54.第六天魔王波旬『ひたすら高利貸し焼き討ち織田信長』編
情報は人様、考察は自分。投げ銭よろしく(^ω^)7023文字
世間の織田信長の比叡山を焼き討ちの謎
「織田信長が比叡山を焼き討ちしたとき、女人禁制であるはずのお寺に女子どもがたくさんいた」というのは本当なのでしょうか?歴史に詳しい方がおられましたら教えてくださいお願いします。
本当ですよ。特に強大な力を持っていた比叡山延暦寺は腐敗していて、寺でありながら女を平然と連れ込んでいました。
昔から寺を攻めると仏の祟りを食らうという事で、ほとんどの大名が手を出せなかった中で、初めて堂々と攻めたのが織田信長です。
『信長公記』
Yahoo知恵袋から 創価はカルトさん
織田信長はなぜ比叡山焼き討ちで女子供にまで手をかけたのでしょうか?
『信長公記』には、「諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け」と信長方の史料にありますので、特に延暦寺門徒衆の女子供にまで手をかけたのは間違いないと思われます。
例えば、大坂夏の陣の「大坂夏の陣図屏風」の左半分には、
「徳川方の雑兵達が大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。」
と極めて残忍な部分が描かれています。大阪人の東京人への反発は、この時のうらみがDNAとして養われている、と言う人までいます。
この当時女子供にまで手をかけるというのは、それほど珍しい事ではなく普通にあったと思われます。
また、織田信長は度々極めて残忍な殺し方、虐殺をおこないます。比叡山焼き討ちだけではありません。
一応、比叡山の延暦寺の坊主たちは悪党と言うところまでは、多く世間にばれてきたので、それは認めつつまた斜め上の火消しもあるんだ。
⭕️織田信長の比叡山焼き討ちはボヤ程度とか、無かったまで作り話を造り始めている。
『信長公記』著者は信長旧臣の太田牛一。
牛一が奥書で「故意に削除したものはなく、創作もしていない。これが偽りであれば神罰を受けるであろう」と記しているように、著述姿勢は真摯であり、年月日を記して編年的にまとめられ、一部錯綜が認められる箇所もみられるが、文書上から確認される事跡を正確に記しているため、史料としての信頼が高く、研究者の間でも信憑性は他の軍記物と一線を画していると評価されており、一次史料に準じた評価を受けている。
太田牛一は尾張春日郡の出自で、信長の死後には織田家臣の丹羽長秀に右筆として仕え、長秀の没後には豊臣秀吉に仕えている。『信長公記』は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。
どうするんだよ、今までの研究者の間でも信憑性は他と一線を画していると評価されており、一次史料に準じた評価を今までしていたんだろ?( ̄▽ ̄;)
答え『ホロコーストの可哀想詐欺と同じ手法だから』
「織田信長はなぜ比叡山焼き討ちで女子供にまで手をかけた」と、天皇朝廷がショッキングな可哀想な被害者の物語を広めた。無限に使ったユダヤの手法を天皇朝廷が使っていたということ。天皇伝統の秘儀!『方便の矢』
ホロコーストも嘘だとバレにバレた。今は「ホラコースト」と呼ばれている始末。
「アンネの日記はボールペン。ボールペンが発明されたのは後。それもパパの日記だった。」懐かしい話題だね。( ̄▽ ̄;)
なぜ?焼き討ち事件が起こる事になったのか?その理由とは、延暦寺の本質!
比叡山・延暦寺の織田信長の焼き討ちは有名だが、武家との抗争はこれが初めてではなく、実は三度も主要な建物が焼失している事件が起こっていた。
一回目の焼き討ち!? 「足利義教」が制圧を試みる
室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)が、延暦寺を制圧し従わせようとした最初の権力者です。
将軍になる前に義教は、天台座主(てんだいざす)という地位で、比叡山の長を務めていたん(延暦寺のトップ)です。それゆえ将軍になってからも延暦寺を従わせようと考えていました。
非常に義教は支配欲が強い人物でした。なので京都の近くに、朝廷や幕府からも独立した勢力が存在していることを、許せるはずがなく、だから延暦寺を幾度となく従属化させる事を試みていました。
延暦寺の僧が義教に呼び出され、斬首される
しかし、義教はなかなか自身の思い通りに行動することができませんでした。何故なら、制圧しようとするたびに諸大名から反対の声が上がり、話し合い(笑)を勧められることが多かったからです。
業を煮やした義教は、とうとう斬首するという強硬手段に出ました。1435年に延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し斬首したのです。
当然のごとく、怒って反発した延暦寺の僧たちは「根本中堂」に立て籠もって義教を非難!
