パワハラの苦しみ
※今回のお話はパワハラの被害者の物語です。もしかしたら読んで辛くなる方もいるかもしれませんので、不安な場合は解説文だけをお読みください。
ミニストーリー
森永は、自分のデスクに置かれた資料を見つめていた。まだ半分も進んでいない。締め切りは明日だ。けれど、頭の中は真っ白で、何も考えがまとまらない。風間課長にまた叱られるのだろうか。その思いが頭をよぎるたびに、心臓が跳ね上がるように早鐘を打った。
「どうして自分はこんなにダメなんだろう…」森永は、自分の無能さに対して深い自己嫌悪を感じていた。いつからこうなってしまったのか、彼自身もよく分からない。ただ、気がつけば、仕事をすることが怖くなっていた。
初めの頃、風間課長には本当に感謝していた。新入社員として入社してしばらくは、森永はやる気に満ち溢れていた。自分も一人前のビジネスマンになりたい、そう思って努力してきた。小さい頃から少し周りとずれていることがあり、友達から笑われることも多かったが、仕事の場ではそんなことがないように頑張ろうと思っていた。
だが、仕事も思うように進まなかった。先輩に教えてもらっても、うまく理解できないことが多く、何度も「もういい、俺がやる」と突き放されることが増えていった。森永は次第に、自分がチームにとって重荷でしかないような気がしてきた。
そんな中で、風間課長だけは自分を見捨てることなく、指導してくれた。最初は軽い冗談を交えながら、時には「またやっちゃったのか?」と笑いながら指摘してくれる。森永は、それが課長なりの愛情だと思って嬉しかった。自分の成長を見守ってくれているのだと感じ、食らいついていこうと思っていた。
けれど、次第にその「いじり」が怖くなり始めた。ミスが続く度に、風間課長のトーンが変わっていった。冗談交じりの指摘から、次第に声が大きくなり、厳しい言葉が投げかけられるようになった。「何回言ったら分かるんだ?学生でも分かるレベルだろう」と言われる度に、森永は心が萎縮していった。
それでも、風間課長が自分の成長を願って指導してくれているのだと思いたかった。課長の期待に応えたい、そして自分も仕事ができる人間になりたい。そんな思いがあったからこそ、毎日頑張っていた。
しかし、それは長続きしなかった。次第に課長を目の前にすると、頭が真っ白になって、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。資料を作ろうとしても、何を言われるのか分からず、どんなに頑張っても怒られるような気がしてしまう。課長に見せるための資料を作るのに何日もかかり、そのせいで「仕事が遅い」と言われるようになった。
今日も同じだ。課長のデスクに進捗報告を持っていかなければならない。足が重い。まるで自分の体が鉛でできているかのようだ。玄関の扉を開けるのに数十分かかった朝のことが頭に浮かぶ。「今日もまた怒られる」その思いが、何度も心に響いてきた。
意を決して、森永は課長のデスクに向かう。デスクの前に立ち、緊張で喉が乾くのを感じながら「課長、進捗報告です…」と声をかけた。
風間課長は、冗談めかして「もしかして、まだできてない?」と笑いながら言った。しかし、その笑いには苛立ちが混ざっていたのが分かった。森永は目を合わせることができず、ただ「いえ、一応できました」と小さな声で資料を差し出した。
少しの沈黙の後、風間課長の低い声が静かに響いた。
「全然使えない」
森永の胸の中で何かが壊れる音がした。自分が無能であることは、もう分かっている。何をやっても、結果は同じだ。課長の期待に応えられない自分が悪い。
「何回言ったら分かるんだ?バカなのか?」何も反応しない森永へ苛立ちをぶつけるようだった。
その放たれた一言が、森永の心にドスンと重く響いた。
「いえ」と精一杯の声を発したが、相手に届くことはなかった。
頭の中で何度も自分を責める。「自分が悪いんだ。だから課長に怒られるのも当然だ」そう思い込もうとしていた。
次第に、課長の声が遠くなり、森永は自分がその場で立ちすくんでいることしか分からなかった。
結局、今日もまた怒られた。そして、誰も自分を助けてくれることはない。自分はこの場所にいていいのだろうか?会社のお荷物なのかもしれない。
そんな考えが頭の中から離れずに、森永は一日を過ごした。長い長い1日が終わり、残業する同僚を傍目に逃げるように退社した。
翌日彼は家のドアを開けることができなかった。
何度も何度もドアを開けようとしたけれど、どうしても開けることができなかった。
悲しみと絶望と孤独が押し寄せ、ブルブルと振動する鞄を抱えながら、一人玄関のドアの前で座り込んでいた。
解説
パワハラ被害者の心理状態
このミニストーリーでは、パワハラ被害者がどのように感じているかの例を描いています。すべての被害者が同じ状況にいるわけではありませんので、一例と思って読んでください。
時に、被害者は加害者の言動を全部ではないにしても正しいものと受け止めてしまうことがります。特に、上司や指導者の言葉に対して「自分のためを思っての指摘」と捉え、相手に応えようと努力するものの、うまくいかないことで自分を責めてしまいます。
自己否定の罠
パワハラを受ける人は、相手の叱責や指摘を「自分が悪い」と考えがちです。相手が正しいと信じ、「もっと頑張らなければ」と無理をすることが増えていきます。しかし、頑張っても成果が出ないと、次第に自己否定に陥り、「自分はダメな人間だ」「できない人だ」という思い込みが強まります。こうした状態が続くと、被害者は精神的に疲弊し、自己評価がどんどん低下してしまうのです。
孤独感と助けを求める難しさ
自己否定に陥ると、自分で解決しなければならないと考えがちになり、他人に助けを求めることが難しくなります。頑張ろうとしているのに頑張れない自分を責め、周囲の目が気になり、次第に孤立してしまうのです。また、助けを求めたい気持ちがあっても、どうしても「自分が悪いから」と思い込んでしまい、他人に話すことをためらいます。その結果、さらに孤独感が強まり、精神的な負担が大きくなります。
一人で抱え込まずに相談してください
ここで大切なのは、自分が悪いと思い込まずに、傷ついた心を誰かに話すことです。パワハラの被害に遭うと、自分の中で問題を解決しようとしがちですが、誰かに話してみると少し心が軽くなります。人によっては心から寄り添って助けてくれる人もいるはずです。
職場に安心して話せる人がいないと感じるかもしれませんが、人事部や保健師、労働組合など、相談できる相手がいる場合が多いです。会社によってはEAP(従業員支援プログラム)やカウンセリングサービスなど、専門家のサポートを受けられる環境が整っていることもあります。
会社内になければ、カウンセリングや心療内科など受診したり、労基署内に総合労働相談コーナーに相談するのも手です。
どうか、一人で抱え込まずに、誰かに相談してみてください。