前陣速攻

前陣速攻。1999年に統合失調症を発症。病前の元気な頃の自分の記録。 病後、統合失調症を抱えつつも、どう生活していったかの記録です。

前陣速攻

前陣速攻。1999年に統合失調症を発症。病前の元気な頃の自分の記録。 病後、統合失調症を抱えつつも、どう生活していったかの記録です。

マガジン

  • 二十歳のころ

    1995年 21歳の僕はオーストラリアに旅立った。

最近の記事

長渕剛さんを追いかけて

以前、私は長渕剛さんの記事を書いた。長渕さんの出会いや、ギター、ライブのこだわりを記述した。それは今でも私の感想は変わらない。ただ私も年齢を重ねてくると、違う視点を持てるようになる。 長渕さんは音楽業界の巨人である。若い頃はやんちゃな時期もあった。メディア等いろいろなところからもたたかれた時期もある。長渕さんの発言が問題だったこともある。私が50歳になり、考えると、人それぞれ考えがあるだろうと思う。なぜメディアや世間は彼をスケープゴードにしたか。疑問に思う。さらに今私が社会

    • 30代~40代独身はつまらない

      世の中はいろいろな人がいるから私の考えは絶対ではない。どちらかというと私は自分自身を肯定して生きているので人生を楽しんでいるように思われているかもしれない。好きなアーティストのライブに行ったり、日本国内、海外にも一人旅を楽しんでいる。テニスもしているし、つきあっている人もいないので自由気ままに生きている。 だけどその裏を返せば私の30代~40代は何もなかった時代とも言えるかもしれない。20代はまだ私は世の中の大多数のうちの一人だった。仮に私が障害者で働かず、ひきこもっていた

      • 巡り巡って

        ここ数年、僕は地域福祉に携わるようになる。僕は大学時代に経済学部のゼミナールに入れなかった。希望するゼミナールに入れなかった自分は特に深い考えもなく、ま、いいや、大学生活はなんとかなるだろうと思っていた。当時、僕は大学時代の暮らしをのんきに楽しんでいた。しかし同時に僕は焦っていた。社会人になったら自由がきかない。自由に過ごせることができるのは今だけと考えていた。だから海外には行ける時に行っておこうと考え、オーストラリアのワーキングホリデーに行った。 帰国して、大学に復学する

        • 障害者雇用の事務員として

          私は東京都大田区に本社がある日研トータルソーシング株式会社で障害者雇用の事務補助として働いている。日研トータルソーシング株式会社は人材派遣会社で製造派遣では大手に該当する。2006年から働いて、リーマンショックで2009年に退職したが、2010年にはまた再度働くようになった。もう長い間、当社で働いている。 日研トータルソーシング株式会社の歴史は当社のホームページを閲覧してもらえればわかるだろう。今は製造派遣だけではなく、様々な分野に派遣している。私が当社のことを述べるとすれ

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        • 二十歳のころ
          65本

        記事

          ワーキングクラス

          私は大学を卒業して、長野県の小諸市に本社がある日精ASB機械株式会社に入社した。ペットボトルの射出成形機のメーカーである。私にとって日精ASB機械株式会社は思い入れのある会社である。社会人になって初めて入社した会社であり、また統合失調症を発症した時の会社でもある。ASB機械はニッチでありながら世界を相手に事業をしている企業である。若い頃私は海外で働きたいという夢があった。その夢を叶えるにはASB機械は願ってもない会社であった。 入社一年目、工場で研修があった。先輩の手伝いを

          ワーキングクラス

          成功の向こう側           航海 オーストラリアにて

          私は21歳の時、オーストラリアを旅した。その中で最も影響を受けたのはイーブンとニコルのフランス人夫妻だった。彼らは子育てを終え、家を売り、念願の世界一周の航海に出た。とりわけイーブンは5年以上の航海をして、夢を実現した。彼らは自分らは特別ではない普通の家庭だと話をしてくれた。いざ自分が彼らが航海したその年代に近くなってみると、世界一周の航海をするのはすごいことだと思う。普通の家庭ではない、類のない家庭だと思う。 私が今考えると、世界一周の航海に出るという決断がすごいことだと

          成功の向こう側           航海 オーストラリアにて

          50歳になった

          とうとう私も50歳になった。いざ50歳になってみると実感はない。ただ年はとったなぁと思う。20歳から30歳にかけて、オーストラリアにワーホリに行き、大学を卒業し、会社に就職した。そして統合失調症を発症。入院し、デイケア、福祉施設に通う。20代の後半は統合失調症の陰性症状でひきこもりの毎日でした。会社の同僚のMさんと病院のケースワーカーのことが大好きだったなぁ。 30歳から40歳にかけて、統合失調症の症状も安定してきて、パートタイムで週5日、人材派遣会社に働くようになった。テ

          50歳になった

          新年の挨拶

          あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。 今年もずっとやり続けていることを続けたいと思っています。 仕事、テニス、旅、アウトドア、仕事は足かけ17年働いているし、テニスも仕事を始めた時期にやりだしたから、もう17年くらいテニスクールに通っています。昨年はテニススクール仲間と市民大会に出場しました。 登山は昨年大学時代の友人と富士登山をしました。今年も生活の一部に登山等、アウトドアの生活を取り入れたらと考えています。 今年、僕は50歳になります。

