映画『プリズンサークル』を観ました
運営のお手伝いをしている『療法士の当事者研究』のメンバーで、こちらの映画の鑑賞会をすることになりました。みんなに感想をお話しするにあたって、少し自分の中で整理してみたいな、と思ったので、こちらにまとめます。
『プリズンサークル』は、「島根あさひ社会復帰促進センター」という刑務所内で行われている「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを取材したドキュメンタリー映画です。
以下、公式ホームページより、映画の紹介です。
加熱する犯罪報道、懲罰化を叫ぶ声ー けれど私たちは、この国の「罪」と「罰」について多くを知らない
「島根あさひ社会復帰促進センター」は、官民協働の新しい刑務所。警備や職業訓練などを民間が担い、ドアの施錠や食事の搬送は自動化され、ICタグとCCTVカメラが受刑者を監視する。しかし、その真の新しさは、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入している点にある。なぜ自分は今ここにいるのか、いかにして償うのか? 彼らが向き合うのは、犯した罪だけではない。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していく…。
処罰から回復へ 今、日本の刑務所が変わろうとしてるー
監督は、『ライファーズ 終身刑を超えて』『トークバック 沈黙を破る女たち』など、米国の受刑者を取材し続けてきた坂上香。日本初となる刑務所内の長期撮影には、大きな壁が立ちはだかった。取材許可が降りるまでに要した時間は、実に6年。この塀の中のプログラムに2年間密着したカメラは、窃盗や詐欺、強盗傷人、傷害致死などで服役する4人の若者たちが、新たな価値観や生き方を身につけていく姿を克明に描き出していく。
度々、登場する“TC”とはどんなものなのでしょう?公式ホームページの解説を以下に引用します。
「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」
Therapeutic Communityの略。「治療共同体」と訳されることが多いが、日本語の「治療」は、医療的かつ固定した役割(医者―患者、治療者―被治療者)の印象が強いため、映画では「回復共同体」の訳語を当てたり、そのままTCと呼んだりしている。英国の精神病院で始まり、1960年代以降、米国や欧州各地に広まった。TCでは、依存症などの問題を症状と捉え、問題を抱える当事者を治療の主体とする。コミュニティ(共同体)が相互に影響を与え合い、新たな価値観や生き方を身につけること(ハビリテーション)によって、人間的成長を促す場とアプローチ。
要するに、犯罪を犯した当事者たちでコミュニティを作り、更生の一助としていくプログラムです。引用するために改めて見返したら、“ハビリテーション”という言葉が出てきて、理学療法士のわたしはどきりとしてしまいました。
では、この映画を観てわたしが感じたことを以下にまとめてみたいと思います。映画を観てから感想を見る派の方はどうか回れ右!!笑
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受刑者の線を辿る
映画では、受刑者たちが自身の犯した犯罪だけでなく、その生い立ちや事件当時の心情、被害者への思い、これからの自分の人生についての思いについて、それぞれの立場から話し合います。
家族歴やいじめなどの幼少期の象徴的な体験、その時々の思いなどについても語られます。いじめ、虐待、貧困、さらには国籍など、そこには様々なストーリーがあり、彼らが犯した犯罪が決して“点”ではなく、それぞれが歩んできた生い立ちの行く先にある“線”の一部として、彼ら自身もまた振り返っていくこととなります。
一見、これらの語りには、罪を犯した根本の原因は自身のみではなく、彼らが生まれ育った環境にも一因があるように見えてきます。これはわたしだけかもしれませんが、SNSや世間に溢れる声の中に「環境のせいにするな」とか「他責思考はよくない」とか、療法士界隈に限らずそういった『強い思考』を耳にすることがあり、ほんの一瞬ですが、彼らに対してもまた、同じ非難が浴びせられるのかと訝しんでしまう場面がありました。(でも、それは微妙に違うな、というのがわたしの結論です)
「自分が選んだこと、自分がしたことに対して、自分で責任を取る」
俗にいう『自己責任論』は、清く正しく生きていくためのロールモデルに無くてはならないもののように見えます。“清く正しく”というものがどういうものなのか、必ずしもそれが成功者の必需品なのか、ただの平凡な主婦のわたしには到底分かり得ぬものではありますが、果たして全てにおいてそうなのでしょうか?わたしがこの映画で最も考えさせられたのはこれでした。
少し前に、社会学者の上野千鶴子さんが東京大学の入学式で、「頑張っても報われない社会へようこそ」という祝辞を述べて賛否両論を巻き起こした出来事がありました。彼女は女性学の権威として男性優位社会へのアンチテーゼを込めただけでなく、そもそも『頑張る』ことが許容される環境で生きてきた自分たち(東京大学の入学生)の外側に、『頑張る』ことさえ叶わない環境で生きている人たちがいることを思い出して欲しいというメッセージを込めたのではないか、とわたしは解釈しています。
この映画では、そのような外側で生きてきた彼らが、遂に犯してしまった罪と正面から向き合う様が有り有りと描かれています。そして、TCというプログラムを通して、彼らが歩むその先の“線”が少しでも明るくなるように、社会から再び取り残されることがないように、と、システムによって更生を促していく様子を追うことができます。
