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チェスタトン名言集

 一般にはブラウン神父シリーズの作者として知られているG・K・チェスタトンですが、バーク、オークショットと並ぶ英国の保守思想家という一面もあります。
 

まずは比較的、人口に膾炙している言葉から

「民主主義は、どういうわけか伝統と対立すると人は言う。どこからこんな考え方がでてきたのか、それが私にはどうしても理解できぬのだ。伝統とは、民主主義を時間の軸に沿って昔に押し広げたものにほかならぬではないか。それはどうみても明らかなはずである。何か孤立した記録、偶然に選ばれた記録を信用するのではなく、過去の平凡な人間共通の輿論を信用する。
 つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうち最も日の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。
 
単にたまたま今生きて動いているだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」
(おとぎの国の倫理学)

「気ちがいと議論をしてみたまえ。諸君が勝つ見込みはおそらく百に一つもない。健全な判断には様々な手かせ足かせがつきまとう。しかし狂人の精神はそんなものにはお構いなしだから、それだけ速く疾走できるのだ。ヒューマーの感覚とか。相手に対するいたわりだとか、あるいは経験の無言の重みだとかにわずらわされることがない。狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では狂人のことを理性を失った人というのは誤解を招く。
 狂人とは理性を失った人ではない。理性以外のあらゆるものを失った人である。気違いが何かを説明するのを聞いていると、それはいつでも間然とすることなく、純粋に合理的に見れば文句のつけようがない。というか、もっと厳密に言うならば、気ちがいの説明は動かしがたいとは言えぬにしても、返答しがたいことは事実なのだ。」
(脳病院からの出発)

芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時はぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首が短いキリンを描くことは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう。」
(思想の自殺)


チェスタトンは正統は両極端への逸脱を警戒しながら、細い尾根道を進むものだと言います。
ここで論じられている”正統”はキリスト教の正統(主として三位一体説とローマカトリック)ですが、左右の両極端な政治勢力に翻弄された昭和前期の歴史を考えると、単なる護教論以上のものがあります。

「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかってあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりはるかにドラマティックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。
(キリスト教の逆説)

 それ(キリスト教の知恵)は単なる世俗の知恵ではなかった。単に極端を避け、道理をわきまえているということにとどまらなかった。猛々しい十字軍の勇士と従容として謙虚な殉教者とは、キリスト教の二つの極として、お互いにバランスをとっているのかもしれなかった。
・・・二つのほとんど狂気に近い立場が一つに結び付き、そして、その結びつくということによって、二つの狂気がいわば一つの正気に転化する・・・この種の矛盾の統一が真理の兆しであることを、(私は)すでに経験によって知っていたのである。
(キリスト教の逆説)

 優れた文学の効用は普通考えられているように、そういう優れた文学の持つ文体とか情緒的インスピレーションのすばらしさにあるわけではなく、それは、単に当世風になることから私たちを救ってくれる点にある。
 つまり古典と称せられ恒久的な生命を持つ文学の最大の機能は、真理の全体像の存在を私たちに常に思い起こさせ、私たちがときに傾きがちな思想に対して、それとは別のより古い思想を持ってきて、それとのバランスを打ち立てることにある。
(読書論)

チェスタトンは「自由思想家とは、独力で自由に思考する人間を意味していないのだ。一度独力で考えてしまってからは、ある特定の結論だけに固執している連中を言うのである。」として、続けます。

「われわれが民主主義を尊重し、西欧の自己革新のエネルギーを尊重するとすれば、古い神学にこそこれらを発見できるのであって、現代流の新しい神学に見出すことはまずできない。改革を求めるのなら、正統に固執しなければならぬ。
(正統のロマンス)

「正統は単にしばしば言われるとおり道徳と秩序を守る唯一の信頼すべき守護者であるばかりでなく、同時にまた、自由と革新と進歩の唯一の論理的なる守護者だということだ。我が世の春を謳っている圧制者を引き倒そうとするときに、人間性の無限の進歩などという新式の理論を持ち出してみてもラチはあかない。原罪という古来の教義によらなければ決着はつかないのだ。」
(権威と冒険)


チェスタトンは庶民の価値観や判断力を信頼し、普通選挙権運動を熱心に支持しました。

「この制度(普通選挙)は、あまりにも遠慮深くて自分の意見など言い出せないという、まさにそういう人々の意見を引き出そうとするものだからである。これは一種神秘的な冒険である。自分を信じない人々をことさらに信じようとする試みだ。・・・それは無名な謙虚な人々に向かって、「立ち上がれ、友よ」と呼びかけることなのだ。
(永遠の革命)

「金持ちを信頼し、貧民よりも道徳的に頼りになると思うとしたら、それはまったく疑問の余地なく反キリスト教的であると言わねばならぬ。」
(永遠の革命)

一方で、庶民が新聞雑誌によって疑似知識人化した”大衆”に変化しようとしている状況を危惧してもいました。

 真の民主主義について、他の何者よりも異なることがあるとすれば、それはつまり、真の民主主義は衆愚の支配に断固として反対するという一事である。なんとなれば、真の民主主義の根本は市民の存在ということにかかっているからであって、そして衆愚の最上の定義は何かと言えば、その中に一人として市民の存在せぬ群衆であるという以外にはないからである。
(棒大なる針小)

 最悪の時代の風潮はありもしない風潮に自己を適合させようとする何万、何億の小心な人間からできあがっているのだ。そして、今日のイギリスは日に日にそういう状態になりつつある。誰もかれも世論を口にする。その世論というのは、世論マイナス自分の意見である。誰もかれも、隣りの人が役に立つ働きをしてくれるだろうという間違った印象を抱いて、自分自身の働きを役に立たないものにしている。誰もかれも一般の風潮に隷従しようとする、その風潮自体が一つの隷従である。そして、気の抜けたビールかぬるま湯のような均一性の上に、この新しい退屈な陳腐な新聞が勢力を広げる。
(異端者の群れ)