払われているが、ほとんど使っていなかった。
「あそこ階段あるしな。バリアフリーには少し遠いか」
「そうですか……少しは役立てると思ったんですが」
「赤羽。あまり気にするな。あの仮はちゃんと仕事で返してもらうから」
「……はい」
まだ甲斐機関に属している赤羽は4月からは甲斐の部下になる。当面は杏奈同様秘書のような立場を任せようと思っている。ちなみにその和佐、甲斐の妹で長女なのだが例の4機関オークション以来甲斐機関すらやめて現在行方をくらませている。4機関オークションで一緒に闘った紫歩乃歌と言う少女からは問題なく生活しているとたまにメールが来るのでそこまで気にしてはいないが一応ルームメイトにもなるからこの部屋をどうするか聞いておきたい現状だ。
「で、話戻すけど廉君の住まいどうするの?」
最首が床に落ちていた服などを拾いながら口を開く。
「…………どうするかな」
「キーちゃんと住めば?」
久遠からの提言。キーちゃん……甲斐三咲とは甲斐の彼女であり、ほぼ嫁だ。かつての事故が原因でまだ入院生活が続いているが半年以内には退院できるだろう。身寄りもないし都合はいい。そもそも甲斐もいずれ一緒に住もうと考えていたため新居で同居というのはいい提案なのだが。
「……う~む」
「どうしたんだよ?」
「いや、退院したてのキーちゃんに家事を任せるのもなぁって。そもそもキーちゃん退院できるの早くて6月くらいだし。それまでに新居を決めないとな……。で、新居にするには他に誰か家事肉体労働担当もほしい」
「……一気にわがままになったな」
「ずっとこんな感じじゃない?」
古くからの友人二人は語る。
「つまるところ死神さんは一人暮らしが嫌でしかもずっと蒼穹ちゃんや和ちゃんと一緒にいたから今更男の人同士で暮らすのも嫌でキーちゃんと一緒に暮らしたいけどそれまで、あわよくばそれ以降もずっと一緒に暮らしてくれる女の子を探してるわけだよね?」
「……まとめないでくれ久遠。俺がどんだけ最低野郎か分からないじゃないか」
「どこも間違ってないよね?」
「…………はい」
縮こまる甲斐。
「でも、そんなの身内しかなくない?和ちゃんや杏奈ちゃんがちょうどいいと思うんだけど」
「ですよね!!」
立ち上がる杏奈。肩をつかんで座らせる甲斐。
「っていうか死神先輩はどうして杏奈ちゃんが嫌なんですか?」
陽翼が一息つきながら質問を投げる。
「え、いやまあ、長女ならともかくいきなり見知らぬ女の子が妹とか超なつっこいのとか困るというか何というか……」
「つまり杏奈ちゃんにドキマギしてると……?」
「え、兄様そうなんですか!?杏奈と一緒に大人の階段上っちゃうんですか!?彼女さん奥さんにする前にいもーとに手を出しちゃうんですか!?きゃー!!」
「ええいうるさい!」
立ち上がった杏奈をまた座らせる。
「けど、さっきも言いましたけど今なら執事もついてきますよ?」
杏奈が目配せするとライルは非常に不機嫌そうに一礼する。
「……」
実際悪い話でもない。あまりいい関係になりたくはないがかわいい女の子に、もっとあまりいい関係ではないがそれなり以上の実力を持つ執事がついてくる。もし仮に次女に手を出そうとしても執事が止めるだろう。
「…………候補の一つにはしていい」
「え、本当ですかお兄さま!やった!子供は何人がいいですか?」
「作るか!!」
「……手は出さないんじゃなくて子供を作らないなんだ」
最首、久遠、陽翼からジト目攻撃を受ける。
「……つくづく、この人と一緒だったのが蒼穹さんや長女だったからこそ何も起きずに6年過ごせたんだろうな」
達真がため息をつく。
やがて時はどんどん流れていき、卒業式を間近に控える頃合いとなった。
「……」
卒業式をのぞいて最終登校日。甲斐は制服に袖を通して部屋を後にする。
卒業式はスーツのため、制服で寮を出るのはこれが最後になる。
「……いろいろあったな」
6年間。同じ長さの小学校時代と比べてもなおいろいろな事があった。
