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D.C.IN Mygarnet3章「あしたを許して」後半

・最初の景色は今でも覚えている。もう炎の中に消えたあの立派な本社ビルのソファでうたた寝をしていた時の話だ。
「怜悧ちゃん、おねむかな?」
高校生くらいの少女の膝の上で眠たい目を上下させる様は幼きお姫様と言ったところか。
「ねえ死神さん。キーちゃん」
「そうだな、久遠。怜悧も最近一人で歩けるようになって嬉しいんだろうな」
「久遠ちゃんが面倒見てくれてるから安心だよね」
少し離れて仕事をする両親。多忙の隙間に我が子を見る顔はまさに幸せと言った表情だ。
「甲斐さん、キーちゃんさん。お荷物が届きました」
そこへやってくる別の少女。
「ありがとう、火咲ちゃん」
「甲斐さん?私はもう赤羽美咲ですよ?」
「あ、そうだったな……まだ慣れないな」
「僕としては最初から赤羽ちゃんだったから逆にその火咲ちゃんってのが慣れないんだけど?」
「久遠ちゃんもちょっとまだ慣れないかな。火咲ちゃんが美咲ちゃんになったなんて」
「戻っただけです。私としてはやはりこっちの方が……。あ、怜悧ちゃん。おねむですか?」
「みたいだな。まあ、ちょっと起きてる感じか?」
「久遠。起こしちゃ駄目ですよ?」
「分かってるって。ふふ、久遠ちゃんのお膝の上でウトウトしちゃって。ホント可愛いよね」
「怜悧ちゃんはやっぱり将来甲斐機関の社長さんになるんでしょうか?」
「まあ、怜悧がそれを望むならいいと思う。でも、」
「僕達は怜悧がやりたいことをやってくれればいいと思ってるんだ。それに、」
キーちゃんは少し大きくなった腹部をさする。
「この子ともよく相談してやりたいことをやって欲しいんだ」
「そろそろ三ヶ月ですね、正輝君」
「うん。怜悧もお姉ちゃんになるんだね」
「だってさ。怜悧ちゃん」
久遠に撫でられた幼い怜悧はついに目を閉じて眠りの世界に旅立つ。
それを見守る4人の笑顔。それが甲斐怜悧の最初にして一番幸せな記憶。
やがて。

「偽物の家族を用意する!?」
「そうだ。もうそれしか方法がない」
「あ、杏奈さんを妻役にしてまでですか!?キーちゃんはそれでいいんですか!?」
「僕は……廉君を止められないよ。本当は家族でずっと一緒に暮らしたい。でも、お義父さん達みたいなことはもう……」
「……じゃ、じゃあ、子供はどうするんですか!?怜悧ちゃんは!?正輝君は!?」
「怜悧はともかく正輝はまだ公表されていない。どこかから適当に孤児を拾ってくるさ」
「で、でも……」
「赤羽。怜悧や正輝を頼む。キーちゃんも顔が知られているんだ。一緒には暮らせない」
「……そんな……」
「……」
「久遠?どうした?」
「ううん。何でもない」

夜。
「久遠、お前自分が何を言ってるのか分かってるのか……!?」
「分かってるよ。この前の怪我で久遠ちゃんはもう永くない。死神さんと杏奈ちゃんは好き合ってるわけじゃないでしょ?でも、久遠ちゃんとなら……影武者の子供を作れる。大丈夫だよ。赤ちゃん産まれるまではなんとしてでも生きてみせるから」
「そんな……俺はお前をそんな目で見た覚えはない!捨て駒になんてそんな……!!」
「久遠ちゃんは……私は、死神さんのこと好きだよ?まだ16歳だけど、それでも、生きた証が欲しいんだ。最後に死神さんの役に立ちたいんだ」
「久遠……」
「この役目は杏奈ちゃんにも美咲ちゃんにも出来ない。あの二人には遠慮があるから。だから、私がやるんだ。死神さんなら生まれた子供のことを私と同じように優しくしてくれるって分かってるから。だからね、久遠ちゃんと最初で最後のえっち、しよ?」

数ヶ月後。
「……本当に生まれてきてくれたんだね」
ベッドの上で久遠は我が子を抱きしめた。それを見つめるものは甲斐と赤羽と杏奈だけ。
「久遠……」
「もう……美咲ちゃん。そんな泣かないで……ね?」
「でも……でも、でも……!!」
「杏奈ちゃん……この子のことお願いね……」
「久遠ちゃん……本当にごめんなさい……!!」
「謝らないで……。久遠ちゃんがやりたかったことなんだから……」
「でも……!」
「でもじゃないよ。美咲ちゃんも杏奈ちゃんも……そんなに泣かないで。久遠ちゃんは、もう、駄目そうだから……二人に託したいんだ。……歌音ちゃんのことを。死神さんのことを」
「……久遠、」
「美咲ちゃん……もし、また会えたらだけど……あっちの美咲ちゃんにもよろしく伝えておいてね……」
「……はい、必ず……」
「杏奈ちゃん……歌音ちゃんのこと、お願いね」
「……うん。絶対に優しい子に育てるから……!」
「死神さん……」
「久遠……」
「わたし、幸せだったよ……死神さんと出会って、空手の楽しさ教えてもらって……美咲ちゃん達とも出会って……こうして、死ぬしかない私に赤ちゃんが出来て……だから、自分の幸せもちゃんと見つけてね……?お願いだよ……廉さん」
そうして生まれたばかりの我が子を抱きながら彼女の短い人生は終わってしまった。

それからしばらくして、小学生になった頃の怜悧に父親からのビデオレターが来た。
「再生しますね」
まだ幼い正輝を抱きながら赤羽が通信を接続して映像を再生する。定期的に送られてくるそれが今日は少し違うと知りながら。
「あ、お父さん!」
怜悧が出てきた映像に反応すると、
「おんなのこ?」
父親は見たことない幼い少女を抱いていた。
父親が何を言っているのかはよく分からないがビデオに映っている少女の名前は甲斐怜悧と言うらしい。
「……わたしと同じ名前?」
まだ当時の怜悧は影武者のことを知らない。しかし、違和感はあった。やがて年月が進むほどに赤羽や達真の表情、テレビからの情報によりあの少女が自分の影武者として甲斐廉の娘としてメディアに出ていることを理解し始めた。
理解が進むほどに怜悧の中にモヤモヤが出来た。
「ねえ美咲さん。何であの子がお父さんのところにいるの?お母さんはどこなの?」
「……あなたのお父様はあなたや正輝さん、せつなさんを守るために今遠いところでお仕事をしているのです。あの子は、あなたの代わりに甲斐怜悧をやっている子なんです。……でも、あの子はそれを知りません」
「……」
突発的な怒りというのは今までも経験があった。でも、心の底からの怒りは初めてだった。冷静になることなんて出来ず、怜悧はテーブルを破壊した。
「何で、何で!!何で!!!」
「怜悧さん……!」
赤羽が止めるのも構わず怜悧は暴れ続けた。が、正輝やせつなが泣き始めたのを機に怜悧はやっと冷静さを取り戻した。
「そうか、怜悧が……」
その夜。赤羽は甲斐と連絡を取った。
「はい……。やはり、無理があったのではないですか……?」
「……とは言え俺にすれば怜悧も歌音も大切な娘だ。今更この生活を変えるわけにはいかない。赤羽もつらいかも知れないが、怜悧達を頼む」
「……分かりました」
それから。

ある日、小学校から呼び出しの連絡を受けた赤羽が出来るだけ年齢相応に見えるように外見を整えてから向かう。担任からの電話で、怜悧がクラスメイトと喧嘩して窓ガラスを破壊したとのことだ。
「申し訳ございません!」
職員室で赤羽が頭を下げる。
「あの、領収証をいただければ私の方で弁償いたしますので……」
「あ、いえ。しかし、その、本当に怜悧ちゃんの保護者の方なんですか?」
「はい……。彼女のご両親は現在お仕事の都合で家を長期にわたって留守にしていますので……私がその間の保護者を任されています」
「失礼ですがおいくつでしょうか?」
「に、25歳です」
「25歳……」
担任だけでない何人かの職員が赤羽を見やる。格好こそスーツを着ているが外見だけで言えば中学生程度にしか見えないので疑いの視線を持つのも無理はない。
「と、とりあえずこれが領収証となります」
「申し訳ございません……!!」
再度頭を下げる赤羽。それを廊下から怜悧が見ていた。

「何で……何でよ……何で美咲さんが……」
早退した怜悧が家のソファで体育座りをして身を縮めている。
「どうして……!?どうして私が怒られるの!?どうして美咲さんが謝らなきゃいけないの?どうしてあの子が、怜悧が怜悧なの………!?」
近くでままごとをしている正輝とせつな、翼が何か言いたそうにしているが何も返せない。理解できない年齢なのだから仕方がない。
それは分かっていても怜悧にまた怒りが漲る。買い直されたばかりのテーブルをまた破壊しそうになって、しかし、拳を納める。代わりにテレビの電源を付けた。ちょうど甲斐機関に関してのニュースが流れていた。
そこには父の姿と、自分の影武者であるあの少女の姿が映っていた。
「どうして、怜悧が……」
涙で歪む視界の中で自分と同じ名前の別の少女が幸せそうに自分の父親と並んで歩く姿が思考を停止させる。
「どうして……どうして、いいんだ……どうして、どうして怜悧が……怜悧……怜悧……」

