俗説、京の冬・・・01
大政奉還
慶応三年六月二十二日、京都三本木の旗亭で薩土盟約が交わされた。
薩摩からは、西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀が、土佐からは後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳が出席し、陪席に坂本竜馬と中岡慎太郎が名を連ねた。
薩土盟約とは、簡単に言えば大政奉還が失敗したと分かるまで、武力討幕はしないというものだ。
西郷も大久保も、今では武力討幕派だったとして知られているが、最初からそうだった訳ではない。
慶応二年から四候会議で幕府の威信を失墜せしめるべく試みていて、西郷はこの四候会議をもって幕府が条約を結んでしまった兵庫開港の勅許を止めようとしたが、将軍慶喜に跳ね返されてしまったのだ。
四候とは、薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗成、福井の松平春嶽、土佐の山内容堂なのだが、この四候の足並みは初めから揃っていなかった。
特に容堂は、その政治姿勢とは裏腹に、心情的には佐幕であり、しかも頑固で豪儀な性格だった。
話し合いの途中でも、形勢不利と見ると「歯が痛い」と言って帰ってしまう事もあったと言う。
とにかく西郷は、この四候会議には期待置出来ないと判断し、ここに至っては武力討幕あるのみだと思っていた。
しかも、竜馬の仲介で同盟関係にあった長州藩は徹頭徹尾、過激な武力討幕派だったので、正直なところ土佐の発案した大政奉還案は迷惑でさえあった。
それでも土佐藩を敵にはしたくないので、大政奉還の後ろ盾に戦の一字を置くことで藩をまとめたのだ。
後藤は土佐にいる容堂を説得して、軍を率いて十日以内に戻る約束をした。
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