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「チェシャねこ同盟」2

 ふしぎな少女は同じ年の夏、再びトマスの前に現れた。彼が両親と一緒に、田舎にある親戚の別荘を訪れていた時だ。
 庭番が飼っているテリーのミックス犬のキャプテンを連れて屋敷の周りの森や川辺を探検するのが、彼の夏休みの愉しみである。その日のトマスと相棒のキャプテンは、幻のレインボーバードを追って海賊が隠した宝を探す冒険に出ていた。ところが二人は、うっかりジャングルを抜けて農家のジープしか走らない細道に出てしまった。少し興ざめしながら、トマスは汗を拭いつつ地平線までまっすぐ続く細道を眺めた。すると、道の彼方から人影がこちらに向かってくるではないか。
 キャプテンがその人影に向かってしっぽを振りながらキャンキャン吠える。トマスは最初、またあの幽霊もどきかと思った。その人影がフリルのついた日傘にロングドレスという古風な出で立ちをしていたからだ。時々思い出したように、日傘がくるくる回っている。
 日傘の持ち主はトマスとキャプテンに気がつくと、軽く手を挙げてひらひらと優雅に振った。トマスの肌にぞわっと鳥肌が立つ。
 「ご機嫌いかが?」
 その声を聴いて、ようやくトマスは少女のことを思い出した。
 「なんだ、アイツじゃないか」
 トマスは呟き、キャプテンを見つめてにっこりと微笑んだ。
 「ボクのダチさ、相棒」
 初対面の人物を前に興奮したキャプテンはキャンキャンと吠えながら、ちぐはぐなステップを踏むような足取りでトマスと少女の間を行ったり来たり駆け回った。少女の髪は以前と同じように長く、さらさらと風に靡いている。やわらかそうな白のコットンワンピースは、たっぷりとフリルがついていて裾にライラック色と金の糸で飾り縫いが施されていた。にもかかわらず、近づいてみれば少女は裸足だった。
 「あなたの犬?」
 「いや、友達のだよ。キャプテンって言うんだ」
 「へえ。で、その友達は?」
 「プラムの樹を切っているよ」
 「それはそれは」
 少女は目を細め、神妙な顔で頷いた。
 「君に会いたいと思っていたんだ」
 「そうこなくっちゃ」
 少女は真剣な表情で頷く。トマスは少女の奇妙な反応にクスッと笑ったが、少女はキャプテンのしっぽに気を取られて気付かなかった。
 「ねえ、あれから君はどんなのを見た?」
 少女は目を丸く見開き、唇を少し開いて首を傾げる。トマスは細道の脇の樹の柵にもたれかかり、最近じぶんが目撃した幽霊もどきたちや漏れ時空の様子を詳しく話して聴かせた。
 「ときどきもうこんなのは見たくないって思うときもあるんだ。気が滅入るようなものが見えちゃったときにはね。分かるだろう?周りの人たちはニコニコしているのに、自分だけがグロテスクなものを目撃した時なんて、損しているような気分になるよ」
 トマスの話がそんな言葉で締めくくられると、一呼吸おいてから少女は口を開いた。
 「ねえ。だけど、生命ってそもそもがグロテスクでしょう?美しくて神秘的で、なんてことしか言わないのはお茶会でケーキにかぶりつくのを我慢するくらいバカバカしいわよ。生命がグロテスクじゃないフリをするなんてナンセンスだわ。だから、グロテスクなものを見たって、ブーブー文句は言えないわけ。だって、そうであるものを、そう見ているだけなんだから」
 またまた少女はふしぎなことを言い出す。トマスは怪訝な表情を隠し、一言も漏らすまいと耳に神経を集中させた。
 「それに、あなたまさかどんな瞬間だって矛盾する二つのものでできているってことを無視するつもり?
 この宇宙は隅から隅まで陰陽が流行っているっていうのに。
 どこをとっても陰陽、陰陽、陰陽。
 バカの一つ覚えみたい陰陽押しなのよ。
 どの領域にフォーカスして、どの部分に意識を浸透させていくか、という違いはこの事実の前に無意味でしょ。
 どの瞬間も、どんな物も、51パーセントのポジティブと、49パーセントのネガティブで出来ているってこと、お忘れじゃないでしょうね。
 あなたが落ち込むにしろ、有頂天になるにしろ、あなたの責任でしかないのよ。だって、絶えず事象のポジティブとネガティブのパーセンテージは変わんないんだもの」
 「君、本気でそう思っているの?」
 「あなた、わたしをからかっているの?」
 トマスはふるえるように小さく首を横に振り、それから少し考え込んだ。
 (まるで奇想天外な戯言に聞こえるけれど、もしかして彼女が言うことがごくごく当たり前の常識で、僕が知識を学び損ねているんだったらどうしよう。
 あまりにも当然のことすぎて、父さんも母さんもマーサもゴードン先生も、僕が当然分かっているものと思っているのかもしれない。
 僕が時計の読み方を理解していないことを知ったときの母さんの驚きようったら!
あの授業のときだって、クラスのほとんどが時計盤の読み方を知っていたものな)
 トマスは動揺を鎮めるためにしゃがみ込んでキャプテンの頭を撫でた。少女は彼の戸惑いなどまるで気づかず、柵にもたれかかって気楽な調子でくるくると日傘を回した。
 「わたしはまじめだから、いつも、どんな物に対しても、誰に対しても、2パーセントを捉えることに意識を研ぎ澄ましているわよ」
 「2パーセント?」
 トマスは顔を上げる。日傘を回す手を止め、少女はこくりと頷いた。