やがて、数年ぶりに父親が日本にやってきた。見たこともない幼い少女を連れて。
「また、拾いものか?」
出迎えた達真が視線を鋭くさせる。
「そう言うな。この子は火村小雪という。海外のとある村で災害に遭って一人のところを保護した。赤羽、矢尻。この子のことも頼む」
「甲斐さん……あなたのやっていることは正しいのかも知れません。でも、やっぱり引き返すことは出来ないんですか?歌音さんの映像を見るたびに怜悧さんがどんな顔をしているか分かりますか?何回も何回も癇癪を起こして学校でもそろそろ限界だって……」
「……すまない。赤羽には本当に迷惑をかけていると思っている。けど、今アジアで一番義体の技術に優れていて大規模な工場を持てるのは甲斐機関だけなんだ。小雪だけじゃない。何人もの子供達が親を失い、体を壊し、彷徨って、死んでしまう。あの頃の俺達のように拾ってくれる学校も存在しない」
「……だけど!」
「だけど、先輩。今のあんたのやり方よりかはまだ先代の方が温情だぞ。多忙とは言え子供達をちゃんと傍に置いている。危険度は違うかも知れないし、実子であるあんたを置いてけぼりにしていたって言う違いはあるがそれでもあんたの妹達は寂しい思いはしていなかった。あんたのやろうとしていることは正しいかも知れないが、やり方に関してはもう少し考え直した方がいいんじゃないのか?」
「……俺には他にやり方なんて思いつかないよ。矢尻、引き続きお前の口座には資金を送っておく」
「……一介の道場主宛とは思えない額を毎月出してくれるのはありがたいと思ってる。それで怜悧が壊したものとかを弁償できる。けど、子供に必要なのは金なんかじゃないだろう……!」
「……すまない」

年下が増えた。毎日のように癇癪を起こす怜悧に悩みの種が増えた。
アリスと名付けられた少女。詳しい事情は知らないが正輝達よりもさらに年下。怜悧からすれば6つも年下になる。ここまで来ればほぼ育児だ。
「はい、アリスさん。ご飯ですよ。あ、正輝さん。おトイレは汚さないで。せつなさん、熊さんのぬいぐるみなら洗濯に出してます」
特に赤羽が忙しそうだった。大変そうな表情は見せずにどこか嬉しそうなのがよく分からない。
「……美咲さん」
「怜悧さん?どうしました?あ、今度の授業参観なら私と達真で行く予定なので」
「そうじゃなくて、私にも出来ることないかなって……」
「怜悧さん……。ありがとうございます。では、アリスさんにご飯をお願いします。私はおトイレの掃除をしてきますので」
「はい」
それから何故かイライラした時には赤羽の手伝いをして弟妹達の世話を見ていた。そして一息つく時にビデオチャットの相手と会話をする。そんな小学校生活。いつの間にかもう一人の甲斐怜悧との会話が楽しみになってきた。
テレビの映像を見る。実際にチャットで本人と会話をする。少しだけだけど父親とも会話をする。
(あの子が甲斐怜悧でいいんだ。あの子こそが本当の甲斐怜悧……)
やがて怜悧はその名前以外は自分自身を諦めた。家族のために。

怜悧が学校に戻ってから一週間が経過した。
「行ってきます」
怜悧、正輝、せつなが一斉に家を出て学校に向かう。
「行ってらっしゃい」
甲斐と赤羽がそれを眺めてわずかに声色を震わせる。
「こんな日が来るとはな」
リビングに戻り、甲斐が安堵の息を吐く。
結局あれから精神科医に怜悧を見てもらったが本格的なところは分からなかった。
甲斐は既に怜悧が治っているのではないかと感じているが、正輝とせつなは違うようだ。
「まだ解決したわけではありませんよ。私にも怜悧さんはどこかおかしいと思います」
「やっぱりそうか……。実の父親の俺だけが分からないのかな」
「廉君もやっと元の生活が出来るようになったのにね」
キッチン。そこには甲斐の妻である三咲がいた。夫に呼ばれて急いで戻ってきたのだ。
「キーちゃんの目にもやっぱり怜悧は……?」
「うん……。やっぱりどこかおかしいと思う。無理しているともまた何か違う」
「……そっかあ」
紅茶を飲みながら、
(あの竹刀を向けてきた時。あの時の怜悧の目が俺にはまだ分からない。あれがヒントなんじゃないかと思ってる。折れた竹刀で俺を睨んだあの瞬間。あの目は何なんだ?)
「廉君?」
「いや、何でもないよ。とりあえずしばらくは黒主零とかって名前で仕事でもするかな」
「怒られますよ?」
赤羽がため息。
「私にもよく分かっていませんが、あっちの私達はあなたにその名前で活動させないために必死で動いていた訳なんですから」
「……けど少しだけジェラシーだな。あっちの俺は何でもかんでも変えられる力があった。それがないのが悔しいよ……」
甲斐は義足のズボンを握りしめた。

剣道場。いよいよ3年生最後の大会まで一週間を切った日だ。
「……」
小翠が男子更衣室にいる。小翠が何をいうでもなく男子達はさっさと着替えて出て行ってしまっている。
(……大会出場選手を今日発表しなければならない。俺は前提として問題は怜悧。確かに会話が出来る状態ではあるし、元通りの腕前を取り戻してもいる。……けれど、)
着替えを終えて更衣室を出ると、
「小翠」
「怜悧」
女子更衣室から怜悧が出てきた。
「……正直まだあんたが男子更衣室から出てくるの慣れないわ」
「何言ってるんですか?俺は男ですよ」
「……そう言い張るんだったらせめて胸くらい改造しなさい。私より大きいじゃない」
「俺だってこんなものちぎりたいくらいです。女子のそれならともかく俺自身についてても気持ちが悪いだけ。俺は怜悧くらいのちょうどタイプですよ」
「うわ、セクハラ。大体私は……」
「怜悧?」
「……私の予約はもう締め切ってるから」
「ほほう、彼氏でも出来たって事ですか?」
「そんなんじゃないわよ」
剣道場までの道のりをいつも通りの会話で過ごす二人。小翠の目はたまに怜悧の目を追うが、
(……俺の目でも違和感を感じるくらいしか出来ない。正輝君達に頼るしかないですかね)
「で、一応確認するけど、私今度の大会出ていいんだよね?」
「まあ、確かに俺に次ぐ実力を取り戻しています。資格はあるんじゃないですか?」
「ならいいけど、」
「……ただ、俺は全力の怜悧と戦ってみたいですけどね」
「はぁ?いつも全力でやってるじゃない。それでボコボコにされてるんだから」
「出来ればもう一度俺に一本入れるくらいは見せて欲しいです」
「もう一度?」
「……ええ、あの時のように」
「…………」
怜悧は何も言わない。
(……記憶にあるのかも分からない。言葉すら失って俺と戦ったあの朝。真剣だったら俺が殺されていた。それに怜悧は確かに喜びのような、やりきった表情をしていた。一体誰を仮想敵にしていた?何故?)
「小翠?」
「何でもありませんよ。さあ、今日の稽古を始めましょう」
そうして二人は剣道場に入った。
それからいつも通り大会前の試合が多めの稽古が始まった。いつも通り怜悧は小翠以外には無敗を貫いた。
「では、今度の日曜日。言うまでもなく俺達の目標である大会が行われます。参加メンバーは遅刻することなく!」
小翠によって稽古が締められる。当然小翠も怜悧も出場メンバーだ。
「……」
小翠は怜悧を見る。タオルで汗を拭いながら他の部員と和気藹々と話している。
(まるで以前までの怜悧と同じ。もしや俺の感覚が間違っているだけ?思っていた以上に怜悧の心が強くてもう回復したって事ですか?だとしたら周囲がどうこう言動すべきではない……しかし)
「どうしたのよ小翠。また私にセクハラでもしたいわけ?」
「興味はありますが、先約が入ってるなら仕方ないですからね。俺は日々の怜悧を眺めるだけにしますよ」
「うわ、今度はストーカー?」
他部員と笑い合うその姿は今までも怜悧そのものだった。

