大人になるということ
最近になって、幼なじみとよく連絡を取り合うようになった。
連絡を取るというよりかは、一緒によくゲームをするようになった。
昨年度に成人を迎えた私たちは、特に昔から変わることもなく、話をすれば中学生のままだった。
だが、そんな私たちも、もうそろそろ将来のことを考えなくてはいけなくなり、面白くない話も進んでしてしまうようになった。
思えば私は、誰かと話をする時にはいつも「社会に溶け込めなかった可哀想な人」であるというアイデンティティのもとに関係構築をしていた。
それは、そうしなければ自分を受け入れることができなかったからだ。
学校へ行けずに不登校になった私は、向けられる他人の目が見下しているものであることを知っていた。
ただ、そんな中でも、言い訳のように自分の境遇を語ることで、辛い経験を肯定してくれる人がいる。
そんな人たちと関わりを持つためには、うまく活かすことのできるコンプレックスだった。
もちろん、それは学生である今は通用するかもしれないが、近いうちには大人がうじゃうじゃいる社会人にならなければいけなくなる。
そんな大人たちには、全く通用しないマイナスプロモーションである。
1度日の目を浴びたコンプレックスがまた本来の姿へと戻ってしまうかもしれない。
昔のテレビかなんかで言っていた、人はいつから大人になるのか、という疑問。
その答えには、「大人になりたいと思っているうちは子供で、子供になりたいと思うようになったら大人」と言われていた。
その答えが本当に正しいのなら、私はいつの間にか大人になってしまったのかもしれない。
他人に甘えてここまでやってきて、「社会人にならなければいけなくなる」という事実を目の当たりにした今、ようやく後悔が大きくなってきたのだ。
必死に逃げ道を探しながら大きくなった私は、いざ壁とぶつかる時に真正面から越えることが怖くなってしまっていた。
だから、また子供の頃からやり直したいと、そんなことを頻繁に思うようになった。
でも、大人になるに連れ、良かったことだってある。
こうして今、幼なじみの存在がいることだ。
それだけじゃなく、高校の友達だって、バイト先の友達だっている。
これらは、弱い自分を支えてくれるとても大きな戦力なのだ。
頼りたい時に頼れる仲間がいるのは、自分のアイデンティティが手繰り寄せた命綱なのかもしれない。
だからこそ、これから大人になっても、何もできない訳じゃない。
「あの素晴らしい思い出は、大人にならなきゃ手に入らなかった宝物だと思うと、大人になるのも悪くないと、そう思ったんだよ」
私の好きな歌手であるセカオワもそう言っていた。
私という1人の人間の、大人としての人生はまだまだこれからだ。
社不は社不なりに、自分の出来ることを全うしようではないか。
こうして、気持ちの整合性を保っている、そんな感じ。