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<禅語:脚下照顧(きゃっかしょうこ)>他人への批判心を抑える事が出来ると、心は軽くなり生きやすくなる

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※ブログからの引っ越し記事です。

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タカミチです。

今回は、曹洞宗の開祖・道元和尚が説いた禅語「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」について、ひとつの側面を取り上げてみましょう。

この禅語の漢字の持つ意味は、”足元を照らして顧みる”、、つまり

「他人の言動を観て批判する前に、まずは己の足元を顧みて、反省すべきことが無いか見つめ直しなさい」

という意味で解釈されています。

「人は自分を映す鏡」ということわざがありますが、人の心は鏡そのものです。

神社で鏡をご神体として祀っているのも、自分の心(内在神)を鏡に映して、心を見つめ直し、心機(神気)一転をするためです。

神社参拝は、「他人を批判する”我”を沈め、曇りの無い心に戻れるように反省する機会を持つ」という意味を含んでいると感じます。

邇邇芸命(ニニギノミコト)が地上に天孫降臨をした際に、天照太御神が授けた三種の神器のうちの一つに「八咫鏡(やたのかがみ)」があります。

天照太御神は地上に降る前のニニギノミコトに対して、八咫鏡について

「これを私だと思って欲しい。この鏡を観る度に、己の心に民衆を苦しめる我が芽吹いていないかを確認し、悪い我があると思えばそれを取り除き、神心に戻って欲しい」

と伝えています。

「カガミを観て、ガ(我)があると思えば、それを取り除き、カミ(神)に戻って欲しい」

と、「カガミーガ=カミ」というシャレを含んで伝えています笑

これは人間に対しての戒めも含んでいると感じます。

他人を観て批判する心を野放しにしてしまうと、自我が膨らんでいきドンドン正しい心から遠ざかって行きます。

だから、禅語「脚下照顧」にあるように、「他人を批判する前に、自分を顧みて反省する」ことが何より大事なのです。

はっきり言って、他人を批判する必要がある時など、ほとんど無いと言っても差し支えないと感じます。

「え~!そんなはずはない!」と思うかも知れませんが、我を静めていけば行くほど、この意味が分かるようになります。

「他人を批判する」という行為の裏には、自分の自信(自神)の無さが隠れていることが多いです。

自己防衛本能の現われとして、自分の価値観に合わない言動をする他人を条件反射的に批判してしまうわけですね。

禅語「脚下照顧」の意味を深堀りすると、「他人を批判する自分の価値観は本当に正しいのか?」と、静観することだと感じます。

極論すれば、犯罪行為や他人に迷惑をかける悪事を働くような人は、明らかに間違った価値観の持ち主ですが、それすらも批判する前に「その犯罪行為の芽は自分には100%無いのか?」ということを自省することの大切さがやはり含まれています。

この事について、親鸞聖人も仏教書『歎異抄(たんにしょう)』で説いていますが、「善人だから悪事を犯さないとは限らない、逆に悪人だから悪事の本質に善を含まないとは限らない」という、”目に映るものだけで判断する愚かさ”を説明しています。

とんでもない悪人の凶事が、後の社会の大切な礎になるという”万事塞翁が馬”もあるわけですね。(犯罪行為はダメですよ!あくまで本質の視点の話です)

「自分が今観ている価値観に反する他人は、本当に批判するに値するのだろうか?批判することは己の我が強いためではないのか?」

という視点を常に持っておけば、常に心を中道に保つことが出来るようになり、ちょっとやそっとじゃ心がブレない安心感を感じるようになります。

他人の行為が許せないのなら、それを許すことが出来た時の自分の心の強さを想像してみることも、きっと今の時代を少しでも生きやすくすることに繋がると感じます。

少しでも参考になれば嬉しいです😄

あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
明日も善い一日となりますように😆

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