ないものねだり
『やめることは、始めることよりも難しい。』
「──という名言を知っているかね、テレサ嬢。どこぞの高等法廷裁判官が得意とする口癖らしいが」
いかにも首都圏の官庁街といった風情の地区で、これほど浮いている建物もなかった。『LEGATUM《遺産》』という看板がおざなりに掛けられた古民家は、入るなりアンティークの家具や置物が圧迫感を与える骨董屋である。オーク材のテーブルやら、抽象的なブロンズ像やら、とかく場所をとる展示物に取り囲まれた通路に至っては、もはや隙間と呼んだ方が正確ですらあった。
細身の客がようやく一人通れるかどうかの「隙間」には、天井から吊られた色とりどりのランプが影を落としていた。壁という壁を埋めつくす、動物の剥製もまた同じように、薄く色づいた陰影をその顔へ刻んでいる。剥製は製作時に目玉を抜かれ、代わりに水晶やガラスを嵌め込まれることが多い。店内の彼らも例にもれず、磨き抜かれた球水晶を眼窩に収めていた。透き通るほどに冷たい光を放つ双眸は、室内の光景をうつろに映し続けながら、ひときわ目を惹くあざやかな人物をしっかり捉えている。
謎かけめいた言葉を吐いた客は、優雅なそぶりでティーカップへ口をつけた。真昼だというのにイブニングドレスへ袖を通し、レジカウンターのテーブル部分に腰をおろしている。店番……テレサ・D・アンダーニールが広げているノートと問題集の、まさにその上へ。
「……知ってますよ。ミオ・R・マキシム裁判官=兼=異端審査局長のお言葉でしょう」
「ふふ、遂に私の名を憶えてくれたな!」
カップをテーブルに置き、髪ごと頭を撫で回そうとする手から、テレサは全力で身をよじり逃げた。ミオの前では一般常識も倫理も膝を屈するのだと、短い付き合いながらよく知っている。
「ちょ、もう……やめてくださいっ、私いま勉強してるんですから!」
「まあまあ、たまには休憩も大事だぞ。なんなら私が解いてあげてもいい。何を隠そう、筆跡模倣は得意中の得意でね」
「あんたそれでも公務員ですか!?」
「エリート中のエリートだとも。大丈夫、『バレなきゃいい』のは万国共通不変のルールだ。知ってるかい? 古代には、盗みが失敗すると叱られる民族がいたそうだよ。盗みの悪徳ゆえではなく、露見するような下手を打ったことをなじられたらしい」
「……私が歴史苦手なの知ってるでしょう、バカにしてます?」
ミオの尻に敷かれたノートをやっとの思いで引きずり出しつつ、鋭い口調でテレサは問う。対して、言われた方は心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
「少なくとも、君はこれでひとつ賢くなったじゃないか。ほら、その空欄……さっきから君がずっと唸ってる問題はこれで解けるはずだよ?」
返事の代わりにペンを走らせる。『もらえるものはとりあえずもらっておく』というのが、一介の中流家庭にすぎないアンダーニールの家訓であった。
「で、結局ミオさんは何の用で来たんですか?」
「ひどいな、用事がないと来ちゃいけないのかい」
「お仕事の時間に来る理由、他にあります?」
「暇つぶしで来たこともあった気がするが……ま、なんにせよ君には関係ないから安心してくれ。ゼークレイの奴が帰ってきたら話をするさ」
「店長、ですか」
壁のカレンダーを見やる。なるほど確かに、今日のマスに書かれた『帰国』という几帳面な文字は、他ならぬ雇い主――ゼークレイ・G・ヘレンディッツの筆跡に相違なかった。
「あんまり当てになりませんけどね。こないだなんて、帰国予定日から10日もずれて帰ってきたんですよ。おまけに連絡もナシ」
「はは、それは可哀想に。ま、昔から報連相とは縁のない奴だったしな」
「おかげで来る人来る人、謝りどおしで……今日のお客さんはミオさんだけでよかったです。昨日みたいに怖いお客さんだったらどうしようって、もう朝から憂鬱で」
「昨日?」
懐かしげに細められていた目が、たちまち険しさを帯びる。言外に「誰が来た」と問う空気にたじろぎつつ、テレサは「ええと、」と記憶を掘り返した。
