旅というもの
若い頃、私は旅が好きだった。大学時代、私はユースホステルクラブに所属し、友人と北海道や西表島を旅した。そして21歳の時、オーストラリアにワーキングホリデーに行き、オーストラリを旅した。私はバックパックを背負ってあちこちの国を周り旅したことを旅だと考えていた。若い頃私は沢木耕太郎さんの深夜特急のような旅がしたかった。私のやりたいことの唯一のことだった。旅の他に特に何かをやってみたいことは私にはなかった。
そんな私が統合失調症になり、普通の日常生活を営むことができなくなった。陽性症状が治まると私はもうバックパックを背負って旅はできないんだなと理解した。私は落ち込んだ。これからどう生きていけばわからなかった。とりあえず統合失調症に向き合わねばならなかったし、食べていくために社会復帰することが優先事項だった。
大学生の頃、私は近畿日本ツーリストの松本支店で添乗員補佐のアルバイトを2年間働いていた。世の中の何もわからない私は近畿日本ツーリストの添乗員をすることで多くのことを学んだ。修学旅行の添乗に行ったときなど、学生の飲み会しか知らない私は酒の席でお客様に失礼なことをしてしまった。社員は酒の席から私を連れ出し、胸ぐらを掴み、叱ってくれた。酒の席でお客様の前でどう振る舞うか、どういう態度で接するか、基本的なことを叩き込まれた。私は厳しく叱られたことにめげずに松本支店に足を運ぶと、社員は添乗の仕事を回してくれた。私は近畿日本ツーリストの社員に連れられ、学校を訪問したり、修学旅行の時期は、毎週のように京都や広島に添乗に行った。仕事であるがこれも旅である。仕事はしんどいが私は添乗の旅を面白く感じていた。朝は早く、夜は遅い。宿泊の案内、バスの点呼確認、交通機関の案内、施設の案内など仕事は多岐にわたるが充実感があった。添乗が終わると、社員は学生アルバイトを居酒屋に飲みに連れて行ってくれた。チェーンの居酒屋か誰かのアパートで飲むことしかできなかった私にとって刺激的な日々だった。社員は学生アルバイトの憧れだった。
そんな私がオーストラリアの1年の生活から戻ると旅って何だろうなと思った。2泊3日の修学旅行も旅だろう。1泊2日の温泉旅行も旅だろう。でも僕は何ヶ月、あるいは年単位で旅することが本当の旅ではないだろうかと考えるようになった。添乗のある日、年配の社員と私は年配の方を連れて、温泉旅行の添乗をした。無事旅行は終わった。私は年配の社員と意見が合わなかった。若い私は旅というものは面白いものであり、未知のものに出会うことが旅だと考えていた。しかし年配の社員は無事旅を終え、お客様といい関係を作る、あるいは維持することが旅の考えであった。若い私には年配の社員が考える旅はわからないものだった。
ある日社員の補佐だけではなく、一人で添乗を任された。東京ディズニーランドの日帰り添乗は何度かあったが、バス一台の1泊2日の温泉旅行の添乗を任されたことは初めてだった。行程表はもちろんあるのだが、私は責任に強いプレッシャーを感じた。私の判断で決まってしまう。怖さがあった。無事に温泉旅行の添乗を終え、支店に報告するとしばらくの間支店から離れた。
その後支店から添乗をしないかと何度か連絡があった。私は自分自身の就職活動があったこともあり、支店になかなか足を運ぶことができなくなった。支店に行くと、社員に就職活動をしないで卒業したら添乗員で働くのはどうかと勧められたこともあった。私はまだ好奇心が旺盛で他の業界も経験したかったので、笑って断った。
あれから30年近く経つが、近畿日本ツーリストの添乗を通して、得た経験は何物にも代えがたい。近畿日本ツーリストの日々はお金じゃない。私にとって青春だった。近畿日本ツーリストで身につけた、社会との接し方は未だに役に立っている。私が統合失調症という障害がありながら、社会と接点を持ち続けていられるのは、近畿日本ツーリストで働いていたからだと今にして思う。
もう若くはない私は旅というものにこれが旅なんだと言えなくなってきた。ありえたかもしれない人生を夢想する時がある。私は就職活動をしないで、添乗員を続けていたら、日々は変わったのだろうか?
これからの私はどんな旅をするのだろう?一人で旅先を回るのもいい。温泉旅行のバスツアーに参加して、添乗員さんと話をしてみたいとも思う。そうそう私は外国を旅する時は近畿日本ツーリストでもらった肩掛け鞄をいつも愛用している。軽くて丈夫で意外に物が入るので、どこかで売っていたらなと思う。KNTとロゴが入った鞄を持ち歩いていると、旅先の添乗員との話の種になるのだ。もしかしたら自分は添乗員だと間違われているのかもしれない。
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