「チブ」の可能性を切り拓く
先日友人から受けたフィードバックから、大きなインスピレーションを頂きました。
その友人は…
…と仰ってくれた言葉を…
…と、私が聴き間違えてしまった。しかし、妙に今の活動の核心を突いたような感じがして、ツボに入ってしまった。
では、「恥部」と私の活動がどのようにリンクしたのか?そのあたりを自分のためにもこの記事で言語化してみようと思う。
「恥部」とは何か?
広辞苑によると、恥部とは…
…だそうだ。
私が使う「恥部」とは、要は「人に知られたくない恥ずべき(と、その人または社会が思い込んでいる)部分であり、隠していること」である。
恐らく、多くの方が「人に知られたくない恥ずべき部分であり、隠していること」ってあると思うのですが、いかがでしょう?
もちろんルックスなど、外見的なものもあれば、一見見えない性癖や恋愛観のような趣味趣向のものもあると思いますし、また以下のような思考特性・行動特性みたいなものもあると思います。
「実は、無責任な自分がいるんだけど、責任感ある頼もしい上司を振る舞っている or 責任感ある風に見せながら、最もそうな理由つけて責任回避している」
「実は、可愛いものが大好きで乙女な一面があるんだけど、男らしく振る舞っている」
「実は物凄いドスケベでド変態な自分がいるんだけど、紳士または聖女なフリをしている」
「実はとても力強いエネルギーを持っているのに、ずっと静かにしおらしく装っている」
「本当は助けて欲しいと思っている弱っちぃ自分がいるけど、助けてと言えない。」
「実は、遊び心満載なんだけど、仕事ではクソ真面目で普通なアイディアしか出せない」
「愛されたいと思っているのに、『私を愛して』と言えない」
「会社を辞めてほしくないのに、『頼む、残ってくれ』と頭を下げられない」
「あまりやる気が起きないメンヘラ気味な自分だけど、いつもポジティブに元気に振る舞っている」
…など。
どうでしょう?
こういった「自分の中に本当はあるんだけど、それを出してしまうと不都合が起きると思い込んで、使えていない自分」って、いませんか?(そもそも、見ないフリしているケースが多いので、気づいてもいないものの方が多いですが…)
こういう「自分の中に本当はあるんだけど、それを出してしまうと不都合が起きると思い込んで、受け入れていない自分」のことを、私は恥部と呼んでいます。
自分の「恥部」を受け入れることとは?
私が、今の活動に込めている意図は、「自分の中にある、受け入れていない自分に光を当てて、それを日々の生活の中に統合して、表現していきませんか?」という提案なんです。つまり、恥部に光を当てようよ…自分の中にある恥部を受け入れていこうよ…"インクルー恥部"していこうよ…ということです。
こういう話をすると、よく言われるのが、「そんなことしたら上司としての威厳を失う」とか「それを言ったら相手に迷惑をかける」とか「そんなこと言ったら、弱いやつだと思われる」とか「そんなこと知られたら、みんなドン引きする」とか「そんなことしたら警察に捕まりますよ」など、反論してくるんです。
でもね、言いたいのは、社会がどう捉えているか?社会がどういう反応するか?以前に、「あなた自身が、それがダメだと思い込んでいて、囚われていますよね?」ってことです。
弱気な自分を、ダメな自分として、自己評価して、だから私はダメなんだ…と、裁いたりしてません?
やる気のない自分を、ダメな自分として自己評価して、自己嫌悪になったりしてません?
ドスケベでド変態な自分を、ダメな自分として自己評価して、勝手に罪悪感形成していたりしませんか?
そうやって、受け入れていない自分を、ダメな自分として自己評価しているということは、結果的に自分で自分を裁き、自分で罪悪感を形成し、自分を罰し、自分をずっと傷つけていることになっていませんか?社会以前に、あなた自身が、あなた自身を傷つけているんです。罪悪感は、人の心を殺すんです。
重要なのは、まずはあなた自身の中に、そういう声があるってことを、あなた自身が受け入れること…それだけで、あなたはあなた自身を罰することなく生きることなく、心の自由を獲得することができるようになると思うんです。
じゃあ、「恥部」を受け入れた先に何があるのか?って話を以下の4つを題材にちょっと書いてみたい。
ありのままの自分
次代を切り拓くリーダー
ティール組織
心理的安全性
恥部を受け入れた先①: ありのままの自分
「ありのままの自分でいたい」っていう人っていますよね?
アナ雪の影響からなのか、8年前くらいからこの言葉流行っていますけど、「ありのままの自分」ってなんなんでしょう?
自分の中にある好きな自分、都合の良い自分だけをかき集めてきて、理想の自分像をでっち上げて、それが「ありのままの自分」と表現する人がいるように、僕は感じることがある。でもね、それって「ありのままの自分」じゃなくね?
