D.C.IN Mygarnet1章「それは面白くもないお話」後半
・駅前にあるライブハウス。その日は夕方頃からとある女子高校生バンドが貸し切りにして練習に使っている。徹底した防音室もあるが練習に使う4時間ほどは完全に店舗ごと貸し切っている。スタッフは一応いるが最低限の人数だけに留まっている。
「中々派手なことをするじゃん」
怜悧が担いだギターを机の上に置いて汗をタオルで拭きながら正面の相棒を見る。
「え、なんのこと?」
その相棒である歌音もまたタオルで汗を拭いながら相棒を見返す。
「私達二人しかいないのにわざわざライブハウスを貸し切るなんて」
「まあ、お金ならいっぱいあるし。僕達だしね」
歌音が背後のボックスをいじる。二人だけのバンド「レリーズ」。ギターボーカル専門の怜悧だけでは当然音が足りないため、歌音があらかじめDJとして音を用意して本番前に合わせると言う苦労が必要だ。
当然他にメンバーを用意しようという案は前々からあったが、事情が事情故に結局初ライブまで二人だけで突き進んできた。
「お金があるからっていきなりあそこでやる?」
「にひひ。使ってないんだからいいじゃん」
初ライブの会場は円谷学園体育館となっている。そこは父親である甲斐廉が学生時代に所属していたエスカレータ式の学園にある大きな体育館で、1000人は入る大きな建物だ。かつてのテロの影響で学園自体がほぼ閉鎖に近い状態となってはや数年。故にそこそこ大きな額を支払ってライブで利用したいと申し出れば反対される理由はほとんどない。
小規模なデモや死傷者の出ないテロは今でも数年に一度のペースで発生してしまっているが、14年前のあの大きなテロ以来日本国内でも武装化して大組織化した警備会社が力を入れて毎日警備をしているからか、かつてほどテロは警戒されなくなった。
「円谷学園か」
「警備用のロボットもたくさん用意するから大丈夫だよ」
「……正直もう日本国内であのレベルのテロは起きないと思うからちょっと過剰な気もするけど」
「テロはなくてもデモはあるかも知れないよ?」
「……私達の事は知ってる人はかなり限られてるから必要ないと思うけどね」
怜悧がギターをケースにしまう。
「あれ?まだちょっと時間あるよ?」
「いや、今日特別ダイヤでしょ?夏祭りとかで。各停ばかりになるじゃん」
「え!?あれ今日だっけ!?やば!」
歌音がスマホを出してダイヤの確認をする。
「うう~。次の急行に間に合わないと結構遅い時間になっちゃうな」
「……ねえ、歌音。もしよかったらなんだけど……」
黒主家。既に赤羽とアリスが夕食の準備をしている中。
「それで歌音さんまで来たのか」
リビング。筋トレしている正輝が立ち上がり、怜悧と歌音を迎える。
「そ。弟君よろしくね!」
「いや、姉さん。いくら姉さんの友人だからって異性のクラスメイトがいる家に友達連れてくるか?」
「何か問題でもある?」
「何か間違いとかあったらどうするんだって話!」
「間違い?」
怜悧が歌音と正輝を見比べる。一瞬難しい表情をしたが、
「いや、ないでしょ。そこまでじゃないってお姉ちゃん信じてるから」
「……どういう根拠なんだよ」
「あ、じゃあ弟君一緒にお風呂入る?」
「人の話を聞いてくれ」
正輝が嘆息。
「おー、メイドさんがいる!」
「ふえ?」
歌音が料理中のアリスに背後から抱きつく。
「わ、わ、」
「可愛い!中学生くらい?」
「歌音。アリスは今料理中だから」
怜悧が歌音を引っぺがす。
「あ、あの……?」
「アリス。悪いけどこの子の分まで用意してあげて。……あ、美咲さん。ただいま戻りました」
「いえ。お帰りなさい。怜悧さん。それに……」
赤羽が歌音の方を見た。ちょうど左目の死角になったため歌音は気配で赤羽を追い、右目で彼女を見やった。
「馬場歌音寺です」
「赤羽美咲です。あまりおもてなしできないかも知れませんが、遠慮なくお過ごしください」
「はーい」
「ほら、まずは着替えるわよ。私の服でサイズ合うかな……?」
怜悧が片手で歌音を担ぎ上げたまま自室まで向かっていった。
「正輝様、あの方は?」
「姉さんのバンド仲間で俺のクラスメイト。今日夏祭りで電車のダイヤが乱れてるみたいだから泊まるってさ」
「お泊まりですか……」
「どうした?」
「いえ、せつな様にお伝えしなくていいのかなって」
「……確かに。言っておいた方がいいかもしれない」
そう言って正輝が怜悧達の後を追う。
その追いかけている先。怜悧達の部屋がある離れの廊下。怜悧と歌音が歩いていると、怜悧の部屋の奥の部屋が開いた。
「せつな」
「姉さん、おかえ……」
出てきたせつなと歌音の目が合った。
「…………あ、これ?私のバンド仲間。気にしないで」
「もう怜悧ってば。歌音ちゃんをもの扱いして。……で、この子は?」
歌音がせつなに歩み寄る。その距離だけせつなは後ろに下がる。ついにはせつなの背中が壁にぶつかった。
「妹だよ。せつなって言うの」
「へえ、妹ちゃん」
「………………ぁ、」
青い顔で怯えるせつな。歌音はそっとその耳に口を近づけ、
「"じゃなかった子同士"、仲良くしようね」
と、呟いた。
「…………っ!!」
「歌音。少しやり過ぎ。せつな、おいで」
歌音の頭をどつき、逃げるようにやってきたせつなを胸に抱き寄せる怜悧。
「もう、痛いな」
「歌音、ここ私の部屋だから先に着替えてなよ。好きな服着てていいから」
「怜悧は?」
「せつなとお話」
「ちぇっ、後で僕ともお話ししようね。妹ちゃん」
怜悧が自分の部屋を開けると、歌音は手を振りながら中に入った。
「…………姉さん、」
「大丈夫、せつなはちゃんとお姉ちゃんの妹だよ。……ん、」
怜悧が背後からの気配に気付いて振り向く。
「遅かったか」
正輝が走ってきていた。
「いや、私がいたから」
「姉さんだって忘れてたくせに」
言って正輝がせつなに近づく。
「せつな。悪い。あれ俺のクラスメイトでもあるんだ。今日泊まるみたいなんだけど……」
「…………子供扱いしないで」
怜悧の胸に顔を埋めたまませつなが小さく呟いた。
それは、今から何年か前。恐らく物心がついてすぐの頃だろう。
その少女は両親の用意したリモート通話に紛れ込み、自分と同じ名前の少女と会った。
「おとうさん。おかあさん。このこは?」
「……この子は、」
言いよどむ両親。対して画面の少女が名乗りを上げた。
「甲斐怜悧って言うの」
「かいれいり……?それってぼくもおなじなまえ……」
少女の疑問に両親は答えなかった。
その日はそれで終わった。が、隙を見ては少女は自分と同じ名前で少しだけ年上の少女と通話をすることにした。
「怜悧は、日本の学校に行ってるんだ!?」
「そうだよ。怜悧は違うの?」
「うん。僕は今えっと、何とかって国にいるの!」
「怜悧は外国人なの?」
「がいこくじん?よく分からないけど僕は僕だよ!」
「僕って……怜悧は女の子だよね?」
「そうだよ!怜悧は違うの?」
「いや、私も女の子だけど……」
「……僕、何かおかしい?」
「…………ううん。そんなことない。怜悧は怜悧だよ」
