手塚治虫が伝えたかった「火の鳥鳳凰編」手塚コードを探ってみる
今回は火の鳥鳳凰編の手塚コードに迫ってみたいと思います。
「火の鳥」は非常に短い物語ですが、
人間の本質を巧みに描いた作品です。
故に研究対象になりえる傑作だとさえ思います、ほんとに。
これだけの物語をこのページ数で表現しているのはまさに手塚治虫の神業
奇跡的なマンガといっても決して過言ではないと思います。
そんな「火の鳥」の特徴として
宙ぶらりんにされたピースを自分で組み立てていく作品ですので
いろんな解釈が生まれ、どれが正解かというのもない作品でもあります。
読者それぞれに誤読する自由を
持ち合わせたとてもフリーダムなマンガ
それが本作の面白いところでもあるんですが
今回はより深く火の鳥鳳凰編を楽しみたい人向けに
これまでの手塚作品や手塚先生の思考、思想、テーマ性などをすべて見てきたボクがおそらく火の鳥鳳凰編で伝えたかったもの
この作品の本質はこうだろうというものに迫ってお話ししようと思います。
ちょっと自分でも何言ってるか訳わかんなくなるかもしれませんので
本当に興味のある方だけ見てくださいね。
はっきり言って面白くないと思います。
というわけで
手塚先生が伝えたかった本質の鳳凰編、手塚コードに迫っていきますが
改めてこれが正解ということではなく
これもひとつの解釈として楽しんでくださいね。
あくまでも非公式の不純物の入った解釈ですので
そこはご了承ください
前回の普通の解説を見られていない方は
まずはそちらからご覧になってみてください。
それではいってみましょう。
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この物語は我王と茜丸の全く対極にある両者の物語ですが
この両者を描くことで手塚先生は何を伝えたかったのか…?
まずはとんでもない悪党だった我王にどんな変化が起きたのかから
見ていきます。
我王は最初自分勝手で「他人のことなんて知ったこっちゃない」という
超自己中な人間として描かれていますが
あるとき
「テントウムシの命を助ける」という
小さな良心を見せるシーンが描かれています。
これは鳳凰編における非常に大事なシーンになるんですが
これは
「命を大切にしよう」「どんな命も平等」というメッセージだけでは
ありません。
もちろんそれも大切なことではあるのですけど
それだとこの「鳳凰編」の本質的な回答にはなりません。
なぜなら動物を助けているようでも
一方では人間は動物を食べているからです。
動物を保護して良い行いをしているつもりでも、
平気で動物の肉を食べるのが人間なので
これは矛盾していますよね。
つまり自己矛盾をはらんでいる考え方だからです
なのでこれでは本質的とは言えません。
しかし物語上、
このテントウムシを助けたことは重要なパーツになっています。
そしてなぜテントウムシなのかも前回の記事で解説しておりますので
ぜひご覧くださいね
ではこのテントウムシのシーンには何が含まれているのでしょうか。
これは「縁」のことを意味していると思われます。
仏教思想では、この「縁」というものを非常に重視されています。
この鳳凰編の時代背景は
758年奈良時代、動乱の天平時代と呼ばれ
政権の乱れだけではなく干魃による飢饉や地震などで
庶民が非常に苦しい生活を送っていた時代です。
そんな中人々が頼るものは仏さん、神仏でありました。
しかもこの時代の政治は、宗教で
民衆をコントロールしようとしていた時代ですから
非常にこの仏教思想というのは
本作鳳凰編において重要なキーポイントになってきます。
茜丸も仏師という職業で
国家プロジェクトに従事しているいわゆる公務員ですしね。
この時代において仏教思想というのは非常に身近で庶民には切り離せない距離感であったということを抑えておいてください。
そしてこの「縁」なんですが
我々はよく「縁起がいい」「ご縁がある」などと言います
この運が良いとか、運命を感じるといった感覚は
この「縁起」「縁」からきています。
この言葉は、仏教の開祖お釈迦さまの教えから来ているんです
そうブッダです。ブッダ。
実はこの鳳凰編は手塚治虫のブッダ的要素もはらんでおり
非常に類似する点が多いというのも特徴です。
そもそもブッダは「火の鳥」東洋編という企画として書かれていたとも
語られていますし手塚先生がこの鳳凰編で描けなかったことが
