世界には主観しか存在しない。

「もっと客観的に考えろ」と言う人は多いが、それは本当に意味のある助言なのか? 私たちは世界を主観的にしか認識できない。目の前のコーヒーを「苦い」と感じるのも、「ちょうどいい温度だ」と思うのも、すべて主観の産物だ。科学的な測定値があったとしても、それを「高い」と思うか「低い」と思うかは完全に個人の感覚による。そして、その個人の感覚すらも、脳の知覚の仕組みによって作り出されている。

この視点を極限まで突き詰めたのが、ジョージ・バークリー だった。彼は「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi)」と主張し、物質そのものの客観的存在を否定した。目の前のリンゴは「リンゴそのもの」として存在するのではなく、「私がリンゴを見ている」という知覚の中にしか存在しない。誰にも見られていなければ、そのリンゴは存在しないも同然というわけだ。

一見、突飛な主張に思えるが、現代の認知科学や意識哲学はバークリーの考えに近づいている。ドナルド・ホフマン は「私たちが知覚している世界は、脳が作り出したインターフェースに過ぎない」と述べている。私たちが見ているのは「本当の現実」ではなく、脳が都合よく解釈した「使いやすい現実」に過ぎないのだ。

「客観」という幻想

「客観的な事実」とは何か? 科学的データ、統計、物理法則── こうしたものが客観性の象徴とされる。しかし、それらを「客観的」と考えるのも、また人間の主観的な認識の枠組みによるものだ。たとえば、「平均気温が30度」と言われても、それを「暑い」と感じるかどうかは人による。データそのものはただの数字の羅列だが、それを「何を意味するか」と解釈するのは主観的なプロセスなのだ。

フランソワ・ラリュエル は「すべての哲学は、特定の視点を前提にしている」と指摘した。つまり、「完全に中立で、どの視点にも依存しない哲学」というものは存在しない。これと同じで、「完全に客観的な視点」というものも存在しない。客観とは、単に「みんなが同じように考えることに同意した主観の集まり」に過ぎないのだ。

「客観的に考えろ」とは「お前の主観を捨てろ」ということ

「もっと客観的に考えろ」と言う人の多くは、実際には「自分の意見こそが最も客観的である」と信じている。つまり、「俺の意見は主観ではなく事実だが、お前の意見はただの感情論だ」という力学が働いている。

ミシェル・フーコーは「権力は言説の中にある」と言った。客観的であるかのように装うことは、「誰の視点を正当なものとし、誰の視点を無価値なものとするか」を決める行為にほかならない。たとえば、かつて「地球は平らである」は「客観的事実」だったし、「女性は知的に劣る」も「科学的に証明されていた」とされていた。これらの「客観的事実」は、その時代の支配的な主観によって形作られていたに過ぎない。

つまり、「客観的に考えろ」という言葉の本質は、「支配的な視点に従え」「お前の主観を無効化しろ」という命令なのだ。

それでも「真理」は必要か?

ここで疑問が湧く。「主観しかないなら、真理は必要ないのか?」

いや、むしろ逆だ。真理を求めるためにこそ、主観が必要なのだ。

主観のない世界では、何かを「真実」と感じることもできなくなる。たとえば、「人間は自由であるべきだ」「戦争は悪である」といった価値判断は、客観的データから導き出せるものではない。これらの真理は、主観的な感覚や倫理観によってのみ見出される。

現代哲学者のスラヴォイ・ジジェク は、「純粋な客観的視点など存在しないが、それでもなお真理を求めることが重要だ」と述べた。彼によれば、「現実とは、私たちがそれをどのように解釈するかによって形作られるものであり、解釈を変えることで新しい現実を生み出せる」。

つまり、真理とは固定されたものではなく、主観的な探求によって常に更新されるもの だ。たとえば、かつては「奴隷制は必要悪」だったが、主観的な倫理観の変化によって、それが「普遍的な悪」として認識されるようになった。もし「客観的なデータ」だけを基準にしていたら、奴隷制度は合理的な経済システムとして存続していたかもしれない。

結論── 主観を持て、そして貫け

「客観的であれ」という言葉に騙されてはいけない。それは「自分の考えを持つな」というメッセージに等しい。

大切なのは、主観を鍛え、深め、そしてそれを貫くこと だ。単なるデータや事実ではなく、それをどう解釈し、どう行動するか。これこそが、真理を探求する唯一の手段である。

客観的に見ようとすることは、「自分の目を閉じて、他人が見る世界をそのまま受け入れる」ことに近い。しかし、私たちはそれぞれ異なる目を持ち、異なる感覚を持つ。だからこそ、世界をどう見るかは 「私」が決めるべき なのだ。

結局のところ、世界は主観でしか存在しない。だからこそ、誰かの「客観」に流されず、自分の「主観」を生き抜くべきなのだ。真理を求めるなら、なおさら自分の主観を磨き、それを疑い、それでも信じることが必要だ。

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