そんな日々が続いて数年が過ぎた。少女が年齢で言えば中学生になる時期。初めて両親に連れられて日本にやってきた。
「怜悧!」
空港では15歳になった怜悧が待っていた。隣には矢尻達真や赤羽美咲もいたがまだ知らない人だ。
「怜悧、やっとちゃんと会えたね」
二人の同じ名前の少女が初めて触れ合い、抱き合う。
「……納得しているのか?」
達真が小さく甲斐に問うた。
「……いや、単純に同じ名前だと思っているらしい」
「少しはごまかすなりしたらどうですか?」
赤羽がより小さな声で言う。
「火咲ちゃんがそれ言うのかな~?」
杏奈がわざとらしく笑う。
「……今は赤羽美咲だから」
「それより、日本にはいつまで?」
「数日と見ている。向こうに置いてきた影武者ロボットがどこまで持つか」
「……もういっそ、ロボットに任せて帰国したらどうだ?それか死んだってことにするとか」
「それは出来ない。ここで止めたら何のためにあいつらは死んだんだ」
「……」
「……」
押し黙る大人達。対して、
「お父さん!早く行こうよ!」
娘達が声をかけた。
甲斐は黒主家ではなく、あらかじめ予約しておいたホテルへとタクシーを使って向かう。
人数が少し多いため2台用意した。ちなみに甲斐と杏奈は変装しているためよほど鋭い人間でもない限りは正体に気付くことはないだろう。
「ところでこの人は?怜悧のお父さんとお母さん?」
ホテルに着いてから初めて達真と赤羽に興味を持って質問した。
「……違うよ。こっちは空手の師範」
怜悧が達真を指す。
「へえ、怜悧も空手やってるんだ。僕もお父さん達から少し習ってるよ!」
「へえ、じゃあ少しやってみる?」
そうして二人の少女は軽い組み手などをするようになった。実力はほぼ同じ。ますます仲良くなった。
「……どれ、少し見てやろう」
達真も何故か気になって稽古をつけてやることにした。
やがて、甲斐の帰国も4日目にして終了し、3人は再び海外へと旅立つことになった。今度は親が用意したビデオ通話などではなく、お互いにスマホを用意して連絡先を交換した。
親さえ一見しただけでは気付かないレベルの精巧な影武者ロボットを用意して一人で来日することもあった。
たった一人の友人で親友。そのはずだった。
しかし、2040年3月。仕事で忙しく、隠れ住んでいたホテルに一人残された夜が爆発した。
気付いた時には視界が半分になっていて、首から下がとにかく痛い。燃えるように痛いと感じていたが、実際に体が燃えていた。
「いやああああああああああああ!!!!」
「怜悧!!怜悧!!」
やがて、杏奈が来てすぐに水をかけられて消火。そして後から続いてきた救急隊に運ばれていった。
数日以上にも及ぶ手術の末、聞かされた言葉は
「全身にひどい火傷を負っています。爆発そのものは受けていないため骨折などは見られませんでしたが、左目が視神経ごと蒸発。それに、内臓と皮膚、筋肉、神経にひどい損傷が見られます」
「……何とかならないんですか?」
「……医学では厳しいものと思われます。が、全身義体化手術を行えば或いは……」
「……全身義体、か」
主治医の言葉に甲斐は言葉を濁す。少年時代から何度か聞かされてきて直面してきた未知の技術は既に他の誰でもない、甲斐自身が一番精通した技術となっていた。
甲斐は少女の目が覚ますまでの間、杏奈と話し合った。全身義体化をしなければどの道一緒に生活することは出来ないだろう。だが、そこまでするならかつて計画していたものを使って自由にしてあげるのがいいのではないのか。そのために真実を話すのがいいのではないか。
「あなたは、どうしたいの?」
「……この前日本に行ってせつなの事を話したら子供達にも矢尻にもすごく怒られた。俺自身も父親失格かも知れないって思った。矢尻が娘に血筋について話したなら問題ないだろう、せつなも受け入れられるだろう、そう思った。だが、結果としてまだせつなは……だから怖いんだ。あの子に本当のことを伝えてしまっていいのだろうかって。けど、治してまた甲斐怜悧として生きててもらうのもどうなんだって思ってる。……どうすればいいんだ」
甲斐が頭を抱えていると、
「失礼する」
そこへ、ライルがやってきた。
「ライル……」
「甲斐怜悧が目を覚ました。少しだけなら会話も可能だ」
「……分かった。すぐに向かう。車を出してくれ」
「ああ」
ライルの車に乗って二人は娘の病室へと向かう。
「……おと……さ……おかあ……さ」
首から下を特殊な装置で覆われ、顔面の左半分を眼帯で覆い、右目だけで自分たちを見る娘の姿がそこにはあった。
「怜悧……」
「お……と……か……」
恐らく手を伸ばしたいのだろう。少しだけ肩が動いた気がした。だが、そこにあるのはただの虚空。今この少女には差し伸べる手も指もなく、ただ弱々しく途切れ途切れに言葉を落とす事しか出来ない。
「…………」
甲斐は作り笑顔のまま、娘の頭を優しく撫でてやった。安心したのか娘は右目から少しだけ涙を流し、眠りに落ちた。
「……杏奈、ライル」
振り向いた甲斐。何かを決めた顔だった。
「……やるんだな」
「ああ。準備をしてくれ。ここももしかしたら長くは持たないかも知れない。24時間以内に全身義体化を行う。そして、杏奈」
「はい」
「例の奴を頼む」
「……はい」
この決断が間違っていたとしても、甲斐には他に手段はなかった。
やがて、19時間後に少女は意識を取り戻した。ベッドから起き上がればまるで自分の体が燃えていたのが嘘か夢だったかのように今まで通りに動く自分の体。知らない部屋だったがすぐ近くに鏡があった。
「…………え、」
そこにあったのは自分じゃない少女の姿だった。左半分が眼帯に覆われているとは言え、自分の顔を見間違うわけがない。なのに、鏡に映る顔は自分のそれではなかった。
「あ、」
やがて、杏奈が部屋に入ってきた。
「お母さん!!これ……僕じゃないよ……?」
「……怜悧」
杏奈は動揺する娘を抱き寄せた。力の限り抱きしめているのにその圧力が全く伝わらなかった。
感覚はあるのに自分の体ではなく、その上に着ていた服だけを抱きしめているかのように。
「怜悧、これから多分ひどい話が待ってると思うの。でも、悪い話じゃないから……ごめんね」
「?」
やがて、父親がやってきた。だが、父親だけじゃなかった。
「入るぞ」
「お父さん……それは……」
甲斐の後ろにいたのは一人の少女。それこそがそれまでの自分の姿。見間違えるはずもない己の顔だった。
「いいか、今から大事な話をする。怜悧、怜悧はお父さんとお母さんの間に生まれた実の子供じゃないんだ。本当の名前は馬場歌音寺。本当の甲斐怜悧は、お前と仲がいいあの甲斐怜悧なんだ」
「…………どういうこと……」
「父さん達が日本で暮らしていた頃に大きな事件があった。爆弾テロだ。それでお父さんは、本当のじゃないけどお父さんを失った。義理の弟も死んだ。……お前の本当のお母さんも死んだんだ」
「……」
「だからお父さんは本当の家族を守るためにお前のお母さんからお前を預かって外国で仕事をすることにしたんだ」
「…………どういう」
