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フリーメーソンが腐っていった年代の確認1

8000文字
ほとんどWikipediaにある情報なのでタダ。でも投げ銭よろしくね。(^_^;)
情報はあるのだけど世間は意味がわかっていない。分かるように並べていく。見えているのに重要な意味が分からない。


過去、フリーメーソンは正義の団体であった。イルミナティに浸潤され邪悪な組織になっていったことは知っていたが、その経過と内容が分からず、メーソン個別の人物の善悪ジャッジが難しいのだ。なので正義のフリーメーソンで簡単に情報手に入る人物を年代順で並べていく・・・。

ベンジャミン・フランクリン1730年

33度グラウンドマスター ベンジャミン・フランクリンは1730年にフリーメイソンに入会。
ヒトラーと並んで、最強の反ユダヤ宣言で有名な人です。

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家族と生い立ち

ベンジャミン・フランクリンの父親、ジョサイア・フランクリンは1657年12月23日にイングランド王国のノーザンプトンシャー、エクトンで鍛冶屋および農民のトマス・フランクリンと妻のジェーン・ホワイトの間に生まれた。フランクリンの母親アビア・フォルジャーは1667年8月15日にマサチューセッツ湾植民地ナンタケットで製粉業者および教師のピーター・フォルジャーと妻のメアリー・モリス・フォルジャーの間に生まれた。

1677年頃にジョサイアはエクトンでアン・チャイルドと結婚した。1683年の後半に夫妻はイングランド王国を発ち、イギリス領北米植民地のマサチューセッツ湾植民地ボストン市に向かった。

アンはボストンで7月9日に死去し、父ジョサイアは11月25日にアビアと再婚した。有名な凧揚げ実験は、本人ではなく彼の婚外子が行っている。

⭕️父ジョサイア母アビア。彼らから、ベンジャミン・フランクリンは生まれた。

年譜

◉1706年1月6日(ユリウス暦)、ボストンのミルク・ストリートで生まれる。父親のジョサイア・フランクリンは獣脂ろうそく製造を行っていた。ジョサイアは二度の結婚で17人の子供をもうけた。ベンジャミンはその15番目であった。
◉1716年、10歳で学校教育を終える。
◉1718年、『ニュー・イングランド・クーラント』紙を印刷出版していた兄のジェームズの徒弟となった。その後、次第に記者や編集者として頭角を現した。同紙の自由主義的論調により兄が投獄されたときは、代わりに発行人となったこともある。
◉1723年1月、総会(ジェネラル・コート)はジェームズにボストン市内での印刷を禁止する命令を出した。しかし印刷屋の名義を兄からベンジャミンに替え、クーラント紙を継続した。ベンジャミンは兄との何度かの喧嘩の末に縁を切り、ボストンを出ることを決意した。同年秋にボストンを後にし、当初はニューヨークへ向かったが印刷工の職はなく、すぐにフィラデルフィアに移って職を得た。
◉1724年、知事の勧めによりロンドンに行き、植字工として働く。
◉1726年に帰国、印刷業を再開する。
◉1729年、植民地時代もっとも読まれていた『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収。アメリカ初のタブロイド誌を発行。
1730年、フィラデルフィアのセントジョーンズ・ロッジ(St. John’s Lodge)にてフリーメイソンに入会。
◉1731年、フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館(フィラデルフィア組合図書館)を設立する。この図書館は成功を収め、これを規範にアメリカの他の都市にも図書館が開設されるようになった。

⭕️アメリカの図書館の父。


◉1734年、『貧しいリチャードの暦』を発案し、よく知られるようになった。
1734年、ウォーター・ストリートのタン・タヴァンのフリーメイソンリー(フリーメイソン)のロッジで、グランド・マスターに選ばれた。
◉1737年、フィラデルフィアで郵便局長に就任。
◉1743年、アメリカ学術協会を設立した。
◉1748年、印刷業から手を引き、公職に専念するようになる。ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長をつとめた。啓蒙思想の普及に身をささげた。

⭕️以降、出世街道まっしぐら。
ーーーーー(中略)ーーーーー

◉1761年、ガラス製の楽器 グラス・ハーモニカ を発明

グラス・ハーモニカはベンジャミン・フランクリンの発明

1776年、アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に最初に署名した5人の政治家のうちの1人となった。

◉1778年4月7日 パリでヴォルテールをフリーメイソンリーに入会させる。

⭕️イルミナティが1776年に出来た後、1778年にベンジャミン・フランクリンがヴォルテールをフリーメイソンに入会させた話は後ほど。


イルミナティ 1776年

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赤いピンがインゴルシュタット大学があるドイツの”バイエルン”。