ブッダ誕生に影響していることは確かです
今回はその辺りはここでは語りません。長くなるんでね
「縁起」とは本来どういうものかと言いますと
「この世のあらゆる物事には必ず原因と結果がある」
「物事がそれだけで存在することは無い」という教えで
どんないのちも、生まれて死にそして必ずどこかで繋がっていると…
これを「縁起」といい、
ようするに「因果関係」があるということです。
「因果応報」「輪廻転生」ともいわれますが
「輪廻転生」は火の鳥全体を通してのテーマであり、
ややこしくなるのでここでは触れません。
ここでは「因果応報」とだけ覚えておいてください。
そして
ブッダは、思いどおりにならない苦しみから抜け出すには、
どうしたらいいかと考えたときに
苦しみは「縁」によって起こるという事に行き着いたわけです
人生は思いどおりにならない苦である…と
その苦は欲望を引き起こす煩悩である…と
つまり
執着することが原因ですべての苦が生じるという
因果関係を解き明かしているわけですね。
ややこしくなってきましたが
要約すると
「執着こそ苦しみの原因」であるということです
これが鳳凰編の本質であると思われます。
冒頭の我王は自らの生まれ、育ち、環境に執着しており
あらゆるものを憎んでいました。
「自分さえよければ、他のものはどうなってもいい。」という感情
これらは自分に起きている「縁」を粗末にしていた行為で
仏教ではこのような「自分さえよければ」という感情を非常に嫌っており
「本当の幸せには到達しない」と言われています。
そんな我王でしたがテントウムシとの間に「縁」が生まれたとき
無意識とはいえそれを大切にする感情が芽生えました。
我々にとってはすごく当たり前の感情かもしれませんが
我王にとってこの感情が生まれたことにより
心境の変化が起きてくるんですね
仏教においては「縁がないと相手を助けることはできない」と言われており
この感情の変化こそ、後に我王が人の救いになったり
自らが救われるキッカケであるというサインを
手塚先生は描いているんじゃないかなと思います。
しかも
テントウムシって幸運の象徴とされており「縁起物」と言われております。
ここでも「縁」が関係してきますね
事実この後の我王は自らの繋がりを機に
徐々に性格も人生をも大きく変化していくことになります。
冒頭で我王は
「なぜ俺がこんな目に遭うのだ」という思いが強く
「こういう風になったのは俺のせいじゃない、廻りが悪い」
と責任転換し「生きるためにはこれしかない」という
自己中心的な考え方をしていましたが
「縁」の心を意識するようになってから
すべてを受け入れることで徐々に自らの存在価値を見出していきます。
対象的に、茜丸の方は
才能に恵まれ廻りからの信頼も厚くエリート街道を突っ走っていましたが
徐々に権力の側に身を置いていくことで、
横暴な人間になっていき「縁」を軽んじていくようになります。
無慈悲な行動によってこれまでの「縁」がぷっつり切れていく模様が
描かれていきます。
本作ではこれでもかというくらい両者が対照的に描かれているのも特徴で
もう一度この「縁」というものを意識して読み返してみると
これまでとは違う姿が見えてくると思います
そして我王と茜丸はそれぞれ、
人々の悩み苦しみ、世の中の不条理さに怒りを感じていましたが、
2人は、全く正反対の考えに至り、別の道を歩んでいくことになります
我王は、すべての命のためにその怒りや苦しみのエネルギーを背負い
茜丸は、自分の地位や名声のためだけを背負って生きていきます
まさに「煩悩」や「執着」を中心として
2人の人生が交錯していくわけですですね
永遠に満たされない心、それこそが執着
「執着」を捨て、すべてを受け入れ、悟りの境地に達した我王
多くの人に希望を与える存在になること
たくさんの人に貢献できる人こそが本当の幸せなんだと。
我王のラストシーンに至る姿を見れば
自らの欲望ではなく他人を幸せにすることで自らも救われるということが
読み解いていけると思います。
ちなみにラストシーンですが
原作では太陽、お天道様の
何事にも動じない雄大な姿を見て「美しい」と涙する感動的なシーンなのですが
アニメ版では太陽のラストシーンが出てきません。
おいおいおい… この太陽はテントウムシの伏線なんで
これが無かったら伏線の回収ができんじゃないか!