          旅というもの

          若い頃、私は旅が好きだった。大学時代、私はユースホステルクラブに所属し、友人と北海道や西表島を旅した。そして21歳の時、オーストラリアにワーキングホリデーに行き、オーストラリを旅した。私はバックパックを背負ってあちこちの国を周り旅したことを旅だと考えていた。若い頃私は沢木耕太郎さんの深夜特急のような旅がしたかった。私のやりたいことの唯一のことだった。旅の他に特に何かをやってみたいことは私にはなかった。 そんな私が統合失調症になり、普通の日常生活を営むことができなくなった。陽

          旅というもの

          統合失調症のバリ島サヌール一人旅。

          今年の夏休みに僕はバリ島のサヌールに行ってきた。バリ島は僕のオーストラリアの滞在記「二十歳のころ」の時に訪れた土地でもある。28年ぶりのバリ島滞在である。今、現在僕は時間だけはあるバックパッカーではなく、夏休み1週間という枠で旅する旅行者である。 6泊7日で機内泊2日、マレーシア航空を利用し、アビアンハーモニーホテルに宿泊した。 空港に到着して、ビザを購入し、空港で3万円を両替した。そしてエアポートタクシーを利用し、ホテルに向かった。タクシーの運ちゃんに僕は20数年ぶりに

          統合失調症のバリ島サヌール一人旅。

          私の履歴書

           私は誰かの期待に応えようと努めてきた。それは両親であったり、友人であったり、先生であったり、恋人であったりした。私は誰かの期待に応えてきただろうか?彼らの期待に誠実であったであろうか。私は否と答えるだろう。私はどちらかというと自分本位な人間で誰かの期待には応えてきてはいないように思える。逆に私は誰かに期待することはあっただろうか?もちろん私は誰かに期待はしたと思う。もし私の願いが叶うならば期待もするだろう。しかし当たり前のように人は自分の期待通りにはならない。と同時に私も誰

          私の履歴書

          コロナウィルス禍と共に統合失調症

          2020年1月私は中学時代の友人3人と新宿で新年会を楽しんでいた。まさか翌月にはコロナウィルスに怯えながら生活を送らなくてはいけないとは私たちは考えもしなかった。中国で発生したコロナウィルスとはどんなものか誰もが正確なことは知りもしなかった。私は吞気なものでコロナウィルスは私の生活圏には縁のないものだとまだ高をくくっていた。 しかしコロナウィルスは私たちの生活を一変させた。メディアは街に人がいない光景を報道し、コロナウィルスで連日有名人が亡くなったことを伝え、日本中を震撼さ

          コロナウィルス禍と共に統合失調症

          きれいな素顔もう一度

          作詞 作曲 前陣速攻 G            Em サンピアっていうホテルで 僕らは出会った。 C          G      D みんなで汗をかきかき 幸せつくったね。 G              C 「今日の味噌汁私がつくったの 味はどうですか?」 G          D     C   D    G 「なすの味噌汁 嫌いと笑いながら 無理矢理すすった。 G         Em 人気のない駐車場で 帰り間際に君は言う。 C           G     D

          きれいな素顔もう一度

          ユートピア 学生時代 大学時代 オーストラリア パースでの暮らし

          僕は信州大学に入学して、長野県の松本市で一人暮らしを始めた。僕はなりゆきでユースホステルクラブに入部した。川崎市に住んでいた僕にとって松本市の一人暮らしは何もかもが初めてだった。先輩にいろいろな所に連れて行ってもらった。長野県内の名所、日帰り温泉。戸隠のサマーキャンプ。居酒屋。ユースホステル。野沢温泉のスキー合宿。授業がない暇な時はサークルボックスに立ち寄って、ボックスには誰かしらがいて、だべって時間を潰していた。僕にとっての居場所だった。夕方になれば定食屋に行き、誰かのアパ

          ユートピア 学生時代 大学時代 オーストラリア パースでの暮らし

          ユートピア 学生時代 高校まで

          多くの人にとって過去にあの時期はユートピアだったという時期があるだろう。統合失調症の障害を持っている私でもユートピアと呼べる時期が存在した。人によって価値観が違うし、ユートピア(理想郷)は異なる。あえて私がユートピアの時期をいくつか述べたい。これは私の価値観と言い換えてもいいかもしれない。 小学生の頃、私は富士通のサッカークラブに所属していた。週末になると南多摩の練習場に足を運んだ。私が小学生の頃「キャプテン翼」という漫画が流行っていた。私は公立の学校に通って、放課後、友達

          ユートピア 学生時代 高校まで

          東京のいい人。

          世の中はどう変わろうが、いつの世にも変わらないものがある。それは男と女の出会いである。東京に出てから、私には出会いという出会いはなかった気がする。私が気づいていないだけかもしれない。私は統合失調症を発症して東京に上京した。東京に出てから、しばらくの間、私は出会いというものを考えるどころではなかった。何しろ、私は統合失調症で一時は「死」を考えていた。私はかろうじて「死」を思い留まったが、療養には長い期間を要した。統合失調症を抱えどう生きていくかが一番の問題だった。療養中、私の想

          東京のいい人。