この次元で留まっていると、大いにして臭いものに蓋しているだけだから、まだまだ内面の葛藤が多い。
「ありのままの自分でいる」ということは、あなたの中にある全て…例えそれが自分が描いていた理想とかけ離れている自分であっても、どんなに不都合な自分であっても…それがあっていい!と、開き直ることでもなく、何かを諦めることでもなく、ただただ「これが私なんだ」と受け入れて、身体に染み渡らせていくことなんだと思うんです。
すると、あなたの中にある内面の葛藤がなくなり、「ありのままの自分」をただただ愛おしく思えるようになり、生き易くなると思うんですよね。
そして、それを受け入れた時、物凄い力を発揮できるようになる。
アナ雪のエルザが、自分が持って生まれた魔法の力を、隠すことなく、呪うことなく、ただただ受け入れた時のように。それが次の話。
恥部を受け入れた先②: 次代を切り拓く"イニシア恥部"
恥部を受け入れるということは、自分がダメだと、両親や社会から思い込まされている固定観念を破壊することでもある。固定観念が破壊されることは、どんな行動をとるか?の新しい選択肢が広がることでもある。
既にイイ大人になっているという前提に立ち、性善説に基づいて考えれば、人を傷つけるか傷つけないか、犯罪か犯罪じゃないかの境目くらいは判断できるのではないかと思う。これは飽くまで僕の仮説だが、むしろ恥部を隠せば隠すほど、それは暴走しやすく、凶悪犯罪に繋がる。(アナ雪の前半で、エルザの魔法が暴走して王国の民から顰蹙をかったように)
逆に、恥部に光を当てて胸を張ることができれば、肯定的な意図を込めた活動を選択する力を、大人は持っていると私は信じている。(エルザが、自身が持つ魔法の力を、王国を救うために使ったように)
受け入れて見ると、「何も行動しない」という選択肢もあるし、「エゴ剥き出しのド変態行動で人を傷つける」という選択肢もあるし、「ド変態要素を社会に役立つ形で表現する」という新たな選択肢が生まれてくることもある。
例えば、変態と知られる俳優の沢村一樹さんなんかは、その変態さでバラエティで笑いを提供し、(仮に不快に感じる人はいたとしても、)彼は人を傷つけない形で、その変態さを素直に表現することで、視聴者の中に眠る変態に居場所を作ってくれているのではないかと、私は思っている。
最近では、オネェが民間テレビで活躍するようになっているが、25年前は、ほぼ見かけることはなかった。KABAちゃん、はるな愛さん、IKKOさん、ミッツ・マングローブさん、美輪明宏さん、マツコ・デラックスさんなどが、(恐らく人生のどこかのタイミングでは恥部だと葛藤していたであろう)自分を受け入れて、そこから平和的な方法で、臆することなく自由に表現をしてきたことで、オカマの社会的居場所が徐々に形成され、社会の器が整ってきた。彼らの活躍なしでは、LGBTQを公に語り、住みやすくしようと努力している現在の日本社会は、存在し得なかったかもしれない。
メジャーリーガーとして、はじめて活躍した野茂英雄投手もそうである。当時のプロ野球では、メジャー移籍ということはプロ野球の規定上、不可能だったらしい。ご法度であり、タブー視されていた。でも、野茂投手は、自分の中にある「メジャーリーガーとして投げてみたい」という恥部(彼の場合、恥ずかしいと思っていたかはわからないが)を正直に表現し、弁護士と結託して、プロ野球の規定上の穴を見つけ、そこをすり抜けるようにメジャー移籍を果たしたそうだ。当時は、プロ野球界からはもちろんのこと、各方面のメディアからもこの行動が問題視され、散々ぶっ叩かれたそうだ。ただし、野茂英雄投手は誰も傷つけていない。そしてその勇気ある行動によって、プロ野球の規定を変えた。イチローや松井秀喜がメジャーで活躍する機会を作った。
キング牧師もそうだろう。黒人として生まれた。そして黒人というだけで、虐げられて育ってきたのだろう。この場合、生まれ持った身体と存在そのものが恥部(心の中にある一部どころの話ではない)だと思い込まされて、とてつもなく葛藤の多い人生だったのではないか?と想像する。でも、キング牧師はそんな自分自身を受け入れて、そして戦ったのだろう。だからこそ、人種差別はダメだという風潮が、今の社会には形上はある。(当時は、人種差別が形上ですらも容認されていた。)
ある者が、本当は自分の中にあるけど、受け入れていない声を受け入れ、そこから表現をする。そうしてなんとか切り開いた獣道が、結果的にその人をリーダーにするのである。
こうやって、社会の器が広がり、誰もが生きやすい社会を切り拓く行為は、正にリーダーシップだと思う。
これこそが、"イニシア恥部"をとることだ。
恥部を受け入れた先③: ティール組織
数年前から流行り出した「ティール組織」だが、端的に言えば「ティール組織」になるには、人や組織の恥部を受け入れる必要があるとも言っていると思う。
ティール組織には、3つの重要な要素がある。
セルフマネジメント
ホールネス
進化する目的
この内、ホールネスが恥部と深い関係があると思うんです。
