『地図にない場所』座談会(2)[4話]
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※元ネタの作品名が明記されない挿入画像については文末の元ネタ作品紹介をご覧ください
座談会メンバー紹介
ちろきしん
ゼロ年代生まれ、テン年代育ち(1999年生)。
ホリィ・セン
1991年生まれ。
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第4話
ちろ ゼロ年代だったらイズコは本当にあると思うんだよね。
ホリ 『きみのカケラ』はそうだね。かつて「太陽」と呼ばれていたもの探す旅。
ちろ 『蟲師』にも出てきそう。
ホリ 例はいくらでもある。『ONE PIECE』ですらそうだ。
ちろ 『ARIA』でいつもはないはずの道があって辿っていくとキャット・シーがいる。そんな話になるはずやねん。ゼロ年代だったら。
ホリ 自然学校に参加して洞穴があるなと思ったらココペリがいる、みたいなのでもいいね。
ちろ 超越的な場所に辿り着いて、気分が楽になったり、楽にならなかったり、大変なことに巻き込まれたりする。ところが、現代は外部に希望を見出せなくなってる。SNSの発達で現実世界にはどこにも外部がないということがわかってしまった。
ちろ 話を変えると「チー牛」という言葉が流行ってるけど、あれは非モテにはどこにも希望がないっていう価値観の表れ。悠人の絶望にも重なる部分があると思う。
ちろ 一方で価値観が一元化してる。『ラブライブ!』ではネットの再生数を競っているが、どれだけバズったかという目に見える数字が全ての世界。少なくともネットではそう。でもネットはもう世界そのものになってしまっている。年収にしろ何にしろ自分より上の数字を上げている人がすぐに目に入る世界になってしまった。そんな世界しか知らなかった悠人がコハクさんに感謝されて救われたのが前回の話。
ホリ ゼロ年代だったらインターネットがフロンティアだったけど、20年代はネットに載らないものの方がむしろフロンティアだよね。
ちろ 恋愛によって救われることにリアリティはない。恋愛ってのはもはや『アオのハコ』に出てくるような陽キャで真っ直ぐな連中の独占物になっている。『アオのハコ』のキャラみたいになれなかった人たちは陽キャの恋愛を覗き見ることしかできないんだよね。恋愛で救われない人がマジョリティになってしまった。
ちろ だからそれを逆手に取った感傷マゾが出てくる。感傷マゾ本流の人たちがゼロ年代懐古趣味なのは、恋愛に希望を見出せた時代だったからと解釈できると思う。
ちろ でも阪大感傷マゾ研究会のペシミ氏が提出している"青春ヘラ"は違う。ゼロ年代懐古趣味的色彩の強かった感傷マゾ本流とは全く違って、20年代の思想として完成されている。感傷マゾにあった取っつきにくさがきれいに取れている。
ちろ 青春ヘラというのはペシミ氏によると、
過去に青春が出来なかった後悔が軸
自己嫌悪を経由して自虐による肯定に至る
最終的には1がアイデンティティになる
現代の若者には「自分には何かが欠けているんじゃないか」「本来は何かができたんじゃないか」というのが時代の感覚だと思う。コロナの影響も大きいだろうね。
ちろ 『地図にない場所』にはそんな感覚がふんだんに散りばめられている。コハクさんはバレエに全てをつぎ込んだせいで、その間に本来得られるはずだった経験を失ってしまったっていう感覚なんだよね。悠人は無能で何も出来ない。悠人は自分には何もないって感覚だと思う。
ホリ コハクさんは失ったって感覚ではないと思うけどね。完全に生まれ変わっちゃったわけで、まっさらなんだよね。
ちろ 自分には何もない。何かが欠けてるんじゃないか。そういう感覚がイズコっていう設定に反映されている。
ホリ それはそのとおり。これって精神分析的な想像力で、自分の内面の深いところにある欲望のようなものがイズコに投影されるという、そういう設定だと思う。あと、小4と小6で流行るっていう時期の話も面白い。その時期って二次性徴くらいの時期だよね。大人になる過渡期の段階だから、子どもにしか見えないものとしてイズコは語られている。