電子の世界。現実ではあり得ない。まるで雪のように無数のカードが降る街。
「ここがナイトメアカードの世界」
研護がカードを拾い集める。
「そうね。ヒディエンスマタライヤンによるリセットが行われた後に起きてしまった第三次大戦。その後に来たる聖騎士戦争の幕開けとなった世界」
メナージュはカードに目もくれず研護のやや後ろにいる。
「聖騎士戦争が終わったらライランドの世界が来るんだな」
「ええ。……あなたも私もこのカードを現実で使うことはもう出来ない。精々ゲームの中で楽しみましょう」
「そうだな」
研護が用意された腰の剣を抜く。空から降り注ぐ無数のカード達を除けばそこはまさにテンプレ通りな剣と魔法の世界に違いなかった。
やがてそこでどれほどまでかの時間を注いでログアウトしてくる二人。
時計を見れば真夜中だった。
「思った以上に時間を忘れてたな」
「そうね。生身の肉体がポキポキするわ」
「歳?」
「殴るわよ?」
言いながら二人はカレンダーを見上げた。現在の日付は2016年11月3日。
「……いよいよ11月になってしまったわね」
「そうだな。なあ、ブランチのリセットっていきなり世界が終わるのか?」
「……いいえ。地上の文明を何らかの方法で破壊するのよ。だから突然世界が終わるように感じることもあればもっとパンデミックみたいな形で終わらせに来ることもあるわ」
「やっかいだな」
「……」
メナージュは押し黙り、俯いた。
「メナージュ?どうした?」
「……いずれのやり方にせよ、もうほとんど時間は残っていない。私、もしかしたら間違えたのかも知れない」
「どういうことだ?」
「一ヶ月前。私はあなたをラストの世界から無理矢理引きずり出した。けど、仮にあそこでなら本当にあなたが無事に天寿を全うできると言うのなら、私はあなたを死なせてしまうだけの決断をしてしまったのかも知れない……最近そう思うことがあるのよ」
「……何言ってるんだ。あそこでお前が来てくれたから俺はお前の本当の名前を知ることが出来たんだ。こうして一ヶ月、楽しい生活が送れたんだ。仮にこのまま消滅したって悔いなんてない」
「……私は今までいろいろな人の最期を見てきたわ」
「……」
「何も出来ない自分が嫌だった。何度も何度も繰り返しリセットされていく世界、殺されていく命。それを変えたくて私は魔法を学び、何らかの手段で再び現世に戻って来れた。でも、結局はまた何も出来ない……!!」
震える背中。これまで何度見たか分からない彼女の絶望。研護にはまだ片鱗すら理解できているかも怪しいその意味。ただ、その背中を抱いてやることは出来た。
「俺がいる」
「……」
「たとえまた時空の闇とやらに落ちようとも、俺が一緒にいる。一緒に死んでやる。お前はもう一人じゃないんだ」
「研護……」
「だからさ、一度行ってみようぜ。少しでも望みがあるなら俺はそこに賭けたい。でも、お前がどうしても嫌なら仕方ない。最期の時まで一緒にいてやるだけだ」
「……行くって廉ちゃん達のところに?」
「ああ。どんな理由で世界が滅びるかは分からないけど、生きたいって気持ちが踏みにじられていいわけがないんだ。自分の気持ちを言ってみるだけ言ってみていいと思うんだ」
「……」
「もちろんあの二人を見るのがつらいって言うなら俺ももうこれ以上言わない。けどここまで一緒にいて何となく分かるけど、お前本当に自分がやりたいことほど隠すからさ。誰かにこうして支えて欲しいって言うならそうじゃなきゃ勇気が足りないって言うなら俺がその役目になるから。だから、」
「……プロポーズのつもりかしら?」
「は?いや、おい。今そんな話は……」
メナージュは振り向き、静かにその唇を重ねた。
「……メナージュ……」
「ごめんなさい。本当はこんなことするつもりはなかったの。でも、怖かったの。あの二人に今更会って、忘れられてたらどうしようとか。それでも私が自分を優先して、せっかくあの二人の最後の時間を奪うようなことをしてしまったらどうしようとか。いろいろ考えてしまって……。その、」
「……いいんだぜ。その理由に使っても」
「……研護……」
その目に涙が浮かぶ。それを見た研護は意を決した。
「メナージュ、いや、美夏。俺はまだ美夏のこと全然分かってないかも知れない。でも、一緒にいた時間は確かに嘘じゃない。お前のことが少しは理解できたと思う。だから、使っていいんだ。俺はお前と一緒の未来を歩みたい。たとえこの先、リセットされたとしても。だから、」
拳を握る。
「だから、お前が先に進む勇気がどうしても出ないって言うなら俺を使ってくれて構わない!俺は、これ以上お前のそんな姿を見るのが切なくて仕方がないんだよ……!!浦島太郎みたいに自分が知らない時間が過ぎてしまった気持ち、俺にだって少しだけ理解できるから……!臆病になるのも分かる。周囲の人間に、一緒に時間を進めなかった間にいろいろな経験をした人間に嫉妬をするのも分かるんだ!本当は大好きで仕方がないのに自分の勝手な気持ちでそんな人達を傷つけてしまうかも知れないのが怖いのも……分かるんだよ!!」
「研護……」
「だから、美夏!俺と一緒に、先に進んでくれ……一緒の未来に……一緒に……!!」
「……ありがとう。……これは私の最後の魔法」
「え?」
メナージュの手が光る。そこから光が部屋に伝播した。
「これは……?」
「防音魔法……外に音が漏れないように、ね」
そうしてメナージュは研護を思い切り抱きしめた。
「美夏……?」
「…………っ!嬉しかった。私の名前をまだ呼んでくれる人がいる……こうして一緒の思いを感じて叫んでくれる人がいる……私の、私の弱さを受け止めてくれる人がいる……!いきなり、いきなり変なところに閉じ込められて……私を忘れた人達が幸せになる未来を見るのが嫌だった……その先でまるで私が望んだかのようにあの人達が悲しい未来を進むのを見るのが嫌だった……何度も何度も、新しい世界が出来て、そこに、どこにも私だけがいなくて……廉ちゃんも、三咲ちゃんも一緒にいない……そんな世界ばかりで……、そんな世界も消えてなくなって……もう一度……もう一度あの二人に会いたい……会いたいよ……でも、会っても私は、私は勝手な女だからきっと迷惑をかけてしまう……未来が、未来が変わってしまうかも知れない……!!でも、じゃあ、どうしたらいいのよ!!!また会いたい……でも迷惑もかけたくない……、どっちの思いも本当なのに、どうしたら、どうしたらいいのよ……!!今、どっちも出来る……どっちも出来てしまう……本当ならもっと、もっと早くに会いに行きたかった……今度くらい、私が幸せになる世界が来たっていいじゃない!!!でも、でも、駄目なのよ……こんな、こんなひどい私の勝手で、本当に、本当に幸せそうなあの二人の邪魔なんて出来ない……出来ない……出来ないよ……出来ないんだ……出来ないんだよぉぉぉぉ!!!」
「……」
「お母さん……お父さん……会いたい……別の世界で私じゃない子供を産んで幸せそうな未来を進んでいった。それを見るのが嫌だった、怖かった、会いたかったのに……会いたくないって思って、時にはひどいことだって思ってしまう……誰もいないところで騒いで、本当に身勝手で……身勝手で、情けなくて……そんな、どうしようもないほど大嫌いな自分を、誰かに……誰かに、誰かに慰めて欲しかった!!!」
「……」
「何で、何で、何で私なの!?私が一体何をしたって言うの……!?私の、何が悪かったって言うの!?誰か……教えてよ。だれか、誰か、私を助けてよ……私を救ってよ!!!」
「……ごめんな」
「……え?」
不意に研護の声がきこえた。涙で崩れたメナージュが見上げたその顔は自分と同じだった。
「ごめん……ごめん……ごめん……!!!俺は、俺は、俺には!!!お前を助けられない……お前を救えない……お前の叫びを聞いてやることしか出来ない……!!!どうして……どうして、どうして俺は……俺には、お前を救ってやることが出来ないんだ!!!!」
「けんご……」
「みか……」
言葉は続かなかった。ただどこにも届かない二人の叫びが夜に響いていた。
そして。
「……いいんだな?」
「……お願い、私の未練を全て奪って」
二人はその身を重ねた。これまでとこれからの全てを諦めないために。

「怜悧」
それは誰の声か分からない。誰を指す言葉なのかも分からない。
「怜悧、すごいね。怜悧は誰にも出来ないことが出来るみたい」
それは多分本心からの、そして何でもない無意識な願い。
「でも、それに応えることが出来なかった……。今度は、間違えない。今度こそ……今度こそ……!!」
唇を噛みしめる。
「今度こそ完璧な甲斐怜悧を演じてみせる。そして、あの子を……」