 「どんな瞬間にも、どんな人にも、どんな物にもネガティブはあるけれど、半分ずつじゃないのよ。少しだけポジティブが多いの。だから、その部分をいつもキャッチしていれば、まあ全体としての味わいが苦渋に満ちたものになることはないじゃない」
 トマスはぽかんと口を開けた。少女は暑さに顔を歪めて空を見上げ、ふうと息をつき続ける。
 「そりゃあ色んな出来事が絶え間なく起こるし、色んな感情が沸き上がってくるものよ。でも、それに巻き込まれてしまったら、酔っぱらっているようなものでしょう?
 その2パーセントを受け取ることは、この瞬間に懐中電灯をピンポイントで当てるようなものよね。物事がよく見えるようになるわ」
 「それって、どうやるの?」
 「決まっているじゃない。居住まいを正して、気持ちを謙虚に持つのよ」
 「なんだか難しそうだなあ」
 トマスが気弱な声を出す。
 「時には、ね。岩窟の修道女になりきると良いわ」
 「なにそれ!?」
 「たとえよ」
 薄目を開けてトマスを見やりながら、どこか窘めるような口調で少女は言った。
 「要するに、期待や目標ときっぱり決別しなさいって意味じゃない」
 「ああ。そうか。でも、それってどうやるの?」
 少女はやれやれと言わんばかりにため息をつく。
 「信頼に決まっているでしょ。赤ちゃんみたいに、ママの腕の中で抱かれていると思っていればいいの」
 「ふーん。それでいいの。なんだ。じゃあ、簡単そうだな。でも、そんな風にしているとやがて退屈になるかもね」
 「そうねえ。確かに我慢できない人が多いわ。人間は、運命の手綱を握っているのは自分だと思いたいってことよね。たとえ原子爆弾のスイッチを押すにしたって、自分に決定権があったと思えるならそれでも良いと思うんじゃないかしら」
 少女はあっさりとした口調で言う。
 「まさか!そんなわけないじゃない!」
 トマスは滅入ったような顔で言った。どうかしら、というように少女は肩をすくめる。
 「まあ別に何もかも自分でやろうとしたっていいのよ。そうすると人生は成功あり失敗あり、敵あり味方あり、ドラマチックになるの。そっちの方が好きな人がいても、不思議じゃないわ。だって、最近の人間って基本的に割と暇みたいだから。人間は暇っていうのが苦手なんでしょう?疲れていないと、生きている実感が湧かないみたいに見えるわ」
 少女はトマスの前ではじめて困惑したような表情を浮かべた。
 「わたし、よく分からないけれど、たぶん、目の前に人参がぶら下がってないと、生きていることの自由さに耐えられない馬もいるってことだと思うの。ゼロから何かを生み出すことって、ちょっと不安的な感じがするものね」
 少女は考え考えそう述べた後、自分なりの解釈に納得するように大きく頷いた。
 「そういうことなんでしょう、きっと」
 トマスはのろのろと立ち上がり、ぽんと柵に飛び乗って腰かける。
 「じゃあ、君はつまり…」
 言葉がなかなか出てこない。彼はくしゃくしゃと頭を掻いた。
 「そのー、この世界は、すべてがグロテスクで、すべてがネガティブで、でも、ほんの少しポジティブが勝っているって、そう言うんだね」
 「そうよ」
 「ふーん。まあ、それは、なんだか、いい感じだね」
 少女は柵から身を起こしトマスの前に立った。
 「ところで、わたしお腹が減ったの。この辺で美味しいバーベキューでも誰かやっていないかしら?」
 突飛な発言に困惑しきり、トマスは情けない顔で首をすくめた。
 「そんなこと知らないさ」
 「バーベキューに、よく冷えたシャンパン。そんな気分だわ!」
 「君って、本当に変わっているなあ」
 「あら、この組み合わせ嫌い?」
 「さあね。でもさ、君、どちらかっていうと、お茶会にでも呼ばれているみたいに見えるね。靴を履けばだけど」
 「実はわたし、お茶会から逃げているところなのよ。あんなの耐えられないわ。お行儀良くするなんて、わたしのプライドが許さないの」
 「ああ!もしかしてこの前もそうだったんじゃないの?あの時もめかし込んでいたもんね」
 少女は厳めしい目つきでトマスを見る。
 「告げ口しないでしょうね?」
 「まさか。君の家の人のこと知らないじゃない。僕には関係ないしね」
 「NASAにも通報しない?」
 トマスは声を上げて笑った。
 「しない。誓うよ!」
 「それならいいの」
 少女は日傘を勢いよくクルンと回すと、
 「じゃあ、行くわ。お腹が減って倒れちゃう」
 と言って、一本道を歩き出した。
 「素足で熱くないの?」
 少女の背中に向かってトマスは叫んだ。
 「気持ちいいわよ」
 少女は振り返ってそう言うと、ふふんと笑った。
 「本当に…?」
 トマスはそう呟いてから、思い切って革靴のひもを外しにかかった。靴下をすぽっと脱ぐと、それだけで爽快だった。
 「行くぜ、相棒!」
 トマスはキャプテンに呼びかけ、靴と靴下をぶんぶん振り回しながら屋敷へとまっしぐらに駆けだした。キャプテンは靴下と靴ひもにからかわれながらあっちもこっちも気にしつつトマスと併走する。森を抜けて足取りをゆるめると、トマスのお腹がぐうとなった。鮮やかに咲き誇るエニシダの垣根を越えると、屋敷の調理場からバーベキューではなく、パイを焼く香ばしい匂いがした。
 彼はその日以来、少女のことを心の中で『51パーセントガール』と呼ぶようになった。アリスの誘惑症候群という言葉を知ってからも、それは変わらなかった。
 
                ~*~


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