二十歳のころ 第一章
一九九五年四月十日オーストラリアへ出発した。自分にとって初めての海外でもあった。なぜオーストラリアにしたのか。カナダという選択肢もあったし、ニュージーランドという選択もあった。僕は長野県の松本市に住んでいた。松本市は山に囲まれた地方都市である。冬になると雪はあまり降らないがとにかく寒い。皮膚が痛いほど寒い。やっぱり開放された夏の国に旅立ちたかった。自分自身を解放したかった。青い空、青い海見渡せば地平線。そんな世界に憧れていた。
僕はオーストラリアに行くまで資金を貯めるために色々とアルバイトをした。結婚式会場のウェイターをやり、ラーメン屋でラーメンを作っていたこともある。旅行会社で添乗員の補佐のアルバイトもしたし、警備員のアルバイトも経験した。大学には必要最低限しか通わなかった。学生というよりはフリーターに近い生活を送っていた。とにかく生活費を削って節約をして一年間で百二十万円を貯めた。大学生協で語学学校とホームステイの手配をし、航空券は旅行代理店でパースまでの直行便の格安旅行券を買った。ワーキングホリデー協会にも足を運んだし、オーストラリア大使館に行き自分でヴィザも取得した。オーストラリアニュージーランド銀行で口座も開設した。留学斡旋会社は高くつくのでワーキングホリデーのガイドブックを片手に自分で調べ、自分の足で歩き、自分で手続きをした。時間はかかるかもしれないがたいていの事は自分で出来るものなのだ。
ワーキングホリデーに持っていた荷物は西新宿の鞄屋で買ったホーキンズのバックパックと近畿日本ツーリストでもらった肩掛けカバン。地球の歩き方を参考にして旅に必要なものと語学学校で必要になる勉強道具と当座の暮らしに必要なものを持ち込んだ。服装は綿のパンツにシャツにジャケットだ。僕のバックパックは欧米の旅行者が背負っているバックパックと比べるとはるかに小さい。小さいが日本から持っていけるものは出来るだけ詰め込んだ。CDプレーヤーやカメラ。筆記用具に薬や抗生物質。ホームステイ先やお世話になるだろう人への日本のお土産。とまあ荷物は詰め込めるだけ荷物を詰め込んで日本を後にした。
日本を離れる時、誰かと別れることはあったのか。例えば恋人のような存在だ。僕には恋人はいなかったけどオーストラリアに一年ワーキングホリデーに行く前はできるだけ特定の誰かと親しくなるのを避けていた。特定の人、恋人が出来てワーキングホリデーに行くことに対し迷いが生まれるのを極端に恐れた。だから大学やアルバイト先での飲み会や合コンは避けていた。二十歳のころの当たり前の話題の
「彼女いるの?」
という問いに対して
「いや。いない。来年、俺オーストラリアにワーキングホリデーに行くから。誰かと付き合おうと思っていないんだ。」
「ふうん。そうなんだ。」
僕は決して女の子にもてるわけでもないから女の子の前で何を格好つけていると思われるかもしれないが僕は必死だった。ワーキングホリデーに行かなかったら僕は僕を否定してしまうことのように思えたのだ。だからその頃の僕にとってワーキングホリデーはやり遂げなければ僕は僕を失うことと同義であった。