出会いよりかは別れの方が多かった6年間だが決して悪いことばかりでもなかった。
「……行くか」
歩いて数分の距離。これほど早く感じたのは初めてだった。
そして卒業式。一日早く卒業式を終えた弟の甲州院優樹も今日は見に来るらしい。また本来は出席義務のない2年生以外の生徒も何人か見に来る。
通常の高校と違って中学から続いている事も理由だろう。
卒業生たちより一足早く、最首、赤羽、久遠、優樹、杏奈、ライル、達真、陽翼、紅衣、権現堂が学校に集まる。
準備とも言えない準備をしていると今日の主役である甲斐、斎藤、逢坂達卒業生が登校してきた。いずれもスーツなどの礼服姿だった。
ちなみに風の噂だがどこかの4兄妹の長男は胴着姿で高校の卒業式に臨んだらしく、次男以外の二人は結構距離感を稼いらしい。
「……壮観だな」
甲斐が並ぶ顔を見やる。キーちゃんや火咲がこられなかったのは残念だがそれぞれ祝いの言葉は既にもらっている。
「卒業生、入場」
在校生代表の言葉。そこから先、甲斐は決して悪くない時間を過ごした。
「本当に泣かないんだね、この人は」
最首達がため息をつく。
「そりゃそうだろ」
卒業式が終わり、学生寮で最後の食事が出された。スーツから私服姿に戻った甲斐達卒業生に対して惜しみない豪華な食事が用意される。
既に空手をやめている甲斐はあまり食べられないのだが今日は盛大に食べる日だと決めてある。
「あまり食べると太りますよ」
「大きなお世話だ」
式を終えて戻ると和佐と歩乃歌の姿があった。どうやら卒業式だから来たわけではなく火咲やキーちゃんの面会がメインだったらしい。
「女子ばかりが許されている不条理。何故だ」
「別にそう言うわけでもないですよ。矢尻さんとかはもう会っているんじゃないですか?」
和佐の視線が達真に刺さると甲斐の視線もそちらへ注ぐ。
「そうなのか?」
「えっと、まあ……。最上から呼び出されまして」
「へえ、いい仲になったのか?穂南姉妹や陽翼ちゃんだけじゃ飽きたらず」
「……達真?」
「先輩の身の回りのこともキーさん先輩にお話ししますよ?」
達真からにらみ返された。お互い傷は深そうだった。
「で、長女。あの部屋どうするんだ?」
「少なくとも私は出ますよ。最上さんが退場になりましたので赤羽さんと同室になる予定です」
「……は?火咲ちゃんここ出るのか?」
「一身上の都合で」
何故か即答したのは赤羽だった。久遠、達真、和佐、歩乃歌が得心する。
「……まあ、身内の都合なら仕方ないか」
赤羽と火咲は腹違いの姉妹だと聞いている。何か事情があるのだろう。
「で、君は」
甲斐が歩乃歌を見やる。
「あ、僕のことは気にしないで」
「そ、そうか……」
実際この少女のことはよく分からない。和佐とそこそこ付き合いが長いらしいがそのあたりのことは全然話さない。まあ知り合いの知り合いだから仕方ない。
食事を終えて甲斐は一人で部屋に戻る。既に多くの家具は運搬済みで、残っているのはノートパソコン、スマホ、充電器くらいだ。ベッドは次の入居者に引き継がれる。対して和佐の荷物ももうほとんど残っていなかった。まるで蒼穹の部屋のよう。
「……」
無人のベッドに目をやれば未だに和佐よりかも蒼穹の姿の方がより鮮明に浮かぶのは何かの未練だろうか。傷心した甲斐を少なからず支えてくれた、もういない少女の姿を甲斐はもう見なかった。
昼前に卒業式が終わり、記念写真も終えて最後の食事も終えた午後。
卒業生たちは次々と学生寮を後にしていく。寮長の机の上には卒業生たちの進路とその連絡先が山を作っている。毎年見る光景だが寮長は未だ涙を流さざるを得ない。
「相変わらずだな」
甲斐が連絡先メモを渡しに行くと号泣していた寮長の背中をポンポンと叩いてやった。
部屋に戻ると既に無人。いつの間に荷物を畳んだのか和佐の私物ももうなかった。代わりに新しくここの部屋を使う新入生らしき人物のネームプレートが机の上にあった。
「……まあ程々に頑張れや」
その言葉だけを遺して甲斐は円谷学園学生寮を後にした。