早朝。いつもは正輝が空手の稽古のために使っている和室。
怜悧はただそこで正座をして瞑想していた。
やがて立ち上がり、素振りを始める。
「怜悧」
視界と脳裏にわずかに映る幻影を振り払うように竹刀を振るう。
「怜悧」
必死に竹刀を振るう。全力で握りしめた竹刀を振るう。魂の灯らないそこに炎を燃やすように。
「怜悧」
「……はあ……はあ……はあ……!!」
まるでいつでも逃げてしまえるかのように用意されたその幻影に自分が逃げてしまわないように。
「はあ……はあ……はあ……っっ!!」
深い地獄の闇に葬ってしまった彼女への身勝手な想いに飲み込まれてしまわないように。
「……」
そんな様子を正輝と赤羽が見ていた。
「……いくら大会前だからって少し張り切りすぎじゃないか……?」
「……私にはあれが稽古には見えません」
「え?」
「久遠を失った私はそれでも甲斐さんから託されたあなたたちを守るためにと、こうして稽古と称して一人で暴れていたこともありました。そうしないと自分を保てなかった。……他にすがるものがなかったんです」
「……美咲さん」
「怜悧さんにも今はこれしか方法がないのでしょう……。逃げてしまわないようにするには、これしか……」
「……俺達を頼ることは出来ないんですか……?」
「……私も甲斐さんも怜悧さんも不器用なんですよ。だから、誰かが用意した自分になりすます事しか思い浮かばない。……怜悧さんの場合はもしかしたら違うのかも知れませんが」
「どういうことですか?」
「……甲斐怜悧は自分だけではないと言うことです。怜悧さんにとっては」
「……歌音ですか」
メディア向けの甲斐怜悧として生み出された馬場歌音寺。
「覚えているかは分かりませんが、怜悧さんはまだ小学生になったばかりの頃。酷く荒れていました。無理もありません。自分は両親と一緒に暮らせないのにテレビを付ければ実の父親が自分の知らない自分と同じ名前の女の子と一緒に映っているのですから。それも決して望まれる形ではなく」
「……」
正輝も記憶のどこかにある。10年以上も前、姉によって何度もテーブルが破壊された記憶。当時は訳も分からず怖くて泣いていた。今は何となく分かる。
「……理由にされちゃたまったものじゃないですよ」
「正輝さん……」
「俺達きょうだいのためって言いながら姉さんは本当の自分に気付いていないなんて、俺達のためって言いながら自分の本当に大事な存在を奪って、それで今度は自分が誰でもない何かになりすまそうなんて、きっと間違ってる……」
「……正輝さん。正しいだけで人の心は救えないんです。誰も皆、正しくあれと思いながらふとした事で誰かを傷つける。そして何が正しいのか間違っているのかを迷い続けるんです」
「けど、俺達が見ている姉さんは……」
「そんなに人間は強くないんです……!!」
「……美咲さん……」
「……今日の稽古はなしにしましょう。今怜悧さんに必要なのは自分自身を整える時間ですから」
そう言って赤羽は自室へと去って行った。
「……俺は、どうしたらいいんだ」
「全部壊しちゃえば?」
声。見るとすぐ横にルネがいた。
「うわあああ!?出た!!」
「何よ。妹をそんな化け物見たいに」
「ば、化け物じゃなかったら何だってんだ!?」
「妹だって言ってるでしょ?どいつもこいつもみーんな面倒くさいったらありゃしないわ。何で我慢することがあるのかしら」
「……人間にはいろいろ事情があるんだよ。お前も一応人間だって言うなら分かるだろ?」
「人間扱いしないで。私はゼノセスター。天使界で勝手に作られたあんた達の末っ子。勝手に生み出されて勝手に200年も封印されて、勝手に誰とも知らない人間の妹にされて、だから勝手に世界を滅ぼしたのよ」
「……世界を?」
「お陰で私は自由になった。兄も姉ももういない。でも、自由は退屈だった。一人は退屈でそれ以外だと窮屈で、本当つまらない生き物よね」
「……」
「だからあんたも好きにすれば?黒竜牙は果名が持ってるけど、それに近い力なら盗んでくるわ。一緒にこの退屈な世界を壊しましょう?お兄ちゃん」
「……そんな勝手なことは出来ない。お前が何を知ってどんなことをしてきたのかは分からないけど、人間ってのは好き勝手にやったら周りの人間が、大切な人達が苦しむんだ。そういう風になってるんだよ」
「……だから退屈なのよ。他に方法がないって知りながらそれを選ばないなんてどうかしてるわ」
「あるかも知れないから俺達は足掻くんだよ。勝手に暴れたら勝手に愛想を尽かされる。誰のためになんていいわけを用意したところで結局誰も望んでないことは誰になりすましたところで誰のためにもならないんだ」「……下らないわ」
ルネはため息をつき、触手で円を描くと虚空に穴が開く。
「お前……」
「退屈な話をありがとう、お兄ちゃん。でも、そんなの、ためになりたい誰かがいる幸せ者の考え方よ」
そう言ってルネは虚空へと去って行った。

2016年11月4日。甲斐機関。
「……」
研護とメナージュはそこへやってきた。
「いよいよ行くんだね」
ラストが出迎える。
「ラスト、今までありがとう。一人きりにさせて悪かった」
「どうしたの研護。……ふふ、僕にお任せあれだよ」
「……研護。急ぎましょう」
「ああ」
震えた足で先行するメナージュ。研護はラストとハイタッチをしてからその隣に並ぶ。
(……研護。一皮むけたみたいだね。メナージュも少しだけ迷いが消えたみたいだ。僕がいない間に何かあったみたいだけど、妬けちゃうな。僕も二人の力になりたかったよ……)
二人の背中を見守るラスト。わずかな空気がその口から漏れた時だ。
「どうやら時は来たようだな」
「!?」
声。同時にラストの胸を何かが貫いた。
「……な、なんで……」
「イレギュラーが起きる前に潰すのみ」
ラストの胸から腕を引き抜き、その男はラストの翼を踏みにじる。
「だ、だれだ……」
「わざわざ名乗る必要があるか?」
血反吐を吐くラストを踏みにじりながらその男は手に集めた火炎を球体に変えて、
「や、やめろ……!!」
「奇跡を終わらせる時間だ」
火炎弾は今放たれた。
「!?」
突然の爆音と灼熱が甲斐機関本社ビルを襲う。防火シャッターも役に立たないまま建物が炎に包まれる。
守りたかったものが、いつまでも続くと思っていたものが、今目の前で惨たらしく燃えていく。

「……ぁ、」
声が漏れる。本当の名前と姿を封じられた女の声が。
遠くに燃える全て。その明かりに照らされた小さな闇の中で。
「ぶ、じか……」
大事なものを庇う少年の背中が見えた。
「研護……!」
「……悪い。ちょっと無理そうだ……」
背中の向こうから聞こえる声は、肺を壊していた。枯れた声が暗闇に小さく届く。
「研護……!い、今怪我を……」
「俺のことはいい……逃げるんだ……」
「どうして……!?いま、魔法を使ってそんな怪我くらい……」
「それじゃ駄目なんだ……美夏!!」
「!!」
失われたはずの女の名前が今炎にとどろいた。
「お前がすべきことは、俺のために捨てることじゃないんだ!!違うか!?お前は、もっと大きなものを救うために先へ進むんだ……未来に生きるんだ……!!」
炎に枯れた叫びが響く。吐血の混じった少年の叫び。
「研護……」
その程度では炎は消せぬと、理解していながらメナージュの涙は終わらない。
「……いつか、俺ごと救ってくれ……世界を、お前が守りたかった世界を……!!」
炎に照らされた暗闇に笑みを浮かべる少年の顔。その瞳に映る自分はあまりに無力な涙に溺れていた。
「何だ、生きていたのか」
それをあざ笑うかのように男の声が生まれた。
「!」
二人の視線が闇に生まれた声へと向けられる。
「誰!?」
「俺か?俺はファルタスク。ヒディエンスマタライヤン様より使わされた滅びの使者よ」
「!?」
「この世界に奇跡など不要。それをもたらそうとするなど許すはずがないだろう?滅びの運命を知っているのならば大人しく滅んでしまえばいいのだ。偽物の命よ、メナージュ・ゼロの女よ!!」
その太い腕が研護の首を掴んだ。
「がっ!!」
「研護!!」
「この男が希望か?ならお望み通り挫いてやろう。賤しくも心のどこかで望んだ諦めのままに」
首を掴む腕に力が加わり、骨が軋む音が響く。
「やめて……やめて!!!」
叫びながら魔力をためるメナージュ。たとえ今の全ての力を放っても敵わないと知りながらも。
「終わりだ」
下卑た笑いがこだまする。だが、邪悪な力は何者をも砕かなかった。
「馬鹿、な……!?」
炎の中で、ファルタスクは切断された己の腕を見やった。だが、驚愕の視線はそこではない。先ほどまではそこにはなかった炎の形。
「馬鹿な、何故貴様が……干渉する!?」
「昔の友の声がきこえたから」
「あ、あ、」
崩れ落ちた研護を抱き寄せるメナージュの前。逆巻く炎が一人の男の姿を生み出し、ファルタスクを後ずらせる。
かつてより成長したその背中は、以前一度だけ見たあの騎士の背中。
「俺はこの時、何も出来なかった。するべきでもないとさっきまで思っていた。だが、運命がいつだって悲劇だけを生むと思われているならそれを灼熱の騎士が許しはしない……!!」
炎の中から一本の槍……紅蓮の槍を引き抜き、男は構えた。
「ナイトバーニング……甲衆院優樹……!!いい加減くそったれな運命にはうんざりしているんだ!!!」
その叫びが暗闇を終わらせ、邪悪な炎を輝く炎で燃やし直す。
「馬鹿な……十三騎士団がこの世界の終焉に干渉するだと……!?」
「間違えるなよ……俺は飽くまでも古い友人を助けるだけだ!」
紅蓮の槍が時より早く放たれた。その一撃だけでファルタスクは見たこともない色の流血を放ちながら吹き飛ばされていく。
「優樹君……!」
「梓山!俺に出来ることは足止めだけだ!それ以上の奇跡は自分の手でつかみ取れ!」
バーニングは一瞬で研護の怪我を治し、時空に穴を開けた。
「させるか!!」
ファルタスクが氷と雷とを魔法で繰り出す。それを見ないままにバーニングは手を出す。
「間違えるなよ……お前ごときに俺を止められると思うな!!!」
放たれた二つの攻撃を素手で受け止め、握りつぶし、
「遊びでやってんじゃないんだよ俺はぁぁぁぁぁっ!!!!」
炎に燃える拳がファルタスクの顔面にねじ込まれ、
「ぐあああああああああああああああああああああああ!!!!」
ファルタスクを永劫に燃やしながら時空の彼方へと殴り飛ばした。
「……さて、どうなるかな」
光り輝く炎の中でバーニングは一人呟いた。