「いきなり言われても受け入れられないことは分かっている。けど、言わせてくれ。お父さんはお前を愛していた。ずっとずっと娘として愛している。けど、だからこそもう一緒には過ごせない。この、お前そっくりのロボットを影武者ロボットとして連れて行くことにした。お前は、馬場歌音寺として日本で暮らすんだ」
「…………どういう」
「ごめんね……!!」
杏奈がこらえきれずに娘を抱きしめた。
「本当のお母さんじゃなくてごめんなさい……!!偽物でごめんなさい……!!」
「…………にせもの、」
「矢尻や赤羽にお前のことを託す。またお父さん達の顔が見たければいつでも言ってくれ」
「……お父さん」
「何だ?」
「僕を呼んで……僕の名前は……」
「……歌音、だ」
「……そ……っか。歌音ちゃんって言うんだ……怜悧は……怜悧……」
「……本当にすまない……っ!!!」
甲斐は娘を抱きしめた。だが、その熱量は義体となった娘には届かなかった。
それから数日、両親だった人達との最後の生活を終えて歌音となった少女は日本へと渡ってきた。
「……怜悧、」
空港。達真と怜悧が待っていた。
「怜悧……その、」
「歌音ちゃん」
「え……?」
「僕は歌音ちゃんって言うんだって……馬場歌音寺。歌音ちゃんと友達になってよ、怜悧」
「……歌音……!!」
再び出会った少女はそこから違う名前となった。二人の怜悧だった少女。解き放たれた少女。故にレリーズ。
「ってな感じだから」
正輝の部屋。怜悧は正輝とせつなに歌音の事を説明した。
「………………い、いや、そんな事急に言われても……」
狼狽する二人。
「血は半分しか繋がってないけど、甲斐廉の被害者同士仲間に出来ないかな?」
怜悧が二人を見た。その目はどこか震えていた。怜悧自身もまだ受け止め切れていないのだろう。
「……だからさっき……」
せつながまた表情を青くした。
「……けど、」
「うん?」
「…………あ、いや、」
正輝は言葉を飲み込んだ。今脳裏に生まれたその言葉は本人がいなくても決して出してはいけない言葉だった。「な、何でもない……。で、でも、じゃああいつはどうしてここに住んでないんだ?そもそも今はどこに?」「プライベートな事だから……。あの子もまだ、3ヶ月くらいしか経ってない訳だし。一人で考える時間も必要だよ。もちろん歌音が望むならここにいてもらうつもり。美咲さんも当然知ってる」
「……」
正輝は一瞬だけせつなを見た。せつなもその気配に気付く。
「……わたしは、」
「私はあの子のこともせつなの事も家族だと思ってる。正輝だってアリスだってもちろん同じ。これから先何があってもお姉ちゃんが守り抜くから。……もし、もしも、今まで通りが難しいとしても、お姉ちゃんは何があっても見捨てたりなんてしないからね……」
怜悧は再びせつなを抱きしめる。途中から鼻声になっていた理由を正輝もせつなも敢えて追求しなかった。
「……」
扉の向こうにいたその少女も。
やがて、食事の時間。
「それでは、召し上がりましょうか」
赤羽が手を合わせる。視線の先の顔は今日は一つ多い。そして一つ以外が全てどこか陰りがある。
「えっと、私、どこか味付け間違えちゃったりしました……?」
アリスが敢えておどける。その意図には誰もが気付いていた。だから、
「いつも通り美味しそうだよ、アリス」
怜悧と正輝がその頭を撫でてやった。
「ほら、歌音も。アリスの料理は美味しいんだから」
「そうだね。メイドちゃんが作ってくれた料理だもん。期待しちゃうな~!」
「……」
歌音の対面にいるせつなはまだ隣の怜悧の裾を掴んでいる。しかしやがて、箸を動かし始めた。
「そうか、話したのか」
食後。食器の片付けを終えてそれぞれが部屋に戻った後。赤羽は達真に連絡を入れていた。
「直接聞いたわけではないけどね。状況証拠よ」
「これで歌音の奴も少しは落ち着けたらいいんだがな」
「難しい話よ。怜悧と正輝が健気にフォローしてるけど、もしかしたらあの二人こそが一番つらいかも知れないんだから」
「……そうだな。このままそこで一緒に暮らせればいいんだがな。歌音やせつなにはまだ時間が必要だ」
「そうね。長く一緒にいた人達が家族じゃなかったなんて簡単に受け止められるものではないわ」
「……お前もそうだったのか?」
「え?」
「赤羽美咲として最初に生まれ、次には最上火咲。そして今はまた赤羽美咲になっている」
「……関係ないわよ。私は私。どんな時空を経ても。どの道親は屑だったわ」
「……あの赤羽美咲もいつかお前のようになると思うと少し思うところがあるな」
「……どういう意味よ」
「さてな。それより、気になることがある。権現堂からの情報だ」
「また何かあるの?」
「14年前に封印されたはずの甲斐機関本社マスターサーバに何者かが侵入した後があったらしい。しかも管理者権限で」
「どういうこと?」
「社長と同じ権限で日本中のロボットを自由に動かせる奴がいると言うことだ」
「……それって……かなりの大事件なんじゃ……」
「そうだ。正輝が合宿から帰ってきた時に言っていたな?合宿先でロボットが自爆したと」
「ええ。確かに自爆して何人も死んだはずなのに気付けば元に戻っていた。まるで時間が戻ったみたいだったって」
「それ自体は恐らくあの赤羽美咲案件なんだろうが、そのロボットといい、正輝が遭遇した剣道着の不審者と言い、もしかしたらがあり得るぞ」
「……犯人はロボットを利用しているクラッカーってこと……?」
「そっち方面の可能性が高い。権現堂もIT系は取り扱っていないから詳しいことは分かっていないそうだ」
「……なら、あんたの先輩に聞いてみたらどう?」
「……は?」
「ライル=ヴァルニッセよ」
「……確かに連絡先は知ってるが……」
「事は一刻を争うかも知れない。変態師匠相手はともかく本家の方に知らせておいた方がいいかもしれないわ」
「……そうだな」
夜が更けていく。
正輝はいつものゲームをやるが、Kはいなかった。なので適当にクエストを進めて適当に眠気を誘う。
ただ、先ほど姉から聞いた話がどうしても頭をよぎる。
(馬場歌音寺が俺達の義理の兄妹……と言っていいのか?この関係は。せつなといい、アリスといい、一体何がどうなってるんだ……)
いつもの相手とは連携できなさそうな集中できていないプレイング。気晴らしも出来ない夜にわずかな気配。「ん……」
「ばあ!」
ふと暗闇を見れば、そこに歌音の姿があった。
「お、おま……」
「はい静かに。妹ちゃんとかが起きちゃうかも知れないからさ」
当たり前のように歌音が横になったままの正輝へと歩み寄る。
「お前、何考えてる。一応俺達はクラスメイトだぞ……?男子と女子の高校生だぞ?」
「弟君はそう言う関係になりたい?」
「……いや、まずいだろ」
「……」
歌音は小さく笑い、正輝の画面を見た。
「へえ、弟君もこれやってるんだ」
「何普通に会話続けてるんだ。姉さんに見つかったら殺されるぞ」
「怜悧なら大丈夫だよ。さっきKOしてきたから」
「は?」
「歌音ちゃんと怜悧は~、女子と女子の関係だから♪」
「………………は?」
(女子と女子の関係?どういう関係?……え、そう言う関係?え、最近姉さんがこいつに対して言い淀んでたのってそう言う事……?)