イルミナティは、イエズス会の修道士だったインゴルシュタット大学教授のアダム・ヴァイスハウプトが1776年に創設した秘密結社である。ドイツ南部と、南部に隣接するオーストリアにおいて一世を風靡し、特にバイエルンで急激に発展した。しかし、その無政府主義的な傾向からバイエルン政府によって1785年に禁圧された。

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イルミナティのエンブレム「ミネルヴァのフクロウ」
前身 完全論者の教団
設立 1776年5月1日
設立者 アダム・ヴァイスハウプト
設立地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国・バイエルン選帝侯領・インゴルシュタット
解散 1785年
種類 任意団体
秘密結社
学生団体
目的 啓蒙主義的自由思想・理性宗教の普及
世界市民的共和制の確立
ユートピア社会の復活
理性による自然状態の再建
貢献地域  ヨーロッパ
会員数
600-700人
2000人以下
関連組織 思弁的フリーメイソンリー

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フリーメーソン/イルミナティ には「ミネルヴァのフクロウ」が付きもの。今は悪い意味だが、元々は善かも知れません。多分、フリーメーソンは石工組合ではなく、ピタゴラス教団、数学。だから図形を図るために、コンパスと定規。宇宙の神秘を探究したいし、間違った知識は許せねぇって感じではと想像。

とても面白がヤバい本。確かに悪いことをいつも空想するべきでなく、良いことを思った方が良いが、現実化するために現実を調べて考えろよ。ユダヤ人の最大の王、ソロモンという言葉を良いイメージを人々に植え付けたい。


石工のお仕事とは?

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石工の道具とは?

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フリーメーソンが石工組合だったら定規は使うと思うが、シンボルはトンカチやノミやタガネだろう。コンパスは無いんじゃないの?(^_^;)

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ピタゴラスの定理なら定規とコンパスは使うよな。(笑)

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⭕️フリーメーソンが石工だというのは、陰謀家だけでなくチャネリング日月神示含めて嘘だろう。


⭕️ベンジャミンフランクリン は、
◉1778年4月7日 パリでヴォルテールをフリーメイソンリーに入会させた。


ヴォルテール1778年にフリーメイソンリーに入会

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幼少期

フランソワ・マリー・アルエ(以下、アナグラムのヴォルテールで記す)は、1694年11月21日にパリで生まれた。父のフランソワ・アルエは裕福なブルジョワであり、またさまざまな名士たちとも交友があった。なかでも文学者たちとの交遊は、ヴォルテールに強い影響を与えた。

1704年から1711年までの間、イエズス会のルイ=ル=グラン学院で最高の教育を受けた。彼は優秀な生徒で、イエズス会は『ジュヌヴィエーヴによせるルジュ神父のオードの模倣』を1710年に出版するほどだった。しかし、彼はイエズス会士や司法官ではなく、詩人になろうと決心した。


最初はイエズス会の優秀な学生。しかし、ヴォルテールの人生は反ローマ・カトリック反権力

ヴォルテールの活動として最も有名なものは、腐敗していた教会、キリスト教の悪弊を弾劾し是正することであった。彼はその人生において多くの時間と精力を注ぎ、理神論の立場から教会を批判した。

⭕️彼の人生に何があったのか?⭕️


青年期

若い頃から詩編をたびたび出版し続けた。そして、フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書き、流布し続けたあげく、1717年5月、彼はバスティーユ牢獄に投獄され、11か月間を過ごした。22歳から23歳の頃である。そして、彼、フランソワ=マリー・アルエが「ヴォルテール」という筆名(ペンネーム)を用いたのはまさにこの時期であった。

英国滞在

名門貴族のロアン=シャボーとのトラブルののち、1726年4月17日、再びバスティーユに投獄された。この投獄はロアン家が後ろから手を回してヴォルテールの逮捕状を取ったものであり、以降、世論はヴォルテールを味方するようになり、大勢の面会者が彼の下を訪問した。

すぐにヴォルテールは釈放され、同年5月11日、彼は自らの意志でイギリスへ向かった。そして、これが彼にとっての最初のイギリス渡航であり、彼のその後の哲学に大きな影響を与えることとなった。これは、人間の理性を信頼し、自由を標榜していたヴォルテールにとって、イギリスの自由な風潮から当時のフランスの前時代的封建的性格を思い知り、同時にイギリスに感銘を受けたということである。