燃えさかる甲斐機関本社ビル。その外。
「こ、ここは……?」
研護とメナージュはそこに飛ばされた。
「メナージュ、今のは……?」
「ナイトバーニングよ。ついでに廉ちゃんの幼馴染みでもある。私は少しだけ面識があったのよ。そんなことよりも……」
視線の先。惑う人々の中。見慣れた姿が倒れていた。
「ラスト……!」
急ぐ二人。
「……研護……メナージュ」
「どうしたラスト……!?」
傍に駆け寄る。しかし既に理不尽なまでの血液がコンクリートを染めていた。
滴る量は危険な水準を超えている。普通の人間ならば既に命はないだろう。
「へ、変な奴に襲われた……」
「まさかファルタスクか……!?」
「け、研護達はどうして……」
「いろいろあったのよ。そしてごめんなさい。今の私達にあなたを治す術はないわ。魔力がどうしても足りない」
「……いいよ。僕は普通の人間じゃないから、簡単には死なない……」
「でも、すぐ死ぬ」
「!?」
新たな声。響いた瞬間に一人の少女の姿が視界に突然現れた。
「な、な、」
「興味あったんだよね。ゲームのキャラが現実世界で死んだらどうなるのか。ゲームのキャラの力を現実世界で使ったらどうなるのか」
その少女はラストと研護、二人の肩に手を触れていた。瞬間。
「増殖のGEARとゲームマスターのGEAR、二つとももーらいっと!!」
「あなたは!?」
「僕はキュリアス。ヒディエンスマタライヤン様の使徒だよ」
「ファルタスクだけじゃない!?」
「ファルタスクならさっきドジってマントルに落ちてたよ。僕はそんなドジは踏まないけどね!」
言いながらキュリアスは懐から1枚のカードを取り出した。
「それは……!!」
「転移のカード。メナージュ・ゼロの女……お望み通り奇跡の世界に送ってあげるよ。ただし、望まざる時代にね!!」
「や、やめ……」
「ばいばーい」
「!」
一縷の光が瞬いた。
「美夏!!」
研護の前で名前を呼ばれたその女は、時空の彼方へと消えていった。
「さて、ここに残ったのは何の能力も持たないクズだけ!殺してあげてもいいけど、精々消滅までの間絶望で遊んでいるといいよ?きゃはははは!!」
笑い、キュリアスと名乗った少女はどこかへと走り去っていった。

右も左も上下もない。ただ光だけが流れる無の空間。
「……ここは、光トンネル……」
メナージュはただ無力に光の中に身を任せて流れていた。
「……私はまたここに戻ってきたのね……何も出来ないまま……」
悔恨の念に襲われる。だが、心に開いた穴があらゆる感情をも無に誘う。
「……研護はどうなったのかしら……」
あらゆる感情が消えた胸の内。記憶の中最も自分の心に触れてきたあの少年の顔だけが残り続ける。
「……私は何も出来ない……どうすることも出来なかった……」
無力感が体を支配する。だが、消えていったはずの感情達がまだ体のどこかで脈を打つ。
「……この感情、これが切なさ……私、何も出来ないの……?」
震える手足。燃えるような心臓の鼓動。自然と漲る力。これまで感じたことがない場所がうずく。
「……そう。私、新たな命が……なら、ここで諦めるわけにはいかない……この子のためにも……たとえどんな時空に落ちても私は……私は……!!」
「じゃあ、可能性を見せてよ」
「!」
声。気付けば目の前にはエレベーター。
「これは……まさか……!?」
地に足がつく。視線がエレベーターを向けばその扉が開く。メナージュが迷わずに中に入ればそのエレベーターはどこまでも上に上っていく。緊張が続く中、やがてエレベーターが開かれる。
「……」
人ならざるものによって作られた石造りの道をメナージュは迷うことなく歩き続ける。
やがて。
「僕のことを知っているのによく進んできたね」
一人の少女がそこにはいた。
「……最果ての扉の先で待つもの。黒咲歩乃歌」
「へえ、よく勉強してるんだね。そんなことまで知っているとは」
「導いて。私はどんな犠牲を払っても構わない。だから、私と、研護の生きた証であるこの子だけは……」
「別に取って食うつもりなんてないよ。ただ、僕なりの運命を作らせてもらうだけだよ」
「え……?」
彼女の目が光る。すると、メナージュの腹が突然大きくなり、そして腹をすり抜け生まれたばかりの幼子が誕生した。
「せっかくだから名前を付けてあげなよ」
「……名前」
何も考えていなかった。その腕に抱くことも出来ない、性別すら分からない我が子の名前。
ただ、自分とあの少年の間の子供なら、同じ感情を抱いた二人の子供ならば。
「せつな……赤羽せつな……!!」
「いい名前だね。赤羽……なら、あの子に託そうかな」
「……赤羽美咲」
「そう。ちょうど暇してる個体がいるからね。……何かあげないと僕のところにまで来てしまう」
「それはあなたにとって都合が悪いことなの……?」
「別に?邪神でさえ僕には手出しできない。調停者ですら届かない概念に僕はいる。まあ、どちらも僕が生み出したみたいなものだけどね。で、そろそろいいかな?」
「……構わないわ。ただ、一度だけ……」
メナージュはせつなと名付けた我が子を魂込めて抱きしめた。涙を流し、希望を託し、悔いを残して。
「……もういいわ。これ以上は情が移ってしまう」
「そう。じゃあこの子は赤羽美咲に預けるから」
赤子がメナージュの胸からすり抜けて彼女の元へと移り、そして姿を消した。
「……」
「寂しそうな、嬉しそうな顔だね」
「あなたが言ったそのままよ。……私はこのまま時空の闇に落ちるのかしら?それとも完全に消滅するのかしら……?」
「どうだろうね。それは、運命の埒外のことさ」
その言葉を最後にメナージュは意識が遠のいていく。それは初めて時空の闇に落ちた時と同じ感覚。
「……そう、私はまた永遠に戻るのね……」
我が体を抱きながら彼女はまた永い眠りについた。

その筈だった。
「……ここは、」
「目が覚めたようね」
目を開ける。見慣れない場所。しかし恐らくは平和な現代日本のどこか。
「あなたがメナージュ・ゼロかしら」
一人の少女がいた。それは、
「……最上火咲……!?」