焼き討ちではありませんが、この時に他の建物も焼かれており、(信長の前に)初めて延暦寺が大規模に焼失した事件なのです。
強硬手段が、斬首とはなんとも言えないです…。義教も元々は比叡山にいたはずなのに、人を殺めるのは仏の教えに反してると思うのですが。
今の(平和ボケの)時代に生まれ育った自分には、衝撃的に感じる出来事です。
2回目は、細川政元に焼き討ちされる
1499年になると、今度は室町幕府の管領(将軍の補佐役)・細川政元によって焼き討ちされる事件が発生!しかし追放された足利義稙は政権復帰を諦めてなかったので、将軍家が二つに分裂した状況になりました。
いつの時代も政権争いがありますね。まぁ、個人的には私利私欲にまみれた人が上にたって欲しくないと思いますけどね。
三度目の正直にならなっかたんやね。なぜ、今も昔も人は同じ過ちを繰り返すんやろう?
「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」
⭕️いつまで加害者と被害者を、善と悪をひっくり返すユダヤに学んだ広告代理店の詐欺の手口が続けられると思っているんだよ!ヽ(`Д´)ノプンプン
そして、織田信長により、1571年あの有名な焼き討ち事件が発生する事になりました。
延暦寺は攻撃中止を要請するも、信長に拒否される。
信長は3万の軍勢を率い、9月11日に延暦寺を包囲しました。恐れをなした延暦寺は、金貨300枚を贈って信長に攻撃中止を要請します。しかし受け入れられることはありませんでした。
信長は翌日の早朝からの攻撃開始を決定します。
早朝にしたのは重臣の池田恒興から「夜になると闇にまぎれて逃げおおせる者も出てくるでしょうが、早朝を待って攻めれば、”1人も討ち漏らすことはない”でしょう」と進言されたためで、織田軍全体が延暦寺への攻撃に積極的だったんですね。
【影の英雄】池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。
信長によって焼き討ちが行われたのは歴史上確かであり、信長は延暦寺の再建すら許さなっかた。その後しばらくの間、延暦寺は荒廃した状態で放置されることに。
比叡山は本来、京都の鬼門を封じる重要な役割を果たしていた寺院で、朝廷からも大事に扱われていたのはずなのに、世間の信長に対する非難の声はほとんどなかった。
左 池田恒興戦死の地とされる勝入塚 長久手古戦場公園(愛知県長久手市)
右 池田恒興の墓(岐阜県揖斐郡池田町本郷)
荘園制度
天皇・朝廷の律令政治での経済の仕組みは荘園制度。荘園とは、簡単に言えば私有地のこと。荘園制度をベースに物資や人が動いていた。
平安時代半ばの摂関政治以降、天皇家や摂関家(権門)、あるいは有力寺社に全国の土地が寄進されるようになり、権門や寺社の荘園が広がっていきます。寄進すれば色んな恩恵を受けることができる。
世間が非難するわけないでしょ!(笑)
田堵負名は、名経営を国衙から委任される代わりに、官物・雑役などの租税・課役を国衙へ進納する義務を負った。こうした租税収取体制を負名体制といい、この時期に始まった王朝国家体制の基礎となった。この負名を天皇・朝廷と同じカルト宗教のムジナ、お寺や神社の役割にしたわけだ。※有力百姓も居る。
織田信長、神社も焼き討ち!( ̄▽ ̄;)
と、ここまで長々説明してきてなんですが、そもそも神社も焼き討ちしています。あまり知られてないですが比叡山延暦寺焼き討ちの際も、近くの日吉神社(山王信仰の総本山)を焼き討ちしていますし、信長の嫡男・織田信忠が信州・甲州侵攻で武田勝頼を打ったときも武田の信仰の篤かった諏訪大社(諏訪信仰の総本山)の上社を焼き討ちにしています。当然、そのことで誰かが罰せられるということもなく、信長は焼かれた諏訪大社に隣接する法華寺で論功行賞を行い、諏訪は戦勝を祝いに来る武将たちの軍で大変賑わったと言われています。
織田信長、「諏訪大社」焼き討ち
因みに信長は、諏訪大社や周辺の神社も灰燼とした。それ以前の諏訪大社は、日光東照宮のように極彩色の神社であったとされており、大陸風・道教風の建造物であったと思われる。
諏訪大明神「祈るだけの者より、”生贄の肉”を食べる者を救う」
織田信長「西明寺」焼き打ち
西明寺は戦国時代、織田信長の焼き打ちにあいましたが、当時の僧侶が機転を利かせ、二天門の下にある諸堂に火をつけることで全焼したように装ったため、この二天門とその上の本堂、三重塔は兵火から逃れることができました。