ちろ コハクさんには子どもの頃の思い出がない。それが青春ヘラと重なるところ。そもそも大切な思い出がない。本来ならあったはずのものを味わえなかった。これが今の時代の若者の感覚や。コロナで奪われているからね。
ちろ ゼロ年代だったら違う。失ってしまったものはかつて本当に体験した大切な人との思い出やねん。『フタコイオルタナティブ』の「エメラルドマウンテン ハイ」だとか、やまむらはじめの『最後の夏~Second Take~』だとか。
ちろ 感傷マゾっていうときに指しているのはああいうものなんだよ。感傷マゾは失ってしまった大切な人との思い出を想定する。それが事実であれ虚構であれ。青春を味わえなかったから誰かの思い出で補うという側面が強いのが感傷マゾ本流。彼らは、作品の中の何がしかのリアリティのあるキャラクターの人生に沈滞していく。キャラの実存とリンクするんだよね。
ちろ 一方で、青春ヘラは何も思い出がないという感覚の方が強い。代用品は世間に流通している青春のイメージ。作品解釈の比重の大きかったエリート集団の感傷マゾ本流の思想を見事に大衆化したわけだ。代用品はあくまで記号化・非人格化された青春のイメージだから、罪悪感を感じる要素は薄くなる。これはイズコを探し求めるコハクさんも同じ。
ホリ それでいうと悠人にとっても、青春っていうものが存在してるのか怪しいところがある。
ちろ 僕も恥ずかしながら青春ヘラに共感するところがある。自分には何もないみたいな感覚は共有してる。僕の場合は積み重ねてきた失敗経験だった。自分はどこに行っても無能だったという経験が自分には何もないという感覚を支えていた。ゼロ年代だったら外部が提示される。恋愛とかね。
ちろ 僕が好きな『Kanon』の沢渡真琴も水瀬家との家族愛や祐一との恋愛によって救われてる。そういう、ゼロ年代にあったはずの外部が地図にない場所にはない。
ホリ イズコって「トラウマ」とは違うんだよね。感傷マゾ本流だったら、トラウマ的な概念と繋がりがあると思う。うまくいかなかった失敗の話だと思うし、その線ならば過去が存在する上でのイズコ探し、あるいは過去を巡る旅みたいな話になりうる。
ホリ でも、『地図にない場所』はある意味、過去がない人たちの話なんだよね。ゼロ年代的じゃない新しい部分だと思う。
ちろ 多分20年代ってこういう作品が増えていく。青春ヘラっていう概念はすごい。時代の感覚を巧みに捉えている。それが『地図にない場所』という作品の形を取って現れている。
ホリ 親との関係も『エヴァ』だったらトラウマ的な関係になる。そういうものがエヴァに乗るか否かに関わってくるわけじゃん。コハクさんの場合、そういう話にはなってない。
ホリ 親子関係の問題なのに。スクールカースト作品だったら、排除されて別の居場所を作るか、学校の内部で戦うと思う。悠人も別の居場所を見つけてはいるが、自分を排除したスクールカーストに抵抗しようという意識が見られない。完全に別のところで関係性ができてるから。うーん、でもあんま変わらんかも……悠人はゼロ年代的なところもなくはないのかな。コハクさんは20年代的だけども。
ちろ 悠人の最初の劣等感はゼロ年代性じゃなくてテン年代性、20年代性だと思う。テン年代は自己実現の時代なわけじゃん。学校で良い点数を取ったり、バレエで良い賞を取ったりするのが良いんだと。
ちろ もちろん、この自己実現というのは社会的に評価される形でないと許されない。そういう社会で生み出された悠人みたいな子どもが苦しむわけじゃん。今の時代だからこそリアリティを持つキャラだと思う。
ホリ あー、なるほど。俺はゼロ年代の人間だからスクールカーストみたいなのにこだわっちゃうんだけど、悠人はあまりそうではないんだよね。
ちろ ゼロ年代はスクールカーストの時代。学校社会に馴染めなくて屋上でタバコを吸うのがゼロ年代。
ホリ 屋上のゼロ年代性に関しては、宮台真司も似たこと言ってるね。宮台は「第四空間」という言葉を使っていたな。子どもたちにとっては家庭と地域社会と学校の三つの空間があるなかで、どこにも馴染めない人間が、都市の街中とか屋上みたいな第四の空間にある種のリアリティを投影する。
ちろ 安藤ゆきの前作『町田くんの世界』にもクラスに馴染めなくていつも屋上にいるゼロ年代メンヘラヒロインが出てくるんだけど、結局あっさり町田くんに救われてからは屋上に行かないんだよね。