2040年。秋の夜空。気付けばそれまでよりもずっと早くに暗くなる空の下。
「……」
怜悧は空手の稽古を終えて家までの道をたどる。かつては歌音と共に歩んだ道。一人で歩くことに慣れてしまいそうな自分が憎い。
「怜悧」
これくらいならばいいだろう、と彼女の名前を呼ぶ。周囲には誰もいない。もう少し声を上げても誰にも気付かれはしないだろう。そんな弱さが心を捻る。
「……怜悧、」
弱さを誰もいない夜の下に吐き出す。これが最後だと、これでもう二度と彼女には頼るまいと、自分の弱さに正直になれる……それを強さだと認めたくない。どこまでも自分勝手な捻くれた感情。
そんな自分を誰が頼るのか。ならよりもっと甲斐怜悧を演じなければならない。
「怜悧、私は……」
「もう一人の自分にすがるのかしら?」
「え、」
正面。街灯の下。一人の少女がいた。その赤い髪はどこか赤羽美咲を彷彿とさせる。しかし大分背が低い。そしてとんでもない胸の大きさ。
「あなたは……?美咲さんのお知り合いですか?」
「私は……最上火咲。あなたが甲斐廉の娘でしょ?」
「……わたしは、」
その質問に答えてはいけない。その理屈で、自分にその資格はないと思いたい感情を無意識に塞ぐ。
「別に誰に触れ回ることもないわ。ちょっと付き合ってよ」
「……は、はあ……でも、知らない人とは……」
「……あの人の血縁は皆、こうなんでしょうか……」
「え?」
「何でもないわ。私はあのひ、ふ……」
「ひ、ふ?」
「へ、変態師匠とは昔からの知り合いなんだから!」
「変態師匠?」
突然何を言っているのだこの少女は。しかしどこかで聞き覚えのある言葉でもあった。確かごくごく稀に赤羽が父のことをそう呼んでいたような気がする。実際父は赤羽の空手の師匠だったらしいのだから間違いではない。そしてその言葉を知っていると言うことは赤羽の知り合いではありそうだ。
(でも、誰?ぶっちゃけこの前のルネって子以来見ず知らずの女の子と話すのはちょっと避けたいんだけど)
「えっと、父の知り合いですか?それとも美咲さんの知り合いですか?」
「両方です!……両方よ!いいから家に案内なさい!」
「は、はぁ……?」
何だかルネと比べるまでもなく安心できそうな気がした。今はこの謎な元気ムーブが助け船になってる気もした。
「……こ、こっちです」
なので仕方なく案内することにした。後ろからついてくる気配には気付かないまま。
そして黒主家。
「帰りました」
怜悧が少し大きめの声を上げて帰宅する。
「お帰りなさい、怜悧さん」
リビングの方から赤羽が姿を見せる。手には珍しくどら焼きを持っていて、そして怜悧の背後の人物を見てそれを落とした。
「あの、美咲さんのお知り合いの方ですか?」
「また会ったわね。赤羽美咲。と言えばよろしいですか?」
「な、な、な、な、何で!?」
赤羽らしからぬ大声。雰囲気も大きく異なる。
「あの……?」
「れ、怜悧さん。こ、この人はいいので……!着替えてきてください。私の知人です……!」
「いいえ。怜悧さ……怜悧。あなたは今から空手着に着替えてきなさい」
「は、はぁ?」
「ちょっとあなた……!」
「へ、へ、へ、変態師匠……の代わりに私がちょっと稽古を付けてあげます……あげるから!」
その少女は赤面していた。

