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赤い靴の謎

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完全な答えまでは行っていない。でも今まで無い洞察だと思う。誰も知らない新情報もあると思うのでダラダラしているnote記事だが、読むべし(笑)

童謡は怖いから、闇の謎があるのではと誰しも気になると思うが。それで赤い靴のウィキペディアを読んでいたのだ。なんだか揉めていたことを知る。永六輔のボケだけは知っていた。当時は結構言われた気がする。興味のないワシでも薄っすら記憶が有る。

歌詞は実話「菊地寛」vs 実話ではない「阿井渉介」の戦い

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左:歌詞は実話だ。北海道テレビ記者の「菊地寛」など。
後から出てきた、↓

右:歌詞は実話ではない。TV脚本家&作家の「阿井渉介」など。

ウィキペディアに詳しく書かれているが、ややっこしい。需要人物の名前が、「ひらなができみとかかよ」というだけでさえ混乱し理解出来なかったので、ノートを整理するようにまとめたのだ。もっと情報は多く有るし一つ一つややっこしく検証していられる状態ではなく、noteでは多く端折っている。真面目に探求したい人は直接ウィキを読んだり検索して下さい。

『赤い靴』は、1922年(大正11年)、野口雨情作詞・本居長世作曲で発表された童謡。

赤い靴

1. 赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
2. 横浜の 埠頭から 汽船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
3. 今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
4. 赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 思い出す

5. 生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて いるんだろう
異人さんに たのんで 帰って来(こ)

靴だけでなく完全に場所はどこで、誰が相手がどうしたこうしたって書いてある歌詞だし!(;´Д`)

この歌詞は、実話を題材にして書かれたという説

◉ワシは実話なんだろうけど、どういう状況なんだろうと思っていたクチ。

野口雨情は1907年(明治40年)に札幌の北鳴新聞社に勤めていた時に岩崎かよという女性と知り合った。「定説」によると、この岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年(明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデル。

岩崎かよは静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身で、山梨県の紡績工場に働きに出ていたが、1902年(明治35年)に身重となり、1人で帰郷してきみを生んだ。
かよは1903年(明治36年)に北海道に移民として渡り、そこで鈴木志郎らとともに平民社農場で開墾に携わり1906年(明治39年)に鈴木志郎と結婚。

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そのさんは三女。まだ生まれてないのだろう。このおかっぱの美少女が、赤い靴の少女のモデルのきみちゃんかな? リンク

しかし開拓生活は厳く、1905年(明治38年)〜1907年(明治40年)頃に娘のきみを養女に出したという。かよは娘・きみの養育をアメリカ人宣教師(メソジスト派)のヒュエット夫妻に託すことになった。

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ヒュエット宣教師夫妻 

やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になったが、その時きみは結核に冒されており渡米できず、東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられることになった。きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。

母親のかよは、娘のきみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこみ、東京の孤児院で結核で亡くなったことを知らないまま一生を過ごした。(⭕️ここの是非が延々の問題)

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◉静岡県静岡市清水区村松4047-18 日本平頂上にある 赤い靴 「歌碑と母子像」の歌碑。


永坂孤女院』はキリスト教メソヂスト教会が運営していた孤児院。  リンク

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作詞の野口雨情

作詞の野口雨情は1907年(明治40年)に札幌の北鳴新聞社に勤めていたとき、鈴木志郎と妻のかよとの親交を深め、娘のきみの話を聞かされた。この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。

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野口雨情(ちとピュアさと弱さで怖い顔、生贄素材向きでそのような人生)リンク

『定説』:歌詞は実話の北海道テレビ記者の「菊地寛」

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菊地寛(この方だけ真面目な気がするけど)

1973年(昭和48年)、きみの異父妹岡その(鈴木志郎とかよの三女)が、新聞に「私の姉は『赤い靴』の女の子」と投書。この投書に注目した北海道テレビ記者の菊地寛が調査を開始した。
菊地は5年にわたる取材で上記の事実を確認し、1978年(昭和53年)に『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』というドキュメンタリー番組を北海道テレビで制作・放送した。その後、菊地は、ノンフィクション小説『赤い靴はいてた女の子』(現代評論社刊)を1979年(昭和54年)に発表、この本の記述が「定説」として定着したとされている。

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『赤い靴はいてた女の子』菊地寛

この「定説は捏造だ!」作家の阿井渉介

「定説」は「捏造」が含まれているという説が作家の阿井渉介によって提唱された。
阿井は、1986年(昭和61年)、静岡・日本平に「母子像」が建立された際、地元テレビ局静岡放送が制作した記念番組『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』の構成台本を依頼され執筆したが、この時に菊地の本や、『ドキュメント・赤い靴はいてた女の子』に示された「定説」の事実関係に不審を抱き、後に「定説」の矛盾点を追究するに至ったという。