それぞれ釈迦如来を中心とする過去仏千仏、薬師如来を中心とする現在仏千仏、阿弥陀如来を中心とする未来仏千仏が手書きで描かれています。
この絵の前で手を合わせることで、(自分が悪くもないのに)過去を懺悔することができて、現在・未来を(天皇・朝廷の奴隷から脱出しないように)守って頂けるそうです^^
織田信長、「恵林寺」を焼き討ち
この時、山門の上で、住職であった快川国師(快川紹喜:大通智勝国師)が「心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し」と唱えられた、と言われています。
織田信長「地上の天国 湖東三山 百済寺」焼き討ち
この記事では百済寺にて”ボランティア”ガイドも担当している私が、湖東三山 百済寺がどんなお寺か概要をご紹介します。
ボランティアのススメといえば小池百合子 リンク
百済寺には近江を治めていた六角氏と昔から深い縁がありました。しかし、六角氏と信長は敵対する関係。きっと信長は百済寺が六角氏と関係があったことは知らなかったのでしょう。
想像するに、百済寺は信長からの(高利貸しと民への呪いの)禁制にひどく頭を悩ませたんではないでしょうか。悩みに悩んで、百済寺は信長とも六角氏とも関係を続けることとなります。
その結果、信長の耳にそのことが伝わり、寺のすべてを焼き討ちされてしまったのです。1573年のことでした。
悲しい歴史を経て再建されるのは江戸時代に入ってからになります。昔の石垣が今でも残っており、戦国時代の歴史を感じることができるお寺です。
元亀4年4月4日(573年5月15日)織田信長が上京を焼き討ち。
上京というのは京都市の中心の内ざっと今の二条城より北のエリアを指すが、信長は前々日からすでに洛外(東山の東、桂川の西、伏見の南、賀茂の北)に放火していた。その箇所数、実に128。洛外の寺社は「少々は焼け残った」というありさまだったらしい。(公卿補任)
>『年代記抄説』には庶民の家ばかりが焼かれ、寺社は放火されなかった、とする)。
豊臣秀吉「根来寺」やきうち、「高野山」は降伏
本能寺の変で織田信長が自害したあと天下人となった豊臣秀吉は、強力な兵を持つ寺社勢力を排除するために紀州制圧に乗り出します。同じように雑賀衆という地侍の勢力とともに、紀州各地で秀吉軍の侵攻を食い止めていたのですが、手薄になった根来寺を攻められて焼かれてしまいます。
一方、秀吉は高野山に対して全面降伏の使者を出し、従わなければ全山を焼き討ちにするぞと脅しました。これに対し、すでに根来寺の焼き討ちを見ていた高野山は秀吉の出した条件を飲み降伏しました。その条件により、17万石あった寺領は1万石に減らされ、武装解除させられました。
豊臣秀吉「真言宗古義派をはじめ、各宗派の寺院・神社」を焼き討ち
途中、秀吉は、和睦した浄土真宗の寺は、寺領をもたないために焼き討ちせず、寺領をもつ真言宗古義派をはじめ、各宗派の寺院・神社を焼き討ちしてゆく。
石山本願寺VS織田信長
これはとても大きな出来事だと思うけど。そのワシが粗筋も理解できていないので次回に。(;´Д`)
織田信長は焼き討ちだけでなく、寺院の保護もしていた。
これで混乱している人たちも多そうだね。
一向一揆鎮圧や延暦寺焼き討ちなどから仏教を嫌っていたと思われがちな信長ですが、一方では寺院の保護もしています。
織田信長が天下統一までにゆかりのある寺院や神社は?
織田信長は、曖昧な慣習やしきたりを嫌い、比叡山の焼き討ちにみられるように寺院や神社といった神仏を軽んじた印象を受けます。
しかし、比叡山の焼き討ちには、それまでの僧侶たちの婦女子に対する暴行や飲酒といった悪行の数々に加え、織田信長に対して挙兵したことに対抗措置を取っただけです。
桶狭間の戦いの前には、織田信長が熱田神宮で必勝祈願を行い、勝利の後に信長塀をお礼として奉納していることからも、神仏への帰依の念はあったと思われます。
ひたすら神社仏閣焼き討ちの信長でも、好意をもつお寺も神社も有るのだね。でっ、織田信長の一の家来の豊臣秀吉は寺を焼き討ちもしているが、復興もしている。徳川家康の焼き討ち情報は出てこないようだ。で、徳川時代は神社・仏教と上手くやっていたと思う。
どうなっているんだろうね?謎は見えてきたよ(^ω^)。
つづく
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