怜悧が着替えている間。リビング。
「……お、おう……どんな状況だこれ……」
甲斐が冷や汗を流す。目の前には赤羽美咲と最上火咲。
「どうも。お久しぶり……って言えばいいかしら?」
「ダウトです。私はそんなツンデレみたいなしゃべり方ではありません」
「それならあなたの方もダウトです。私はそんなよく分からないしゃべり方をしていません」
「な、私が私を間違えるわけないじゃないですか!」
「それなら私だって私を間違えるわけありません」
「あなたが間違えてるのは赤羽美咲じゃなくて最上火咲の方!!そんな敬語混じりの最上火咲気持ち悪いわ!」
「こら!ちゃんと赤羽美咲を演じてください!何ですかいくら初代だからってそんな歯の浮いた言葉遣いは!最上火咲の癖が強く出すぎです。見ていて恥ずかしいのでやめてください」
「あなたに言われたくありません!」
「って言うかこんな重たいものを持っているのにどうしてヒエンさん相手に全く異性として思われてないんですかあなたは!?」
「全力で師弟関係に努めていたからです!!それなのにあんなことやこんなことがトラブルで……!!」
「あー、そろそろいいかな?赤羽。火咲ちゃん」
「甲斐さん!どっちに対して言ってるんですか!?」
「ヒエンさん!?」
二人同時に真っ赤な髪を逆立たせて甲斐に噛み付くような視線を向ける。
「……はあ、」
深いため息。そして甲斐は来訪者の方を見た。
「君、俺とこの世界で空手の稽古をしていた方の赤羽美咲だよね?せつなを届けてきた方の」
「はい。お久しぶりです」
「何で火咲ちゃんの姿になってるの?」
「赤羽美咲とはそう言うものです。本当はもうこの世界には干渉しないつもりだったのですが、どうしても果たさないといけない約束がありましたので」
「約束?」
「でもその前に矢尻さんから怜悧ちゃんが大変なことになっていると聞いたのでこちらに来ました」
「……怜悧の状況を知っているのか?」
「はい。どっかの誰かさんがせっかく任されていた久遠の娘を死なせてしまったらしいですね?」
火咲の強い視線が赤羽を貫く。
「う、」
「火咲ちゃん……いや、赤羽?ああ、ややこしい……!!とにかく、歌音のことはあまり言ってやらないでくれ。多分今この家では一番デリケートな話題なんだ」
「ヒエンさん。あなたがそれだから駄目なんです」
「え、俺?」
「悲しいなら悲しいとちゃんと態度で示してください!あなたが強がってるから子供達が真似して、どんどん人の心を失っていくんです!最上さん、あなたもです!」
「……その顔で言われたくないのですが」
「調子が狂いますね全く。本当は誰より赤羽美咲なのにどうしても最上火咲としての印象が強い」
ため息をつく火咲。と、そこへ、
「あの、えっと、お茶ですけど……」
三咲がお茶を用意してきた。
「あ、はい。どうも……どなた?」
「……妻だ」
「へえ………………………………ええぇぇっ!?」
「ど、どうした?昔も会ったことあるだろ?」
「……あ、ああ、そう言えばそうでした。……あ、どうも。赤羽美咲です」
「え、あ、えっと、甲斐三咲です」
三咲は同じ顔の二人を見比べる。
「れ、廉君……」
「俺にもよく分かってないんだけど、こっちの赤羽美咲が昔最上火咲で、こっちの最上火咲が昔赤羽美咲だった」
「って事は、この人がせつなを……?」
「そう。16年前のあの日、せつなを託してきた別の世界の赤羽美咲。何でか知らないけど最上火咲の姿になってる」
だんだんと目眩を覚えてきた甲斐。
「けど、怜悧と組み手したいなんてどういうことなんだ?」
「自分を見失った時にはその手足でぶつかり合うのが一番ですから。なので初代さん。あれ、返してください」
「……あなた、またズル勝負するんですか?」
「お互いが傷ついたらまずいでしょう?それに……」
火咲の視線が鋭くなる。
「嫌な気配もします。この気配は……まさか」
「火咲ちゃん?」
「「はい?」」
「あ、悪い。別世界の赤羽の方」
「何でしょうか?」
「いや、どうかしたのかなって。そろそろ怜悧も稽古場に行ってると思うが」
「そうですね。なら行きましょうか」
涼しい夜の道を歩く大人達。
「そう言えば、和佐の奴はどうしてる?」
「和佐さんなら最近は歩乃歌さんやルネさんと一緒に過ごしていますよ」
「……う~ん。聞き覚えのある名前ばかりだな」
「何だかアイドル事務所開いたみたいでいろいろな世界の女の子をプロデュースしてるそうです」
「……何やってるんだあいつは」
「あの、以前から聞きたいことがあったんですが」
赤羽が火咲に対して。
「何でしょうか?」
「甲斐和佐さんって私の時にはいなかったのですがそれはどういうことなんですか?」
「その通りですよ?」
「え?」
「最初はいなかったんです。でも、メナージュ・ゼロの代わりに運命によって生み出されたんです」
「……そうだったんですか」
「だから火咲ちゃんはどこかあいつを信頼していなかったのか」
やがて、リビングやそれぞれの部屋がある場所から離れた先。道場へとたどり着く。
「あ、」
既に胴着姿の怜悧がそこにはいた。正輝やせつなも一緒だ。
「……誰だ?」
正輝が火咲を見る。対してせつなはどこか違和感を得ている。
「あの、美咲さん。そちらの方は……?」
「彼女は最上火咲さんです。私や甲斐さんの古い知り合いで私の……まあ、姉妹のようなものです」
赤羽からの紹介を受けてから火咲は咳払いをして、
「最上火咲よ。今日は特別にあなたの腕前を見てあげる。感謝しなさい」
「は、はあ……」
気の抜けた返事の怜悧。頭を抱える赤羽。少しだけ笑いを堪える甲斐。
「さあ、へ、へ、変態師匠!時間を計りなさい」
「……本当にそのキャラで行くのか」
言いながら甲斐はスマホを出してアプリを起動する。
「……よく分からないけど、」
構える怜悧。
(初対面の相手でも私は甲斐怜悧を演じてみせる。それくらい出来なきゃ……!)
(甲斐怜悧さん。あのアドバンスの母親。私が知るのはそれくらい。構えもヒエンさんとは全然違う)
火咲もまた構える。その構えはかつての赤羽美咲そのもの。
「とりあえず120秒ほどで。お互い怪我しない程度に。……久しぶりだな。はじめっ!!」
甲斐の合図と同時に両者が踏み込む。
畳でなく、フローリングを踏み入れ、体重を速度で運ぶ。
「せっ!」
前に出した足。わずかに足裏で摩擦を作ってからつま先の力だけで火咲が前に跳ぶ。
「!」
距離感を間違えたかのように、突然火咲の右足が怜悧の眼前にまで伸びる。寸前で防ぐ。
その蹴足が地に戻る前に怜悧が一歩前に出る。体格で有利な分怜悧が一歩すれば火咲の形勢は不利となる。
筈だった。
「っ!」
殴るには少し届かず、蹴るには近すぎる距離に怜悧は体を運んだつもりだった。だが、火咲はまるでそれを見越していたかのように蹴った足とは逆の軸足でわずか背後にだけ跳んでいた。
距離を誤ったと怜悧が重心だけでもと背を反らした瞬間に、
「せっ!!」
再び軸足だけで火咲が宙を舞った。下半身全体を独楽のように空中で回転させ、軸足だった左足で怜悧の側頭部を蹴り飛ばす。
「!?」
反応できない衝撃に脳を揺らしながら怜悧が後ずさり、体勢を低くする。
(何……今の動き……完璧に私の動きに合わせてきた……!?どれだけ経験値があるの……!?)
(ヒエンさんより少し背が大きい分、ちょっとだけ計算狂いましたね。久しぶりの空手、いい空気です)
着地した火咲は、右に左に重心をずらしながら怜悧へと接近する。動く距離そのものは短く、しかし、重心の動きはかなり精密で過激で捉えがたい。
怜悧が勢いのままに、しかし決して無邪気ではない前蹴りを放つ。体格差を考えればこの一撃で決着がついてもおかしくない。況してや怜悧の怪力だ。救急車沙汰になってもおかしくはない。
だが、直撃はしない。相手の腹を狙った蹴足はまるで氷の上を滑るように掠めてしまう。
「くっ!」
次に振り下ろすは手刀。空手の試合で使われることは稀だが、体格差があるならば時に単純な殴打よりも威力が出る技。最も体重が乗る角度で振り下ろされた手刀。しかし、火咲は左の拳で真っ向から怜悧の手首に打ち込んだ。
「!」
手刀の最大の弱点を突かれ、激痛に怯む怜悧。
(嘘でしょ!?今の手刀まで完璧にカウンターを決められた!?どんな達人よ!?)
(朱雀で焦らし、玄武で完璧にカウンターを決める。久しぶりにうまく決まりました)
わずかに口角を上げる火咲。しかし踏み込まず。怜悧の視線を正面から見据える。
自分より頭一つ分よりも背の低い小柄な少女にしか見えない相手に完全に手玉に取られた怜悧は、
「うあああああああ!!」
考えなどない猛攻を仕掛けた。その怪力故一度でも直撃が通れば間違いなく相手はバランスを崩しそのまま押し切られるだろう。理屈ではない理屈が怜悧を動かし、そしてその攻撃は火咲には掠りもしない。
拳の攻撃はその手首への衝撃でずらされ、足での攻撃は脛を押さえて止められる。
足による回避も防御も行わずに握り拳だけで全ての攻撃を対処される。その動きは20年以上前なら誰でも知っている拳の死神の常套手段だが怜悧には知るよしもない。
そうまでして、しかし火咲は未だに攻撃へと移る気配を見せない。
(何が……したいのよっ!!)
次に放ったのは回し蹴り。下がらねば回避は難しく。その威力は防御を許さない。たとえ拳の死神であっても拳だけでは対処できない一撃。しかしそれを火咲は膝で受け止めた。
「!?」
相手の脛が火咲の膝に吸い込まれるように当たり、再び威力の天秤が生半に折られる。
「くっ!!」
痛覚と焦燥が加速する。ただ一度当たりさえすればいい。それだけなのにそれすら叶わない。
「……あの子、怜悧を焦らせて何をしようって言うんだ?」
甲斐の疑問。その視線をかつてとは違う目線で受けながら火咲は再び小さく笑う。
「このっ!!」
正面からの力ずくの拳、前蹴り、側面に回っての回し蹴り、一気に距離を詰めてからの膝蹴り。
それらが全て火咲の制空圏に阻まれていき、ついには一度も直撃を許さないまま120秒を告げる電子音が響いた。
「はあ……はあ……はあ……」
「この程度ですか?……こほん。拳の死神の娘がこの程度とは呆れるわね。わざわざこちらから攻める価値もないわ」
「……私、そんなでしたか?」
赤羽がため息。少しだけ甲斐が笑う。
対して怜悧は、呼吸を荒くしている。小翠が相手でももう少し抵抗は出来る。しかしこれだけ攻撃を完全にいなされ、流され、手加減されているというのは癪だ。
(……どうする……?ここで折れる……?)
頬を垂れる汗。逡巡する思考。脳裏に一瞬浮かぶ彼女の顔。躊躇しながらも踏み出した足。
「っ、怜悧!!もう終わってるぞ!!」
甲斐が叫んだ時には怜悧が踏み出し、火咲に向かっていた。
「うあああああああ!!」
「……」
怜悧の拳。それに合わせて火咲もまた拳を繰り出した。
「あれは……!!」
甲斐と赤羽が同時に驚きを表した。互いに拳を相手の胸に打ち込み、全ての力を注ぐ。
「……青龍激突……」
赤羽が思わず胸を押さえる。
「くっ!!」
思わぬ激突に怜悧が歯を食いしばる。体格でも力でもこちらが上の筈なのに全く下がる気配がない相手。
何よりさっきまでなら回避することも出来たはず。なのに何故……?
「全て、吐き出しなさい!」
「え、」
「中途半端な思いじゃ、あなたは押し負けて……死ぬだけよ!!」
「死ぬ……?私が……?」
「外に出したい何かが、誰かに聞いて欲しい言葉があるのなら、それを吐いて力に変えなさい!!」
怜悧の体がわずかに宙に上がる。胸への圧力が加速する。わずかに蘇るルネに襲われた時の感覚。
そしてあるはずがない、粉々にされた彼女の最期の瞬間。自分で砕いた彼女の肉体の感覚。
「うああああああああああああ!!」
奮起する。力を込めて足を前に進める。火咲の拳が突き刺さったこちらの胸が変形し、いつ千切れ跳んでもおかしくないまでに潰れて擦れる。心臓の音が相手の拳に乗る。かつてとは逆の禍々しい記憶。