「いろいろ考えてるねー、流石男の子」
歌音が正輝の布団をめくる。まるで一緒の布団に入るかのように。
「ま、待って待て!!流石にこれ以上は……!」
しかし、言葉は唇で塞がれた。
「……お前、」
「歌音ちゃんだよ♪」
再び唇を重ねる。そこに恋慕があるようには感じられなかった。ただ、何かしらの強い情念は感じられた。
「俺の次はせつなのところにも行くつもりか?どこの国にそんな伝統があるのか知らないが、ここは日本なんだがな」
「別に儀式じみた海外の文化とかじゃないよ」
「じゃあ夜のテンションか?とにかくこれ以上はいろいろとまずい」
「ほれ」
突然歌音が胸元をはだけた。豊満な胸だが正輝はそれが作り物だと知っている。
「あれ?全然動揺しないね。もしかして経験済みだったり?」
「……お前は何がしたいんだ?」
「え?弟君とせっくす」
「言うな馬鹿!……お前、ちゃんと意味理解していっているのか……!?日本語でどういう意味になるか分かっているのか?」
「流石に歌音ちゃんを馬鹿にしてるんじゃないかな?歌音ちゃんは日本人だよ?怜悧とだって物心ついた頃から日本語で会話してたんだし」
「なら、何が目的なんだお前は……!そもそも……!!」
正輝は再び言葉を飲み込んだ。禁忌と倫理が脳と喉を交互する。時を刻む時計の音が時折ノイズに走る。
「そもそも、何?いいじゃん。クラスメイト同士なんだし。さかり盛りの高校生だよ?」
「……俺は疲れてるんだ。早く寝たい」
「じゃあ、手早くすませちゃおー♪」
正輝の服に歌音の指が入る。手首が動き、肘が動き、正輝の肌があらわになりかける。その体で最も熱い部分が外気に触れた瞬間、
「作り物となんて出来ないって言ってるんだ!!」
「っ……!!」
手が止まる。目にしたものと耳にしたものが理解できない。やや遅れて正輝自身の焦燥がその心臓をわしづかみにした。
「……お前の首から下が作り物だって事は聞いてるんだ。やっても意味なんてないだろ……」
「……」
「今日のことはクラスメイトの異性の家に来てしまったが故の事故って事でお互いにわすれ」
「られないよ……」
「ん、」
空気が変わる。同時に歌音はついに服を脱いで自らを晒す。可憐な下着の下から見える極めて自然に近く見える人工の肌。興奮に震えるその仕草は、プログラミングされた電子の反応には見えなかった。
「何が作り物か……教えてあげるよ……弟君……」
数時間が過ぎた。
「……くっ、」
正輝はうごめく。体を動かそうとしても思い通りに動かない。今まで経験したことがない疲労が全身を襲う。「ふう、」
服を着た歌音が下腹部を押さえる。
「分かるよ……弟君の熱量……ちゃんと僕の中にある」
「……それは、」
「まだ弟君は僕の中にあるフラスコとかビーカーがどうとか言うのかな?言っておくけど僕はまだ生理来るんだよ?……もしかしたら来月からは来ないかも知れないけどね」
「……くっ、」
起き上がろうとしても正輝の腰が全然立たない。まるで毒でも盛られたかのように。
「まだ動けないんだ。……僕の体は一部、作り物かも知れないけど、君の場合君の気持ちの方が作り物かも知れないね」
「……ううう、」
「その言葉、ちゃんと本物なの?怜悧はいつだって感情をそのままぶつけてくれる。弟君だから期待したんだけどね」
「……ま、まて……」
「さっき言ったように今度は妹ちゃんをって思ったけど今日は何だか怯えてるみたいだし。仕方ないか」
「ま……て、」
「残念だよ。…………甲斐正輝」
「!」
やがて、歌音は暗闇の中に消えた。ドアの音が響き、その足音は遠く消えていく。
正輝はその手も声も、暗闇にさえ届かなかった。
・ライブハウス。二人の少女が楽器などの最終確認を行う。つまり、今夜例の体育館でライブを行う。
「……」
怜悧はギターの弦の具合を確かめながら背後の相方に注意を配る。
「どうしたの?怜悧」
対して歌音は音量のつまみを回しながら実際に出る音との差異を確認する。お互い視線は交わさぬまま。
「あ、いや、その……」
怜悧は言い淀む。先日、自分の部屋で寝ていたはずの歌音が数時間ほどどこにいたのか。翌朝明らか調子がおかしかった正輝と何があったのか。どうして今日学校に来なかったのか。聞きたい筈なのに聞きたくない。
「もう、怜悧?今日本番だよ?いっぱい人が来るかも知れないのにそんな顔でいいの?」
「……うん。そうだね、」
怜悧が顔を上げる。多少の無理はあるがいつもの表情で相棒を見やる。
「いよいよ今日が本番なんだ。一緒に頑張ろう、歌音」
「……そうだね、怜悧」
二人が手を合わせた。
・学校から帰ってから正輝が目にしたのはテーブルの上にあるチケット。当然姉たちのライブの入場チケットだ。5人分ある。
「俺と、せつなと、アリスと美咲さんと、……翼の分か?」
チケットを手に取りつつ、正輝は夕焼け空を見やる。
(この前……俺はあいつにひどいことを言ってしまった。あれから初めて顔を合わせるが、時を見て謝ろう。それに、責任も取る必要があるかも知れない。状況的に襲われたのは俺の方だけど)
「正輝様?」
すると、アリスが来た。背後にはせつなもいる。
「お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま。アリス、せつな。これ」
「それは、怜悧様と歌音さんのライブチケットですね」
「ああ。多分姉さんが置いてくれたんだろう。時間を考えるとあまりゆっくり出来ない。俺は行こうと思うんだけど、どうだ?」
視線は二人に。少しだけせつなの方へ。
「私は大丈夫ですけれど……」
アリスもまたせつなを振り向く。
「……」
「せつな、無理はしなくていいんだぞ?」
「……わたしは、正直あの人のこと怖い」
「……」
「でも、あの人が私に言ったことは理解できるから……」
"じゃなかった子同士"。その言葉を正輝は後から聞いた。先に意味を知りながら。
「私も、このままじゃいけないって気がして……」
「……無理はするなよ?」
「……うん」
「……あとは翼と……ん、美咲さんは?」
「今日は用があるからと聞いています」
「ってことはライブも見に行けないって事か……」
言いながら正輝は思い出す。
(そう言えば、美咲さんって円谷学園の卒業生だっけ?今日の会場そこみたいだし、もしかしたら過去のことはあまり思い出したくないって事なのか?歌音がセッティングしただろうから、あいつにはあいつで何か思うことがあるんだろうな。あいつと美咲さんはそんなに接点ないし、仕方ないことか)
正輝はスマホで翼を誘う。数分してから返事が来た。
「じゃあ行こうか」
制服から私服に着替え、正輝とせつなとアリスが家を出た。駅前で翼と合流し、ライブの舞台へと向かう。
「正輝、今日稽古じゃなかったっけ?」
「師匠が代わってくれた。師匠もあいつのことは知ってるからな」
「……そーなんだ」
翼は小さく告げる。その仕草に正輝が一瞬怯える。
「どーしたの?」
「い、いや、なんでもない」
(別に今の会話に翼の逆鱗に触れる要素はなかったはずだ。何で俺は今怯えた?いや、待てよ。翼は歌音の事知ってるのか?師匠は知ってそうだが……)