ちろ ゼロ年代のエロゲだったら屋上でSEXするところやで。屋上が居場所ではありえなくなってる。
ホリ 屋上で逢瀬を重ねて、一緒にタバコ吸ったりして、最後はSEXに至るよね。
ちろ SEXはしないまでも、屋上で手を繋いで柵にもたれて二人で空を見上げたりする。
ホリ 屋上でグラウンドにいるやつを銃で撃つマネをするかもしれない。
ちろ 銃で撃たれて屋上から落とされるかもしれないな。
ホリ っていうか、そもそも女性作家がそんなキモいキャラ描かねえよ!屋上の話には男性のこじれた欲望が投影されてる気がするな。
ちろ 結局、何が言いたいかっていうとゼロ年代の生きづらさは所属の問題ってことなんだよ。テン年代は能力の問題。
ホリ 悠人は能力の問題で悩んでる。
ちろ 僕も能力の悩みが大きい。テン年代育ちだからね。
ホリ 俺の悩み方とは違うかもな。
ちろ ただ、僕は所属の不安も大きいからゼロ年代にこだわってるな。
ホリ テン年代において適応できなかった人間は能力不安が前面に出てくるということかな。
ちろ ホリィ・センは僕と違ってゼロ年代を生きてきたからな。
ホリ 「NO.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly One」の時代だからね。今だったら「ぬるい」って言われてヒットしませんよ。
ちろ 「現実が見えてない」ってね。
ちろ 思い出がないっていうのも、能力を上げることばかりに意識が向いちゃって結局遊べなかった。だから思い出がない。
ホリ 「スクールカースト」問題だと、陽キャグループに所属できるやつとできないやつの対比という話になるけど、『地図にない場所』はそういうの関係なく、そもそも能力のことで不安になるという話だもんね。
ちろ 能力主義の側面から見ても20年代性って位置づけられるんじゃないか。
ホリ 悠人もクラスで孤立するんだけど、友達グループに入れてもらえなくてしんどいって話じゃないもんなあ。こいつ誘われてるのに断ってるもんな。葛藤の仕方が能力主義的な葛藤だよね。
ちろ 僕も一時期人との関わりを一切断ち切ってたことがあったけど、ネットの人間関係だけがリアルなんだって思ってた。でもそこでも上手くいってなかったな。
ホリ 悠人の場合、所属に対する飢えはないんだよね。確かに学校に居場所はなさそうだけど、家族との関係も良好で、幼なじみもいる。人間関係作れなくて終わってるという話ではない。
ちろ 僕は所属がない劣等感もめちゃくちゃ強かった。サークルクラッシュ同好会をやってるホリィ・センとサークル退会者の会をやってた僕で、ゼロ年代研究会を立ち上げるのは当然の流れだったな。
ホリ 確かに。所属問題が根底にあるからね。所属はゼロ年代を語る上で重要なキーワードなような気がしてきたな。
ちろ 僕もゼロ年代作品にハマっていったのは所属に飢えていた時期だったよ。
元ネタ作品紹介
アニメ
『マブラヴ オルタネイティヴ』
白い髪のキャラクターが社霞。彼女は敵の地球外生命体・BETAの思念を読み取るために人体実験で生まれた人工ESP発言体(超能力者)。そのため人間らしい思い出がない。かつては普通の人間だった人類の切り札・00ユニット(赤い髪のキャラ)の過去の思い出を自分の思い出と混同している。
『機動戦艦ナデシコ』
アニメ18話のエピソード。戦艦ナデシコの天才オペレーター・ルリはナデシコを巨大軍事企業ネルガルにスカウトされるまでの記憶が無い。自らの過去に疑問を持ち続けたルリは、生まれの父母が見つかったことをきっかけに自分の過去を探す旅に出る。そこで明らかになったのは受精卵の遺伝子操作によって生まれ、父母役の粗悪なAIによって育てられた自分の過去だった。
ゲーム
『天使のいない12月』
退廃的な作風の美少女ゲーム。精神を病んだ少年少女たちを描いたシナリオはカルト的な人気がある。
『ジサツのための101の方法』
シナリオ・山田おろち(金月龍之介)の美少女ゲーム。不条理な作風はカルト的な人気がある。
『リトルバスターズ!』
Keyが2007年に出した美少女ゲーム。引用したエピソードはシナリオ・麻枝准の沙耶ルートから。