海の色
先日来、ちょこちょこと芦川いづみ出演作品を観ている、なんてなことを Misaco + Otherz のポッドキャストで喋りましたが、その後も引き続き、いくつかをぼんやりと鑑賞継続。
芦川いづみの、何というか、愛らしい子狸のような笑顔がいい……なんてな表現は失礼かしら。そもそも子狸の実物は見たことがないんだけれども。そんな彼女の笑顔を堪能するばかりではなく、時代の景色を見たいという目的もあるんですよ。私、1961年生まれなんですが、その前後の町の風景や雰囲気を確認したいな、と。ところで、1961ってさ、天地ひっくり返しても1961なの、ちょっといいよね。
彼女は結婚とともに引退したそうで、活動時期は1953年から1968年なんだって。ちょうど私が見てみたい時代とフィットしていますな。1961年の前後15年ほど。それなりに古い作品なので中にはモノクロのものもありますね。この場合、モノクロって言うより白黒っていう方が適切なのかな。
先日みた『未成年』というやつに海のシーンが出てきました。当初は何の違和感もなく眺めていたんだけれど、ふと、この海の色って本当はどんな具合なんだろうと思いはじめたら、町の看板やスカートの色、いろいろなものの色が気になりはじめて、物語に集中できなくなってしまったのでした。海の色は海の色でしょ。それにそんなことはさ、物語の本質とは関係ないんじゃねえの。そう言われればそうなんだけれど、海だっていろいろあるじゃん。小笠原とベーリング海とではまるでちがうものじゃございませんか。なんてわかったようなことを書いていますが、実を申せば、私はどちらも訪うたことがないわけで、画面や写真の中で目にしたことがあるだけなの。そもそも、モニタの中や印画紙の上の海と実際の海と同じ色なのだろうか(いや、同じ色のはずがない)……なんて古文の教科書に載っていたような反語の例のような自問自答に陥る羽目になり……おやおや、いったい私は何の話をしているのだろうか。
そうだった。芦川いづみが眺める海はどんな色かって話だった。作品がモノクロである以上、君は自由に想像する権利があるんだよ、とおっしゃるか。それもそうなんだよ。その通り。なんだけれども、監督が、スタッフが、役者たちが目にしていたのはどんな色だったんだろうなあということが気になるわけよ。そんなところで立ち止まってぶつくさ言うとるから、君という人間は世間から遅れをとり、いついつまでも杉並の片隅で燻ることになっておるわけじゃよ。前に進みたまえ、なんてなことを思う人も少なくないかもしれませんけれど、でもさ、気になるものは仕方ない。そんなわけで、今日も私は杉並の片隅で燻っておる次第。
そもそもあの映画の舞台は横浜なんだよな。実際には見たことのない1950年代の横浜の海。実際には見たことのない子狸。実際には見たことのない芦川いづみ。つまりは、何もかもが実際の体験ではなく、所詮は脳内で生成消滅してゆく存在に過ぎないんだよなあ。脳みそってすげえなあ、と思う。そう思うと同時に、現実から乖離しうる危険性も感じたりしなくもない。君とぼく、本当に同じものを見ているのかなあ。同じものを見ていたとして全くちがうものを受け取ったりしていないかなあ、なんてなことをね。そんなわけで、今日も私は杉並の片隅で燻って……おっと、そろそろ現実世界の猫のみなさんのめしの時間だ。