また、イギリスで大きな影響力を持っていたジョン・ロックやアイザック・ニュートンらの哲学を深く知り、イギリスの哲学研究に惹かれた。このことが『哲学書簡』の発表に繋がることになる。


『ジャン=ジャック・ルソー』VS『ヴォルテール』
最初は良好な関係

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1755年、ルソーが『人間不平等起源論』を発表した頃には、まだヴォルテールはルソーに対し同書を熱烈に賞賛する手紙を送り、ルソーも深く感謝する旨の返信をするような良好な関係であった。しかしその数か月後、同じく1755年のリスボン地震以降、社会では、神の全能や神の慈悲を懐疑する、キリスト教信仰擁護者への問題提起が起きた。

ヴォルテールは、かねてからキリスト教への批判を展開しており、地震のすぐ直後には『”リスボンの災禍”に関する詩』を発表して、そうした主張を展開した。このような動きのなか、ルソーはジュネーヴの牧師から神の摂理を弁護するよう依頼を受け、ヴォルテールに対してその主張を痛烈に批判する書簡を送っている。


リスボン地震 (1755年)

1755年のリスボン地震は、1755年11月1日に発生した巨大地震である。11月1日はカトリックの祭日諸聖人の日(万聖節))であった。9時40分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5〜9.0で、2011年3月11日に日本で発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0)にほぼ匹敵する規模の巨大地震であったと考えられている。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている。

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当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。即死した市民は2万人とされる。

諸聖人の日は、カトリック教会の祝日の一つで、全ての聖人と殉教者を記念する日。古くは「万聖節」と呼ばれていた。カトリック教会の典礼暦では11月1日。

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◉ 殉教者=ユダヤ人の神、ヤハウェのために自ら生贄になると末代まで聖人と呼ばれるのがキリスト教。これにより、神の為に聖戦ジャ〜!と古代から現代までキリスト教徒は戦争を起こす。

もっとキリスト教のテーマが分かりやすい貼り付けたい絵はあるが・・気持ち悪いにも程があり、ダメージ受ける人も出かねないのでやめた。その絵の内容は「生きたまま腸を引き出し糸巻き機でクルクル抜き取らせる」。
これは神への最高の行為とされ、そく聖人認定。この行為を讃えようという日が11月1日で、カトリックの祭日なんだね。

地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた約1万人の市民を飲み込んだ。

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津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、火災旋風となって、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。

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震災後、廃墟と化したリスボン市街と、郊外のテントで暮らす市民たち。中央には略奪者に対する見せしめとして立てられた絞首台が見える。

この震災は近代の扉を開いたとされ、国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれ、ヨーロッパ社会に多岐に影響を与え新しい科学や技術の数々を誕生させた。

1755年のリスボン地震以降、社会では、神の全能や神の慈悲を懐疑する、キリスト教信仰擁護者への問題提起が起きた。

震災の原因をリスボンの人々の「罪」にあるとしたイエズス会もポルトガルの領土から追放され、財産を国庫に没収された。(笑)

⭕️都市リスボンのポルトガル政府は正しい判断。


震災後

地震が与えた衝撃はヨーロッパの精神にもおよんだ。当時の通俗的な理解では、地震とは自然現象というより神罰である。しかし、多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、なぜ神罰を受けねばならなかったのか、なぜ祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも町が破壊され、善人も悪人も罪のない子供たちも等しく死ななければならなかったのかについては、18世紀の神学・哲学では説明の難しいものであった。

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>祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも町が破壊され、善人も悪人も罪のない子供たちも等しく死ななければならなかったのか〜〜?

答え:神への生贄になり死ぬことを崇拝する、多くのキリスト教会に援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンだから願いが叶ったんだよ!(^_^;)

イヤミだから買わんでいいからね!(^_^;)

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大地震により倒壊した建築物、願いは叶う。でも生き残った人は信仰が足りないよね。(^_^;)


ジャン=ジャック・ルソーもこの地震による被害から衝撃を受けた一人であり、被害の深刻さはあまりにも多くの人々が都市の小さな一角に住んでいることから起こったものだとした。ルソーはこの地震は神罰ではなく文明のおごりが起こした人災と考え、都市に反対し、より素朴で自然な生活様式を求める議論に引用した。

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天罰じゃ!派。ルソー。

また神の善意を疑問視するヴォルテールの論に対して神の摂理を弁護し、この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきである。

ヴォルテールは、かねてからキリスト教への批判を展開しており、地震のすぐ直後には『リスボンの災禍に関する詩』を発表して、そうした主張を展開した。このような動きのなか、ルソーはジュネーヴの牧師から神の摂理を弁護するよう依頼を受け、ヴォルテールに対してその主張を痛烈に批判する書簡を送っている。