「ムッサカ卿です。先日生まれたお孫さんのことを頼みたいって……」
「孫だって? ハ、とんだ横紙破りじゃないか。あのクソジジイ」
ルージュを引いた口から毒が洩れた。忌々しいと言わんばかりに鼻で笑いつつ、先ほど置いたティーカップを再び手に取る。その勢いのまま、カップの残りを一息に飲み干した。
「それって、たぶん“地下”の話ですよね?」
ピリピリとした空気の中、少女はおそるおそる口を開く。ミオはひとつ息を吐いてから、常のように軽やかな笑みを貼りつけてそれに応えた。
「ああ。たぶん地下の倉庫からよさげなものを見つくろってほしいとか、そういう話だと思う。ほら、あそこ宝石とか山のようにあるだろう? 貴族に跡継ぎが生まれたら、その宝物をひとつ増やす、って変なルールがあるんだよ。いやはや、貴族ってのもなかなか大変なんだよねえ」
カップを持つのとは逆の手が、白い陶器の縁をはじきかけた、その手前で止まる。
「……君も飲むかい? 気が立ったときは茶がいいらしいぞ」
「い、いえ、結構です」
「そう? ま、欲しくなったら言いなよ。淹れてあげるからさ」
今度こそ人差し指が動く。涼やかな音が雑多な空間に響いたのと、カップの中から湯気が立ち上り始めたのは、ほとんど同時だった。
底から湧き出る琥珀色の液体が、みるみるうちにカップを満たしていく。ちょうど八分目あたりまで溜まったところで、もう一度縁をはじけば、紅茶の中にふわりと白い靄が湧き上がる。カップごと中身をくるくると揺すり、きれいに混ざったキャラメル色の液体を、ミオは自慢げにミオの方へ突き出した。
「じゃーん。マキシム家秘伝のミルクティーだぞう」
一口すすった唇の描いた弧が、何よりも感情を雄弁に語っていた。その顔からいくらか険がとれたのを見てとり、テレサは小さく安堵の息を吐く。
「相変わらず奇術《マジック》みたいですよね、それ」
「技術《マギック》と言ってくれ。やってることは液体操作の応用さ、こんなの珍しくもないだろう?」
「できるだけですごいですよ。私は固体操作で挫折したんで、もう知りません。座学一筋で生きていくと決めました」
固体、液体、そして気体。万物を以上の3つに分類し、それぞれを自儘に操る業を『技術《マギック》』と呼ぶ。各々の技術《マギック》を用いて活躍する職は『技術系』と総称され、個人の能力を示すひとつの指標として、今日すでに一定の程度の地位を築いていた。特に気体操作者の重用ぶりはすさまじく、国によってはその家族が一生食うに困らない、という噂がまことしやかに語られるほどである。しかも、最近では気体操作にもバリエーションが出始めたとかで、巷ではいよいよ技術革新が期待されているらしかった。
とはいえ、個人の資質によるところが大きい能力である。テレサの論法も、つまりは『自分には技術系の才能がないから普通に働く』という、この世界ではごくありふれた価値観のひとつだった。ペンを振りつつ、かくのごとく言い放った少女に、何がおかしいやらドレスの女性はからからと笑う。
「潔いね。とはいえ、理論くらいは頭に入れておいても損はないさ。事象だけ簡単に説明すれば、『“私の屋敷”と“ティーカップの底”を繋げて、紅茶をここで淹れている』だけのことに過ぎないよ。つまりは液体操作と、あとは空間力学の応用だ。君だって、イデーベルク出身なら空間力学の講義くらい聞い……」
流れるように話す口が、不意に閉ざされた。かと思えば、先刻とはうってかわってモゴモゴと言葉を転がす。
「あ、あー……その、すまない」
そう言って柄にもなくしおらしい顔をしてみせるものだから、テレサはこの強引でわがままな大人をまるきり嫌いにはなれないのだった。
「いいですよ。こうやって仕事しながら勉強できるのも、ミオさんと店長のおかげですし。それに、近いうち高等部の卒業認定をとるつもりなんです」
「……そうか! いや、こちらこそありがたいよ、君がいてくれるおかげで私もゼークレイも随分助かってる。うん、それに勉強は大事だぞ、何が役に立つかわかったものではないからな。ましてここで働くなら、」