「せっちゃんお久~。大丈夫?」
「……あまり大丈夫じゃないけど、でも今日のライブ。いろいろと見ておきたいって思ったから……」
「……そっかー」
「……せつな、電車でいいか?それともタクシー使うか?」
詰まるところ、正輝はせつなの恐怖を深くは知らない。正輝も無意識に歌音と接するところを見ることでそれが何かを探ろうとしているのかも知れない。
「わたしは、」
「乗っていきますか?」
声。その声を聞いて正輝、せつな、アリスの背筋に電流が走った。
「あ、」
正輝が振り向く。高級車。窓から結羽が顔を出していた。
「結羽……さん」
「結羽でいいですそれでお願いします。……あ」
結羽がせつな、アリスと顔を合わせる。
「みさ……せつなさんとアリスちゃんですね。初めまして、結羽と申します」
「ど、どうも……」
「正輝様……この方は……」
「……父の知り合いらしい」
正輝は嘘をつく。あの謎の事象で忘れかけていたが、合宿の夜に結羽と雷歌から聞いた話をまだ反芻できていない。当然赤羽や達真にも話せていない。家の事情ならともかく前世がどうとかまで話せられるものでもないし、何ならあの時起きたロボの自爆含めて夢か何かではないかと疑っている自分もいた。どうやらしっかりと現実の出来事だったらしい。
「今日何があるか知っているのか?」
正輝が車に乗りながら結羽に問う。
「はい。あのお二方のライブですね」
「お二方?」
「実は、」
「結羽。余計なことは言わなくていい」
運転席から雷歌の声。車に乗ろうとしたせつながそれを聞いて一瞬止まる。
「どうしたせつな?気分悪くなったのか?」
「…………ううん。何でもない」
「あの、僕も一緒でいいですか?」
「はい。もちろんですよ」
アリス、翼も車に乗る。
「目的地は円谷学園だな?」
「あ、ああ……」
雷歌がカーナビを設定して車が走り出す。正輝は助手席に座る。隣には雷歌が。
「……何でここに?」
夕暮れから夜に変わりつつある空の下。正輝は小声で問うた。
「……上役からの指示だ。お前達に協力して欲しいと」
「……上役って……」
「詳細は明かせない。だがお前がさっき言ったようにお前の父親を題目にするのは構わない」
「……よく分からないな」
「知る必要がない話だ」
しかし、雷歌の視線はどこか後ろにいるせつなに逸れていた。
せつなもまた女子同士の会話の中で雷歌へと視線を向けていた。
(……俺に対してもそうだが明らかせつなとも関係ありそうだな)
正輝は視線に気付きながらも今は指摘しないことにした。
車で走ること2時間弱。正輝達は円谷学園の校門前に到着した。
「……ここが、」
正輝達は感慨深くその校舎を見る。既に学校としては使われていない施設。父達が若い頃にいた場所。
「……ん、」
「どうかしたか?」
雷歌が小さくうめく。
「……何でもない」
「私達は後から向かうので正輝さん達はお先にどうぞ」
「そ、そうか。じゃあ、」
正輝達が一礼すると車が出た。
「……雷歌、」
「……ああ」
車内。うっすらと見える金と銀の翼。
「メナージュ・ゼロの気配がした」
「……もうほとんど力が残っていないのに」
「会わせてやりたいが、今日はもしかしたらまずいかも知れない」
「……そうだね」
やがて車は地平線へと消えていった。
「体育館ってここか」
歩くこと数分。正輝達は目的の場所に到着した。1000人入るとのことだが、会場にいたのは100人いるかどうかだった。同世代の女子が多いのはあの二人のコミュニティ故だろうか。
「ん、」
正輝がスマホを見る。少し前に怜悧からメッセージが届いていた。
「どうしたのー?」
「ああ。姉さんが控え室に来て欲しいって」
「それは正輝様だけに?」
「いや、皆で行こう」
正輝は一度せつなに視線を送る。せつなも問題はないようだ。
「……でも控え室ってどこ?」
「……えっと……?」
周囲を見る。今は使われていないとは言えここは学校。ステージが体育館なら控え室は館内用放送室かどこかだろう。
「とりあえず回ってみるか」
「……ん、」
正輝達が歩き始めた時。翼がスマホの画面に凍り付く。
「…………これって、」
「どうした翼?何かあったか?」
「…………ううん。いまいくー」
スマホをポケットに入れて翼は先行した正輝達へと急いだ。
「へえ、よく分かったね」
控え室。怜悧が呼んだそこは体育館裏にある体育倉庫だった。とは言え今回のライブ用かは不明だが改築されており、内装だけを見れば番組に出演する芸能人などが利用する控え室と言って差し支えないものだった。
そしてそこには怜悧と歌音がいた。
「……」
「う、」
歌音の氷のような右目の視線が正輝を射貫く。一晩経っても歌音のテンションは元に戻っていないようだ。謝ろうと思ったが流石にこの場ではいろいろまずい。しかしこのままライブに臨まれても困る可能性がある。
「ね、姉さん」
「うん。今日は来てくれてありがとうね!美咲さんが来れなかったのは残念だけど」
「ん、知ってるのか?」
「さっき電話掛かってきたよ。でも正輝、せつな、アリス。それに翼も来てくれてありがとうね!」
「怜悧様、可愛い衣装ですね!」
「本当……」
「お姉ちゃんひょっとしてアイドルになったとかー?」
「いやいやライブ用だよ」
怜悧達が話している間に正輝は歌音へと歩み寄る。
「あの、」
「何かな?」
「……昨夜の事なんだけど、」
「弟君が気にすることは何もなかったと思うけど?」
冷え切った笑顔。狼狽の顔。
「……悪かった」
「……何が?」
「……ひどいことを言った。本当にすまないと思ってる……」
「…………」
歌音の表情は変わらない。正輝の表情はどんどん青くなっていく。
「正輝?」
背後から声。一瞬姉のものか妹のものか幼馴染みのものか分からなかった。
「……歌音、そろそろ出番だよ」
「……そうだね、怜悧」
「……正輝様、私達は、」
「ああ、そうだな」
その場にいた全員が立ち上がり、そして言葉を交わさぬままその場を後にする。もしかしたら、と言う可能性は一切考えていなかった。
再び体育館の客席にやってきた正輝達。
「結羽さん達はどうしたんでしょうか?」
アリスが周囲を見渡す。さっきより客の人数が増えたこともあり、背の低い彼女では見えづらそうだ。しかし正輝が見渡してもあの二人の姿は見当たらない。
「中に入るのに苦労しているのかそれとも……」
「それとも?」
「いや、そもそもチケットないとか……」
「……いや、流石にそれは……」
「……」
正輝とアリスが小さな心配をしている間、翼はスマホを見ていた。
「……翼?」
隣りにいたせつなが顔を覗かせる。
「う、ん?どうしたの、せっちゃん」
スマホをスリープにさせて笑顔の翼。
「……何見てるのか知らないけど、そろそろ電源切っておいた方がいいよ?」
「う、うん、そうだね」
せつなの言葉でその場にいた全員がスマホの電源を切る。万一にも録音などしてしまった場合には身内とは言え罰せられかねない。
(……でも、大丈夫だよね……?悪戯か何かだよね……?)