借り物の言葉
受刑者たちの語りの中には、いじめや虐待など、現代社会が抱える闇の部分が度々登場してきます。そこで語られる言葉はどれもたどたどしく、中には「母親と暮らしていた時期があるが、その時の記憶が全くない」と話す少年もいました。
自身も性被害者である国際政治学者の三浦瑠璃さんが、「レイプをされた女性がよく口にする“自分は幸せになる権利がない”という言葉は、過去にそれを語った当事者の言葉を借りたもの。どうか借り物の言葉で再び自分を傷つけないで欲しい」と話しています。(記憶が曖昧なので、微妙に違ったらごめんなさい)
いじめや虐待について語る彼らの言葉もまた、似たような経験を持つ他の受刑者の言葉の借り物になるのではないか、映画を観る前にはそんな疑問がありました。しかし、これは作り手の妙であるのかもしれませんが、不思議とそのような印象は受けませんでした。むしろ、そのような借り物の言葉を使うまでもなく、彼らは“体験したこと”をありのままに話しており、思い出せないことは話さず、その時々の感情や感覚についても「悲しい」「ムカついた」「仕方ないと思った」など至極単純な言葉で片付けられていました。おそらく、犯罪を犯した側と巻き込まれた側との違いもあるのではないか、と思いますが、当事者研究について勉強中のわたしとしてはこの違いについては、これからも考えいきたいと思っています。
ところで、最初に「母親と暮らしていた時期があるが、その時の記憶が全くない」と話す少年を紹介しましたが、映画の最後に彼が幼少期の両親の記憶について話す場面が流れます。これはわたしの勝手な推測ですが、この映画で作り手側がもっとも描きたかったのはこの部分ではないでしょうか。TCは後ろの線を辿って犯罪を犯した原因を探るためではなく、これから歩いていく未来の線をどうやって明るくするか、そのためにあるプログラムなのだと思いました。
見たくないものから、目を背けていたのかもしれない
ソクラテスのパラドクスという言葉をご存知でしょうか?「誰ひとりとして、悪を欲する人はいない」という命題です。なにかの「悪」を犯したとき、それは「悪」を犯した張本人にとっては「善」であり、「自分にとっての最善である」と認識しているということです。
犯罪は法という揺るぎない取り決めのルール違反であり「罰」を受けて当然の行為です。その結果として、彼らは刑を受けています。しかし、彼らが犯したその「罪」は、その時点では彼らにとっての「善」であり、至るべくして至ったものでもあるのです。
TCは、その過程を浮き彫りにしてきます。その線を辿っていくと、先に挙げた『自己責任論』などという単純なものでは説明できないような、深い闇に陥ります。社会には「如何しようも無いこと」が溢れており、それは普段多くの人々が目にすることのない場所に佇んでいます。不意にそれが浮き彫りになると、安全な場所にいる人々は恐怖に震えます。見たくないものを見ないように、非難をしたり目を背けたり、気づかないうちに社会の外側へ押しやります。「傷つきたくない」という感情は、とても自然なものなのかもしれません。
ただ、それが当たり前になってしまうのは、美しくないと思うのです。「知る」ことだけでも、一助になるのではないかと思うのです。
ひとりの物語について必死になって考えていたら、世界のことを考えざるを得ないのではないか、システムという壁に投げつけられる卵の内側にある魂を、外側に連れ出すことで導かれる何かがあるのではないか、そんな風に思うのです。
「犯罪」によって明確に外側へ弾き出された受刑者たちが語る物語は、わたしたちが知らず知らずのうちに目を背けていた暗い部分を浮き彫りにする、強いメッセージがあるように思えました。
当事者研究について
最後に、TCでの語りはとてもセンセーショナルなものでした。わたしたちが取り組んでいる『療法士の当事者研究』に限らず、巷では多くの当事者研究が行われています。TCと当事者研究が具体的にどう違うのかはよくわからなくて、わたしなどまだまだ勉強中の身でもありますが、でもやはり当事者研究のように「自分を他社の手を借りて客観視していく行い」は、とても可能性のあるものなのではないか、と思いました。
医療に従事する者として、“科学”の一助はなくてはならないものです。エビデンスという確固たる根拠のもと、わたしたち医療者は支援する立場としてクライアントのために一生懸命PDCAサイクルを回します。しかしここで、不意に心が見えなくなることがあります。心は数字で測れるものではなく、だからと言って心理学や行動経済学などの学問に頼り切ることもできません。
目の前のクライアントの力になりたいと苦心するのに、数字にばかり気をとられると、誰しもが持つストーリーの存在を、不意に忘れそうになることがあるのです。それは時に、自分自身にも当てはまります。傷つきたくないと苦悩しているうちに、わたしはわたしのストーリーさえも置き去りにしてしまうことがあるのです。
相手を大切にするために、まずは自分を大切にする。当事者研究は、その第一歩になりうるのではないでしょうか?そして、自分や大切な誰かのストーリーを必死になって考えていくうちに、おのずと社会全体の暗い部分についても考えなくてはならなくなるのではないでしょうか?
『療法士の当事者研究』がそれだ!と言えるほとの理解は、わたしにはまだありませんが、これからゆっくり考えていけたらいいなと思います。
取り留めのない感想になりました。もし最後まで読んでくださる方がいらしたら、心からの感謝を込めてお礼を言わせてください、ありがとうございます。
読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。