「だったらお尻どけてください」
「あ、はいはい。ごめんね」
いそいそと立ち上がる高級官僚の背中を眺めつつ、問題集を手元へ引き寄せてテレサは思う。
────本当にあなたが羨ましい、ミオ・ローザ・ヴェステリウス・マキシム。
建国の祖が一角、『軍神』ヴェステリウス・マキシムの後胤。生まれながらに背負った肩書きに圧し負けることもなく、権力中枢で日夜政務に励んでいる。かと思えば、この店に顔を出したり、ミオ自身の母校・イデーベルク専術院で三日にあげず教鞭を執っていたりもする。名誉教授には講義時間の義務もないというのに、だ。いつ寝ているのかもわからないスケジュールを涼しい顔でこなしつつ、普段着にイブニングドレスを着こなし、得意の液体操作を駆使して自儘に過ごす姿は、どうしたって人を惹きつけた。
己をさいなむ劣弱の意識は、初対面の時からいまだにテレサを捕らえて離さない。技術《マギック》の力量もさることながら、とりわけ腹の底を灼くのは、彼女がイデーベルクをきちんと卒業していることだった。できそこないの自分とは違って。
『テレサ・ドロレス・アンダーニール 貴殿の高等部への進級を認めず イデーベルク専術院』
いっさいの修飾を排した簡潔な一言で、彼女が思い描いていた素朴な将来設計は無残にも砕け散った。進級試験に落第すれば退学というルールは、国内すべての学び舎で等しく効果を発揮する。そして、一度離脱した学校には基本的に二度と戻れない、というのもまた同様だった。
幼い頃から、立身出世がテレサの夢であった。大層に聞こえるかもしれないが、ようは『ちゃんとした仕事について、お金をたくさんかせぎたい』程度の漠然とした願いにすぎない。どうにも子供らしからぬ理想図は、二人の兄という実例が身近にあったことも影響していただろう。イデーベルクにこそ劣るものの、両者ともそれなりの学校を卒業し定職についている。それこそが普通の生き方だとテレサは信じており、ゆえに同じ道を往こうと思った。言ってしまえば、それだけの話である。
しかしもはや、学び舎のランクが何になろうか。『中等部退学』と『高等部卒業』では、就ける仕事に天と地ほどの差がある。少なくとも、少女の想像していた『ちゃんとした仕事』は、もはや望むべくもないことだけが決定的だった。
年末、テレサは例年のごとく帰省した。家へ帰るのがこれほど気重だったのは、彼女の人生で初めてのことだった。家族をきっとがっかりさせてしまうと、いっそ恐怖すら感じたほどである。イデーベルク入学が決まった時のお祭り騒ぎを覚えているからこそ、なおいっそう足取りは重く感じられた。
テレサを出迎えたのは、両親に2人の兄を加えた家族全員の人影だった。おりしも国外出張中だった上の兄が、ありったけの有給をつぎ込んで帰国していたと知るのは、ずいぶん後のことである。
『長い間お疲れ様。今日はテレサの好きな物、たくさん用意したからね』
『毎日熱心に勉強していたろう、それは財産だ。けして無駄にはならんよ』
『そもそもウチの家系から五大院に通う奴が出たのはテレサが初めてだろ。オラもっと胸張れ!』
『別の学校だって良いところだよ。大丈夫、お前ならすぐ転入できるだろ』
そして予想に反して誰ひとり、彼女を責めることはなかった。近所が祝賀会と勘違いするほど盛大にパーティーを開き、意気消沈した彼女をめいめいに甘い言葉で慰めてくれた。おそらく気を遣ってのことだろう、程度はテレサにも見当がついたし、嬉しさ以上にありがたさを覚えたほどであった。
だが。
────これではまるで、はなから自分には期待していなかったと言わんばかりではないか!
その気遣いが、かえって少女を惨めな気持ちにさせたのだ。
かつて自分の活躍を私と同様に喜んでくれたのなら、失墜には私と同じように落ち込むのが筋ではないのか。だというのに責めることもなく、今もってなお私の慰めに終始している。ということは、所詮その程度の価値しか認めていないことも同義ではないか──否、ともすれば過去の馬鹿騒ぎもまた嘘だったのではないか?
