里見氏の秘密(その2)
徳川家と親密になった里見氏は関ヶ原の戦いでも徳川秀忠と行動し、領地を加増されます。更に秀忠が里見忠義の烏帽子親となり、忠義は老中・大久保忠隣の娘と婚姻するなど順風満帆でした。
ところが、徳川家の将来を案じた家康が暴走します。源氏の末裔を自称していた家康は、里見義康に「私と貴方は同じ源氏だよ」と手紙を送りつけたり、葵の家紋を本多忠勝から譲ってもらったり、源氏長者だと主張するのに躍起になっていました。
そんな家康がどうしても必要だと考えたのが、清和源氏の末裔の証である「源氏の宝刀」でした。
当時は源氏の宝刀は髭切と膝丸の二本あり、髭切は鎌倉時代末期に焼失して膝丸は京都の大覚寺に奉納されていました。そして、家康は三本目の宝刀を創ろうとします。
里見氏が鶴谷八幡宮に宝刀を保管している事を調べた家康は、里見忠義を江戸城に呼び出した上、伯耆国(今の鳥取県)倉吉に飛ばしてしまいます。ちなみに伯耆国が選ばれたのは、源氏の宝刀の作者・安綱の出身国だから。
家康に派遣された内藤政長と本多忠朝は鶴谷八幡宮に行くと、宝刀と脇差し(守家)を交換してしまいます。更に家康は『里見九代記』の執筆を命じ、その中で宝刀強奪の犯人が暴君の里見忠義だと記させます。
奪った宝刀には豪華な装飾を施して、「童子切安綱」として発表。時の権力者に代々受け継がれて来たと言う、架空のエピソードも作ります。
もっとも、織田信長は平家出身を自称していたので除外。何故か豊臣秀吉から譲渡された事になっていますが、その話が本当なら秀吉は豊臣秀頼に譲るハズで、創作なのがバレバレです。
童子切安綱は戦後日本刀の国宝第一号に認定されましたが、刀身は平安時代作で鞘だけが江戸時代作である点、過去の文献には童子切がまったく登場しない点が謎とされています。ここまで読んだ皆さんには、その理由が解るでしょう。
さて、焼失した事になっていた髭切ですが、実は秘かに最上家が保管していました。童子切安綱の登場に最上家の皆さんは仰天します。
このままでは焼失した話が史実になってしまうし、かと言って源氏の宝刀だと発表すれば、徳川幕府に逆らう事になる。
悩みに悩んだ末に最上家の皆さんが出した結論は、作者銘の安綱を国綱に変えて、鬼切丸として北野天満宮に奉納する事でした。
髭切の作者銘が変更された理由も謎とされていますが、その裏にはこんなドタバタ劇があったのでした。
里見忠義が27歳の若さで病死すると、側室に子供がいたのに幕府は「跡継ぎ無し」として里見氏を改易処分に。そして家臣達が忠義の後を追って切腹。主君を慕う姿に感動した倉吉の人達はお墓を作り、「八賢士」と称えました。
ちなみに僕がここまで里見氏の謎を知るのに掛かった日数は約3日間。チート才能は本当に便利です♪
そして童子切安綱の価値を高める為に、江戸幕府はイカれた作法を始めたのでした(続く)。
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