旅の記録|"マザコン感?"からの卒業
僕がここ半年間歩んできている旅について、(まだ旅は途中だが、)これからの人生の大きな転換になりそうな気がしている。
この記事を書くことで、自分の中での癒しが進むだけでなく、変容のプロセスの一例として誰かのために役立てばと思う。
とはいえど、何よりも自分自身が言葉に残してみたいという気持ちが一番大きい。そんなきっかけで、この記事を書いてみた。
旅のはじまり: たくさん悪友作って、多方面で悪巧みしたい。
今年の1月くらいに、こんなことを考えていた。
一昨年まで、「自分の欲を見て見ぬふりをする倹約生活」をしていた。正直、無理をしている感覚はなかった。ただ、昨年「自分の欲に素直な生き方をする生活」をしたところ、心が今まで以上に豊かになっていくことを経験してしまった。生活していくだけの必要最低限の収入は得られていたが、もっともっと自分の内側から出てくる欲があることを許可し、自分に素直に表現すると、もっと心豊かな人生になるんじゃないかと思った。
例えば、今年の1〜2月にカミさんが「オーストラリアに行ってコアラを抱っこしたい」と言った。共感した。一度きりの人生だもの。そういう欲を素直に叶えたいと思った。だから、必要最低限の収入ではなく、必要十分な収入を得たいと思った。
収入を増やすためには、仕事を増やせばいいし、増やすのは簡単だった。ただ、それで魂がすり減るような仕事が多くなるのは本末転倒だと感じた。
「嫌な仕事をして魂をすり減らし、コアラを抱っこして癒されて、また仕事に戻って魂が磨り減る」というゼロサムゲームのような感覚はお断りしたかった。仕事でも魂が潤い、そこで得た収入でさらに魂が潤うというスパイラルにしたいと思った。
そこで、どんな仕事や働き方だと魂が潤うのかを考えた。すると、「多方面でいろんな悪友たちと悪巧みをしたい」と思った。その悪巧みを通じた価値提供の対価として、もっと収入が入ってくるような仕事に巡り合いたいと思った。そんな働き方をしたいと考えた。
そんな豊かなお金の貰い方と使い方ができると、豊かなお金の好循環が生まれていいなと思った。これが僕にとっての旅の始まりだった。
テーマ: 自分の価値の責任を取る
旅の始まりとして、まず悪友をもっと増やしたいと思った。
しかし、これまで僕はずっと一匹狼っぽかった。限られた人とは関係性を深めることができるが、それができるのはほんの一握りの人だけで、広がっていくことはなかった。「悪友募集!」とやっても、全然集まるイメージがなかった。「そもそも誰が僕と組みたいんだ?僕にどんな価値があるんだ?僕と組むメリットって何?」と自問自答していた。
そんな悩みをある人に相談すると…
…と言われた。「確かに。そりゃそうだな」と感じた。
発見: 愛されている自分。リソースフルな自分。
僕は、もともと落ち込みやすいタイプだった。それでもここ5年くらいかけて、物凄い改善し、落ち込み難くなっていた。ただ、それでもワークショップの納品の時だけは例外で、納品後90%の確率で凹んでいた。訳もなく自暴自棄になり自己嫌悪になっていた。
そんな僕にとってフィードバックは、「ネガティブキャンペーンの嵐」でしかなく、自分の駄目出し行為でしかなかった。だから長年ワークショップをやってきても、アンケートなんて取らないし、取っても見ない。見てしまった瞬間、廃人になる。どんなに最高の場を提供できても、ポジティブフィードバックの嵐でも、3日くらい寝込んでしまう。だから一切見ないようにしていた。
しかし、その方からもらったアドバイスに納得感があったので、勇気を出して、これまで一緒に働いてきた仲間たちからフィードバックをもらおうと決めた。「僕ってどんな人なんですか」「どんな価値があるんですか」「勿体ないなと感じることはなんですか」「どんな案件だったら一緒に仕事したいですか」という質問をインタビューした。
インタビューしてみると驚愕だった。自己認識と他己認識が天と地の差ほど違う。「自分はこう思っていた。悪いパフォーマンスをしていた。こんな自分はダメだ」と攻め続けているが、周囲からは「素晴らしいパフォーマンスだったよ」と言われる。自分自身の輪郭がはっきりし、自分の強みや弱みが明確になった。それと同時に、「自分は本当はこういう人だったんだ」という自己認知ができるようになり、それは癒しや安らぎをもたらしてくれた。
と同時に、過去僕が受け取ってこなかった数々のGoodなフィードバックを思い出し、自分がどれだけ愛されていたのか、そしてリソースフルなのかを思い出すきっかけとなった。
発見: 望まない未来を引き寄せるのは僕自身
ただ、インタビューの中で一つ気になることがあった。
…と言われた。フィードバックを受け取らないことは相手を傷つけるんだと気づいた。さらには…
…と言われる。結局、GoodなフィードバックでもMoreなフィードバックでも、いずれも相手を傷つけていることがわかった。
つまりは、僕のフィードバックを受け取れない体質、ワークショップ後に自己嫌悪・自暴自棄になる体質が、一緒に仕事をした相手との間に亀裂を入れていた。我々の関係性にいつも水を差していた。「大成功した!よし、飲みに行こうぜ!」と言いたいのに、横にお通夜みたいな人がいる。「そりゃ悪友できないよな」と気づかされた。
僕自身の特性が、関係性の発展や進化にブレーキをかけていた。
望まない未来を自分で創っていたのは、自分自身だった。
発見: 稚拙なLittle自分が、そこにいた