自責の念やプライドの毀損、そういったものから湧いたまやかしの思考だと、理性の声が小さく囁く。が、一度湧いた疑念がたやすく拭われるはずもない。家族と談笑する顔の裏で、心はいっそ叱られたいと叫んでいた。お前は不出来な悪い子だと、誰か責めてくれ。家族の思いやりを無下にする己を罰してくれ。
嬉しいのに悲しい。ありがたいのに腹立たしい。初めての挫折に揺れるアンビバレンツな思考へ蓋をして、変わらぬ日々を適当に過ごせるほど、テレサは器用でなかった。
少女は結局、イデーベルクを中退してから数年ほどを、鬱屈とした精神的汚泥の中で過ごすこととなる。最初の数ヶ月は実家に引きこもり、いたたまれなくなって家出同然に飛び出して以降は、叔母──父の妹が住む邸宅へ身を寄せた。持て余しているという部屋のひとつを借り、流行りの本や通信遊戯《ゲーム》に手を出しながら、ただ息をしているだけの日々。
そんな中、テレサに手をさしのべたひとりが、誰あろうミオ・R・V・マキシム。
『やあ。君、学校やめてヒマなんだって?』
そして、開口一番そんな台詞を吐いた彼女の頭を叩き、後ろから現れたいまひとり―――ゼークレイ・G・ヘレンディッツだった。
『私たちはイデーベルクの関係者でな。今度、会社を作ることになったのはいいが、どうにも人手が足りなくて困っている。手伝ってくれるとありがたいが、どうだろう』
かくして、テレサは初対面の大人たちに手を引かれるかたちで、外の世界へ飛び出した。実に半年前のことである。それから大分長い時間を過ごした自覚はあるが、どうにも二人の真意がいまだに読みきれないのが悩みであった。
つまり、この人たちはどうして自分を選んだんだろうか、と。
「……詫びのついでといってはなんだが、先程の隠しダネを教えてあげよう。アレには厳密に言うと『連想反応の原理』も使っていてね。私の場合はこのティーカップを“紅茶を淹れる”という事象の『連想起点』としているが、達人≪マスター≫クラスだと手のひらへ直に茶を沸かすこともできるらしい。なんにせよ、さほど難しいものではないさ。興味があるなら教えてあげるよ……おい、ちょっと。私の話を聞いているかい?」
声音の変わったのに気づいた刹那、ようやくテレサは記憶の海から浮上した。
「……え、あ、はい。聞いてます。えー……保留で、お願いします」
「よろしい。興味はあると、覚えておくよ」
ともすれば不遜と捉えられかねない物言いでも、彼女であれば許される。それはきっと、ひとえに彼女の技術≪マギック≫と肩書きのおかげなのだろう。出会った時から変わらず、呆れるほどに自分勝手な側面へ親近感が沸く。同時に、とぐろを巻く黒い感情が、テレサの胸をじりじりと焦がした。
おもむろにペンを置き、立ち上がって踵を返す。カウンターの奥の壁には、カーテンレールに吊られた白い布がある。「勉強は終わりかい」と背後から呼びかける声をよそに、テレサはそれをめくった。
布一枚を隔てた向こう側はちょっとしたスペースになっており、菓子と茶葉の詰め合わせが山のように積まれている。どれもこれも“得意先”からの貰い物ばかりで、「どうせなら掃除道具をくれた方がよっぽど嬉しい」とは、飲食の類にいっさい興味がないゼークレイの弁であった。
一方で、もとより菓子の類に目がないテレサにとっては、文字通り宝の山に等しい。ナッツをまぶした香ばしい焼き菓子、果物やハーブを閉じ込めた生菓子、中にクリームの詰まった揚げ菓子……右を向いても左を向いても高級店の包装紙ばかりで、いやおうなしに胸が高鳴る。もっとも、先に述べたように無頓着な雇い主は数年前のものから十数年前のものまで平気で置きっぱなしにするため、そこは細心の注意を払う必要があったが。
「小腹がすいたので休憩です。何にします、焼き菓子とか?」
「君が食べたいものでいいよ。……ああ、さすがに賞味期限は守ってくれるね?」