鼓動に不安を乗せながら翼が胸を押さえると、照明が消える。そして、メタルの重低音が響き渡り始めた。
体育館のステージにだけ照明がつき、怜悧と歌音の姿が映し出される。沸き立つ客席。それを受けながら歌音がその手で持ったスティックでドラムを叩きまくる。憎悪の類いは一切見えない完璧な演奏に正輝は視線と心を奪われた。
(完璧な体幹だ。全身義体がどういうものか分からないけど、あそこまで完璧に扱うとなるとかなりの努力が必要なはずだ。あいつ、本当にすごいんだな)
正輝の目はまっすぐ歌音にだけ注がれていた。
やがて、怜悧がギターをかき鳴らしながら歌い始める。日常生活において軽い鼻歌とかなら正輝でも聞いたことがあるがちゃんとした歌となると昔小学生くらいの時に家族でカラオケに行った時以来かも知れない。
(姉さん、いつの間にこんなに歌がうまくなったんだ……?家ではガサツぽいけど、こうしてみると……いやいや、昨日の今日で少し頭がおかしくなってるな)
しかし、いつしか正輝達の心は二人が奏でる曲に鷲づかみにされていた。怜悧と歌音、そして正輝達の間は今間違いなく繋がっていた。
ここが怜悧が魂を燃やす場所なんだと、誰もが思っていた。
だから、その瞬間が来るとは欠片たりとも思っていなかった。
一曲目が終わり、
「みんなー!!盛り上がってるー!?」
怜悧が自己紹介のマイクパフォーマンスを始めた瞬間。
「あれが甲斐怜悧か!」
「本当に日本に戻ってきていたのか!」
「いつの間に日本に!?」
たくさんのカメラの音、この場に似つかわしくない男達の声。振り向けば体育館のドアから多くのマスコミが押し寄せてきた。
まだ、その来襲に気付いていないものも多い。
「スクープだ!あの甲斐機関の娘が日本に来ていたなんて!」
「今すぐ生放送だ!」
「いや、情報は裏ギルドに売るぞ!」
やがて、下卑た声に気付く客席が多くなり、
「……え?」
ステージの上にいる怜悧とマスコミ達の視線が合った。
「甲斐廉の娘がいるぞ!!」
「テロリストの娘だ!!」
「バンドごっこに似せた会合だな!?ゲスめ!!」
「くたばれ魔女が!」
やがて、空き缶などがステージに向かって放たれ、怜悧の頬をかすめる。
「……っ!」
頬に刻まれた赤い一線。しかしやがて視界の全てが赤く染まった。
「え……?」
怜悧が見たのは客席の中央。そこに座っていた帽子を目深に被った人影が、突然炎に弾けた。やがて、鼓膜が破れんばかりの爆音が轟き、視界が炎に潰される。
「な、何が起きた……!?」
正輝が起き上がる。分かるのは突然の爆音……と言うか爆発だ。一瞬だけだが粉々に消し飛ぶ人の形も見えた。演出じゃない。これは、記憶の奥底のどこかでいつか見た爆発テロの瞬間に一致していた。
「て、テロ……!?」
周囲を見渡す。体育館の天井が吹っ飛び、夜空が見える。月のない夜故に体育館内の景色は薄暗いままよく分からない。
「皆!大丈夫か!?」
「……な、なにが……」
「う、ううう……」
「せ、せっちゃん……!」
「わ、わたしは……大丈夫……」
「アリス、せつな、翼、全員無事か!?」
「私は、アリスは大丈夫です!」
「わ、わたしも大丈夫……」
「僕も平気、正輝は!?」
「俺も何とか……」
痛む腰を押さえながら正輝はせつな達の傍に寄る。
「何があったんだ……!?」
「分かりません……まだ目もよく見えませんし……」
「……姉さんは……!?」
せつながステージの方を見るが、暗闇でよく見えない。正輝も見るが、人影は見えなかった。何より周囲のざわめきで気配がよく分からない。
「正輝……」
「どうした翼!?」
「……実はさっき、SNSで……」
「……何があった?」
「……か、甲斐廉の娘がここでライブをやる噂が流れてたの……!」
「何だって!?」
正輝も先ほどわずかに聞こえた。マスコミのような輩の下卑た声。
「まさか嗅ぎつけたマスコミによるテロ……!?」
「どうしよう……正輝……」
「お、落ち着け……!今は混乱した方がまずい……!」
正輝は言うが、既に暗闇の客席では混乱が渦巻いている。
「痛いよ!!助けてくれええええ!!」
「足が……足がないんだよおおおお!!!」
「血が……血が止まらない……っ!」
「何かが降ってきて……ぎゃあああああああああああ!!」
大きな音。それは天井についていた照明だった。先ほどの爆発でも辛うじて落ちずに止まっていた照明が客席に落ちたのだ。ちょうど真下にいた客は頭から直撃を受けて……。
「……み、見るな!!」
少しだけ暗闇に目が慣れてきた正輝はせつな達の前に立った。
「ま、正輝様……!?」
「……早くここを離れよう……」
「けど、正輝……姉さん達は……」
「そ、それは……」
「……僕が見てくる!」
「翼!?ま、待て!」
正輝の制止を無視して翼が走り出す。混乱の直中に蠢く人々の合間をうまい具合にすり抜けてあっという間に翼は暗闇の中に消えていった。
「翼!!」
正輝は追いかけようとして、しかしその裾をせつなに捕まれていることに気付いた。
「ま、まさき……」
「せつな……!」
(ど、どうする……!?せつなを置いて翼を追うのか……!?けど、俺の直感が言ってる……この夜はまだ安全に終わってくれない……!!)
「正輝様、せつな様は私が……!」
「……分かった。なるだけ安全にいてくれ!!」
「正輝……!!」
正輝はせつなの手を振りほどいて暗闇の中に消えていった。せつながわずかに見えた正輝の背中は既になくなっていた。
(僕のせいだ……!)
翼は走る。体育館ステージまでの道は何となく覚えている。人混みの中で暗くてもまっすぐたどり着けるはずだ。
(僕のせいだ……。さっき本当は見ていたのに……控え室でお姉ちゃん達に言えばよかったのに……勝手に悪戯かもって判断して……お姉ちゃん……お姉ちゃん……お姉ちゃん……!!)
客席からステージ内部に通じる狭い出入り口にたどり着いた翼が手探りで中を進んでいく。ここから先は完全に未知の領域だ。が、外から見た感じではあまり複雑ではないだろう。たとえほとんど見えない暗闇の中でも人の気配があればまっすぐそこに行けるはず。
「……っ!」
しかし翼はそこで足を止めた。軽く風を通す程度しか開けない小さな窓があった。たまたま近くの街灯からのわずかな明かりが窓から注ぐそこに、首のない少女の肉体が転がっていた。
「……あ……あ……」
見覚えのある体にこみ上げてくる何か。否定したいのに否定できない何かが激しく脳を揺さぶる。
「おごぼええええ!!!」
思わずその場に崩れ落ちて嘔吐した。暗闇の中、生臭い匂いが生まれる。
「はあ……はあ……はあ……!!」
荒く鳴り続ける呼吸を押さえようとして加速する胸の痛みに翼がふと正面を見た時だ。
「……」
窓から漏れるわずかな明かりに照らされて2メートルほどの巨体がそこにはあった。人ならざる姿。ロボットというのも烏滸がましい異形。
「あ……あ……」
逃げようとする翼は、しかし腰が抜けている事実に気付かない。ただ先ほど聞いた歌音の重低音のごとき足音で迫り来る巨体をその瞳に入れることしか出来ない。
「……見たな」
「!」
野太い声。やがて太い腕が翼の頭を鷲づかみにして彼女の体を持ち上げる。
「うううううううううう!!!」
体験したことのない尋常ではない力が頭から翼を蹂躙する。いつ頭が砕けてもおかしくない力。
「……ちょうどいい。月のない夜にこの国の姫が死ぬ」
「!」
「誰かも分からない、暗闇の地獄の中で……!!」
翼を掴む手により強い力が込められ、頭蓋骨が変形し掛かった時。
「そこまでだ!!」
「!」
正輝の跳び蹴りが巨体の左側頭部にたたき込まれ、翼が地面に落ちる。
「ま、正輝!!」
「翼!大丈夫か!?」
震える翼の体を抱きしめ、正輝は倒れた巨体を見る。
「この感覚……あの時の剣道着か……!!」
「…………」
巨体は何も言わずに立ち上がる。足の感覚から実際に相手が素顔を晒しているわけではなく何かを装着していることは分かった。そして、たとえ見えない状態でも対峙すればただでは済まない実力差も感じている。
(こいつ、何でここにいる……!?何か仕組まれたのか……!?にしても状況が悪すぎる……!!)