「わたしは……わたしは……怜悧を……怜悧を……」
「……っ!」
「わたしは、怜悧を殺さなきゃいけなかった……でも、殺したくなかった……だって、だって、だって怜悧は私の……一番の……一番、一番大好きな……大好きな人だったんだからぁぁ!!」
額と額がぶつかり、全ての体重が火咲を押し戻す。
「ずっと傍にいたかった……ずっと、ずっと……本当の甲斐怜悧として……私が夢見る甲斐怜悧として……怜悧は……生きてて欲しかった……私が、怜悧の影になったっていい……代わりにテロに遭って死んだってよかった……でも、でも……だったら誰が正輝達を守るのかって……」
「……姉さん」
「考えて考えて……どっちがいいのか分からなくって……気付いたら……わたし、怜悧を……怜悧を……」
退く拳。体重が軸足にのしかかり、腰骨が唸る。
「本当の甲斐怜悧だったらこうする……皆の甲斐怜悧だったらって……そうして、怜悧をわたしは……わたしが信じてた甲斐怜悧になりすまして……けど、けど、けど……!!」
軋む両足の筋肉が隆起する。全ての力を爆発させる。
「甲斐怜悧になって、皆を助けて、守って、それで、それで、甲斐怜悧は誰が助けてくれるの……?怜悧のことを誰が守ってあげられるの……?わたしが、怜悧を助けてあげなきゃいけなかったのに……!!」
拳に相手の心臓の音が重なる。同時に思い出される血だらけになった彼女の姿。
「なのに、なのに、わたしが怜悧を殺したんだ……わたしが、わたしが……わたしを!!!」
「……人はどんなに姿が変わろうが、名前が変わろうが、別の誰かになることは出来ない!」
「!」
「悔やんでもいい。悲しんでもいい。けど、自分で自分を否定したら、そんなあなたを信じて愛する人達を裏切ることになる!!誰かに偽ったとしたなら、違う自分を見せてしまったとしたら、それを否定できないのなら、それでも偽った自分を意地でも貫きなさい!!自分をしっかり持ちなさい!!」
「でも……でも……怜悧が!!」
「あなたも怜悧でしょうが!!」
「……っ!!」
「悲しんで全てを解き放って、そうしてまた自分を見てくれる人に誇れる自分を取り戻しなさい。そのために必要なら信頼できる人に胸を貸してもらいなさい!自分の弱さを誰かに見てもらうことは悪いことじゃないから……!!」
「……そんな、の!!」
やがて、両者の拳は相手の心臓を捉えたまま、胸の摩擦と弾力に滑り、二人は前に倒れ込んだ。
「拳の死神譲りのこの馬鹿力。中々正面から受け止められる人はいないでしょう。ですが、今はこうしてあなたの前に確かにいる……時間なんて気にしないで力の限り泣き叫びなさい。少女にはそれが許されています……!」
火咲が怜悧を向き、にやりと笑う。その表情は甲斐も赤羽も見たことがないものだった。
「わたし、は……」
泣きじゃくりながら怜悧は火咲を、甲斐を、赤羽を、正輝やせつな、三咲を見る。
「わたし……うううう、わたしは、怜悧を殺したくなかった……でも、でも……怜悧が何を考えているか分からなくて……ううん、本当は分かっていた。怜悧は、わたしに怜悧を倒させるためにわざと、悪役になったんだって……テロを起こしてお父さん達の邪魔をする奴らを少しでも減らそうとして、そんな……そんな、そんな怜悧の願いを叶えてあげたくて……間違ってるって分かってたのに……分かってたのに……殺したくなかったのに……でも……でも……ううううう、うああああああああああああああああああん!!!!」
床に拳を打ち付ける。何度も何度も。喉と拳が壊れんばかりに。
「……姉さん」
正輝は姉に歩み寄った。その手には見覚えのある眼帯が。血で汚れてしまった彼女の眼帯。最期まで彼女を守り続けた眼帯。
「……ううううう、怜悧……怜悧……ごめんなさい……ごめんなさい!!ごめんなさい……!!!」
泣き崩れた姉を正輝は優しく抱きしめた。わずかに蘇った悪寒を全力で押さえ込む。
「俺も、もう負けない……。守れなくて怖かったあの時のことを忘れない。忘れない上で負けない……!!」
「……私も」
せつなもまた歩み寄る。3人が揃うのを見て甲斐達が息をのんだ。しかし、
「!この気配……!!」
火咲が勢いよく立ち上がる。と、
「!?」
突然怜悧が正輝とせつなを弾き飛ばした。
「ね、姉さん!?」
それは先ほどまでとは比べものにならない力。
「な、なに、これ……からだがうごかない……」
「怜悧!!」
甲斐が向かおうとするのを火咲が止める。
「赤羽!?」
「予想外の出来事が起きました……」
火咲が眼光を鋭くする。その先で怜悧の体が黒く染まっていく。
「憎しみを捨てるとは、馬鹿な奴め」
口ではない場所から謎の声が響く。
「何者です!?」
火咲が声を飛ばす。
「我が名はクライム。ヒディエンスマタライヤン様の使徒」
「ヒディエンスマタライヤン……!?」
火咲が驚き、その単語を受けた甲斐が突然頭痛に苦しむ。
「廉君!」
「あ、頭が……!!」
「ふん……ブフラエンハンスフィアの唾棄か。もはやその器に何の価値もないのはこの娘の中で知っているぞ」
クライムの笑う声だけが響く。
「姿を見せなさい!!」
「ふん。スライト・デスの輩が求める遺伝子の持ち主か。しかし貴様ごときに何が出来る?」
「その子の体から離れなさい!!」
「ふん。誰が貴様などの……」
クライムの声が笑うと、怜悧がまるで操り人形のように動き出した。
「あ、あ、」
「力を解放しろと言われていたな?どれ。私がやり方を実演してやろう」
突如。怜悧が尋常ではない速さで地を蹴って距離を詰める。相手は火咲だ。
「!」
気付いた時には既に火咲の体が宙を舞っていた。
「赤羽!!」
叫ぶ甲斐。その眼前に火咲が倒れ、吐血する。
「しっかりしろ!!」
「……ぐっ、ヒエンさんは……下がってて……」
「け、けど……」
「何のために私や和佐さんがこの世界に来たと思ってるんですか……?あなたをもう二度と黒主零にしないために……ぐっ!!」
しかし火咲の吐血が止まらない。
「あ、あ、あ、」
怜悧が涙を流す。それでも体の自由は一切きかない。憎むべき相手はその姿さえ見せることなく。
「ね、姉さん……」
立ち上がる正輝。しかし揺らぐ脳が体の自由を奪う。
「無様なものだな。このまままとめて始末してやろう」
笑うクライム。涙を流しながら怜悧が甲斐達へと迫る。その時。
「……っ!!」
甲斐の脳を酷く揺るがす光が彼我の間に降り注いだ。
「これは……」
同時に三咲も激しい目眩を起こして膝を突く。両者の前で降臨した光はやがて紫色の電光を表す。
「……あなたは……!!」
赤羽と火咲が同時に驚きの声を出す。
「……貴様……!?」
クライムもまた初めて笑い以外の声を出した。
怜悧の前に立つのは紫電の花嫁……即ちパープルブライド。
「あなた、何を……」
「……許さないから」
「え?」
「この敵を許せないから……!!!」
パープルブライドの仮面の下の眼光が怜悧の背後で笑う闇を貫く。
「貴様は、まさか32柱目の……!?」
驚く闇。対してパープルブライドがその手を掲げると、
「な、何だ!?」
甲斐、赤羽、火咲の胸が一瞬輝き、そして赤羽の中から出た輝きがパープルブライドの手に飛来する。
「あれは……まさか零のGEAR……!?」
「そうか……今ここには零のGEARの歴代持ち主が……!!」
「……この力は本来、こうやって使う……」
パープルブライドが光を帯びた目でクライムを睨む。すると、突然虚空が破けて怜悧を纏う闇がそこに吸い込まれていく。
「馬鹿な……!?なんだこれは……!?」
「姿を見せないのなら世界から消えなさい……調停者の使徒!!」
「馬鹿な……!!騎士と言い貴様と言い、何故本来干渉しないはずの存在が……!!」
焦燥と絶望の声を吐きながらクライムは虚空へと消えていった。残ったのは泣き崩れたままの怜悧だけ。
「……」
「え……?」
パープルブライドは三咲の手を引くと、まっすぐ怜悧へと投げ飛ばす。
「な、何が……」
「……」
パープルブライドは何も言わず、自ら開いた虚空の中に消えていった。何も言えずにいると、
「お母さん……」
「怜悧……!」
すぐに怜悧の方へと向き、娘の体を抱きしめた。
「お母さん……わたし……わたし……」
「もういいの……もういいんだよ……怜悧……」
「うううううう、うわあああああああああああああああん!!!!」
再び壊れたかのように怜悧は泣き叫び始めた。それを邪魔する者はもういない。
「……と言いたいところですが、」
火咲が立ち上がる。流血に変わりはないが、表面上の呼吸は整えている。
「どうしたんだ?」
甲斐が尋ねると、
「さっき言いましたよね。約束があると」
「あ、ああ。そう言えばそんなこと言ってたな」
「私は今日この日のためにとある時空からある方をお連れしてきたのです」
そう言って火咲の傷だらけながらも強い目はせつなを見た。
「え……?」
せつなの目の前。火咲が指を鳴らすと、道場のふすまが開き、
「……せつな……?」
そこにメナージュが姿を見せた。同時に再び甲斐と三咲に強い頭痛が襲う。
「え、こ、この人は……」
初めて見るはずなのに、理由も分からずせつなは目から涙を流していた。
どこから沸くのか分からない意味の分からない情動に何故か涙が止まらなかった。
「……もしかしてこの人が……」
甲斐の質問に火咲は首肯する。
「この人の名前は梓山美夏さん。赤羽研護さんと結婚して娘を産んだ。でも時空の中、娘だけでもどうしても生かしたいとそう思って私に託したんです。そうして長い間体を休め、今やっとこうして姿を見せることが出来るようになったんです。その娘の名前は、赤羽せつな」
「赤羽せつな……」
「黒主せつなさん。あなたの本当のお母さんですよ」
火咲が優しく言うと同時。メナージュは全ての感情を吐き出しながら我が娘を抱きしめた。
「せつな……せつな……!!やっと、やっと、やっと会えた……!!」
「……お母さん……?わたしの、わたしの、本当の……」
抱きしめられながらせつなは涙を流す。今まで押し込めてきた感情が流れ出す。
隣で涙する姉に負けないほどに大きな涙を叫び果たす。
周囲はその目にどこか感動と寂しさの涙を込めながら安堵の息をつきつつ二組の親娘の姿を見やった。
「……やっと会えたな」
甲斐もまた久方ぶりに涙を流す。その甲斐に火咲が歩み寄る。
「赤羽せつなさんは、ある意味私達赤羽美咲の始祖に当たります」
「え?」
「初代赤羽美咲は本来以降の赤羽美咲とは関連がありません。何故なら初代赤羽美咲そのものに特別な遺伝子は持っていないからです。それに初代赤羽美咲が初めて最上火咲になったのはこの奇跡の世界です。それまでいろいろな世界に赤羽美咲と最上火咲はいました。……彼女はその赤羽美咲と最上火咲の始祖に当たる存在です」
「……せつなが赤羽の始祖……!?」
「あの人、梓山美夏さんはとある理由があってあなたの傍にいられなくなった人なんです。初代含めて赤羽美咲があらゆる世界であなたと一緒だったのは、あの人の後悔や希望と言った願いが込められていたのかも知れませんね」
そう言う火咲の目にも確かな涙があった。

やがて、深い夜に。怜悧とせつなが泣き止んだ夜の縁に。
メナージュが語る。
「……改めて。梓山美夏です」
「……何だかはじめましてじゃないな」
「いいえ。はじめましてでいいんです。でも、ひとつ。お願いを聞いてくれませんか?」
「お願い?」
「今までせつなを、私の愛しの娘を育ててくれたこと。本当に感謝します。でも、でも、私が元の世界に置いてきてしまった大切な人を、赤羽研護を助ける力を貸してください……!!あの人は今、滅亡を迎える世界にいます……!どうか、私にあの人とまた会うための力をください……お願いします……!!」
2040年10月1日。メナージュ・ゼロは甲斐廉に出会った。大切な人を、助けるために。