「当たり前です! というか、お茶はともかく、せめてお菓子くらいは希望を聞かせてください。一応、お客さんなんですから」
カーテンの向こうから首だけ出したテレサに、ドレスの女は軽く手を振って笑う。
「ずぼらな元同級生《ゼークレイ》が腐らせたのを飲みたくないから、こっちが勝手にやってるだけ。気にしなくていいってば。……ま、どうしてもと言うなら、一番最近に貰ったやつを頼む」
一番最近。さて、どれだったか。放り込むだけ放り込んで、あとは見向きもしない雇い主より、テレサの方がこの部屋は詳しかった。ある程度の目星を付け、色あせた箱を次から次へとひっくり返しつつ、再び記憶の海に沈んでいく。思い出すのは数日前の昼過ぎ。
────すみません、ゼークレイ・G・ヘレンディッツはいらっしゃいますか。
その男は、とにかくすべてが黒いのだ。
堅苦しいハット、皺ひとつない燕尾、独特の鈍い艶を放つ革靴。シャツ、タイ、手袋といった小物に至るまで、全身を黒で固めている。顔を隠すように長く伸ばした髪もやっぱり真っ黒で、おまけにパサついた癖毛であったから、いよいよ怪奇小説か何かに出てきそうな佇まいであった。
出で立ちといい鬱々とした雰囲気といい、どことなく雇い主《ゼークレイ》を彷彿とさせる男は、ここの常連である。毎月最初の週末に、いつも同じ高級菓子店の袋を携えて、いつも同じ一言とともに現れる。テレサがここで働き始めてから半年ほど経っていたが、彼女の知る限りこのリズムが崩れたことは一度もなかった。
雨の日も雪の日も、服は綺麗に乾いたまま。砂ぼこりのひとつ、汚れのひとひらも付けていたためしがない。おそらく、富裕層が使うという特殊防護膜《デフレクター》でも張っているのだろう。なんにせよ、ここに来る客の多くと同様、実力も富も兼ね備えているらしいことだけは理解できた。
そして、テレサが彼に返す言葉もいつも同じだった。何故か彼が来る日に限って、ゼークレイは店を開けているのが常であったから。
「店長は留守ですよ。ご伝言でしたらお受けしますが」
「……いいえ。さほどの用でもありません。こちらを差し上げて、『私が来た』と言えばわかるでしょうから」
落胆したようなそぶりで、袋ごと菓子をカウンターの上へ置く。それへ一瞬でも視線を落としたが最後、再び顔を上げれば客は煙のように消えている。見るからに異形であったり、来るたびに面倒な話を持ち込む常連は少なからず存在した。が、少なくともテレサにとっていっとう不可思議な客は、その男をおいて他になかった。
今しがた手に取った華やかな箱は、まさしく男が最近持ち込んだ代物である。すぐさま包装紙を剥ぎ取り、適当に畳んでポケットに突っ込みつつ、少女は再びカーテンをくぐった。
「お待たせしました。なんか、色々入ってるみたいですけど」
あでやかな化粧箱を開ければ、焼き菓子の詰め合わせである。薄く焼いた生地に色とりどりのクリームを挟んだもの、柔らかく焼き上げた中に煮詰めた果物を練り込んだもの、焼いた後から糖蜜にじっくり漬け込んだもの……見ているだけでも楽しい宝箱を前に、ミオは歓声を上げた。
「すごいな、これ確か今年の新作だろう? このセンスは誰かな……マリアスト議員か、それとも外交官のエバーテール候か」
「違いますよ。前に言いませんでしたっけ、変な常連さんの話」
「……ああ、“アレ”か。相変わらず来るのかい?」
「来ますね。相変わらず」
あの客の話をすると、ミオは露骨に顔をしかめてみせる。乱暴であっても粗雑ではないはずの彼女が、やけにぞんざいな言い方をするのは珍しいと、少女は何度となく繰り返した感想をいまいちど咀嚼していた。
「ま、様子見でよかろうさ。ゼークレイだって何も言わないんだろう?」
「はい。放っておけば何もしないから、普通にあしらっておけ、って」
「あいつの言う通りにしてると。うんうん、賢明な判断だぞ。テレサ」