と思うんですが
アニメ版では桜の樹の下で佇む我王の肩にテントウムシがふわりと降りてきてそれを見た我王が涙を流すというシーンに書き換えられています。
これはこれで回収できているんでね。
ちょっと感動しちゃいますよね。
さてさて…そんなラストを見ちゃうと
己の欲望に溺れた茜丸よりも
民衆の救いのために生きた我王の方が
正しいように思ってしまいがちですが…
いくら我王が改心したからといって
これまでの行いが到底許されるわけではない、ということも火の鳥は描いています。
これが輪廻転生ですね
本編だけを読むと我王の方が正しいような印象を受けがちですが
我王はシリーズ通して、鼻の醜い「人間」として生まれ変わり
「輪廻転生」していきます。
いくら懺悔しても過去の罪は帳消しにはなりません。
この先ずっと猿田彦一族には非運な運命が待ちうけています。
我王は許されたというのではなく、
罪を背負って生かされているということですね。
(ここら辺は何言ってるか分からない方はぜひ火の鳥全編を読んでみましょう。すべてそこに繋がってきます)
茜丸においては執着の先にあるのは地獄と言わんばかりの
もう人間には戻れないという結末
この輪廻転生は鳳凰編だけでなく
シリーズ全編を通した一貫したテーマになっています。
人は自らの不完全性を正す目的で、何度も何度もこの世に生まれ変わり
そして因果応報や人の縁として次の人生に繰り越してゆくということが
火の鳥全編を通したテーマになっていることは
読み進めていくとわかります。
手塚先生は常々、火の鳥を批評する際には「全部読んでからにしてくれ」と言っています。
それはこの火の鳥という作品が断片的に見てもその解釈は作者の意図したことが伝わりにくい作品だからなんですね。
事実、三島由紀夫さんが「火の鳥」を批判した際にも手塚先生自ら三島さんに電話をして「最後まで読んでから言ってくれ」というエピソードも残されているくらいです。
それくらい大きなスケールの中で
展開していく物語ですからぜひとも全編読んでみて
それから一つ一つの繋がりを探してみるとより面白く読んでいけます。
…とはいっても火の鳥が最終完結する直前に
手塚先生は亡くなられてしまったので
永遠にその解答は出ないというオチがあるんですけどね…
ともかく
作品中で徹底的に苦悩する。二人
これには
どちらが善か悪かという議論も一部ありますが
そんな雑な問いじゃないんですよね。
我王と茜丸がどっちが正しかったかどうかという問題じゃあないんですよ。
どちらの感情も我々には存在しており
いづれも人間のもろさ、愚かさを表しています
所詮人間は「自分のことばかり考えている」
「悪いことをすれば、必ず自分に返ってくるぞ」という警告、
手塚治虫のメッセージなのであります
そんな誰にでもある人間の心の裏表を描き
肯定も否定もしない
淡々と物語だけを描き切った手塚治虫のズルさですよ(笑)
そしてそれが手塚コードではないでしょうか。
我王も茜丸もどちらも人間っぽさでもであり
どちらも「人間らしさ」と言わんばかりの描写
人間の生き方に優劣をつけない
それこそが手塚流の正解のない「人間像」なのかもしれません
まぁそもそもですけど手塚作品とは一人の主人公に肩入れしたり
依存する作品ではありませんしね
なぜなら主人公はキャラクターではなくストーリーだからです
手塚作品が人々の記憶に残るのは
個性的なキャラクターではなくその圧倒的なストーリー
物語の面白さにこそ手塚漫画の神髄があるからです。
以上今回の内容をまとめますと
火の鳥鳳凰編で伝えたかったのは
「執着をなくせ」「自然のありのままを受け入れろ」
ということ。
作中で「輪廻転生」とか出てきますがこれはあくまでも
火の鳥全編を通してのテーマでありメッセージなので
鳳凰編で伝えたかったこととしては解釈しておりません。
というわけで今回は火の鳥鳳凰編を深堀してみました。
こんな訳の分からない小難しい話に最後までお付き合いくださり本当にありがとうございます。
自分で書いててもわけわかんなくなってきましたし
やはり火の鳥を語るというのは難しいですよね。いや~難しい。
ほんと火の鳥は永遠に回答の出ない未完の作品ですので
読む人それぞれの回答があるかと思います。
今回はその解釈のひとつとして参考にしていただければ幸いです。
次回は復活編です
こちらも火の鳥屈指の問題作ですね。バカ面白です。
今回ご紹介した作品はこちら
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