そして、著書『捏像 はいてなかった赤い靴』で、「定説」には根拠が無いと批判をする。

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『捏像 はいてなかった赤い靴』阿井渉介

阿井渉介 作家で初期の時代はTVの脚本家さんですね。
ウルトラシリーズ
ウルトラマンタロウ
ウルトラマンレオ ※49話にカメオ出演
ウルトラマン80 ※前半メインライター
出演
ウルトラ情報局 2008年10月号(ファミリー劇場)
NHK視点論点 2010年
出典
^ 『君はウルトラマン80を愛しているか』(辰巳出版・2006年) p.236
^ 『別冊てれびくん (9) ウルトラマン80』(小学館・1980年) p.68
^ 『心にウルトラマンレオ』(辰巳出版・2001年) p.222

もちろん、ウルトラマン以外にも沢山脚本も本も書いている。ワシがウルトラマンというと反応するけ(笑)でも、ウルトラマン好きそうですね。

阿井は、菊地は自分の取材不足を想像で埋めたとして「捏造」としているが、これに対して菊地は自説の骨子には誤りはないと主張。

⭕️阿井と菊地の両者およびその支持者は対立している。
⭕️阿井は「きみと会ったこともない、全く無関係のヒューエット夫妻の名誉を、菊地はテレビ番組制作のための作り話で傷つけている」と批判。

◉沢山議論されているが、ややっこしいのなんので割愛。特に「捏造」派はややっこしい。詳しくはウィキペディア見て。


永六輔の意味不明のボケ

2003年(平成15年)2月、NHK教育テレビの教養番組『NHK人間講座』の「人はなぜ歌うのか」シリーズに出演した永六輔は、野口不二子から聞いた話として、『赤い靴』の赤は実はソ連のことで、「そのソ連、社会主義がどこかへいっちゃった」と雨情は歌っているのだが、治安維持法による検閲を逃れるため隠喩を用いたのだ」と紹介した。

◉野口不二子=野口雨情の孫野口雨情記念館代表。函館の『きみちゃん像』建立に向けての祝賀会で記念講演を行なっている。
◉同じく孫の野口存彌は「定説」に対して一貫して否定的。

だが野口不二子は、週刊新潮2004年(平成16年)6月17日号所載の記事中で、「永さんと雨情の童謡について何かを話したということはありません」とこれを否定、「私はたしかに聞きましたからねえ」とする永六輔の差。

称定 1

◉ラジオで内容がまるでない無い前向きなダジャレを言う人だと思っていたけど。プロパガンダ臭い言葉。

その週刊新潮は「治安維持法の成立は『赤い靴』の発表の数年後である」と永の誤解を指摘する作曲家江口浩司のコメントも掲載している。

「歌というものは作った人がどんな気持ちだろうが、後世の人々の思いに左右されてしまうものですよ」と詩歌受容論に逃げようとする永六輔。

2007年(平成19年)『捏像 はいてなかった赤い靴』出版のプロモーションにあたって、阿井渉介は当初、週刊朝日を頼りにしたのだが、週刊朝日の記事は必ずしも阿井の菊地批判に全面的な賛意を示さず。


野口不二子=野口雨情の孫で野口雨情記念館代表

なんで茨城なんだと思ったが、野口雨情の実家があるんだね。

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リンク

野口雨情の生家も資料館になっている

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ヤバイわ!彼らを見て!!(;´Д`A

後ろに意味不明の習字もあるし。(野口雨情の詩や言葉だと思うけど)

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英語:ピーターパンシンドローム=日本語:童心


『国語論集』誌上での論争

『国語論集・11』(2014年3月)には福地順一(元・札幌拓北高等学校校長)が 『童謡「赤い靴」のモデルについて』を投稿、改めて、きみは『赤い靴』のモデルにはなりえないと考証している。阿井らが既に指摘していたことに加えてさらに諸々出した。

赤い靴の像

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山下公園の『赤い靴はいてた女の子像』

1979年(昭和54年)、横浜・山下公園に『赤い靴はいてた女の子の像』が作られた。赤い靴を愛する市民の会(後に赤い靴記念文化事業団と改称)から寄贈されている。

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赤い靴記念文化事業団 リンク

また同会は、この像のミニチュア版(999個制作されたうちの1個)を1982年(昭和57年)8月に横浜駅へ寄贈、当初は同駅南口に設置されていたが駅改良工事に伴い1998年(平成10年)に撤去となり、その後は保管されていた。2010年(平成22年)12月に同駅自由通路(中央通路)に移設されている。

2010年(平成22年)、山下公園の少女像と同型の像が、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市の海辺に建てられ、6月27日に関係者が出席して除幕式が行われた。

◉アメリカに飛び火。関係者はアメリカまで行く。旅費は横浜市持ちか?