ヴォルテールは論争の意志を見せず、さらにルソーからのその手紙の文学的センスを賞賛したところ、ルソーは激怒。また、ヴォルテールが著者であることをかくして旧約聖書への攻撃的批判である『サウル』を発表すると、ルソーはヴォルテールを名指しで攻撃した。

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エホバの証人のHPはキリスト教を調べるのにメチャ便利!(^_^;)


反ユダヤ主義

ヴォルテールは反ユダヤ主義者であったことでも知られる。『哲学辞典』ではユダヤ人を「地上で最も憎むべき民」、「無知にして野蛮な民」「その民は、旧来、もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民である」などと30項目においてユダヤ人を攻撃する内容が書かれている。

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吝嗇=「けち」のこと。

また、青年期のヴォルテールはデュボワ枢機卿への書簡で、「祖国といって金を稼ぐことのできる場所以外のものを知らないユダヤ人が、皇帝のために王を、王のために皇帝を裏切るようなことをいとも簡単にやってのける人間であるということは、今さらのように猊下にご説明申し上げるまでもありませぬ」と述べている。

また、リール騎士に対して「イスラエルの包皮なしの連中」(ユダヤ人)は、「かつて地球の表面を汚した乞食どものなかで最悪の乞食」であると述べている。

1762年、ユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して、「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」「キリスト者ヴォルテール」(嫌みw)と署名して答えた。

こうしたヴォルテールの反ユダヤ主義については当時も広く知れ渡り、1807年にはドイツの反ユダヤ主義政治家グラッテナウアーは、ユダヤ人のモーゼス・メンデルスゾーンの胸像に代わってヴォルテールの胸像の設置を提言した。

1778年には戯曲「イレーヌ」のパリ上演の知らせを受け、28年ぶりにパリへの帰還を決意する。

◉カルヴァン派を国教とするジュネーヴ市が演劇を市内で上演することを禁止していたのだ。

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◉カルヴァンとカルヴァン派の信者の有名人

パリにおいてヴォルテールは熱狂的に歓迎され、多くの人々が押し寄せた。4月7日にはパリでアメリカ合衆国の駐フランス大使としてやってきたベンジャミン・フランクリンによりフランマソヌリに入会しフリーメイソンとなった。しかし「イレーヌ」の上演をみとどけた後彼の健康は急速に悪化し、5月30日にパリにて死去した。

◉ 殺された可能性もあるが、80歳オーバーしているので自然死かもしれない。

つねに目立ったところで行われた反ローマ・カトリック、反権力の精力的な執筆活動や発言により、ヴォルテールは18世紀的自由主義の一つの象徴とみなされた。没後、パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年、ジロンド派の影響によって、パリのパンテオンに移された。

⭕️彼の活動は、フリーメーソンに入っていなくても優秀なメーソンだ。そりゃ、ベンジャミン・フランクリンは入会して欲しいと思うだろう。彼レベルなら、いきなり秘密を話しても大丈夫だな。
もっと早ければとも思うが、間に合ってよかったね。


フリーメーソンを蝕む寄生虫イルミナティは 1776年に出来た

現代のフリーメーソンの説明では、最初のグラウンドロッジの誕生は1717年6月24日、ロンドンのセント・ポール教会堂で作られた事になっているのだ。その前の時代は記録を取ってなかったので何も分かりません〜〜〜と、どこかの天皇が支配する国のような寝言を言う。隠しているだけだろうが!

その前からフリーメーソンは有るしグラウンドロッジもある。アメリカ建国の準備をし建国したんだし!

⭕️1778年4月7日の”アメリカの”フリーメーソンは正常。

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ベンジャミンフランクリンが選び提案した国璽の裏面の図案。

「ファラオが戦車に乗り、王冠をかぶり、剣を手に持って紅海の水を割ってイスラエルの民を追いかけているところ。」

1. ジョージ・ワシントンがイルミナティに関する発言をし、それが引用されて日記に記載されていること。彼はイルミナティが植民地軍にとって脅威であることを示した。

2.アダム・ヴァイスハウプトが、イルミナティの目的として、彼らがフリーメーソンの階級に潜入し、そのメンバーの大多数をこの方法から獲得することであると直接述べたこと。例えば、メイソンを凌駕する秘密結社の謎と約束でおびき寄せるなど。

1778年4月7日 パリでベンジャミン・フランクリンはヴォルテールをフリーメイソンリーに入会させる。

次は、アルバートパイクの話

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つづく



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