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【キー15】短歌ーまだ夏

この冬はクソ来る あの秋は何度も来る だけどこの夏は一度しかないのさ!!

夏はだるい

甲子園観ながらだった途中まで埼玉代表が強かった

藤宮若菜『まばたきで消えていく』

海!山!家族旅行!というのだけが夏休みじゃなくて、やっぱり「休み」なんだから家から一歩も出ずにダラダラするのも夏休みじゃないか。という主張もある訳で。夏のだるさを描いた一首からスタート。

僕は普段テレビを全く見ないんだけど、甲子園と箱根駅伝はなんとなく見てしまう。「暑いのに/寒いのによくやるよね〜」とか好き勝手言いながら横になりながら見て、飽きたらトイレにいったり寝たりしながら時間を過ごすのが好きだ。

でも甲子園も箱根駅伝も一日中やってるから、流し見とはいってもそれだけ長い時間テレビを見ていると頭が痛くなってくる。かといって飽きて惰性で挟んだ昼寝でも思いの外寝過ぎてしまって、だるい。
この一首から感じるだるさにはこういのがあると思う。

途中まで見て→ずっとテレビ見てると疲れるし+飽きて→寝たら寝たで頭痛がするし+夜眠れない→だるい

この贅沢な時間の使い方とだるさが、いま夏休みしてるな〜感を強める。


次に「埼玉代表」を考えたい。

都道府県のもつイメージって都道府県ごとにいろいろあるけど、埼玉は「水みたいな都道府県」だと思う。もっと言うと水道水。天然水とかじゃない。
つまり印象がない。

想像してほしい。水を飲んでいたら、急に「その水の感想は?」と訊かれたときのことを。「え、え?えー…」となってしまうだろう。毎日飲む水に感想なんてない。1番シンプルで簡単に手に入るから飲んだだけだ。

埼玉県はこれと同じ感じがする。ただそこにある県。シンプルで万物のはじまり感のある県。
神様は埼玉県をはじめに作って、そこにビルを追加して神奈川県をつくり、雪を足して新潟県をつくり、焼酎を垂らして鹿児島県をつくったに違いない。水からコーラもコーヒーも作られているように。

埼玉県は水であるが故に、印象がない。だから試合を流し見するのに最も適した都道府県なのだ。
或いは、リモコンをとってなんとなく甲子園をつけたら埼玉代表が試合をしていたときの、なんとも応援し難い感じ。これが秋田代表とかだったら、雪国の田舎からでてきてすげえなあとかは思えるのに。

この「埼玉代表」をチョイスしたことでだるさに拍車が掛かっている気がする。


最後に、「だった」を考えたい。
ここを略さずに言えば、「甲子園見ながら〇〇をしていた。途中まで〜」となる。なにをしていたのだろうか。

僕が思うにこの一首が描いている場面は性愛だと思う。そう考えれば一首全体に漂うだるさにも説得力が増す。
つけていたテレビに映っていたのが埼玉代表だったら、それはセックスの妨げにならないし(だってコーラとかじゃなくて水だから)、試合の結果を最後まで追おうとは思わずに「途中まで強かった」というふうに放ったらかしにできる。

性愛のだるさを描いた短歌はいくつもあって、有名なのだと

したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ

岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

とかが思い浮かぶ。

だけど甲子園のこの一首は、「する」とか「やる」などの表現はもちろん、そのものを示す直接的な描写はまったく含んでいない。それでも読み手に、性愛とそのだるさを連想させてくる。


カルピスのCMに登場したり高校球児の涙に映る夏が、夏の全てじゃない。夏のイデアと離れたところにあって、それでも誰もが知ってる夏特有の怠さを素直に描いた、短歌らしい視点をもった一首。

お盆

思い出を持たないうさぎにかけてやるトマトジュースをしぶきを立てて

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

お墓参りで墓に水やお酒をかける感じを連想させる一首。
お墓の中の人はもう思い出を持っていないから、何をかけてもかけなくても届かないことは分かっている。でも我々は水やお酒をかける。どうしてかっていうと、かける側の我々は思い出を持っているから。お墓の中の人が昔ビールをよく飲んでいたという思い出があるから、ビールをかける。


しぶきが立つほど勢いよくトマトジュースをうさぎにかける行為には、手持ち花火みたいな数秒でおわってしまう眩しさがある。花火と同じく、トマトジュースをかけるなんて行為は夏にしかゆるされない禁忌めいた営みなのだ。

贅沢

休日の平日の山手線で池袋まで真夏の昼寝

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

平日に休日があって、しかも眩しい夏。なのに山手線で昼寝をしてしまう贅沢な時間の使い方。うっかりこれをしてしまったら、「いま、夏休みしてるな」と強く実感してしまう。

惰性

冷やし中華はけっきょく一度だけ食べて長い髪して夏をすごした

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

今年の夏こそあれやろうとこれやろうと意気込むんだけれど、暑くて結局床屋に行くのも億劫になったりして、甲子園を途中まで見てダラダラしてしまう。このだるい感じも夏。海ではしゃぐだけが夏じゃない。

はじまり

店先にホウ酸団子がうず高く積まれています 夏が来ました

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

夏の感じ方はそれぞれで、ドラッグストアに入った瞬間にそれを感じる人もいる。

三首連続で永井さんの歌を紹介した。
とくに後半2首。誰もが経験あるようなことで、ただ普通は気にもとめないことやすぐ忘れてしまうことでもあらためて描くことで、我々が深層心理で捉えていた夏要素を浮き彫りにしているのだ。

太陽

まだ明るい時間に浸かる銭湯の光の入る高窓が好き

岡本真帆『水上バス浅草行き』

こんな直球な「好き」でも短歌として成立するのが短歌のいいところ。夏は日が長いから、「まだ明るい時間」がたくさんある。思いついてふらっと入った銭湯で高窓をみあげて明るければ、まだ夏ということにしてもいいかもしれない。

そうだとは知らずに乗った地下鉄が外へ出て行く瞬間が好き

岡野大嗣『サイレントと犀』

「好き」の歌にはこんなものもある。地下鉄が地上に出た瞬間、みな顔をあげる。そこには希望がある。だって太陽が差しているから。暑くてにくい太陽だけれど、やっぱり皆の心の底には太陽があって、そんな太陽を思い切り浴びれると思えば、夏も案外悪くない。

夏は眩しい

「あの夏」と呼べば思い出めいてきてどの夏も襟をただしはじめる

斉藤そよ『しんしんとメトロノームの音がきこえる』

これはもう一読するだけで、大好きな夏が飛び込んでくる感じがしていい。
僕らが「あの夏」とかいうたびに、これまで何十回と経てきた夏はみんな「俺のこと呼んだか?」と起き上がってくるんだと。なんて愛おしい、夏。

夏はやっぱり他の季節に比べて活動的になる季節だから、思い出が蓄積されやすい。夏の眩しさって照りつける太陽はもちろんだけど、ひとつひとつの夏に思い出が詰まっていること自体も後から見返して、眩しい。


別に山や海にいかなくたって、甲子園をずっと見てだるいな とか思ってもその夏はその夏として、特別に眩しくなるもの。

まだしばらく続く夏を、これからどう過ごそうか。
みなさまそれぞれの過ごし方で今年も夏が「あの夏」になりますように。

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