あっという間に菓子を3・4個ほどたいらげた彼女が、やっぱり手を伸ばし頭を撫でようとするので、テレサは慌てて首を引いた。目の前の相手から逃れるように、さっと化粧箱の中へ視線を落とす。
薄く伸ばした生地の真ん中をくりぬいて、そこへ果物を詰めた焼き菓子はテレサの好物である。適当にいくつか摘み上げ、ひとつをミオの手に乗せてやれば、あからさまに不機嫌な顔になる。わざと無視して一口かじると、やさしい花のような香りと、甘酸っぱい味付けが舌の上に広がった。
「おいしいですね。さすが有名どころ」
「……君はどうしてそんなに頑固かね。いいじゃないか、ちょっと頭をよしよしするくらい。減るものでもなかろうに」
「ちょっとで済まないでしょ」
「それは認める」
ただでさえ収まりの悪い髪をぐちゃぐちゃにされてはたまらない、と全身で拒み続けて、ようやくドレスの女性は構えを解いた。いかにも不服そうな顔のまま、ちまちまと菓子をかじり始める彼女を見ているうち、気づけばテレサは口を開いていた。
「さっきの話ですけど、」
「うん?」
「やめるのが始めるより難しいって話です。あれ、私は逆だと思います。『始めることは、やめることよりも難しい。』って言った方が正しいんじゃないかな、と」
「……ふむ。その心は?」
紅茶をすすりながら、ミオは問い返す。
「ミオさんに伝わるかはわかりませんけど、やめるのってすごく簡単なんですよ。諦めちゃえばいい。それでもうおしまい、それ以上は何にもしなくていいんです。全部放り出して、何もかもから逃げ出せば、もう頑張らなくていい」
心なしか自嘲気味な声に、ドレスの女性はわずかに眉をひそめて、しかし黙ったままもう一口をすすった。そのまま、どこからともなく取り出したティーカップに、縁をはじいて新たに紅茶を淹れ始める。差し出された一杯をありがたく受け取り、テレサは乾いた喉をしめらせた。
「でも、何かを始めるのは違いますよね。一歩踏み出すのって、すごく勇気がいるんです。いったん走り出せばいいだけだって、わかりきってるのに。どうしても足が進まない……前に進めないんですよ」
半ばうつむきながら、焼き菓子をもう一度口へ運ぶ。甘い味わいが、刺々しくささくれる心をほんのわずかに安らげた。
「あの、ミオさん」
「うん、なんだい」
「……前からずっと聞きたかったんですけど。どうして、私をここに」
連れてきたんですか―――と言いかけた口をテレサがつぐんだのは、不意に頭を叩かれたせいである。先程まで誰もおらず、裏から入ってくる手段もないはずの建物で、カウンター内の彼女を背後から襲う。こんな芸当ができるのは、テレサの知る限りひとりだけ。
「わ、お帰りなさい。早いですね、店長」
「早くはないさ。店を離れてもう7日だ」
夜闇のように黒いハットと外套を脱ぎ、「着替えを頼むよ」とテレサへ渡す。露わになったのは、やはり黒い長髪と、わずかに埃っぽい燕尾であった。上背と体格もあいまって、芝居の悪役にでもなれそうな見た目である。もっとも、持ち前の影の薄さと陰りのある顔立ちのせいで、どちらかといえば幽霊役の方が似合いそうだったが。
「やあ、久しぶりだねゼークレイ。君もひとついかが?」
にやりと笑いながら、ミオは手中の菓子を差し出す。見目麗しい旧友からの心遣いに、屋内で虫を見つけたような一瞥をくれた者こそ、ゼークレイ・G・ヘレンディッツその人であった。
「ここの菓子だろう、それは」
「うん。それで? 君に任せたらゴミ箱行きなのを、わざわざ食べてあげてるんだ。感謝してもいいくらいじゃないかな、ヘレンディッツの坊ちゃん」
「誰が頼んだ。自他の線引きが狂ってんの何とかしろよ、マキシムのご令嬢」
出会い頭にガツガツと言い合う光景はいつものことだ。喧嘩するほど仲がいい、とはこのことを言うのだろうな、というのがテレサの見解である。預かったハットと外套を抱え直し、カウンターの喧騒を置き去りに店の奥へと向かった。
