「春日野臨界点」の発見について。
自分にとって「最強の嫁キャラ」とは何者であるか?
ある時、ふとそんな疑問が頭をよぎった。
高校生の時分、いわゆるオタク友達の間でアニメやゲームの話になる時、決まって出てくる話題があったのを覚えている。それは「○○は俺の嫁」という宣戦布告で始まる「嫁キャラ」についての論争。
この論争に客観的な勝ち負けの基準などは無く、「いかに相手を言いくるめる事ができるか」という観点によってのみ会話の着地点が作られる。
そして、こういった論争は着地する時、主題を見失っている事が殆どだ。
この手の論争が白熱してくると「最強の嫁キャラ(〇〇というキャラこそ自分にとって最強の嫁)」という論調で主張をし合っていたはずなのに、いつの間にか「あの子(キャラ)も俺の嫁キャラだ!」という、質より量と言わんばかりの論調にスリ替わっているのである。
そうなると行われているのは最早「最強の嫁キャラ」(唯一の嫁キャラ)に関する論争ではなく、「嫁キャラの人数を増やしたモン勝ち」=「どれだけの作品数を自分が見てきたか」といった別の論争なのだが、どういう訳か当人たちは本題に立ち戻ろうとする事はない。
というか、「最強の嫁キャラ(唯一の嫁キャラ)」に関する論争は毎回と言っていい程この流れになるので、もはや様式美である。
今振り返ってみると「なんと不毛な論争だったのだろう」とは思うのだが、決して無駄だったとは思っていない。なぜなら、この時の経験が原体験となり、私が「最強の嫁キャラ」について真剣に考え始めるきっかけになったからだ。
私は以前――この記事を書いている時から遡る事、7年程前――「嫁キャラ」という言葉を分析する為に「嫁|最も愛着が強い事柄に冠せられる称号」+「キャラクター|性質・属性」という要素に分解すると共に定義付けを行い、本(同人誌)を書いた事がある。
この「嫁キャラ論」をまとめた本は、校了した時点では間違いなく自身にとって最先端の持論を書き納める事ができた本だったと言える。
しかし、私はそれ以降も日頃から「嫁キャラ」という言葉について考え続けており、その中でだいぶ考え方が変わった部分もある。
つまり、「嫁キャラ」という言葉の定義付けはそのままにしつつ、当時、本の中で試みた考察――アプローチ――において、考えが深まっている部分が多分にあるのだ。
こういった能書きは、もはや私が趣味を攻略して来た道筋そのものなので、いずれ自伝に相当するものとして製本するつもりである。
そして、今回の記事は――前置きが長くなったが――その自伝に確実に載るであろう、「春日野臨界点」の発見について先に文章化しておこうという試みである。
・春日野臨界点
言わずもがな、造語である。
これは私が日頃から「嫁キャラ」という言葉について考え続けて辿り着いた地点なので、本来、文章化するには「これまで辿ってきた道筋を説明する」といった段階を踏む必要がある。
よって、最近の研究結果だけ掬い取ろうとしている今回の記事だけでは、いささか伝わりづらい部分が出てくるかもしれないが、この記事は自身の備忘録代わりとしての側面が強いのでご勘弁願いたい。
では、まず、結論を書こうと思う。
「春日野臨界点」とは最強の嫁キャラに辿り着こうとする過程で通過する「”既存のキャラクター”という指針で行ける範囲の限界点」の名称である。
私にとっての「最強の嫁キャラ」とは、ボーイッシュ系メガネ武道家ボクっ子腹筋女子の「九条サクラ」(自身が書き起こした小説に登場する女子)――端的に言うのであれば、いわゆる「うちの子」――という存在である。
「九条サクラ」が自分にとっての「最強の嫁キャラ(愛着の集積地)」であること自体は十年前には結論が出ていたのだが、この「九条サクラ」という存在の考察に十年の時間を要して辿り着いた地点が今回の「春日野臨界点の発見」である。
私にとって――あるいは人類にとって――「嫁キャラ」とは、自身の「好き」・「性癖」・「心地よさ」といった「愛着」の集積地である。
つまり、「このアニメのキャラ可愛いな」とか「このシチュエーションに萌える」とか、そういった自分にとって心地よさをもたらしてくれる要素が最大化された地点にいる存在こそ「嫁キャラ」(※1)と言えるのである。
※1:「嫁キャラ」が必ずしも人間の形を取っているとは限らない。
そして、私は既存のキャラクターの中で「自身の心地よさを100%満たしてくれる存在」を見つけるのは、困難な場合が多いと考えている。
例えば「金髪のメスガキ」・「見た目とは裏腹にめっちゃ礼儀正しい」といった要素が好きな人物がいたとして、この人物は――あるいは、殆どの人は――ある程度、条件を満たしたキャラクターに出会った時点で思考を停止させてしまう――「愛着の集積地」を十分に最大化する前に満足してしまう――のである。
