特攻警察の省庁:内務省を作った「大久保利通」と受け継いだ「伊藤博文」の特高警察への道
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神道が出来ていく明治を調べていて、急遽、内務省を学ばなきゃいけない羽目になった!(;´Д`A
この省の悪行は沢山あるが、この省庁の特に重要な仕事は、日本国民の頭を奴隷支配に都合の良いように改造する省。
国家神道政策=教育・学校制度=特攻警察は同じ省庁!
内務省の父:大久保利通
NHKって・・・(^_^;)
腐った精神の者が増えれば増えるほど天皇支配は強固になる仕組み!(^_^;)
大久保利通
明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される「維新の十傑」の1人でもある。初代内務卿で、内閣制度「発足前の」明治日本政府(太政官)の実質的・事実上の首相。明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行なった。
生い立ち
文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国 鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。家格は御小姓与と呼ばれる下級藩士。
薩摩藩は鎌倉時代から代々 島津家が当主をつとめていたため、 島津氏に仕える家臣のことを薩摩藩士と呼ぶ リンク
大久保が明治天皇から貰った勲章
ちなみに、勲一等旭日大綬章の最初の受賞者は明治天皇
大久保は、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。同年に「内務省を設置」し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策、西洋近代産業技術を日本国に移植して、資本主義生産方法様式移行のための政策を推進した。
学制(明治5年8月2日太政官第214号/1872年9月4日)は、太政官より発された、日本最初の「近代的学校制度を定めた教育法令」である。
太政官とは、律令制にもとづき司法・行政・立法を司った朝廷の最高行政機関。武家政権の時代には実質的に機能していなかった、明治で復活した。
この学制➡️教育令にすぐに変わる。
教育令(明治12年9月29日太政官布告第40号)は、学制に代わって制定された教育に関する太政官布告である。これをさらに改正した第2次教育令(明治13年12月28日太政官布告第59号)および、第3次教育令(明治18年8月12日太政官布告第23号)がある。
内務省と特攻警察
1900年(明治33年)頃の内務省庁舎
(明治6年)1873年 11月 10日、警察および地方行政の監督、ならびに国民生活全般の事項を統轄するために設けられた「対民衆行政機関」の中央行政官庁。初代内務卿大久保利通の考えを反映し、発足当初から国民生活に関する強度の監視を課題としており、単なる行政事務の枠にとどまるものではなかった。
日本国の警察創立の理由は「対国民」だ。
1877年教部省廃止にともない社寺局を(内務省内に)移管(管理・管轄を他に移すこと)した。盛り上がりをみせる「自由民権運動」に対し、言論、集会、結社の取締りなど「政治警察」事務の比重を高くした。
1885年内閣制度発足にともない機構改革がはかられ、官房と総務、県治、警保(天皇国家の危険を予防し、秩序を保つこと)、土木、地理、戸籍、社と寺、衛生、会計の9局を統合する中央集権制の中核的国家機関として確立された。
北海道庁長官、各府県知事を監督し、内務省警保局、警視庁、府県警察部を通じて言論、集会、結社を取締り、選挙運動、社会運動、労働運動などに干渉や弾圧を加えるなど、地方制度および国民生活全般にわたって強力な統制を行なった。
ついで1937年(昭和12)には戦時体制下に計画局を、1941年に国土局と防空局を設置した。内務大臣は各府県知事をはじめ地方高官の人事権をもち、全国警察の統轄者として警察権をも握った。1928年には全国府県に「特別高等警察」を置き、こうして内務省は、治安警察法、治安維持法などの治安立法を運用し、選挙干渉や大衆運動の弾圧、思想統制など、国民の生活全般にわたってあらゆる管轄、統制を行った。
「1887年造神宮使庁を置き、国家神道政策を推進」、1920年(大正9)には、社会問題の発生、社会・労働運動の高揚を反映して社会局が新設された。
造神宮使庁(コトバンク)
もと、内務大臣 大久保利通の監督の下に、伊勢神宮の造営、および神宝、装束の調進などをつかさどった官庁・・・・”もと”の意味は、大久保利通は殺されたんだよ!( ̄▽ ̄;)
終戦
1945年(昭和20)敗戦を機に、特高警察廃止に始まる占領軍GHQの民主化政策で機構を縮小してゆき、1947年12月全体が廃止された。
内務省年表
明治維新の際、律令制を基本として省が設置された。当初、内政は民部省が扱うものとされたが、財政と徴税機構の一体化のために大蔵省に吸収合併されると、以後は内政を専門に管理する官庁がなく、その政務をめぐって大蔵省と太政官や他の省が争っていた。
1873年(明治6年)、大久保利通が主導して朝廷の最高行政機関であった太政官の下に「内務省」を新設。自ら内務卿となった。
その後大蔵省、司法省、工部省から、戸籍、土木、駅逓、地理、勧農、警察、測量などの業務が「内務省」に移され、検閲機能も加えて、地方行政と治安維持を担当する体制が整えられた。
同年、川路利良主導による警察制度の整備の一環として警視庁創設。川路は初代大警視(後に警視総監)に就任。
川路 利良「日本警察の父」
薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として天保5年5月11日(1834年6月17日)に生まれる。川路家は身分の低い準士分であった。家紋は六つ丁子車。遠祖は藤原氏といわれる。
明治7年(1874年)2月 佐賀の乱:大久保利通が鎮圧
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、大久保は直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧した。首謀者の江藤新平ら13人を、法によらない裁判で処刑した。さらに江藤を梟首しただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にした。しかし問題にはされなかった。
そこで彼の整備した法律を踏みにじるかのように、まともな裁判もせず処刑を決定。除族の上で梟首とします。享年40歳。リンク
除族とは武士の身分を剥奪する(士族から除く)こと、梟首とは斬首した生首を晒すさらし首ことで、大久保は悪趣味にも、千人塚に晒された新平の生首写真を大量にばらまかせました。
だから、ネットに転がっているんだ・・。
1878年(明治11年)その大久保利通も暗殺された(笑
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