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光と闇の世界、魂の記憶とは

OUT OF SHADOWS
「アウト・オブ・シャドウズ」というハリウッド内部者たちによるドキュメンタリー
をあなたは見ただろうか、

影から出る
闇の世界を暴く、
闇から光の世界へ

世界がどうやって洗脳されてきたか、
世界がどのように情報操作され、コントロールされてきているか、

それは、今ももちろん続いているし、

今のコロナ禍中で、それが暴かれつつあるというけども、
5Gも無くならないだろう。

ただ、少しづつ変わっていくのかもしれない。


確かに、100年後に振り返ったら、
あの頃が起点だね、とは思うのかもしれない。

ただ、世界はこの数千年、血で血を洗う歴史を繰り返してきた。

その何万年か前、何億年か前、もしくは他の星系で、
愛と平和の時代はあったのだろう。

アトランティスやムー、レムリアの時代を垣間見ることができるように。

昔は「SF」と言われた世界、
サイエンス・フィクション(Science Fiction)とは、
空想科学であって、
あくまで想像の世界、「物語」なのだが、

その多くが、真実を伝えようとしていたものだと、今なら分かる。

萩尾望都の漫画が好きなのだけれども、
「銀の三角」の世界観の中に、そうした宇宙規模の歴史をイメージできる。


「スターレッド」の作品でもそう、
高度に発展した文明にレッド星はとらわれるけれども、
エルグの愛の力で原始の星が蘇っていく


そういうパラレルワールドという感覚、
自分たちも宇宙の構成要素、というか
日本人である前に地球人であり、
地球人である前に、宇宙人であるという感覚、

誰もが実は魂レベルでは知っていることなのでしょう。


その魂を削って(集合意識体から分裂して)
今回はこの地球に肉体を得たのだと思っている。


それにしても、
私の過去の感情の中に、

これらの地球の歴史を感じることが色々あって、
最近になって点と点がつながってきた。


私が一番最初に、自らやりたいと思ったこと、

多分、6歳か、それぐらいに考えたこと、

私は世界を征服したい!
でも、女の子に生まれちゃったから力では無理だ、
だったら、映画を作りたい、
映画だったら世界を征服できる、
まずは、今の映画を見たい!