ホールネスとは全体性のことで、つまりは偽りの仮面を被る必要がなく、ありのままの自分で仕事に出かけることができるようになる状態のことを指している。
例えば、会社にいれば(社長含め)誰もが、何かしら評価される立場にいる訳で、評価される以上、社会、顧客、会社、上司、社会、同僚、部下、後輩から期待されている役割に応えようとするあまり、自分自身の中に、本当はあるにも関わらず、期待されていない部分を隠したり、見て見ぬ振りしたりして、ないものにしようとしたりする。すなわち、それが「恥部」に当たる。
もちろんティール組織では、真っ裸で出社しよう!という行動レベルの次元の話を言っている訳ではない。そのくらい「自分の中にあるものをさらけ出すことを自分自身に許可しているし、きっとこの組織であればそれも受け入れてくれる」という絶対的な信頼感から来る安心安全を、身体全体で感じられる集団意識レベルのことを指しているのだと思います。
だからこそ、恥部を受け入れることが大事だし、恥部を受け入れるということは、自分自身の全てをコントロールできること、つまりは、①セルフマネジメントにも繋がっていく。
ティール組織を創っていくために必要な一つの要素を端的に表現すれば、「自分の恥部を、『あってもいい!』と自分が受け入れ、そしてそれを組織全体に、そのしきい値を、少しづつ広げていく活動」と捉えられるかもしれない。
恥部を受け入れた先④: 心理的安全性
これまた、8年前くらいから流行っている言葉ですが、恥部を受け入れることは、心理的安全性とも関係がある。ここでは今更詳しくは説明しませんが、高いパフォーマンスを出す集団と低いパフォーマンスを出す集団の違いを示す最重要因子は、「心理的安全性の高さ」の違いであるということです。
想像は容易だと思うが、「自分の恥部をさらけ出しても、このチームなら絶対に受け入れてくれる」という絶対的な信頼感があれば、それは心理的安全性が高くなりますよね?つまり、高いパフォーマンスを出せるチームになるんです。
43年間連れ添った恥部を受け入れた先
ここまで、散々書いてきたが、私もまだまだお見せできない恥部だらけだ。
ただ、今の私の活動の意図「自分の中にある恥部に光を当てて、それを日々の生活の中に統合して、表現していきませんか?」は、先月恥部を受け入れた体験から生まれたものである。
私は、理数系・エンジニア系一家で生まれ育った。目的、計画、見積もり、論理、仮説検証、責任感、誠実、集中・徹底、根気強く、わかりやすさみたいな考え方が優遇され、そしてずっとそれが「絶対正」のような論調で育てられてきたように思い込んでいた。そういう教育を受けたことを恨んではいない。むしろそのおかげで、これまでなんとか生き延びてくることができた。
しかしながら、43歳にして自分の人生を振り返ってみた時、僕にとってはそれがとても窮屈だった。更に言えば、僕が本来兼ね備えている要素は、むしろそことは真逆のところにあったように思えた。衝動的で、無計画で、神出鬼没で、不安定で、思いつき重視で、奇想天外チックで、薄情者で、メンヘラ気味で、無責任で。でも、現代社会のビジネスにおいて受け入れやすいのは、私の両親の教えの方だったからこそ、それが絶対正だと思い込み、自分の中にあった、衝動的で、無計画で、神出鬼没で、不安定で、思いつき重視で、中二病チックで、無責任な要素を、ずっと「恥部」だと思い込み、恨み呪い続け、自分を責め続け、それを粛清・粛正することにたくさんの時間とエネルギーを浪費してきた。
しかし、先月そんな恥部こそが、私の持って生まれたギフトであり、才能なんだ…と受け入れる体験があった。すると楽になれた。人と比較して自己嫌悪になることが少なくなってきた。僕は、これまでスマートに、かっこよく、きれいな形で、生きようとし過ぎていた。本当は、ダサくて、メンヘラ気味で、中二病な感じで、口も悪いし、頼りなくて、変態で、ぽんこつで…でも、それでいいんだと思えた。そんな僕だからこそ、できることがある。そんな僕だからこそ、この社会に果たせる役割、果たすべき役割、果たしたい役割がある。
そして、「人が不都合だと思い込んでいる隠れた自分、隠れた才能、隠れたGiftにもっと光をあてて、そこから表現をする」支援をしてみたくなった。そんな"イニシア恥部"をとってみたいと思った。
来年度は、自分と周囲の恥部に光を当てて、そこから表現をしていく活動をしようと思っている。まずは、"遊び心"・"いたずら心"・"童心"あたりのテーマに、心が疼いている。
すべて、結実するかどうかわからない。途中で飽きてしまう可能性もある。思いつき任せの無責任な取り組みだ。それが僕だからだ。
例えばこんな感じだ。
童心開発セッション(https://why-so-serious.mystrikingly.com/)
クソつまらない業務が輝き出すかもしれないワークショップ
叩いて、被って、肩書きポン!
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いつまで続くか、いつまで続けるか、よくしらんけど。
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