そうなると次は、「なぜ僕は納品後に自暴自棄・自己嫌悪に陥るのか?」「なぜフィードバックを素直に受け取れないのか?」ということに焦点が当たった。いくつかのワークショップの納品後に自己嫌悪の意識に飲み込まれ過ぎない程度に冷静さを保ちながら、内側で何が起きているのかを観察してみることにした。
すると、頭の中で「自分のあれが駄目だった。これが駄目だった。一緒に仕事をしていた誰々さんのあれが素晴らしかった。でも自分はここは駄目だったんだ。自分がもっとこうすれば、もっと良いパフォーマンスができたのに」とネガティブ・バーゲンセールしていて、自分をフルボッコにしている。そんな自分の愚かさに馬鹿馬鹿しさを感じながらも、更に「そんなに自分のことを責め続けた先に何があるのか?」という問いかけをして、その奥に何があるのかを探って見た。
すると、「こんなに駄目な僕なんだよ。かわいそうでしょ?誰か手を差し伸べてよ」という稚拙な声が聞こえてきた。納品後に自暴自棄や自己嫌悪になるのは「お客様に最大の成果を出せなかった」からの反省ではなく、周囲から同情や慈悲の感情やケアを引き出すための行為だった。
気持ち悪いと思った。
でも紛れもなく自分であることは認めざるを得なかった。
誰かの同情を引き出して「こんなクソみたいな僕でも生きていていい」という安心感と許可を人から得ようとしている。そんな稚拙なパターンが自分の中で暗躍していた。表向きの目標は「お客様のために究極の品質を求める自分」だが、実は「救いようのない自分であることを通じて周囲に構ってもらい、ケアを引き出そうとしている」。そんな自分を支配している構造が見えてきた。
そこで声を発していた「稚拙なLittle自分」は確かにそこにいた。そして、何か確実に「癒えていない痛みを抱えている」部分があることがわかった。
発見: 2人の知人の存在
実は、半年前から別のプロセスも起きていた。
そのプロセスが、後にこの「癒えていない痛みを抱えている」部分と合流してくる。
その頃から、僕の脳裏に「卒業」という2文字が、チラチラするようになった。その時は、何を指しているのかはわからなかった。
そんなSさんのことを思い出しながら、改名のこと、納品に来れなくなってしまったことをぼんやり考えていた時、また「卒業」という2文字が、脳裏にチラチラしていた。
いてくれる安心感、いなくなる不安感、そこからの卒業。
この2人に母性を投影していたことに気づいた。
偶然なのか、その時イヤホンから流れていた曲は、「残酷な天使のテーゼ」(母親から子が旅立っていくことをテーマにした曲)だった。
発見: 満たされていない母性へのニーズ
自然と、自分の母との記憶に焦点が当たり始めた。
5歳の頃にアメリカに渡米したが、「英語も話せず運転もしたことがない母」は、突然「英語しか話せない車社会」にぶち込まれて、3人兄弟の学校の送り迎え食事作りをワンオペで回すという、緊張感とカオス感の中で子育てをしていた。大人になって、子育てをしている今ならわかる。それがどれだけ大変なことだったかと。しかし、幼少期の頃の僕には、そんなことはわからない。
だからなのか、幼少期の頃の母の記憶は、困った顔、悩んでいる顔、悲しい顔、険しい顔ばかりだった。
いつだったか、母が僕に言ったことがある。「お母さんは、落ち込むと歌を歌って気持ちを落ち着かせるの」と… 以後、キッチンから母の歌声が聞こえる度に、「僕が何かをしてしまったのではないか?」と不安になった。
幼少期の母の記憶を思い出してみると、記憶喪失になっている部分もあるので断片的だが…
幼少期の頃の写真をみると、母が僕と遊びながら笑っている写真がある。その写真をみる度に、違和感を感じる。「お袋、こんなに笑っていたっけ?」と。
記憶なんて曖昧なもので、人の記憶なんてどこに焦点を当てるかで、事実なんて歪んでいくものだ。 だから実際の母は、どうだったのかは、正直わからない。成人以降の母の記憶は、母性溢れる人だと思っている。
しかし、僕の記憶上の幼少期の頃の母は、僕の存在そのものを認知してくれる安心感を与えてくれるような記憶ではなかった。母性へのニーズが満たされていないことに気づいた。
核心に近づいた安堵感を感じながら、「46歳になった今でも、“ゆりかご”を求めていたんだぁ〜」と心の中で呟いた。
その瞬間、ハッとした。
鳥肌が立った。
旅の続き: 最大のデーモンは、「母からの卒業」
まだ旅の途中だが、僕が向き合わなければならない最大のデーモンは、「母からの卒業」だと思った。
僕は、親元を離れて暮らしていることが長かったので、自立している方だと思っていた。しかし、記憶上の母の影響がこれほどまでに無意識のところに広範囲に及んでいた。
記憶上の母から受け取れていない母性。
46歳にもなってその傷は癒えておらず、勝手に知人に投影していた。
母性へのニーズを満たすために、自己嫌悪や自暴自棄になって、周囲からケアを引き出そうとしていた。
それが仲間との関係性を深め、豊かにしていくことを妨害していた。
「多方面で悪友を創って、悪巧みしたい!」という目標を叶えるために、まさか幼少期に満たされなかった母性へのニーズに取り組むことになるとは、想像もしていなかった。
成人になった自分にできることは、母や知人に母性を求めることではない。
自分自身でその母性へのニーズを満たすこと。
これからが旅の本番だ。
旅の途中経過を言葉にしてみた。
誰かの参考になれば嬉しい。