天罰につぐ天罰を受けた白川天皇(ホモ)と法勝寺と六勝寺の歴史
投げ銭制、解説面白かったらよろしく。5129文字
◉天皇の国・日本国は邪悪な行為を善と思わせる事により国民を騙してきた。だから我々は悪の好意を善行だと思い込み、自ら進んで行い、どんどん奴隷になっていった・・。
⭕️でも、だから、邪悪な者たちの行為の情報は表に出ている。
◉我々奴隷の国民は言葉の意味が分からないので騙され続ける。確定申告の用語と物凄く小さい文字での説明と同じだ。不動産の甲乙とか・・株の売買の指値・逆指値・成行など、このような意味がすぐ浮かばない用語の発明は、天皇・朝廷産だろう・・まあ、日月神示ではスサノオの発明と書いてある。
なので、ネチネチと言葉の意味を確認しながらウィキペディアを読んでいたら、面白かったので紹介。
法勝寺
法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河にあった仏教の寺院。白河天皇が1076年(承保3年・自分の年号)に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つのうち最初にして最大の寺である。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。
白河天皇
後三条天皇の第一皇子。
母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。
略歴
延久4年(1072年)、後三条天皇から譲位され、20歳で即位する。藤原教通、師実を関白に任じつつも、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も父同様に親政(自身が政治を行うこと)荘園整理などに力を入れ、自身の元年、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等、摂関家の権勢を弱めることに努める。
神宝塔とは?
摂家(せっけ)とは?
鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順)の5つの一族のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家、五摂家、執柄家。(”執柄”とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。
長者=金持。富豪。資産家のこと。
荘園整理令(分かりやすく)
天皇は仲間に引き入れた地方の有力貴族や彼らに保護された寺社などに税金(年貢)の徴収をやらせた。彼ら地方の権力者は天皇/朝廷の子分となり取り立てをする代わりに、大きな中間搾取を認められていた。しかし、天皇/朝廷に渡さず、より多くの富を自身で着服するために、国司(税収取・行政官)等による税の徴収が不可能となってしまい、天皇国家財政に深刻な打撃を与えていた。
下請け、孫受け、ひ孫受けも自身で民を搾取し税金を取る。そこで中間マージンを取ることは天皇から認められていて自身もウハウハなので子分になったが。下請け、孫受け、ひ孫受けもバレやしないし民を搾取した金(年貢)をきちんと渡さず肥太り、金(年貢)は来ないし権力をつけ、天皇/朝廷搾取国家の運営が上手くいかなくなった。という大きな問題があったんだね。
白河天皇とホモダチだち
白河天皇は両性愛者だったと考えられる。奔放な女性関係と併せて男色も大いに好み、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。
法勝寺(廃寺)
創建
法勝寺の地は藤原氏の別荘地(白河別業)だったが、藤原師実が白河天皇に献上した。天皇はこの地に寺院を造ることを決め、1075年(承保2年)に造営を始め、以後長期にわたって多数の建物を造った。1077年(承暦元年)に毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた。1083年(永保3年)に高さ約80メートルとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。高い九重の塔は京に東から出入りする人から良く見えたという。
藤原 師実(ふじわら の もろざね)は白河天皇とズブズブの仲
藤原 師実は、平安時代中期から後期(院政期)にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原頼通の六男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。
師実は養女の賢子(源顕房の娘)を白河天皇に入内させると、賢子は天皇の寵愛を受け、さらに長男・敦文親王を産んだため中宮に冊立され(敦文親王は早世するが、後に善仁親王(後の堀河天皇)を産む)、師実の後宮政策は成功した。
中宮(ちゅうぐう)とは?
日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。
本来「中宮」という言葉の意味は「皇后の住居」である。
冊立とは?
天皇の勅命によって皇太子・皇后を正式にその位につけること。
後宮とは?
後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。
後宮=天子(天皇)の宮中(天皇の居所)の奥深い部分の意味で、イスラム世界のハーレムに類似する。
毘盧遮那仏とはコレだ!
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の1つ。華厳経において中心的な存在として扱われる尊格である。密教においては大日如来と同一視される。(架空の)史実の(作り話の)人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。東密では、顕教の釈迦如来と大日を別体としているが、台密では同体としている。
また、神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされる。
天照大神(大日孁貴)おおひるめ‐の‐むち
大日(ヤハウェ)の目の鞭
白河天皇は「(天皇の)神威を助く(け)るものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えを披瀝し、仏教を保護して(愚民)統治する伝説上の金輪聖王(転輪聖王)に習って法勝寺を建立した!
金輪聖王(転輪聖王)=極悪アショーカ王を
白河天皇はマンセ〜〜!