青山霊園の事務所には『赤い靴 少女の像』が置かれた。留寿都村には1997年(平成9年)に、かよを描いた『開拓の母』象も建てられている。

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『開拓の母』象

2015年(平成27年)6月には雨情夫妻と鈴木夫妻が住んでいたとされる札幌市中央区山鼻地区の山鼻公園に、『赤い靴の歌碑』が建立された。

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名定 1

⭕️なぜ、ここまでして人を不安にさせる歌、赤い靴を盛り上げなければ行けないの??それが最も疑問なんだけど・・??(;´Д`)
リンク リンク
 (アンデルセンの方も混ざっちゃっているけど)

名定 2

⭕️最高に怪しいと思うのは、子供を棄てた母親と捨てられた子が美談になっちまっていること!(;´Д`)

可哀想=美しい詐欺臭いと思う。


◆ きみちゃんのチャリティー

世界の恵まれない子どもたちのために 今日も歩き続けるきみちゃん・・・ユニセフに

きみちゃんのお話は、それで終わりませんでした。像が出来てから、また始まったのです。 像が出来たその日の夕方、誰かがきみちゃんの足元に18円を置きました。それがチャリティーの始まりでした。1日として途絶えることなく、(以下略)

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◉日本ユニセフ・・・(゚A゚;)ゴクリ

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名定 1

アグネスと違い、黒柳徹子側がマトモと言う話もありえない。

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アグネスの手口はキリスト教

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アフリカで貧困に苦しむ子どもたちを利用し公平の宣伝、SDGs。


村岡花子と佐野きみ

NHK連続テレビ小説『花子とアン』(2014年度前期)の原案となった、村岡恵理の著書『アンのゆりかご-村岡花子の生涯-』には、村岡花子と佐野きみの出会いについて触れた一節がある。

◉『アンのゆりかご-村岡花子の生涯-』
『赤毛のアン』の日本語翻訳者である村岡花子の半生を原案としたフィクション。
◉ややっこしい、こうだ。
村岡恵理『赤毛のアン』の日本語翻訳者である村岡花子義理の娘(実の姪)。花子の義理の孫にあたり、大伯母と大姪の関係。

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1903年(明治36年)、村岡はな(花子の本名)は東洋英和女学校に給費生として編入学しており、毎週日曜日は給費生の必修として、東洋英和が運営している永坂孤女院の日曜学校に教師として出向いており、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。「赤い靴はいていた女の子」とうたわれている少女はそのころ永坂孤女院にいた佐野きみであるとの記述である。
1911年(明治44年)9月のきみの訃報に、東洋英和女学校在学中であったはな接していたことは確かなようである。

NHK連続テレビ小説『花子とアン』では『定説』に準拠。

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そりゃ〜赤い靴流行らせたのはNHKだしな。

昔より呪い感が強くなっている(゚A゚;)ゴクリ


◉捏造派の阿井渉介は、『流離の詩・赤い靴はいてた女の子』以前にも、『赤い靴』をモチーフにしたテレビ脚本を阿井文瓶(本名)名義で執筆している。

◉『ウルトラマンタロウ』の第45話「日本の童謡から 赤い靴はいてた…」(1974年〈昭和49年〉)は、幼い頃、異星人に連れ去られて、地球侵略のための怪獣にされてしまった女性とその幼なじみの防衛隊員を描いた話。

◉『特捜最前線』の第349話「ギリシャから来た女!」(1984年〈昭和59年〉)では、横光克彦扮する特命課刑事と少女の交流が描かれ、横光が当曲を歌う場面もある。

横光克彦??(・_・;)


「定説」に対する批判運動のために発足した「赤い靴の会」が出来る(後、「日本赤い靴の会」と改称)

面子は、

◉会長:阿井渉介(反対派の脚本家・作家)
◉名誉顧問:横光 克彦(元俳優の議員)
◉顧問:福地順一(『国語論集・11』で反論した元・札幌拓北高等学校校長)

阿井が会長、横光らが名誉顧問、福地順一らが顧問を務めているが、横光は「テレビ出身の衆議院議員」としての参加であるという・・・・・。

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横光 克彦(よこみつ かつひこ、1943年11月4日)は、日本の元俳優、政治家。立憲民主党所属の元衆議院議員(7期)。本名は、武藤 勝彦。旧姓および旧芸名は、横光 勝彦。
環境副大臣(野田内閣)、社会民主党副党首、同国会対策委員長を歴任した。

きみちゃんが亡くなった孤児院もう少し詳しく

きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治27年(1894)に開設された”鳥居”⛩坂教会の孤児院でした。 麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取って明治27年頃に開設したのが始まりでした。

この子供のための施設は、はじめ麻布一本松にありましたが、明治37年に麻布本村町に孤児院として開設され、明治41年には麻布永坂町50番地へ移転、「永坂女院」と呼ばれました。昭和3年には「永坂ホーム」と改称しています。今、十番”稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地に女子の孤児を収容する孤女院があったことは、「麻布区史」にも書かれています。リンク

いじんさん

歌詞の中に出てくる、「いじんさん」というのは幕末から明治にかけてよく使われた言葉で、異人さん、つまり外国人のことで、特に“青い目”と歌われている事から白人男性と見られる。(そりゃそうだ)

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ヒュエット宣教師は偉人さん リンク

⭕️世間で沢山議論されていると思うのだが、ワシが思うに「定説派」も「捏造派」一番確かめなければいけない事が、おざなりだと思う。


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