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余すことなく

「人間ってのは、どうやら喪失体験ってものがないと駄目らしい」

ある日のゼミで先生がそう言った。


私は今、心理学を学んでいる大学1年生だ。

唐突だが、9月6日、大好きな家族が空へ昇った。

その時のあの全てが消えて無くなる感覚を今でも鮮烈に覚えている。

0になったと、そんな風に感じていた。

あれから大体3ヶ月も経ったが、未だに彼の姿が頭から消えることはないし、家に帰ったら走って駆け寄ってくるんじゃないかといつも考えてしまう。

まぁ早い話、多分彼がいなくなった事実を受け入れられてないんじゃないかと思う。

この文を書いてる今だって、本当はなかなか結構しんどいのだ。


ある日の授業のこと、現在ゼミでサイコセラピーたるものを勉強しているのだが、そこで継母を失った1人の少女の葛藤について語られている場面があった。

自分が苦しい思いをするのを避けるために、本当は親身になってくれていた継母を悪者扱いすることによって、「継母は失われても当然であり、決して悲しむべき事実ではない」と正当化するというものである。

そうしてしまえば、少女は悲しまなくて済む。

少女のそれはとても好ましい行為とは言えないが、皮肉にも少し今の自分と重なってしまった。


単刀直入に言ってしまえば、この感情は「逃げ」そのものなのだ。

現実と向き合おうとせず、自分の都合のいいようにただ楽をしたいだけなのである。

今の私だってそうだ。

どこかでまだ彼は生きていて、いつかまた走って迎えに来てくれるんじゃないか。

そんなことばかりいつも考えてしまう。


その時の授業でふいに先生が放った一言、それが「喪失体験」というものである。

喪失体験とは、簡単に言えば、自分にとって重要な役割を果たす人などが亡くなったりしたときに感じる悲哀の感情のことだ。

これは人間なら誰しもが人生に1度は必ず味わうものであり、回避のしようがないものらしい。

出来れば悲哀の感情なんて、少ない方がいいに決まってる。

いつもそう私は思っていた。

しかし、心理学では、この悲哀こそが自分を成長させるためには必要不可欠な要素だというのだ。



「悲哀を知ることで家族や友達を大切にできるわけで。逆に言えば、この悲しみから逃げてきた人は誰も大切には思えないということなんだよ」



深く考える必要もなかった。

熱く語る先生のその言葉が、ただただ私の心にぶっ刺さった。



最近、昔の写真を見返すのが怖くなっていた。

理由は単純で、泣いてしまうからだ。

あの日に戻れたら。

そんな言葉ばかりが頭に浮かんでくる。

過去を振り返ると、どうしても今が辛くなってしまう。

でも、裏を返せば、それほど彼は私にとって特別な存在だったわけで、それほど一緒にいた時間は素晴らしいものだったということなのだ。

今の私には、全てを受け入れるということはなかなか難しい。

でも、それが無理なら噛み締めればいい。

血が出るほど歯を食いしばって、味がしなくなるのを待てばいい。

悲しみに真正面から突っ込んで、いつかそれを突き破ってみせよう。

最後には全ての記憶が、余すことなく素敵な思い出になるように。


そして、より一層、家族や友達を大切にできる人になるように。

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ましこ
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