端的に言えば、「それ以上の自分の心地よさや性癖を攻略する術」を見失ってしまうとも言える。いかに自身の性癖を刺激してくれるキャラがいたとしても、それが既存のキャラクター――他人が生み出したパッケージ――であるならば、そこが自身にとっての最深部であるはずがないのだ。
人間の原体験的な――あるいは初期衝動的な――欲求は、他人に用意されたものでは完全に満たされるはずがない。彼らは私ではなく、私は彼らではないのだ。
(二次創作において「原作にはない要素」=「作者の性癖」を反映させている場合、この欲求が漏れ出していると言える)
例えば「原作でこのキャラ眼鏡かけてなかったよね……?」といったような疑問は、そのキャラで辿り着ける臨界点を超えてしまった時に起きる現象である。
また、ここでの一連の主張には他人のスタイル――すなわち「既存のキャラクターを愛でる人」――を否定しようという意図は一切ない。あくまでも「『他の流派』には『他の流派の攻略』がある」ということを尊重する立場ではある。
ただ、語弊を恐れずに言うのであれば、そのような人たちは意識的にしろ無意識的にしろ、不自由な環境での恋愛を大切にする性質――障害があった方が燃える性癖――の類を持っているのだと思う。
(あるいは”盲目な恋”の最中であるのかもしれないが、それはそれで『幸せ』の在り方なのだろう)
壮大な話に聞こえるかもしれないが、この世に自身の性癖の真の理解者がいるとするのであれば、それは家族でも親友でも神でもない。
どう考えても、真の理解者がいるとするなら「自分自身だけ」なのだ。
例えば、私にとって「最強の嫁キャラ」(=九条サクラ)に最も近い要素を兼ね揃えている既存のキャラクターは、ストリートファイターシリーズに登場する「春日野さくら」というキャラであり、この「春日野さくら」は私の性癖を素晴らしく刺激してくれる非常に魅力的な存在であることは間違いない。
既存のキャラクターの中では間違いなく断トツで1位の――ブッチぎりで優勝している――存在である。
しかし、それはどこまでいっても他人に用意された存在なのである。
TCGで例えるならば、最も自分好みの構築済みデッキに過ぎない。もっと言えば、オリジナルデッキを構築したとしても「”TCG”という舞台――あるいは資本主義の道具――」の枠組みを突破しなければ、やはり他人の手の上で踊っているに過ぎないのである。
もしも、これよりも更に先へ進み、より自身の「愛着の集積地」の価値を最大化していこうとするのであれば、道なき道を進む必要がある。
これが、いわゆる「創作」と呼ばれる道である。
つまり、私にとって「春日野さくら」という名前の指針は「九条サクラがいる地点」へ向かう為の最も優秀な方位磁針として機能してくれていたが、その指針で行ける範囲にも限界があるという事を――『冴月の花 ―― 朔 ――』という小説を校了したことで――はっきりと確認したのである。
例えば目指すべき地点が「最も北に位置する場所」(嫁キャラがいる場所の比喩)だったとして、「春日野さくら」(既存のキャラクターの中で最も性癖を刺激してくれる存在)という指針を駆使すれば「稚内市宗谷岬」(既存の枠組みの中での最高到達点)までは辿り着くことができるだろう。
しかし、私にとって真に目指すべきは「最も北に位置する場所」=「北極点――あるいは『北極星』そのもの――」なのである。これより先は、「春日野さくら」(既存のキャラクター)という指針は全く機能しなくなる。
この「春日野さくら」(既存のキャラクター/他人に用意されたパッケージ)という指針で辿り着くことができる限界点、これより先は指針が機能しなくなるという地点に、私は「春日野臨界点」という名前を付けた。
これより先に進もうとするのならば、雄大な「創作」という名の海に飛び込んでいく必要があるのだ。
ここからは「道なき道」どころか、陸地ですらない難所を通過していく事になる。その難所とは深い海なのかもしれないし、もっと進んで行けば地球の常識が通じない場所――宇宙と云う名の星の海――に辿り着くのかもしれない。
私は空島に到達した某海賊王よろしく、「宗谷岬」(既存の枠組みの中で最も自分の性癖を刺激してくれる地点/春日野臨界点)に「我ここに至り、これまでの経験を最果てへと導く」と刻み、新作を執筆していくのである。
さあ。いざ、往かん北極星へ。
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