そう思って、最後の一行、映画を見たいと親にお願いした。


親はアホかと一蹴。
映画は大人の見るものだと。

その後私は、病気になった。
腎臓を悪くして、激しい運動ができなくなった。


そういうことなのだ。


立ち上がろうとした時に、
立ち上がらせない大いなる意志が働いた。


世界征服から、映画って発想、
どういうことよと、ずっと私はネタとしていた。

でも、私の魂が生まれてようやく人間としての意志を持った時、
その目的に対する手段のことを知っていたのだ。

大人になってからも、
父親が私に赤い靴を買ってくれようとした時、
ものすごい抵抗感があった。

不快感と言うか、嫌悪感、
結局、父の顔を立てて買ったのだけど、
ほとんど履くことはなかった。


数年前の引っ越しの時に、まだきれいで履ける靴だったけども捨てた。


私の魂の記憶の中に、
赤い靴への嫌悪感があったということ。

その意味を魂は知っていたということ。

私が結婚しても子供を作らなかった理由も、
今はよく分かる。


近い過去生で、
たくさんの子供を産み育てたのに、
みんないなくなった悲しみと寂しさに包まれている私がいる。


戦争に奪われたんだなと思っていたけども、
それだけでもなかったのだろう。


だから、私は今生で、
子供を生んだこともないくせに
子供は「もう」いいわと言う感覚がある。


私が光か闇か、どちら側にいたのかは、正直分からない。
でも、闇の世界に対して、違和感、嫌悪感はあったのだと思う。


子供には、好かれるのだけど、
新生児でもうまく抱くことができるのだけど、

無垢な瞳と、純粋な感性がすごく苦手だ。
ストレートな思考や行動で、私の心はざわつく、不快感を覚える。


いくつかの過去生の中で、
どちら側にもいたのかと思う。

私が、今回の人生で、
この日本に生まれた意味をよく考える。

この「OUT OF SHADOWS」が作られたアメリカではなく、
世界がロックダウンしている最中、
なぜか極端に死者の少ない日本。

地球の雛形とも言われる日本。

もちろん、日本の中にもそういった闇の世界が入り込んでいて、
政治やメディアやトップを牛耳ってはいるけども、
なぜか洗脳しきらない自然なエネルギーを感じる。


ガチガチの教職員の家庭を選んで生まれてきたということ、
バランスという意味の名前を持ったということ、

「今回の人生」は、穏やかに平和に、
愛と豊かさを受け取りたいと日本を選んだような気がする。


ずっと、戦乱の時代の最前線に、常に私の過去生はあった。

戦いの歴史の中に、残虐なシーンも多く魂にインプットされている。


子供の時から、ともかく戦争が嫌いで、
殺し合う話や、それこそそんな映画も見ていないはずなのに、
状況を聞くだけで、シーンが思い描かれてしまう。


そして、夢に見る。


それは、魂がそういう歴史の中を生きてきたから、
「知っている」からだ。


今回の陰謀論以外でも、
「裏政府カバールの崩壊」という10話構成の動画を見ていて気づいた。


終わりの方では、その動画の中でも言われていたけども、
「慣らしていく」のだ。

その残虐さ、凄惨さ、目を背けたくなるようなものにも
多くの人は映画で慣らされている。

知らないはずの私も、陰謀論を見れば見るほど
「慣らされてるな」というのを感じていた。

いきなり世界にこういうことを出しても、
確かに誰も受け入れられないからだ。

慣らされていって、そうしていつか受け入れる。

受け入れる必要があるとは思わないけども。

受け入れるまでもなく、慣らされているし、
そもそも、ほとんど多くの魂の記憶には、戦いの歴史は刻み込まれている。


今更なのだ。

思い出してしまうだけのこと。


悪の世界というけども、
闇の勢力というけども、

光は影があるから、光だと認識できる。

真っ白な世界、光だけの世界は、それはそれで「無」なのだ。

「空」なのだ。


私は子供の時にみた怖い夢を今も覚えている。

「空っぽになる」ということに、すごい恐怖を抱いていた。


世界が黒と白で出来ていて、
半分半分になっていて、

自分の右半分と、左半分が、黒と白に真っ二つに切られる感覚の夢だった。


右側が北枕で天井を見ていて、
左側は南枕で天井を見ている、

説明するとしたら、そんな感覚だった。


私が、半分になるという夢で、
泣き叫んで起きて、母親も私が気が触れたのかと怖かったと言っていた。


そんな夢はよく見た。

黒と白のチェッカーフラッグ、
「無」の中に浮かぶ感覚、

何も無くなる、無になる、という恐怖を何度も体験した。


その魂の記憶については、
まだ点は、点のままでつながっていない。

ただ、今は今生を楽しみたいと思っている。


人生というものが、ゲームだとしたら、
光だけでは面白くない、
影というクリアすべきダンジョンがあるからこそ、
ゲームに醍醐味が生まれて、楽しめるというのだ。


さっさと、クリアでいいけども。

魂の根底にあるものが、楽しもうという気持ちの発生だとしたら、
「影」の部分がないと、光を捉えることすらできないのだ。

そのときに、光の方を向くのか、
影の方を向くのか、

それはそれで、魂の目的が変わってくるだろう。

自分自身の影を見ようとしないのか、
自分自身の影だけがはっきり見える世界にいるのか、


多くの人は光の方を向いていると言うけども、
一握りの人だけが悪魔崇拝者だと言うけども、

思考の中では半々なのだ。

だから、闇の世界が光に暴かれていくと、
多くの人が光の中に見ようとしなかった影の部分を見ないといけなくなるということでもあるのだ。


一つ前の記事で、
アセンションの本当の意味を書いた。


誰もが、「今回の人生」に終止符を打たなければならなくなっていく。


今回の文明が、終わろうとしている。
まだ、数百年は続くのかもしれない。

でも、毎回それらの文明は、闇の世界が表に出てきて、
光の世界に包まれると思いきや、
どちらもが、打ち消し合って消えていくのだ。


光だけでも、闇だけでも、

「存在」できないから。

そういえば、萩尾望都の作品の中で
「百億の昼と千億の夜」というものがある。

原作は別の人だけども、
その中で、イエス・キリストは、闇の勢力の仲間として描かれる。


日本の神々は、世界をどう見ているのだろう。


「OUT OF SHADOWS」の中で、

真理は学ぶもので、決して人から言われるものではない
The Truth is Learned Never Told

ということが言われていた。

この言葉だけは、真実だと思う。


他人から言われるもの、もたらされた情報は真実ではない、
自分が、行動したことで得た結果、学んだことだけが真実なのだ、

そういう意味では、このドキュメンタリーも
自分にとっては、真実でもなんでもない、
SFでいいということ。


すべて、魂が楽しんでいる「夢」なのだ。

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