代々の天皇の尊崇を受けた法勝寺を、後に慈円は『国王の氏寺』と呼んだ。
「国王の氏寺」とは単なる「家」としての天皇家の氏寺という意味だけでなく、太政官機構の頂点に位置する"日本国の王"の寺院という意味でもあった。(太政官とは、天皇の朝廷の最高行政機関。律令制に基づき司法・行政・立法を司った)
天皇の朝廷の行政機関のおこない
白河には他にも次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれた。法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった。
六勝寺
法勝寺(ほっしょうじ)もう一度おさらい
落成は承暦元年(1077年)、左大臣藤原師実の寄進と白河天皇の御願による。鴨東白河の地において御願寺として最初に創建され、後に六勝寺の筆頭寺院として最大の規模を誇った。南庭には高さ80メートルに達する巨大な八角九重塔がそびえ、東海道に京の(搾取の)権勢を誇示していた。
しかし他の寺院同様、相次ぐ災害と院政の衰微により、応仁の乱以後に廃絶した。現在の京都市動物園は伽藍のほぼ南半にあたると考えられ、2010年には八角九重塔は同動物園の観覧車とほぼ同じ位置にあたることが判明している。
◉【法勝寺は皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した】
高さ80メートルに達する巨大な八角九重塔
『法勝寺の運命』
平安時代
1185年(文治元年)に発生した文治地震により被害。『百錬抄』では阿弥陀堂が倒壊、九重塔(後述)が破損、三面の築垣がことごとく倒壊したことが記録されている。
文治地震での出来事
『山槐記』によれば閑院の皇居が破損。法勝寺九重塔は倒壊には至らなかったものの、「垂木以上皆地に落ち、毎層柱扉連子相残らる」という大破状況であった。
唐招提寺では千手観音の足柄墨書修理銘に文治元年7月の地動によって転倒したものを9月20日に修理したとあり、大和における被害とされる。『興福寺略年代記』にも「元暦二年七月九日、大地震、処々多顛倒」の記述がある。
比叡山では延暦寺根本中堂の輪灯が悉く消滅し、戒壇八足門、看衣堂、四面廻廊、中堂廻廊など諸建物が転倒するなどの被害が出た(『園太暦』)。
近江では大津の三井寺において金堂廻廊が転倒したことが『山槐記』に記される。
前震・余震
元暦2年6月20日夜子時(1185年7月18日24時頃)にも大地震があり、翌日も3回、翌々日も揺れ続いたという。『玉葉』、『醍醐雑事記』などの記録にあり、鎌倉で記された『吾妻鏡』にも記録があることから京都および鎌倉の間で大地震が発生した可能性もあるが、各記録を総合すると『吾妻鏡』の編纂者は京都の地震記録を記載した可能性が高いとされる。
鎌倉・南北朝時代
1208年5月15日に塔が落雷で焼失したが、このときは栄西が大勧進になって再建した。
1326年、後醍醐天皇の命を受けた円観(恵鎮)が再び勧進職となり同寺の再興に務め、その功績によってそのまま住持となる。だが、南北朝時代の1342年4月25日に火災にあって寺の南半分が失われる。
北朝は再度円観を勧進職とするが、7年後の1349年11月25日に再度火災にあって残りの北半分も失われたため、翌年に円観は勧進職を辞するが引き続き住持の立場で再建に尽力した。
だが、「国王の氏寺」と呼ばれた姿は全く失われて、以後恵鎮門流・あるいは黒谷流などと呼ばれた天台宗の一分派の拠点である小寺院に転落する。とはいえ、円観と法勝寺を継承した門人の惟賢の元で延暦寺と一線を画して独自の戒牒を発行するなどの活動を見せている。
室町・戦国時代
しかし、円観・惟賢死後には再び衰退を見せ始め、中原康富の『康富記』応永25年8月18日(1418年9月18日)条にはその荒廃の様子が描かれている。
それに追い討ちをかけたのが、相次ぐ戦乱であった。応仁の乱最中の1468年8月21日の西軍による岡崎攻撃によって青蓮院などとともに焼失、更にその再建がままならないままの1531年2月8日には今度は管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて再度焼失した。
終焉
山科言継の『言継卿記』によれば、1535年の豊楽門院逝去の際には法勝寺において供養の読経が行われているが、その後の活動は殆ど知られず、1562年を最後に法勝寺名義の戒牒が途絶え、1571年に法勝寺領押領を禁じる綸旨が出されたのを最後に記録から姿を消す。
押領(おうりょう)とは?
天皇支配の平安時代中期以後の荘園制下において武力などの実力をもって他人の所領や年貢などのを侵奪する行為。本来は不法行為に相当するが、後には天皇に認められた正当な権利者によるものも含めて実力行使一般をさすようになった。
同じ発音の日本語、横領(おうりょう)とは?
綸旨(りんじ)とは?
蔵人所(くろうどどころ)が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。
そして1590年に勅命によって同じ円観門流に属していた近江国坂本西教寺に併合された。そのため、この間の19年間に事実上の廃寺になっていたと考えられている。
法勝寺(廃寺)
他にもいくつか、
これは天罰臭いなという情報はあるんだ、また。
おわり
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