正輝が翼を庇いながら身構え、見えない敵との距離を測る。
「……!!」
やがて、巨体が動く気配がした。同時に正輝の体が宙を舞う。
「ごばああっ!!」
「正輝!!」
壁に勢いよく叩き付けられ、吐血する正輝の姿をわずかに翼は見た。
(……ま、まずい……肺に来た……)
視界が歪むのは暗闇のせいではないだろう。手足に力が入らないのは昨夜のせいではないだろう。
(こ、こいつ……今度は本気だ……本気で俺を殺しに来ている……)
恐怖と激痛とが正輝を襲う。冷たい床に倒れたまま正輝の体は動かない。視線だけはと、巨体を見据える正輝だが、やがてそれが小さな背中に塞がれた。
「正輝は殺させない……!!」
「つ……ば……さ、」
「殺すなら僕も殺せ!!」
「に、にげろ……つ、翼……!!」
手足に力を込める。恐怖を怒りで塗りつぶす。痛みをそのままに正輝がゆっくりと立ち上がろうとして、
「!」
眼前の翼が宙を舞った。
「翼!!!!」
「!」
跳躍は一瞬だった。正輝は今まで経験したことのない速度で相手の左側面に回り込み、その顔面に全体重をかけた両足で跳び蹴りをたたき込む。
「っ!!」
その顔面を足場に再び跳躍し、暗闇の中宙を舞う翼へと手を伸ばす。
「翼!」
その腕に翼を抱き留めた。だが、
「……」
「つば、さ……?」
唇を重ねるほど近づいた距離の中で正輝は翼の瞳に自分が映っていない事に気付いた。
同時にフラッシュバックするあの時の明美の顔。その手を伸ばし、胸に抱き留めることが間に合わなかった近しい少女の最後の顔。
「翼……」
着地。暗闇に目が慣れた正輝はその顔から目を離せなかった。よく見たら彼女の頭からは血が流れていた。
「あああ、ううううう、あああああああああああああああ!!!!!」
目の前の景色と脳裏の景色が重なり、点滅する。
自分の心臓を分け合おうとするかの如く、冷たくなっていく体を全力で抱きしめる。体を重ねる。それでも動いたのは背後の巨体だった。
「お前……!!」
かつてない憎悪の表情で正輝は暗闇の中を見やった。わずかに零れた明かりの中で、異形の素顔を見た。
「…………」
「……おま、え……」
「君がいけないんだよ、弟君」
直後、人間の限界を遙かに超えた一撃が正輝を貫いた。
やがて、救急隊と警察が駆けつけた。規模が規模だけに人数も人数だった。
「既に死亡が確認された者、約17名。重傷者は約50名。軽傷は無数!また、爆発の痕跡があり、少なくとも4名は遺体の一部のみ発見……!!」
ある程度状況が進み、現場の責任者が無線に対して報告を済ませた。
「……」
その地獄のような光景を瑠璃色の空の下で結羽と雷歌が見ていた。
「……どうして、私達はいつも間に合わないんだろう……」
「……」
「天使なのに、どうして……どうして誰も救えないのかな……」
「……」
「誰か……教えてよ……」
結羽の涙に雷歌は最後まで何も言えなかった。
明け方。病院。手術を終えた何名かが病室に運ばれていく。
「…………う、」
正輝が目を開けると、知らない天井だった。
「正輝……!!」
すぐにせつなの顔が見える。
「せつな……」
「正輝……よかった……よかった……!!」
「せ、せつな様。今は押さえてください、正輝様が危ないです……!」
「アリスもいるのか……」
上体を起こそうとして、しかしほとんど体が動かない。痛みはなく、どうやら固定されているようだ。
「俺は……」
「ひどい衝撃で内臓のいくつかが破裂してたり、骨が折れていたりで何時間も手術してたんですよ……!!一命を取り留めたのが奇跡だって先生が……!!」
「…………つ、」
「正輝様?」
「…………翼は?」
「…………翼様は、」
「無事だよ」
「姉さん……」
新たな声。それは紛れもなく姉のもの。
「一度心肺停止していたけど、奇跡的に息を吹き返したって。まだ手術は続いてるけど、生きてる」
「…………よかった……」
「正輝。あんた、何を見たの?何を知ってるの?」
「……歌音は?」
「…………行方が分からない。爆発があってすぐにステージは崩落。私は地下のマット置き場の上に落ちたから気絶だけで済んだけど。歌音は見つからなかったって……」
「……」
「……正輝、まさか……」
「どこまでがそうかは分からない……けど、俺と翼をやったのは歌音だった……」
「…………!」
「いつかの剣道着の不審者もあいつだったんだ……あいつは、首をロボットに差し替えられる……!!本気で俺や翼を殺そうとしていた……けど、泣いていた……」
「…………」
「姉さん…………あいつを頼む」
そこで正輝の意識は再び途絶えた。
「正輝!」
せつなが震えながらその手を掴む。アリスはせつなと怜悧の顔を見比べるばかり。
「正輝さん!!」
病室へ赤羽がやってきた。
「怜悧さん、正輝さんは……!?」
「……さっき目が覚めました。けど、今はまた寝ています」
「だ、大丈夫なんですか……!?」
「療養していれば……すぐによくなりますよ」
「……怜悧さん……?」
「美咲さん。後はよろしくお願いします」
「……どちらへ?」
「……わたしは、私は家族のために闘ってきます」
赤羽に振り向いた怜悧の表情はひどく険しかった。
朝陽が上り始めた。とある一軒家。表札には馬場の文字。
「……」
歌音は少しだけ仮眠を取り、彼女の来訪を気配で悟り、目を覚ます。
「……来たんだ」
寝室を出ると同時、玄関のドアが吹き飛ばされ、壁に突き刺さるのを目にした。
「……近所迷惑だよ、怜悧」
「大丈夫だよ。今からこの家、事故物件になるから」
朝陽を背に、怜悧が立っていた。
「……怖いな」
歌音が小さく笑う。次の瞬間、怜悧の拳が歌音の左顔面にぶち込まれる。
「っ!」
前歯は砕け、その細い体は宙を舞い、壁に叩き付けられる。
「どうしたの?歌音、本気の用意をしたらどうなの?私の弟や妹を殺そうとした時みたいに」
流血でその顔は見えなかった。
「……そっか。翼ちゃんも生きてるんだ……」
赤く染まる視界の中、歌音は立ち上がり、再び左の頭を拳でぶん殴られる。
「くっ!!」
「痛みを感じる振りがうまいね。首を差し替えられるみたいだし、まるでおもちゃみたい」
蹴足が左膝の関節を一撃で粉砕する。
「ぐううっ!!」
「今のでもう立てなくなるの?へえ、人間の真似がうまくなったんだね」
「れ、いり……」
声を出すその喉を片手で掴みあげてその体を再び壁に叩き付ける。
「ごぶふっ!!!」
吐血。わずかな生身の血液が吐き出されて足下を染める。
「何このオイル、本物の血液みたい……そんなわけないのにね」