奥の引き戸を開けた先は、上と下へ伸びる隠し階段がある。入って右に折れると地下の倉庫へ、左に折れると2階の部屋へ繋がっていた。倉庫へは最初の一度しか降りたことがない。ひとりきりでの立ち入りは固く禁じられていたし、そもそも置いてあるモノがモノだ。見たこともないほど大きな宝石やら、触れたら壊れそうなほど繊細な彫刻の懐中時計やら、果てはどこぞの家の紋章をあしらった盾なんてものまである。どう考えても、仕事中の暇潰しとして気軽に入っていけるような場所ではなかったし、そもそもそんな胆力もなかった。
2階には、ゼークレイが寝起きしている一室だけがある。本来は物置だったと聞いているが、今となっては貧乏学生の寝床めいた様相を呈していた。ベッドの上に脱ぎ捨てられた寝間着やら、何語だか見当もつかない本やら資料が散らかっているのも、すっかり見慣れた光景である。
ベッドと反対側の壁には、首から上だけの牡鹿の剥製が吊られている。凛々しく虚空を見つめる顔の上には、立派にそそりたつ角が生えていた。その片方にハット、もう片方に外套をひっかけるのが、テレサの仕事のひとつである。ついでに、小さな衣装ダンスから適当にシャツとズボンを取り出し、来た道を引き返した
再び店に顔を出すと、ちょうど2人の“じゃれ合い”も一段落したらしい。お互いむっすりと黙り込んだまま、カウンター越しに額を突き合わせている。
「テレサ」
こちらに背を向けたままかけられた言葉に、一瞬反応が遅れた。
「あ、はい。何ですか?」
「今日はもう帰っていい。馬鹿の世話は疲れただろう」
「いやいや、私が世話してあげたんだよ? どこかの誰かさんがあまりにも放任だから、見かねてつい」
「お前の世話はありがた迷惑なんだよ」
着替えを受け取り、男はそのままカーテンの向こう側に消える。残された女たちは顔を見合わせ、どちらからともなく笑いながらカウンターの勉強道具を片付け始めた。
「迷惑だった?」
「いいえ、ちっとも」
声をひそめて囁きあいながら、「あ、でも」とノートを閉じる。
「問題集の上に座るのは、これっきりにしてください」
「ごめんって……今度お詫びに私の参考書あげるから、ね? ちょっと古いけど充分わかりやすいと思うから、それで許してくれ」
「絶対難しいやつじゃないですか」
「そんなことないさ。私は逆に技術《マギック》のごり押し、一点突破でやってきたからね、むしろ君の方が座学は得意だと思うぞ。そうだ、なんなら私が直々に技術《マギック》の特別講座も付けてあげようか?」
ペンケースを差し出しながら、ミオは軽快に笑う。手早く荷物をまとめながら、テレサは軽く聞き流すふりに努めた。
「いいですよそんなの、悪いですし。じゃ、今日は帰ります。お疲れ様でした……店長も!」
「お疲れ! 気を付けてね」
「……ご苦労さま」
カーテンの向こうから聞こえたくぐもった声を合図に、店のドアを思いきり開く。勢いのまま一歩外へ踏み出そうとしたところで、不意に「テレサ、」と呼びかける声があった。慌てて振り向くと、先程までカウンターに座っていたはずの女性が目の前に立っている。
「ミオさん?」
呼びかけに応じるように、わずかに上体をかがめる。普段、テレサより少しばかり高い位置にある頭が、少女の耳元まで近づけられた。
「……明日、いつもより1時間早くおいで。君がここに来た本当の理由を教えてあげる」
初めて聞く、重い声。思わず顔を上げた先で、ミオは常のように軽やかに笑っていた。
「ゼークには内緒だよ。さ、早めに帰りな」
ドアを開けてくれた手に頭を下げ、今度こそテレサは店を出た。
往来はちょうど仕事帰りの人々であふれており、重い足取りをひきずるような歩みで駅へと向かう流れがある。右も左も疲れきった顔ばかりが並ぶその中で、少女ひとりだけが、軽やかな面持ちで帰路についていた。
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