拳。蹴り。投げ。絞め。吐血吐血吐血吐血。
「私ね、自分が甲斐怜悧じゃなくてもいいって思ってた時があるの」
指をちぎり、頬を引きちぎり、舌を引きちぎり、耳を裂く。
「お父さん達が私達を守るため。そこに愛情は感じられたから。最初はすごく悔しかった。お父さん達に捨てられたと思ったから。そして、私じゃない甲斐怜悧があの人達の傍にいたから」
膝から下を蹴り飛ばし、大腿骨を引き抜いて掌に突き刺す。肩から骨の一部が突き抜ける。
「でも、画面越しに見るあの人達の顔が本当に申し訳なさそうにしてて、そして、そこに映る甲斐怜悧がすごく幸せそうで、いつしか私は私になるために甲斐怜悧との対話を始めたの」
腹筋を指で貫き、肋骨を掴んでへし折っては剥ぎ取る。剥ぎ取る。剥ぎ取る。握り砕く。
「分かるよ?怜悧のこと。本当は甲斐怜悧じゃなくて、あの人達の傍にいられなくなって、捨てられたんじゃないかって。……だから、私のところに来た。でも、あなたは長い間甲斐怜悧だった。今更馬場歌音寺になんてなれないよね?だから正輝やせつな、翼に近づいた。他人になろうとしている人をいつも見ている家族に近づいて学習しようとしたんだ。唯一残ったこの右目で見て」
涙と血液と理解できない何かで汚れた右目に怜悧の顔が映る。
「昨日……もう一昨日かな?正輝に興味を持ったんでしょ?あの子が見る甲斐怜悧になりたくて。あの子は真実を知りながらあなたを最初から最後まで馬場歌音寺としてしか見ていなかったのにね」
左乳房をつかみ、引きちぎる。外気に心臓が触れる。恐怖と歓喜に鼓動が波打つ。
「でももうあなたは甲斐怜悧にも馬場歌音寺にもなれない。……なりたい?でももう駄目。あなたはあなた自身の手でもう誰にもなりすませなくなっちゃったんだから」
へそを貫き、引き裂き、わずかに膨らむ子宮が外気に触れる。
「……やっぱり強制着床薬を使ってる。それに急速成長薬も使ってるのかな?このままだと一ヶ月くらいで生まれるね。この世の誰でもない女の子供が」
心臓と子宮を舌でなめる。恐怖とエトセトラに震えるそれぞれが舌の上と歯の下に挟まれて悶える。
「私、甲斐怜悧じゃなくてもいいって思ってた。どうせ私の情熱なんて孤独なんてくだらない。お父さん達のやりたいことの方が正しいし、画面に映る甲斐怜悧が笑ってくれているなら、弟や妹達がそこにいてくれるならそれでいいと思ってた。うん。本当にそれでいいんだよ。誰になれなくてもいい。私の行為は全て偽善未満の独善。勝手に誰かに私を変えてくれって期待して勝手に失望して周りに愛情を振りまくようなことしちゃってさ。それで何がお姉ちゃんって感じだよね。ただ先に生まれたって言うだけでお姉ちゃんだなんて。もしかしたら私だけがおかしいのかなって、もし私じゃなくて正輝やせつなが先に生まれてたらこんなことにはならなかったのかも知れない。あの二人ならちゃんと正しく生きて正しく育つ。私なんかの背中を負うことなくちゃんと自分だけの人生を歩んでくれる。そう思うのもお姉ちゃんって名前の勝手な期待なのかもね。私が知ってる甲斐怜悧って女はそう言う汚らしい女のことを言うんだ。勝手に期待して失望して絶望して暴力で周囲を不快にして、優しい振りをして興味ある振りをして心を持ってる振りをしていろんな趣味に情熱を注いでる振りをして、人間の振りをして……そう、人間の振り、人間の振り、人間の振りをしているんだよ。この人はいいなって他の人間を汚らわしく眺めて真似してみて、誰かになりすます……それが私の知る甲斐怜悧。この世で最も憎いと思ってる悪魔の名前。……ふふ、でも私に出来ないことをしたんだね。えらいよ、あなたは。ほら、見て。あなたの子宮。ちゃんと命を持ってる。私にはとても真似できない。私が誰かの親になるなんて夢でさえ見た事なんてないもの。しかもあの正輝とだなんてね。近親相姦以前に私には敷居が高すぎるよ。喜んでいいんだよ?人間の振りをして無様に喜んでいい。あなたは、甲斐怜悧に出来ないことが出来た。それだけで、ほら?わーいわーいって喜んでいいんだよ。……ふふふ、心臓が喜んで震えてるね。ごめんね、気がつかなくて。子宮も嬉しくって震えてるね。あ、そっか。もう右目しかないんだっけ。思い切り殴っちゃったもんね。蹴っちゃったもんね。ごめんね、どこかの誰かさん」
やがて、月日が経った。
進化した技術により正輝も翼もすぐに元の元気な姿に戻り、復学した。何も変わらない学生生活の中へと戻る。「あ、弟君、翼ちゃんもおはよう!」
その中には馬場歌音寺の姿もあった。正輝達より先に学生生活に戻っていた。ほとんどの生徒が彼女は転校生であることを忘れていた。それだけ既にこの学校に溶け込んでいた。
正輝も翼も知らない間に文化祭の出し物を選出するリーダー格となってクラスの皆を引っ張っていた。正輝がいない間に代わりに学級委員長として皆をまとめていた。来年度の生徒会会長も十分狙える最良の生徒として誰もが彼女の顔を思い描いていた。
「……」
正輝と翼がその中にはいない。この二人だけがこの馬場歌音寺は偽物であると、本人の姿と記憶だけを引き継いだロボットであると知っていたからだ。そして、このロボットである馬場歌音寺が見た景色は全て本物の歌音にリアルタイムで送信されている。
「姉さん、やり過ぎじゃないのか?」
ある日の放課後。たまたま帰り道で一緒になった怜悧に恐る恐る問うてみた。
「でもあの子の場合、警察じゃ対処できないでしょ?私達のことも話さないといけなくなるかもだし」
「だからってこんな私刑にも程があるような仕打ち……」
「大丈夫だよ。私の知ってる甲斐怜悧はこんな程度じゃ挫けたりしないから」
「は、はあ?」
「それに流石にそろそろ可哀想だから戻してあげようとも思ってる。あのロボットからは歌音の情報は送られてこないけど、あのロボットにはデータとして歌音が日々どんな感情を思っているかが分かるようになってるから。限界になる少し後くらいで戻してあげようって思ってたの。今度の休みの日にでも助けてあげるよ」
怜悧はニコリと笑った。
同時刻。紅葉舞う公園で、一台の廃品回収車が一仕事を終えていた。妊娠が可能な悪趣味なダッチワイフが不法投棄されていると言う連絡を受けてその回収をしていたのだ。
「人間かと思ったら人形か。げっ、妊娠してる……いや、そういう風に見せてるだけか。気持ち悪いな」
業者はその人形を回収し、工場へと戻ると無造作にその人形をプレス機に投げ込んだ。粉々になった金属達の中で確かな命だった肉片がわずかな間蠢いていた。